ユダの手紙1−16節 「信仰のための戦い」


アウトライン

1A 愛する聖徒たちへの手紙 1−4
   1B あいさつ 1−2
   2B ひそかに忍び込んできた者たち 3−4
2A 不敬虔な者たちへのさばき 5−16
   1B 有り様 5−11
      1C 恵みから放縦 5−7
      2C 無意味なそしり 8−11
   2B 行く末 12−16
      1C 自然から 12−13
      2C 預言から 14−16

本文

 ユダの手紙を学びます、最後の書簡になりました。今日は前半部分、1節から16節までを学びます。ここでの題は、「信仰のための戦い」です。

1A 愛する聖徒たちへの手紙 1−4
1B あいさつ 1−2
 イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、

 この手紙の差出人は、「ヤコブの兄弟であるユダ」です。新約聖書の中には、ユダが三人出てきます。一人は、有名なイスカリオテのユダです。イエスの12弟子の一人であり、イエスを裏切り、宗教指導者たちに売り渡した人物です。もう一人は、ヨハネの福音書14章22節に、「イスカリオテではないユダ」が出てきます。イスカリオテのユダが過越の食事の席から離れた後に、イエスさまが残りの弟子たちに最後の言葉を語られているとき、「あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。(ヨハネ14:22)」と質問しています。そして、三人目のユダは、イエスさまの半兄弟のユダです。イエスさまがナザレで教えておられたとき、地元の人々は、イエスさまにつまずいてこう言いました。「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。(マルコ6:3)」おそらく、このユダが、この手紙の著者であろうと思われます。「ヤコブの兄弟」と言っているところから、ヤコブの手紙を書いた、イエスの半兄弟であるヤコブの兄弟と考えられます。

 ヤコブの場合もそうでしたが、ユダは自分のことを「イエス・キリストのしもべ」と端的に述べていることろが印象的です。自分を、イエスの肉の家族である兄弟であるとして、人々に印象ずけたり、権威を持たせることはいくらでもできるようなものですが、彼はあえてそのような権威付けを避けて、しもべ、デゥーロスと言っています。ヤコブやユダは、イエスがよみがえられる前は、イエスを信じることができませんでしたが、復活を見てから信じました。肉の関係ではなく、霊の関係においてイエスを見ています。

 父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。

 この手紙は、読み進めればすぐ分かりますが、警告と神のさばきの宣告の手紙になっています。けれども、ユダは読者に対する深い愛情を抱いています。読者たちが、どのような立場にいるのかを教えています。一つは、「父なる神に愛され」ていることです。私たちは、自分が愛されるにふさわしくない存在だと思ってしまいます。愛されるために、いろいろな努力をしようとします。けれども、神は愛ですから、私たちがどんなであろうとも愛してくださっています。神が愛さないということはできないのです。そして次に、「イエス・キリストのために守られている」とあります。すばらしい約束であり保証です。私たちは、イエス・キリストにあって救いが守られています。いろいろな試練があろうとも、地上で生きている間にいろんなことが起こっても、主は私たちを守っていてくださっています。そして、「召された方々へ」とあります。神の御国へ招き入れられました。私たちが優れているからではなく、神が私たちをあわれみ、愛して、呼び入れてくださいました。

 どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。

 クリスチャン生活は、一度、神の愛と平安とあわれみを知ればそれで良い、ということではありません。イエスさまは、「わたしが来たのは、羊がいのちを持ち、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)」と言われました。私たちがすでに受けている、神のあわれみをますます豊かにされていくのが、クリスチャン生活です。神の平安も豊かにされ、神の愛も豊かにされます。内なる人が日々新たにされて、神との関係がますます深まっていくことが、神の私たちに対する願いです。

2B ひそかに忍び込んできた者たち 3−4
 そして次に、この手紙を書いている目的をユダは書いています。愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、

 ユダは、この手紙の内容とは別に、「ともに受けている救いについて」の手紙を書こうとしていました。あなたがたは、主イエス・キリストの救いにあずかっているのですよ、それは私たちが共に受けている救いですよ、という内容の手紙を、なんとかして書こうとしていました。ユダは、兄弟として、また教会の指導者として、また預言者として信者たちを励まし、慰めたいと切に願っていたのです。

 けれども、その書く内容を変更しなければいけない必要が生じました。聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

 信仰のために戦う」という緊急事項が出てきました。ここで語られている「信仰」とは、私たちが信じている事柄の集積体とでも言って良いでしょうか、キリスト教は何を信じているのかについての教えの集まり、と言って良いでしょう。神とは何か、人とは何か、そしてキリストとは何か、そして人の救いについて、教会について、聖霊について、それから世の終わりについてなど、私たちが信じている根本的な真理があります。これをここではザ・信仰、と呼ばれています。

