アウトライン
1A アブラハムの上位におられる方 1−10
1B メルキゼデクの祝福 1−3
2B 十分の一のささげもの 4−10
2A アロンの祭司職に代わる方 11−28
1B 律法の無益さ 11−19
1C 別の部族 11−14
2C いのちの力 15−19
2B 誓いのみことば 20−28
1C 変えられない祭司の務め 20−24
2C 全うされた御子 25−28
本文
ヘブル人への手紙7章を学びます。ここでのテーマは、「永遠の祭司」です。私たちは前回、「希望の錨」という題で、7章を学びました。私たちの希望は、イエス・キリストご自身であり、この方に希望を置くときに、それが自分のたましいの錨となり、押し流されないような安定さを与えてくれます。そして7章から、本題であるキリストご自身について、詳しく述べられています。それは、5章から著者が語ろうとしていた、「メルキデゼクの位に等しい祭司」についてです。
1A アブラハムの上位におられる方 1−10
1B メルキゼデクの祝福 1−3
このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。
メルキデゼクという人は、創世記の初め、アブラハムの生涯の中で現われる人物です。アブラハムがウルの地から、神に示された土地であるカナン人の地に移り住んだときに、彼の甥のロトもいっしょに付いて来ていました。そして、アブラハムもロトも、羊や牛を飼っていましたが、土地が狭くなり、雇っている牧者たちの間でいざこざが起こるようになりました。アブラハムはロトに、「別れて住もう。あなたが右に行くなら、私は左に行き、あなたが左なら私は右に。」と言いました。そして、ロトは、ヨルダンの低地全体を見下ろして、とてもよく潤っていたのを見て、そこを選びました。けれども、そこにはソドムという町があります。非常によこしまな人々が住んでおり、神を恐れて生きる者には適さないところでしたが、ロトはソドムの近くに天幕をはって、住み始めました。
しばらくして、ロトはソドムの中に住み始めたようです。人は目に見えるものによって生きると、必ず罪に引き込まれます。ロトがソドムにいるときに、王たちの間で戦争が起こりました。ソドムにも敵がやって来て、そこにいる人々や財産を奪い取っていきました。その時にロトとその財産も奪い取られたのです。アブラハムは、甥を愛するその愛のゆえに、その敵を追跡して、打ち破りました。そして無事に、ロトとその財産、またロトの家の人々を取り戻すことができました。
そしてその時に、不思議な人物が現われます。メルキデゼクという人です。創世記14章18節から読みます。「また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」シャレムというのは、サレムとも言うことができ、「エルサレム」の短縮形です。メルキゼデクはエルサレムの王でした。彼はパンとぶどう酒を持って来ています。主が、弟子たちとともに聖餐を行なわれたことを想起させます。そして、彼はいと高き神の祭司です。これは不思議なことであり、なぜなら、旧約聖書には、王であり、かつ祭司である人は、このメルキデゼク以外には出てこないからです。ダビデ、ソロモン、その後に続く王はみな、王であっても、聖所で神に仕える人々はみな、アロンの子孫である祭司たちが行なっていました。けれども、メルキデゼクは、王であり、かつ祭司です。そして祭司が、アブラハムに祝福を与えます。アブラハムは、「わたしは、あなたを祝福する」という神の約束を受けていましたが、メルキデゼクは、この祝福を与えています。さらに不思議なことに、アブラハムはこの祭司に十分の一のささげものをしました。戦利品には、高価な品物がたくさんあったと思いますが、アブラハムはその良いものの十分の一を与えました。旧約聖書を知っている人は、祭司と言えばアロンの位に着いている者であることを知っているので、この祭司の存在は実に不思議で、神秘的な存在です。
まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
メルキデゼクは「義の王」ということですが、エレミヤ書23章6節には、メシヤがそのような王であることが預言されています。「その王の名は、『主は私たちの正義(ヤハウェ・ツェデク)』と呼ばれよう。」とあります。そしてサレムの王は、今説明しましたように平和の王です。ですから「エルサレム」の意味は、「平和」です。この場所に神が現われ、この場所に神殿が建てられ、この場所に主が来られて、町の外で十字架につけられ、よみがえられました。この場所で聖霊が弟子たちに降り、この場所に主は再び戻って来てくださいます。ここは、神の平和が実現するための町です。このサレムを治めているのが、メルキデゼクでした。
父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
