1A あざける者ども 17−19
2A 愛する人々 20−25
1B 自分自身を置くところ 20−21
2B あわれみと恐れ 22−23
3B 守ることのできる神 24−25
本文
ユダの手紙の続きです。前回は、1節から16節までを学びましたが、今日は17節から最後までを学びます。ここでのテーマは、「神の愛のうちに」です。
1A あざける者ども 17−19
愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。
私たちは前回、「信仰のための戦い」というテーマで前半部分を学びました。信仰のための戦い、というのは、私たちが使徒たちから教えられて、伝えられて来たことを否定する者たちが、教会の中に忍び込んでいるために、これらの者たちに対する戦いをしなければいけない、ということです。
一度、神の恵みにあずかりながら、それを放縦に変えて、イエス・キリストを否定するなら、彼らに対するさばきは、怠りなくなされることを、私たちは前半部分で学びました。彼らの背教は、私たちにとって無縁なものではなく、一度エジプトから救われたイスラエルが、不信仰によって荒野で滅びたように、私たちも、イエス・キリストによって救われた喜びを、みことばを信じない不信仰によって失ってしまう危険があることを学びました。同様に、主によって与えられている分量を越えて、思い上がる危険、また、たくさんの祝福を受けているために、かえって肉欲の中に惹かれていく危険を見てきました。こうした者たちには、暗やみが用意されていることを、ユダは繰り返し強調しました。
そして今、不敬虔な者どものさばきを語った後、ユダは、「愛する人々よ」と呼びかけて、神のあわれみと平安と愛の中に生きている聖徒たちに、語りかけています。ユダは、「私たちの主イエス・キリストの使徒たちが」と言って、使徒たちが語ったことを思い起こさせています。彼ら、また私たちが戦っている、信仰のための戦いというのは、使徒たちが語ったところの信仰を保守するところの戦いです。教会が誕生したとき、彼らが行なっていたことは、「使徒たちの教えを堅く守る」ことでした(使徒2:42)。使徒たちは、主イエス・キリストから直接、啓示を受けた人たちであり、彼らが語っている言葉は神のことばであり、絶対の真理なのです。この教えを改良させるのでもなく、また差し引くのでもなく、教えられたとおりに守り、また伝えていくのが、私たち聖徒の務めです。
クリスチャン関係のニュースを見ていますと、私が気になっているのは、「何か新しい動きはないか?」また、「何か新しい教えはないか」、「何か新しい伝道方法はないか」というものです。今、自分たちにあるものが何か不足しているかでもあるように、自分たちが信じているもの以上の何かを求めようとしているのではないか、と思わされるときがあります。けれども、私たちの間で行なわれる、新鮮な御霊の動きは、私たちがすでに持っている事柄に本当の意味で立ち返るときに見ることができます。私たちが、自分たちで作り上げたプログラムや計画を取り払って、ただ、キリストにあって生きていくことを決めたときに、「能力によらず、権勢によらず、わたしの霊によって」という神の御霊の働きを見ることができます。私たちが、使徒たちが語られているところに堅く立ち、それを保持すること、これが信仰のための戦いです。
その、使徒たちが前もって語ったという言葉は次の通りです。彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」
私は、聖書、とくに新約聖書の使徒たちの書簡を読んで、ある考えが間違えていたことに気づきました。それは、教会というのは、いわゆるエホバの証人、モルモン教、統一協会のような異端組織でなければ、正統的信仰を持っているとされている教団・教派では、ユダがこの手紙の前半部分で話していたような問題は心配ないということでした。けれども、聖書を読むと、自分たちの真ん中で、いわゆる正統的キリスト教と言われている中で、使徒たちが教えていたことを否定することが次々に起こるのだ、ということです。
ユダは、前もって使徒たちが語った、と言っていますが、パウロはエルサレムに戻る途中、ミレトという港町に、エペソにいる長老たちを集めて、最後のことばを語りましたが、そこでこう言っています。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒20:29−30)」あなたがた自身、つまり教会の指導者たちの中から、曲がったことを教える者たちが出てくる、というのです。いわゆる人々の中で認められ、有名になっている人からも、曲がったことを教える者たちが現われる、ということです。
ここだけではなく、例えばテモテへの第一の手紙4章1節には、「後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とあり、第二の手紙4章3、4節には、「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」とあります。使徒ペテロも、第二の手紙にて、「あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。(2:1)」と言いました。ですから、私たちの教会の世界に、こうしたにせ教師の働きを見ることがあっても、それは驚き怪しむことではなく、起こるべくして起こっていることであると知ることができます。
この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
このような人たちの根本的な問題は、御霊によって新生していないことです。御霊によって生まれていないのに、神の御霊に属する事柄を悟ることができません。そのために、クリスチャンたちが信じていることに難癖をつけて、教会の中をかき乱すのです。「生まれつきのまま」すなわち、動物的な感覚によって、霊的な事柄を判断して、理解もしていないことをそしります。よく考えもせず、非難するのです。