 そしてここの「戦う」ですが、「奮闘する」とか、「苦闘する」という意味があります。戦争をしかけるとか、争いを引き起こすとか、そういった意味ではありません。言うなれば、それは自分自身も誘惑に引き込まれることのないように、心を武装することであり、信仰について決して妥協することがないように堅く真理に立つことでもあり、神から知恵が与えられ、また識別力が与えられることでもあります。

 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。

 ここで「ひそかに」が、とても大事な言葉になります。偽預言者や偽教師、また偽兄弟は、「私は偽物です」ということは決してありません。ひそかに忍び込みます。敵は、外部からであれば私たちは防御しやすいですが、内部に入ってきたものを取り除くのは、非常に大変です。すでに、彼らのことを受け入れてしまい、感情的な密着を持ってしまっている兄弟姉妹もいるからです。キリストのからだのために奮闘している人を、逆に教会の秩序を乱す分子であるとみなされることもあるでしょうし、愛がないと責められることもあるかもしれません。ですからユダは、「信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める」と言っています。奮闘し、苦闘し、戦い抜くのです。

 彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。

 ひそかに忍び込んで来た者たちの特徴は、「不敬虔」であります。肉の欲望の中で生き、罪の中で死んでいた者たちが、キリストとともによみがえり、キリストにあって天のところに座っているのがクリスチャンですが、この者たちは、肉の欲望の中で生き続け、それだけでなく兄弟たちを肉の欲望の中に引き込もうとします。

 そして興味深いのは、彼らは、「神の恵みを放縦に変え」ることです。神の恵みとは、私たちが受けるに値しないものを受けることです。罪の中で死んでおり、肉の欲望の中で生きて、ついに神の怒りを受けるにふさわしい者であったのにも関わらず、あわれみ豊かな神が私たちを愛し、キリストによってよみがえらせ、天に着く者としてくださいました。罪と死の運命を辿っていた私たちを、神の栄光の真ん中に招き入れてくださるところに、神の恵みがあります。なんと麗しいことでしょうか!ところが、これを「放縦」に変える傾向を私たちは持っています。ローマ人への手紙5章の最後で、パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(20節)」と言いました。そこで、私たちは、罪を犯せば恵みをいただくことができるのだから、恵みをいただくために罪をもっと犯そうではないか、という愚かな発想を抱きます。そこで、6章1節でパウロは、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。(6:1−2)」と言っています。恵みを放縦に変えようとするのです。

 そしてひそかに忍び込んできた者たちは、「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たち」です。イエスが主であり支配者であることを否定します。権威が主にあるのではなく、自分自身になります。後に彼らは、ぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者、そしる者と呼ばれますが、不平やそしりは、イエスが主ではなく、自分が主になっていることの現われです。そしてもちろん、「イエス・キリストの否定」も彼らの特徴です。ヨハネの手紙を学んだとおり、イエスが肉を持って来られたことを否定する者は、神からではなく悪魔から出た者であり、反キリストです。

2A 不敬虔な者たちへのさばき 5−16
 ユダは、彼らを「このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている」と言っていますが、5節から、昔、神によってさばかれた人々を例にあげて、今教会に忍び込んでいる彼らもさばかれると断罪しています。

1B 有り様 5−11
1C 恵みから放縦 5−7
 あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。

 昔のこと、聖書に書かれていることについては、あなたがたはよく知っているにしても、でも思い出させたいのです、ということです。思い出すことはとても大切です。

 それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。

 昔行なわれたさばきの一つ目は、エジプトから救い出されたのに、神を信じないで荒野で滅んでいった人々です。次の二つの例とともに、これらさばかれる人々に共通して言えることは、彼らはもともと、神の祝福と恵みを受けるような立場や状況の中にいた、ということです。決して初めから、ひどいところにいたのではなく、神の恵みを受けていながらも、いや受けているからこそ、恵みを歪曲して、自分に滅びを招いています。

 イスラエル人は、エジプトにおける苦役から救い出されて、紅海を渡り、エジプト軍が滅ぼされるという大いなる神の救いのみわざを見させていただきました。それだけでなく、荒野の旅において、岩から水が出て、毎朝、天から降ってくるマナが与えられて、アマレク人には勝つことができ、シナイ山では、恐ろしいけれども、聖なる神の顕現を見ることができ、昼は雲の柱、夜は火の柱によって守られ、彼らは神の恵みの中にいたのでした。ところが、これらの恵みが彼らにとってかえって不満の対象となり、「こんなマナにはあきあきした。」など、いつまでも神の恵みを恵みとして受け入れられなかったのです。そしてついに、ガデシュ・バルネアにて、エジプトに戻るという決意をしてしまったために、神は彼らを荒野で40年間、さまよわせるままにされました。