聖書には、イエス・キリストに至るまでの系図が、綿密に記されています。創世記には、アダムの子セツの系図があり、セツの子孫にノアがいます。ノアには三人の息子がいましたが、その一人セムから、アブラハムが出てきました。アブラハムからイサク、ヤコブ、そして12人の息子が出てきます。その一人レビから、モーセとアロンが出てきましたが、アロンの子たちが祭司の位に着くようになりました。そして、ユダからはダビデが出てきました。これらはみな、系図が存在しており、一人一人は、その父と母がおり、生涯の初めと終わりも記されています。しかし、メルキデゼクには、こうした系図が何もありません。そして、生涯の初めもなく、いのちの終わりもない、ということは、永遠に生きている存在であるということです。そこで彼は、「神の子に似た者」と呼ばれています。そうです、彼は、神の現われそのものであり、イエス・キリストの現われでもあるのです。
2B 十分の一のささげもの 4−10
その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。
「どんなに偉大であるか」という問いかけは、ヘブル書全体に散りばめられています。メルキデゼク、あるいはイエス・キリストがいかにすぐれた方であるのか、そのことをよく考えなさい、ということです。私たちは、イエス・キリストが神の御子であり、永遠に生きておられる方であり、全知全能であられる方で、云々ということは、頭の中では知っています。けれども、実際の生活の中で、イエスさまを神の子として受け入れつつ、生きているかを自問自答してみなければいけないでしょう。私たちは、「イエスさまの御名によって」と祈りますが、自分の思いの中で、イエスさまを小さくしてしまいます。本当のイエスさまではなく、自分の理解や気持ちの中にはめ込むことができる別のイエスを信仰してしまうものです。絶えず、この方がどんなに偉大であるかを思い出さなければいけません。
族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。
先ほど説明したように、アブラハムは最良の戦利品の十分の一を与えました。祭司に対して、十分の一を与えるのは、律法の中で定められています。けれども、ここではイスラエルの父であり、族長である、あの偉大なアブラハムが、十分の一をささげているという点に注目しています。
レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。
民数記18章21節から29節までに、祭司が十分の一を受け取ることが明記されています。彼らは、神に仕える務めにあずかっているので、それに専念するために生活の糧をイスラエル人によって支えられます。イスラエル人は、神にささげるものとして十分の一を持ってくるのですが、そのささげものによって、祭司は神に奉仕することができます。
ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。
十分の一を受け取ったのは、レビ人であり、とくにアロンの系図にいる祭司たちでありました。けれども、メルキデゼクは、アロンの系図の者ではありません。にも関わらず十分の一を受け取っています。
いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。
ここが重要なポイントです。だれかが他のだれかを祝福するとき、それは祝福する者が上位にあり、祝福される者は下位にいます。つまり、メルキデゼクは、偉大な父アブラハムよりも、さらにすぐれた方ということになります。
一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。
アロンとその子孫は、死んでいきました。けれども、メルキデゼクは、死なないで生きているとあかしされています。
また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。
この個所の意味は、祭司であるアロンも、ある意味で、メルキゼデクに十分の一を納めたということです。アブラハムの子孫にレビが生まれ、レビの子孫が祭司となりました。アブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとき、それはアロンの子孫も含むすべてのイスラエル人が、彼に十分の一を納めた、ということになります。つまり、アロンの祭司職と、メルキゼデクの祭司職は比べられるようなものではなく、後者がはるかに、まさっているのです。
2A アロンの祭司職に代わる方 11−28
ここまで話して、ヘブル書の著者は、聖書から、イエス・キリストの大祭司としての務めを聖書から論証しました。つまり、祭司と言えばアロンであり、アロンから生まれた者がその務めを行なうという理解ですが、しかし、アロンよりもはるか先に、メルキゼデクという人物がアブラハムを祝福するというところで祭司の務めを果たしていた、という事実です。そして、詩篇が書かれたとき、すなわちアロンの祭司職が始まったずっと後に、メルキゼデクが再び登場します。詩篇110篇です。「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。『あなたの敵の真中で治めよ。』あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』(詩篇110:1−4)」キリストであり王であられる方が、メルキゼデクにならって、とこしえに祭司であるとの預言があります。そこで著者は、キリストが来られた今、祭司職はアロンの位から、メルキゼデクの位に変わったことを述べ始めます。
1B 律法の無益さ 11−19
1C 別の部族 11−14
さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、・・民はそれを基礎として律法を与えられたのです。・・それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
祭司職は、人の罪のささげものをして、神からの罪の赦しをいただく務めです。これによって、人々が神に受け入れられた者となり、神に近づくことができ、神のいのちと恵みを受け取ることができます。そしてレビ系の祭司職がこの務めを完全に果たすことができていたなら、他の祭司を必要としません。にも関わらず、詩篇110篇において、メルキゼデクの位に等しい祭司が立てられたのです。ということは、レビ系の祭司職は不完全であり、罪の贖いを達成できていない、ということになります。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
アロンの祭司職を基にして、モーセの律法は成り立っています。出エジプト記の後半からレビ記、民数記、そして申命記をお読みください。その初めに、主の幕屋と幕屋で奉仕する祭司の務めが定められています。この祭司職が、メルキゼデクによって取って代えられます。だから、律法そのものも取って代えられる、ということです。
私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
主イエス・キリストは、「ユダのしし」と呼ばれました。それは、ユダ族からダビデが出てきて、ダビデの子孫がイエス・キリストだからです。ユダに対して父ヤコブが、「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。(創世49:10)」と言いましたが、ユダ族には王が出てくることが約束されています。けれどもモーセは、この部族については祭司について何も話しませんでした。詩篇において、王権を持つ者が、メルキゼデクの位に等しい、とこしえの祭司であるとの預言があるのです。
2C いのちの力 15−19
もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
アロンの祭司と、メルキゼデクの祭司との決定的な違いは、前者が肉についての戒めであるのに対して、後者は「朽ちることのない、いのちの力」に属することであることです。地上のものであるか、天からのものであるか、肉に属するものであるか、それとも御霊に属するものであるかの違いです。
私たちはクリスチャンであるにも関わらず、御霊によって新たに生まれたにも関わらず、肉に属するものであるかのように、神の戒めを守ろうとする過ちを犯します。俗に言う、「クリスチャンはこうでなければならない」という強迫観念です。キリストの戒めを、自分自身の努力によって守ろうとして、かえって守れずに、その反対のことをする葛藤の中にいます。この葛藤を描いているのがローマ書7章ですが、パウロは、自分が望んでいることができず、自分が憎んでいることを行なっているというジレンマを告白しています。最後に、「なんと、私はみじめなのでしょう。だれが、この罪のからだから、私を救ってくれるのでしょう。」と言っています。しかし、私たちが受けているのは、「いのちの力」です。この罪のからだを持っている私たちが、そのままの姿で神の前に立ち、キリストとともに十字架につけられていることを、確認します。そこで、私たちではなく、私たちのうちにおられるキリストの御霊が、私たちにはできなくなっていることを行なってくださるのです。肉に対抗できるのは、御霊のみです。私たちにできることは、いかにこの自分を神の御前にさらけ出し、ご聖霊に自分を取り扱っていただけるかなのです。
一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、・・律法は何事も全うしなかったのです。・・他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
前の戒めである律法は、「〜をしなさい」「〜をしてはいけない」という命令を与えることはできました。しかし、その命令を守るための力は与えませんでした。私たちの肉が弱くなっているので、それを守ろうとしても、守ることができません。けれども、神が、キリストを人間と同じ姿にさせて、その肉において、罪を処罰してくださいました。ですから、希望があります。アロンの祭司職よりもさらにすぐれた希望が、キリストのうちにあります。この希望によって、神に近づくことが出来ます。
2B 誓いのみことば 20−28
1C 変えられない祭司の務め 20−24
また、そのためには、 はっきりと誓いがなされています。・・彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」・・そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
先ほど引用した詩篇110篇には、ここに書かれているように、主が誓っていることが書かれていました。レビ系の祭司は、主による誓いはありません。ですから、後で変更可能です。しかし、メルキゼデクの位は、主の誓いがあるのでそれは変更されません。
また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
