アウトライン
1A さらにすぐれた務め 1−6
1B 天における聖所 1−2
1C 着座 1
2C 主が設けられた幕屋 2
2B 天にあるものの写しと影 3−5
1C ささげ物 3
2C モーセの幕屋 4−5
3B すぐれた約束と契約の仲介者 6
2A 古い契約に代わるもの 7−13
1B 欠け 7−9
1C 来るべき日 7−8
2C 不従順による罰 9
2B さらにすぐれた約束 10−13
1C 心にある律法 10
2C 神の知識 11
3C 不義へのあわれみ 12
4C 新しさ 13
本文
ヘブル人への手紙8章を開いてください。ここでのテーマは、「新しい契約」です。このテーマは、新約時代に生きているとされている、私たちクリスチャンにとっては、非常に大切な基本的な教えになっています。私たちは普段、「旧約聖書」「新約聖書」また、「新約時代」などという言葉を使いますが、それは単に時代が変わったという意味ではありません。もっと根本的な、神と私たちとの関係の変革を伴うものです。ヘブル書の著者は、古い契約と新しい契約の違いを説明して、いかに私たちが、すぐれた契約の中にいるのかを説明します。そして、古い契約の中に戻ろうとするヘブル人に対して、警告をしています。けれども、これはヘブル人だけではなく、異邦人にも当てはまる問題です。新しい契約が与えられながら、古い契約の中に生きようとする誘惑です。それでは、本文を読んでいきます。
1A さらにすぐれた務め 1−6
1B 天における聖所 1−2
1C 着座 1
以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。
私たちは前回、メルキゼデクの位に等しい祭司について学びました。メルキゼデクが父も母も、系図もなく、アブラハムに現われました。アブラハムは彼に十分の一のささげものをしましたが、彼は、アブラハムよりもすぐれた方であり、永遠に生きておられる方です。律法においては、祭司といえばアロンの家系によるものでした。しかし、詩篇において、後に来られて世を治められる王、メシヤが、メルキゼデクの位に等しい祭司となることが預言されています。メルキゼデクとは、イエス・キリストご自身に他なりません。
そして、メルキゼデクの位に等しい祭司は、アロンの位の祭司のように、死んだり、任職交代することのない存在です。民の罪のために、日々いけにえをささげる必要もなく、ただ一度、ご自分を罪のためのいけにえとしてささげて、罪の贖いを永遠に成し遂げられました。毎日いけにえをささげるということは、まだその贖いが完全ではないことを表しています。もし完全であれば、繰り返してささげる必要はないからです。しかし、キリストは永遠の贖いを成し遂げられたので、その救いは完全であり、私たちは完全に救われて、大胆に神に近づくことができるようになりました。アロンの祭司職よりも、さらに確かな保証が与えられているのです。
そして8章に入って、ヘブル書の著者は、これまで述べてきたことの要点を述べています。一つは、イエスさまは、天におられる大能者、すなわち父なる神の右に着座されている方です。地上の祭司は、幕屋で日々、いけにえをささげたり、奉仕をしているので、座ることはしません。まだ完成していない贖いを達成しようと、繰り返し同じことを行なっているのです。しかし、私たちの大祭司は座っておられます。すべて救いに必要なことを、あの十字架の上で行なってくださったので、お座りになっているのです。着座されているのは、すでに完成したことを表しています。
2C 主が設けられた幕屋 2
そして、主は、天において、人が設けられたのではない、神ご自身が設けられた真実の幕屋、聖所で仕えておられます。地上において祭司が奉仕していたのは、幕屋、また後に神殿と呼ばれるものです。出エジプト記にて、幕屋の設計について書いてあります。モーセがシナイ山に上りました。そして、神がイスラエルの民と契約を結ばれました。主はシナイ山に現われて、十戒を民に与えられました。それから、主は定めと戒めをモーセに語られましたが、出エジプト記25章から、幕屋の中における器具、あるいは祭具を造ることを命じておられます。祭具や板、幕などを作るのは、もちろん人間です。主は、知恵のある者にご自分に霊を満たし、彼らがそれらの祭具や幕などの細工をしました。
しかし天には聖所があります。主が住まわれて、主の栄光で輝いている所があります。これは、人が設けたものではなく、主ご自身が設けられたものです。
2B 天にあるものの写しと影 3−5
1C ささげ物 3
すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。
大祭司は、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえ、穀物のささげものなど、いけにえやささげものを主の前に携えるために、立てられています。私たちの大祭司であられるイエスさまは、ご自分をいけにえとしてささげられました。
2C モーセの幕屋 4−5
もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。
この手紙が書かれている時、まだエルサレムには神殿があったことを思い出してください。紀元70年のときに、ローマによってエルサレムが破壊されましたが、その前にこの手紙が書かれています。したがって、アロンの位の祭司が、律法に従ってささげ物をしていました。イエスさまが地上におられても、彼はユダ族ですから、この祭司の務めに携わることはできません。