 彼らの問題は、「信じない」こと、不信仰です。目に見えない神を信じていくこと、神のみことばを受け入れていくことをしなかったことが問題でした。ヘブル書には、「その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(4:2)」とあります。私たちが、神のみことばに啓示されている、数々の恵みを当たり前、あるいはわずわらしいと思うようになったら危険です。「罪の赦し?もうわかっているよ、罪が赦されていることは!」「イエスが神の御子?当たり前じゃん、そんなことクリスマスに何回も聞いているよ」このように、当たり前のこととして受け止めて、恵みが恵みでなくなってくるとき、キリストのうちにいるところから離れる危険があります。

 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

 神のさばきを受けた二つ目の例は、御使い、あるいは天使たちです。御使いたちは主に仕える霊でありますが、神の御座の回りにはたくさんの御使いがいます。そして、ケルブなど、神の御座のすぐそばで仕えている、神の栄光を燦々と繁栄させている大天使もいます。その中の一人で、ルシファーがいましたが、彼は、その高い地位にいるために、高慢になり、「いと高き方のようになろう」と言いました(イザヤ14:14)。そのため、ルシファーは、その高い地位から退けられ、またルシファーに追従した天使たちも、そのおるべき所を捨てて、天から追い出されたのです。その中の多くが、暗やみの下に閉じ込められています。黙示録9章には底知れぬところから得体の知れない生き物が出てくる場面が書かれていますが、彼らがその堕落した天使たちです。そして彼らは、最後はゲヘナに投げ込まれて、永遠のさばきを受けます。

 彼らの問題は、そして私たちに通じる問題は「高慢」です。神は恵みによって、信仰の量りに応じて、一人一人に賜物を与えておられます。また、それぞれに任せている務めがあり、それにふわさしい立場も与えられます。しかし、私たちが神の恵みを忘れるとき、つまり自分が初めに何だったのかを忘れるとき、「私は何でこんな低い立場にいるのか。もっと引き上げられるべきだ。」という高慢な思いになるのです。パウロは、「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ12:3)」と言っています。

 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

 神のさばきを受けた三つ目の例は、ソドムとゴモラです。ここに書かれている「好色」と「不自然な肉欲」とは、男色、あるいはホモセクシャルのことです。ロトの家に二人の男の人がやって来たときに、ソドムの者たちは戸を叩いて、「あの男たちを引き出せ。彼らをよく知りたいのだ。(創世19:5参照)」と言いましたが、これはおおっぴろげな、男による男の強姦の要求です。これほどソドムの町は乱れていたのです。

 ソドムとゴモラの問題は、「貪欲」でした。ソドムとゴモラは、「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。(創世13:10)」とあります。その住民は非常に恵まれていたのです。主が与えておられる資源に恵まれ、豊かにされていたのです。これを神の恵みとして受け入れ、感謝していれば良いのですが、ところが人間は感謝ではなく、貪りを引き起こし、さらに欲しいと願うようになります。そこで肉の欲によって自分の身に破滅をもたらすようなことをするのです。

 ですから、三つのすべてのが、神の恵みと愛の中にいたのに、そこから離れて、神のさばきを招いた事例と言えるのです。

2C 無意味なそしり 8−11
 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。

 ユダは、ひそかに忍び込んで来た者たちも、この三つの例に出てくる人たちと同じだと言っています。エジプトの生活が良かったと夢見ていた者たちと同じであり、ソドムとゴモラの住民のように肉体を汚し、そして堕落した御使いたちのように、神の権威を軽んじています。栄えある者、つまり、神に油注がれた人や、高い地位に神によって着いている人々をそしります。

 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。

 「御使いのかしら」あるいは大天使ミカエルです。大天使は他に、ガブリエルがいました。ケルビムも大天使だったのでしょう。また悪魔も、ルシファーであり大天使でした。そしてミカエルが、悪魔と、モーセのからだについて言い争っています。思い出せますか、モーセはピスガの頂から約束の地を見渡した後、死に、主によって葬られたと申命記34章にあります。そして、そのモーセの死体について、天使たちが論争していたようです。

 このときに、ミカエルが、悪魔をののしることはありませんでした。「主があなたを戒めてくださるように」あるいは、懲らしめてくださるように、と言っています。よく考えてみてください、大天使という大きな権威と力が与えられたミカエルでさえ、そしることをせず、主に立ち入っていただきました。そしてそしる相手は、悪魔という、そしられて当然の存在です。けれども、それでも神の許しのなかで存在している霊的存在ですから、ミカエルは自分からそしることはなかったのです。