私もこのことを強く感じるときがあります。素朴な人々は、自分がキリスト教について特に知らないから、とりあえず話を聞かなければいけない、と思います。けれども、2001年9月11日に米同時多発テロが起こってから、知りもしないのに、キリスト教について、とんでもないことを教えていると非難する人々が増えています。知らないというのであれば、それは、問題はありません。けれども、知りもしないのに、表面的に、理性や知性を働かせることなく、病気にかかったように非難するのです。こうした雰囲気が、教会の中にも少しずつ浸透してきているのではないかと危惧しています。けれども、これも終わりの時に、必ず起こることとして、使徒たち、またユダが予め語っていることであります。
2A 愛する人々 20−25
このような、大変深刻な状況に対して私たちは、どのように対処すれば良いのでしょうか?終わりの時に現われる、あざける者どもが出てきているような状況の中で、私たちは何をすべきでしょうか?ユダは、「しかし」という言葉を使って、私たちが行なうべき事柄を教えてくれています。
1B 自分自身を置くところ 20−21
しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
ここで出てくる大事な言葉は、「自分自身」です。ひそかに忍び込む者たちがいて、あざける者がいて、分裂を起こすような者がいて、私たちは信仰のために戦わなければいけない中にいて、私たちがすべきことは、その外部の敵と面と向かって戦うのではなく、自分自身を神の中に置いておくことです。自分を神との深い交わりの中に入れているところによって、神が私たちを守ってくださいます。
ここには、いくつかの勧めがあります。一つは、「築き上げる」ことです。「最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」とあります。私たちには、使徒たちによって教えられ、聖徒たちによって伝えられてきた信仰があります。この信仰の上に自分自身を築き上げる、または建て上げます。霊的成長するように、努めることです。私は今、平日の朝に、ファミリーレストランで何人かの兄弟たちと、聖書の分かち合いと交わりの時を持っています。一人がヤコブの手紙を教えて、そこから教えられたことを互いに分かち合うのですが、そこで語られていることはきわめて基本的なこと、けれども、いや、だからこそ実践するのが難しいことばかりです。試練のときに忍耐が与えられるから、喜びなさい、とか、自分自身のように隣人を愛することとか、何回も聞いていますが、実際の状況の中に当てはめると、いかに自分が行なっていないかに気づかされます。主に取り扱っていただいて、そして一歩一歩、霊的成熟に向かって歩んでいくことが、ここで書かれている「最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」ことです。
そして二つ目の勧めは、「祈る」ことです。単に祈るのではなく、「聖霊によって祈り」なさい、とあります。私たちの祈りは、時に自分の思いで祈ることがあり、必ずしも神のみこころにかなっているとは言えないときがあります。時々、「祈りは、神の思いを変える。」というような話を聞きますが、とんでもない話です。仮に神の思いを変えるようなものが祈りであれば、祈らないことが最も賢いことです。私たち人間の思いより、神の思いは、はるかに比べ物にならないほど知恵に満ちあふれ、知識があり、永遠の視点に立った、最善の思いだからです。むしろ、神の思いが私たちの身に起こることを願うのが、祈りです。
けれども、神のみこころが何かがわからないときが多々あります。そこで、私たちを助けてくださる方がおられます。ローマ8章26節には、「私たちは、どのようにして祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とあります。そして、「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる(27節)」とあります。聖霊によって祈るとは、私たちの思いではなく、神のみこころに従って祈るために、聖霊が助けてくださるということです。これは、うめきによって行なわれるでしょうし、またコリント第一14章には、霊によって祈る異言について書かれています。異言で祈るのも良いでしょう。
そして三つ目の勧めは、「神の愛のうちに自分自身を保ち」なさい、です。私たちは、甘く、深い、主との交わりを日々楽しまなければいけません。「楽しまなければいけない」なんて、義務的に行なうのですか、と質問されるかもしれせんが、私たちは不思議な存在で、楽しむことができるものを、あえて行なわないという傾向を持っています。神の愛の中に自分を浸らせたいなら、私たちは祈るはずですが、私たちは他に時間を過ごして、自分を満足させたりします。必要時間以上テレビを見たり、インターネットでネットサーフィンをしたり、また教会活動でさえ、自己実現の場にしてしまいます。そうではなく、私たちは、「わたしは、あなたを愛している」と言われている神の愛に浸らせることが必要なのです。
放蕩息子のことを思い出してください。彼は神の愛のうちに自分自身を保たなかった人の例です。父の愛を知らずに、家出をして、全財産を使い果たしました。戻ってきてようやく父の愛を知り、恵みの中に招き入れられましたが、その恵みの中に、愛の中にいつづけることは、ここに書かれているとおり、「保つ」という自分の意識的な作業が必要になるのです。