その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」
天に幕屋があり聖所があるのに、地上にも幕屋あるいは神殿があるのは、どうしてなのでしょうか?その答えが、今読んだ節にあります。地上の幕屋は、「天にあるものの写しと影」なのです。出エジプト記の25章以降には、祭具や幕や板の設計が、細部に至るまで主によって指示されています。その寸法、形状、材料、色など、事細かな指示があり、主はモーセに、「示された型に従って、すべてものを作りなさい。」と命じられました。なぜそこまで詳しく定められ、かつ聖書の中に幕屋のことが多くの紙面を割いて説明されているのは、それが天におけるものの写しと影だからです。天において聖所があります。その聖所は、地上の幕屋によって写し出されていたのです。
黙示録8章を開いてください。黙示録は6章から、神が終わりの時に下す災いについて描かれています。8章では、第七の封印が解かれました。そして、こう書いてあります。「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。(8:3−5)」天にある神の御座には、金の祭壇がありました。そこは香が煙が立ち昇るところです。その火を御使いが地に投げつけると、災いが起こりました。モーセに示された幕屋には、聖所があります。聖所は垂れ幕によって二つの空間に仕切られており、大きい方が聖所、小さい正方形の空間が至聖所です。聖所に入ると、右手には12個のパンが供えられている机があります。左手には、七つの枝がある燭台があります。そして正面に、垂れ幕に面して香壇があります。天にあるものの写しが、地上の幕屋だったのです。
そう考えると、私たちには、天とはどのような所であるか、どのような存在であるかを、明瞭に知ることができることを知ります。私たちが、天国とはどのようなところかを、自分の頭で考えて想像する必要はないのです。聖書がすでに、天はどのような所かを啓示しているからです。
クリスチャン、とくに日本にいるクリスチャンは、地上で起こっていることばかりを考えてしまいがちです。日本人の死生観は「死んだら終わり」であり、世俗的であり、ご利益的だからです。自分の周りで起こっていること、自分の教会で起こっていることが、せいぜい自分の信仰生活の関心事です。だから、クリスチャンのように生活しようとするのですが、空回りしてしまい息苦しくなってしまいます。クリスチャンは天国人です。天的な存在です。天にあるものに、キリストによって直結しているので、天におけるものがそのまま地上にいる私たちに影響が与えられる存在です。ですから大事なのは、この世においていかに生きていくべきかというテクニックを考えることでもなく、どのようにして信仰生活を歩んでいくかを逡巡することでもなく、天がどのような存在であるかを、ただ見つめる時をもっとつくる必要があるのです。そこが私たちの故郷であり、アイデンティティーの置き所であり、いのちの源だからです。
3B すぐれた約束と契約の仲介者 6
しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
「さらにすぐれた務め」とは、メルキゼデクの位に等しい祭司の務めであり、天において大能者の右に着座されていることであり、私たちのためにとりなしておられる務めです。また、罪のためのいけにえとして、ご自身をおささげになったところの務めです。
そしてこの務めを得ることができるのは、神が以前、新しい契約を与えるという約束を与えられていたからでした。それは、イスラエル国、厳密には南ユダ国がバビロンによって滅ぼされて、イスラエル人が捕囚の民となることを預言したエレミヤを通して、与えられた約束です。エレミヤが生きていたときは、イスラエルは神に対して背信の罪を犯し、もう取り返しがつかないほど堕落していました。モーセはかつて、シナイ山の上で、またヨルダン川の東岸で、主が与えられた律法に聞き従わないならば、これこれののろいが来る、という預言をしていました。まさにモーセが預言したとおりののろいが、イスラエルにもたらされようとしていました。エレミヤは、イスラエルがもう取り返しがつかないほど堕落してしまい、モーセが預言した、引き抜かれて、散らされて、根絶やしにされることが目の前に迫っているという預言が間もなく実現することを知っていました。けれども、主はエレミヤに、「わたしは引き抜いて、また植える。」とお語りになっていました(エレミヤ1:10)。イスラエルは、モーセを通して与えられた契約にしたがって引き抜かれるけれども、主が一方的に新しい契約をお立てになり、その契約によって彼らを回復させる、という約束をされました。モーセを通して与えられた契約は、イスラエルが従順であることが必要条件でしたが、エレミヤを通して約束されたことは、主が一方的に行なわれる無条件の契約です。「あなたがたが聞き従えば、わたしは祝福する。」ではなく、「わたしは、これこれのことをする。」という約束です。
そしてイエスさまは、このエレミヤを通して与えられた約束に基づいて、十字架につけられる前夜、過越の食事を弟子たちとともに取られている中で、こう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)」契約には、しるしが必要です。神がノアと契約を結ばれたとき、そのしるしは「虹」でした。アブラハムと契約を結ばれたときは、「割礼」がそのしるしでした。モーセとの契約は、「安息日」がしるしでした。ダビデと契約を結ばれたとき、それは「処女から生まれる男の子」がしるしでした。そして新しい契約は、主がお語りになったように、「血」がしるしです。イエスさまは、新しい契約をご自分が流される血によって締結されました。この血によって、新しい契約が有効となりました。そしてこの契約に基づいて、主は大祭司として、父なる神に仕えておられます。したがってイエスさまは、さらにすぐれた契約の仲介者となっておられます。