 私がしばしば懸念しているのは、クリスチャンたちの間ではやっている、「信仰のことばを語ると、その通りになる」という教えです。そのような教えを受けている人たちは、悪魔や悪霊に対して、「お前は、のろわれたものだ!」など、のろいとそしりの言葉を悪魔に投げつけます。主にのろっていただくのではなく、自分で行なうのです。もともと、信仰のことばによって、何かを実現化させるという考え自体が、主ではなく自分自身が権威者としている考えであり、ここでユダが警告している立場に自分を置いてしまうのではないかと懸念しています。悪魔は、主にのろっていただければ良いのです。

 しかし、この人たちは、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。

 霊的な事柄についてそれを理解できないと、動物のように本能的にそしる人がいます。文の前後関係を読まず、完全に読解能力が磨耗してしまっているような状態です。理解できないのであれば、理解できないままにしていれば良いのですが、権威に盾突いて、動物のようにわめくのです。

 忌まわしいことです。彼らは、カインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。

 ユダは再び、聖書から三つの例を挙げています。一つの「カインの道」です。これは、アベルが神に受け入れられたことをねたみ、ねたみが憎悪に変わり、憎悪が殺人へと向かわせました。彼らもねたみと憎悪の塊になっています。もう一つは、「バラムの迷い」です。バラムは、金銀によって買収され、イスラエルを呪うためにモアブの地に向かいました。そこでイスラエルを呪うことができず、かえって祝福してしまいましたが、バラク王に助言して、モアブの女をイスラエルの宿営に忍び込ませました。同じように、彼らも金銀に迷わされた者たちです。そして、「コラのそむき」ですが、コラはレビ人でありケハテ族の人であるにも関わらず、それに満足ができず、アロンの祭司職に盾突きました。

 この三つの例に共通するのは、「神の権威にそむいている」ことでありましょう。カインは、神から、「罪を支配しなさい」つまり、罪を犯さないでいなさい、と戒められたのに、それに背きました。バラムは、「イスラエルを呪ってはいけない」と戒められていたのに、呪おうとしました。そしてコラはもちろん、モーセとアロンを立てた神にそむきました。

2B 行く末 12−16
1C 自然から 12−13
 彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、

 教会では愛餐と言って、とくに貧しい兄弟たちが食べることができるよう、食事を用意して共に食べる時が持たれていました。彼らは、その場面の中にいたようです。ユダは彼らを「愛餐のしみ」と呼んでいます。そして、人々に食べ物を分かち合うのではなく、「自分だけを養っている者」つまり、人の分まで取り上げて、豚のように貪り食っていたようです。

 風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。

 いずれもすごい形容ですが、無用で、終わりが間近で、消え去ってしまうというところに共通点があります。

 まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています。

 地獄のことです。

2C 預言から 14−16
 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。

 覚えているでしょうか、アダムからノアにつながる系図の中に、主とともに歩んだエノクが紹介されています。彼は主とともに歩んでいたので、死を見ることなく、引き上げられました。後に来る洪水のさばきを通らずして、救われたのです。これは大患難時代を通らないで、その前に引き上げられる教会の姿です。

 エノクが預言をしました。旧約聖書にはその預言は書かれていませんが、外典の中に「エノク書」というのがありますが、そこからの引用です。エノク書は、神の霊感を受けた本ではありませんが、ユダが神の真理であると思って、霊感によって引用したのが次からの部分です。

 見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。

 これは、主が地上に再臨されるときの預言です。千万の聖徒を引き連れて来られるのですが、これは、すでに携挙によって引き上げられた教会です。主とともに戻ってきます。

 すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。

 主が地上に戻ってくるときに、ここに書かれている不敬虔な者、神を恐れない者はことごとにさばかれます。テサロニケ人への手紙第二1章においても、「主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。(8節)」とあり、神のさばきがあります。

 彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。

 これが、ひそかに忍び込んできている者たちの特徴です。こうして信仰のために戦うことについて読んできましたが、面白いことに、そうした忍び込んできている者たちと論争をしたり、争ったりすることの勧めはありませんでした。むしろ、主がそのような者たちと争い、主がさばかれることをユダは長々と書き連ねました。自分が戦うのではなく、主が戦ってくださるのです。私たちの中に、敵が入ります。終わりの時には、敵の働きは内部、いや中心部にも忍び込みます。そのときに、私たちは、自分で戦おうとするのではなく、敵の働きの行く末は神のさばきであることをわきまえて、神にさばきをゆだねることが大切なのです。信仰のために戦うとは、神の権威の下にへりくだり、神に戦っていただく戦いとも言えます。もちろん、何も行動に起こさないということではありません。次回は、具体的に私たちが行なうべき事柄について読んでいきたいと思います。


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