四つ目の勧めは、「待ち望み」なさい、です。「私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」とあります。これはもちろん、イエスさまが天から空中にまで下ってこられて、生き残っている私たちがそこに引き上げられるところの携挙の出来事です。私たちが信仰の上に自分を築き、聖霊によって祈り、神の愛の中にとどまって、ひたすら主の現われを待ちます。これがクリスチャン生活であり、終わりの時に生きるクリスチャンの姿です。以前、ある人が、時が近いのであれば、私は何をすればよいのですか?と聞いてこられた方がいましたが、私は、「神のみことばにとどまっていてください」と答えたのを覚えています。その方は会社で忙しく働いておられるのですが、自分がこのままで良いのか、宣教活動などもっと大切なことがあるのではないか、と思っておられたようです。今までの再臨についてのメッセージが、宣教をしなさいという、駆り立てるようなものだったので、「とどまりなさい」という勧めは真新しかったと言っていました。でも、ここに書かれているとおりです。待ち望む、のです。
そして、ここで主の現われが、「あわれみ」と書かれているのに注目してください。携挙、あるいはイエスの再臨の本質がここにあります。私たちが待ち望んでいるのは、あわれみです。「よくやった、良いしもべよ。あなたは小さな事に忠実であったから、大きなものを任せよう。」と言ってください、イエスさまの労いのおことばです。決して、「あなたはこんなひどい人間であった」というような、さばきの言葉ではないのです。この点においても、多くの人が、携挙について、罪定めのようなさばきが行なわれるような、恐怖感を与えるメッセージをする人たちがいますが、携挙はキリストからあわれみを受ける時なのです。
2B あわれみと恐れ 22−23
こうして、自分自身を神の愛のうちに保っておくことが、教会の背教が起きる終わりの時代に生きるクリスチャンの姿であることがわかりました。次に、周りにいる人々に対して私たちがどう接していかなければいけないかが書かれています。
疑いを抱く人々をあわれみ、
今、教会の中で偽教師たちが入ってきています。けれども、信仰のために戦っている人々もいます。双方の意見を聞いて、どっちにつけば良いのかわからなくなっているような人たちがいることでしょう。そうした人たちが、ここで書かれている「疑いを抱く人々」です。本当にその人が言っていることは本当なのか、と、完全に自分を信用してくれない人々がいます。私は、そのような人々に対して、「そうではない!」と言って、批判するような、見下すような言い方をしてしまいがちですが、けれども、そういった人々に対しては、かえって「あわれみなさい」あるいは、「確信づけなさい」と勧めています。彼らには励ましが必要なのです。私が疑い深くなっているときに、私を立ち上がらせてくれたのは、「違う!」と詰め寄られたことによってではなく、単純に励ましを受けた時でした。だから、疑いを抱く人々はあわれみ、励ますことが必要です。
火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。
ここで書かれているのは、先ほどの御霊を持たない人々のことです。彼らが行なっていることは、本当にひどいことなのですが、それでも、火の中からつかみ出すようにして救い、恐れながらあわれまなければいけない、と勧められています。先日、パレスチナ人たちが暴虐を働いていることを暴露しているインターネットのサイトを見て、「このようなショッキングなことについて、赦すということはどう適用したらよいか」という質問を受けました。私は、「恐れながらあわれむ」という返答をしました。私は、彼らが仲間のパレスチナ人をリンチしたり、イスラエル兵をぼこぼこに叩いて殺したりする、おぞましい場面を見たときに、「僕もちょっと間違ったら、あのような憎悪の塊になるかもしれない。」という、恐れを抱きました。自分だって、自分が置かれている状況が整えられたら、同じような罪を犯すかもしれないと思います。だから、恐れながらあわれみ、その不敬虔の中に自分も影響されないように、非常に気をつけながら接することが必要である、ということです。
3B 守ることのできる神 24−25
そしてユダは手紙の最後に、これらの背教から神が私たちを守ってくださるという、すばらしい約束を書いてしめくくっています。
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
21節は、自分自身を神の愛のうちに保ちなさい、とい勧めがありましたが、実は神ご自身が、私たちをつまずかせないように守ってくださいます。私たちが神の愛のうちにとどまっているとき、私たちが神にしがみつくのではなく、神が私たちをご自分の手から引き離さないで、守っていてくださるのです。そして、傷のない者として、つまり、恥ずべきものがない者として、イエスさまが戻ってこられたときに、神の御前に大きな喜びをもって出て行くことができるようにしてくださいます。
すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。
ヨハネは、「世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:5)」と手紙の中で言いましたが、それはイエス・キリストが勝利者であり、主が勝利してくださるからです。栄光、尊厳、支配、権威がある方であり、永遠の昔からおられ、今も、また世々限りなくおられる方であり、この方に守られているならば、私たちは大丈夫です。私たちのお仕事は、この力強い方の中で憩うことです。この方の御足で、神のみことばを聞くことです。聖霊によって祈ることです。自分も落ちてしまうかもしれないと思って恐れ、人々を励まし、あるいは警戒することです。
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