2A 古い契約に代わるもの 7−13
1B 欠け 7−9
1C 来るべき日 7−8
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
「あの初めの契約」とは、モーセをとおして神がイスラエルと結ばれた契約です。
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
ここから、エレミヤが預言した、新しい契約の約束の引用部分です。エレミヤが生きていた時代には新しい契約が与えられませんが、いつか、主が定められた時に与えられます。ここに、「わたしが」という主語があることに注目してください。この後の節を読めばお気づきになるでしょうが、「わたしは」「わたしが」と、主が一方的に新しい契約を結ばせてくださいます。これが、モーセがイスラエルの民に語られた、「あなたがたが主の教えに聞き従うならば、あなたがたは宝の民となる。」という約束と決定的に異なる部分です。
神は、人が持っている罪の問題をどのように処理されるか、その取り扱いをいろいろ考えておられました。罪を犯す魂は死ぬのですが、人は何度も何度も失敗して、主が与えておられる、罪の赦しの備えをみすみす逃してきた歴史を辿ってきました。しかし主は、終わりの日に、罪を犯したものを罰しなければいけないという定めを、ご自分のうちで実現されました。つまり、ご自分のひとり子が、人々の代わりに罪の罰を受けられることによって、もはや人々には罪に対して罰をもって報いない、という取り決めをご自身のうちで定められたのです。
ですから、この問題は私たちの問題というよりも、神ご自身が持っておられた問題なのです。罪に対してご自分の怒りを下しても、人はご自分のところに帰ってくることはない。ならば、罪をもって罰することをご自分のうちで行なわれて、人に対してはただ、赦しとあわれみだけを与えよう、という決断です。主が昔、洪水のさばきを行なわれた後、ノアがささげたいけにえのかおりをかがれ、こう言われました。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(創世記8:21)」のろうことはしないのは、人が正しいからではなく、むしろ初めから悪だから、もうのろうことはすまいと決められました。同じように、主は最終的に、人の罪に対する問題の対処を、赦しとあわれみを提供することによって、解決することにお決めになったのです。
つまりここから、私たちは一つの大事な真理を知る必要があります。それは、私たちがどんなに自分で罪意識を持ち、神によって赦されない、神に怒られている、神は私から離れた、などと思い込んでも、それは神にとっては全く意味のないことだ、ということです。これはあたかも、愛する人を失った人が、主にあって慰めを得て元気になっているのに、葬式の時に「お可愛そうに・・・」といって泣いている人のようであります。本人はこの悲しみを主にあって克服して元気でいるのに、相手が勝手に悲しいだろうと思い込んで、その悲しみを一方的に押し付けようとしているようなものです。神の側では、罪の問題はすでに決着済みなのです。私たちが決着していないと思っても、事実は決着しているのです。
2C 不従順による罰 9
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
主は、イスラエルの民が契約を守り通せないのを見て、それで新しい契約を結ばれます。もし彼らが守ることができる可能性が1%でもあるのなら、その契約のままイスラエルの民に接しておられたでしょう。しかし、可能性は0だったのです。だからこそ新しい契約を立てられようとしました。これは異邦人である私たちにも同じことです。自分にはまだ可能性があると思っている人は、救いにあずかることはできません。クリスチャン信仰を持っている人でも、御霊ではなく肉によってクリスチャン生活を完成させようとします。そうすると、救いの喜びではなく、律法のおきての中で苦しむクリスチャンとなってしまうのです。私たちがもはや、自分では自分を救えないことを知るときに、神が初めて助けてくださいます。
2B さらにすぐれた約束 10−13
そして10節から、新しい契約の内容が書かれています。
1C 心にある律法 10
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。
新しい契約の大きな特徴は、神の律法が私たちの思いと心に書きつけられることです。モーセが神の律法をイスラエルの民に語ったとき、その教えは大きな石に書きしるして、それをエバル山に立てなさい、と命じました(申命記27章)。神の戒めは、石の上に書かれて、また十戒は石の板の上に刻まれていました。この書かれた神のみことばを、自分の行ないによって守ろうというのが旧約なのです。クリスチャンにも多くの人が、このように聖書のことばを理解している人たちが多いです。聖書が神の書かれたことばであり、これを教えていく務めは、教会において中心的になっていなければいけないものです。しかし、これを自分の行ないによって果たそうとするなら、真理によって自由を与える教会が、自分を束縛するものへと変貌することを発見するでしょう。イエスさまが命じられたことは、行なうことができないことを知っているのに、それでも守り行なおうとする。ここに矛盾があり、実はこれは旧約におけるイスラエル人が抱えていたジレンマと同じなのです。