アロンは死に、その息子エリエゼルも死に、祭司はいつまでもその務めにとどまることができません。だから大ぜいの祭司がいます。けれども、キリストは永遠に存在されるので、変わることなく祭司の務めを持っておられます。
2C 全うされた御子 25−28
そこで次に、イエスさまがメルキゼデクの祭司の位に着かれたことが、いかにすぐれているか、その影響力が述べられています。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
「完全に救う」という言葉です。この「完全に」というのはどういう意味でしょうか?これは、どんなに最悪な状況の中にいたとしても、完全に救い出すことができるということであります。また、もっとも罪深いことを行ない、もっとも汚れたことを行なっていても、完全に救い出すことができるということです。そして何よりも、完全にという言葉は、「永遠に救う」ということです。究極的な救いを与え、救いが完成されているということです。私たちに必要なのは、「キリストによって神に近づく」ことです。主は、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示22:17)」と言われました。ただ神の御前で、キリストによって身を投げ出すことです。主は生きておられますから、その私たちを助け、力を与え、恵みとあわれみを施してくださいます。「来て、受ける」という、単純な福音の中に私たちは導き入れられたのです。
また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
イエスさまは、「きよい」方でした。神の律法を完全に守られた方です。そして、「悪」がありません。悪意も悪行もありません。そして「汚れ」がありませんでした。道徳上の内面の汚れがありませんでした。そして、「罪人から離れ」ています。主は、罪人の真ん中におられました。けれども、私たちのようではなかったのです。罪人に影響される方ではなく、罪人に影響を与える方です。そして、「天よりも高くされた大祭司」つまり、あらゆる霊的存在よりも高くされて、すべてものに対して第一となられた方です。
ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
大事な言葉が出てきました。「ただ一度」という言葉です。英語ですと、”once and for all”です。これは、「金輪際、いっさい」ということです。レビ系の祭司は、だれかが罪を犯すと、また自分が罪を犯すと、いけにえをたずさえて、主から罪を赦していただきました。けれども、また罪を犯します。だから、また別のいけにえをたずさえなければいけません。こうして、いつまでも罪の赦しは完成せず、繰り返しているのです。しかし、キリストの場合は、これと大いに異なっているのです。キリストは、ただ一度、すべての罪のために死なれて、罪を完全に取り除き、永遠の罪の赦しをお与えになったのです。もう繰り返して、十字架につけられる必要はありません。救いは完成しました。救いに必要なことは、すべて行なわれました。
そこで私たちが、普段の生活の中で、だれを大祭司に仰いでいるかを点検してみる必要があるのです。私たちが自分で何か良い行ないをしますが、それがうまく行きませんでした。そこで、罪を犯したので、その罪を赦してもらうよう、お祈りをします。けれども、また罪を犯します。それでお祈りをして赦していただきます。罪を犯して神から遠く離れてしまった。だから、神に近づけるように、また罪の告白をしたり、祈ったりしようと思います。しかし、これは、新約の大祭司のミニストリーではありません!アロンの時のミニストリーです。私たちの罪は、過去に犯した罪も、現在犯している罪も、そして将来犯すであろう罪も、すべての罪が根こそぎ、永遠に取り除かれたのです。一切合財、キリストが十字架の上で罪の問題を終わりにしてしまいました。
「えっ?それでは、私たちは何をすればよいのですか?もう罪の告白をしなくても良いのですか?」という質問があるかもしれません。そのような質問をするまえに、それではなぜ、自分がそのような質問をするのが質問してみなければいけません。罪の告白にしても、祈ることにしても、その他、あらゆるクリスチャン的なことをするにしても、それを「神さまに受け入れられるため」「神さまに認められるため」という動機で行なっているから、そのようなことを行なっているのです。これは旧約の世界なのです。新約では、もうすでに受け入れられているから、父なる神との親密な交わりを、キリストにあって保っていくのです。この親密な関係を保つ過程の中で、祈るし、聖書を読むし、伝道をするし、礼拝をささげます。けれども、これらの行為によって、私たちが認められるのでは決してないのです。
律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。
御子は永遠に全うしてくださいました。私たちが神から受けられられるために行なうことは、何一つありません。私たちに残されているのは、ただ、あわれみに満ちた父なる神の御座です。ただ憩うことだけなのです。すべては完成しました。完成したので、私たちは休みます。そして、まだ持っている肉体にある弱さも、大祭司なるイエス・キリストがとりなしをしてくださり、私たちを助けてくださいます。
「聖書の学び 新約」に戻る
HOME