しかし、新しい契約は違います。新しい契約では、まず私たちの罪が、キリストの血によって取り除かれます。完全に心から、良心から罪のきよめが行なわれます。そして御霊が注がれます。旧約時代には、神の御霊がある特定の人々に、外側から働きかけていましたが、新約においては、神ご自身が御霊によって、私たちの内に入ってきてくださったのです。したがって、神のみことばが語られるときに、それを教えるのは、聖書教師でもなく牧師でもなく、聖霊ご自身なのです。ヨハネは、「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。(1ヨハネ2:27)」と言いました。注ぎの油、すなわち聖霊が私たちのうちにとどまっておられて、聖霊が私たちの霊に語りかけて、そこで神との関係が確立されます。
ですから、ご聖霊との関係が確立されている人ほど、真理による自由を獲得できています。「ご聖霊との関係」というのは、俗に言う「啓示を受けました」という類いの、独り善がりの預言のことではありません。みことばに立脚した、確固たる神との契約関係を自分自身のうちで確立できていることを意味します。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
神の律法が自分のうちに書き記された結果、神が自分の神となり、自分たちは神の民となります。個人的、人格的な関係を持つことができる、ということです。私たちが、しばしば誤解しているのは、信仰を知的に信条のように受け入れることとしていることです。聖書の教えを受け入れていれば、それを信仰だと思っています。しかし、信仰とは、神に対する人格的な信頼です。子どもが何の疑いもなく親を信頼して、親が呼びかける声に反応するように、神を知っていることに基づいて、信頼して従っていくことが、信仰であります。ですから、神をどこまで個人的に、人格的に知っているかにかかっているのです。新しい契約の中では、神が自分の神、自分は神の民であるという、個人的関係の中に入ることができます。
2C 神の知識 11
また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
先ほど説明しましたように、あたかも主を知らないかのように、他の兄弟に「主を知れ」と教える必要はありません。なぜなら、すでに主を知っているからです。御霊によって、キリストを通して、主を知っているのです。これは麗しいことです。私たちは、ただ主にあって互いに語り合っているときに、お互いの中にキリストが形造られていきます。だれかが押し付けて、それを受け入れ信じるのではなく、すでに信じているものがさらに養われ、育ち、建て上げられていくのです。
そして「小さな者から大きい者に至るまで」とありますね。すべての人に御霊が注がれます。ですから、だれかが大先生であり、知識の足りない平信徒は先生の言うことに従っていればよろしい、ではないのです!すべての人が、ただキリストにあって歩むときに、教師となっており、また生徒となっているのです。互いに教え、また互いに学んでいるのです。
3C 不義へのあわれみ 12
なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。
完全な罪の赦しの宣言です。罪を思い出さない、と主は言われます。先ほど説明しましたように、神の側で罪の問題を決着されたからです。私たちはとかく、過去の罪は赦されているけれども、現在犯しているかもしれない罪と、将来犯すかもしれない罪は贖われていない、と思います。そこで、罪の赦しは過去のものだけであり、将来は、自分のきちんとした行ないによってきよめられていく、という考えを持ってしまいがちです。しかし、これは間違いです。イエスさまが十字架につけられたとき、過去・現在、未来の一切の罪を負われました。すべての罪が取り除かれました!これを知ることは解放につながります。もはや、私たちは躊躇して、おそるおそる神に近づくのではありません。何も咎められるものがないのですから、大胆に、恵みの御座に近づくことができるのです!
4C 新しさ 13
神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。
モーセに与えられた契約は、「古い」ものとされました。新しい契約が与えられたのですから、モーセの契約は古びたものとなり、消えて行きました。にも関わらず、時代錯誤をして神殿礼拝を行なっていたのが、当時のユダヤ人です。しかし、同じ過ちを私たちを犯しているかもしれないことを考えてみましょう。新約時代に生きていながら、旧約の中に生きているように生きていないでしょうか?まだ赦されていない罪が存在するかのように生きていないでしょうか?自分の行ないを正してから、神に近づこうとしたりしていないでしょうか?地上のことだけを考えて、天のことをほとんど考えていないことはないでしょうか?クリスチャンでありながら、旧約時代のイスラエル人のように生きていないでしょうか?私たちは、新しい契約の中に生きている者たちです。もう一度自分自身を吟味して、はたして自分が、新約の中に生きているかどうかを調べてみましょう。
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