教会の混乱 2003/02/20
あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。
しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブの手紙3:13-18)
牧師と役員会
最近、何人かの人から、自分が通っている教会において牧師が辞任するという話を聞きました。そこに共通しているのは、役員会あるいは会衆が、牧師に対する不信を抱き、牧師不信任という決議を出して、牧師が辞退するという経路を辿っていました。
私は、自分自身が役員になったことがないので、役員会がどのように動いているのかを体験的に知っていません。けれども、役員会によって拒否された経験はあります。私の友人の牧師が、教派にとらわれず、地域伝道をチームとして行なうという考えのもと、私をその教会のスタッフにしたいとの旨を話してきてくれたことです。私は、その牧師さんの考えや方針、またその牧会姿勢には尊敬できるものがたくさんありますが、教会自体から受け入れられるかどうか分からない、と思いました。彼は、「私がリーダーなのだから、教会が違う考えを大きく持っているということはありません。」と反論されていましたが、案の定、役員会が私を受け入れることを却下したようです。
その牧師さんが属している教団は、私が支持している神学とは異なるものが多いのですが、霊的には神学の違いではなく、御霊による一致が可能なので、それは大きな問題にはならないはずなのです。しかし彼の話によると、私の聖書理解が教会の考えと違うという理由も出してこられたようです。
話を聞くと、役員会は、牧師が掲げる方針に盾突くことが多く、まるで労組と経営者たちの紛糾さえ髣髴させるような議論を展開させているようです。一度牧師があきれて、「欠席しますから、ご自分たちでお決めください。」と言い、席を離れたそうですが、その後の役員会議は、ほとんど口げんかの応酬になったので、逆に役員の人が、「すみません、先生がいないと、たいへんなことになるので、いるだけ、いてくれませんか。」という旨のことを話したそうです。
私はこのことを聞けば聞くほど、「役員会」の意味は何なのか?と思いました。また、役員会や会衆が、牧師を不信任にするというのも、いったい何なのか?という疑問もあります。その理由は例えば、私が今話している教会とは違う教会で起こったケースですが、「牧師が冷たい」「家庭訪問をしない」だったそうです。聖書のどこに、牧師に人情がなく、家庭訪問をしないから、牧会をする資格がないと書いてあるのでしょうか?
そして、いろいろな話を聞くと、牧師の辞任のさせ方も、聖書からかけ離れたことが多いです。何か問題が起こったとき、聖書には、それに対処する方法が具体的に書かれています。イエスさまが語られた言葉がそれです。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイの福音書18:15-17)」そしてパウロはテモテに、「長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。(テモテへの手紙第一5:19)」と言いました。牧師と信徒の間にあった問題を、その双方の個人的な和解を先行すべきなのに、役員会が介入して牧師に不信任決議を出すという話も聞きました。
人政政治ではなく神政政治
話を聞けば聞くほど、その教会政治は、神の意見ではなく人の意見を優先させる結果であることに気づきます。主は、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。(イザヤ55:8)」と言われました。また、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。(ゼカリヤ4:6)」とも言われています。私たちの教会生活は、自分たちが自然に思う、「こうあるべきだ」という教会像は、大抵、主の御霊の思いとは異なります。
使徒行伝を読むと、教会の発展は、使徒たちの思いとは裏腹に進みました。コルネリオのところに行く前に、ペテロは三度も、主の幻を拒みました。パウロは、同じ釜の飯を食べた同胞のユダヤ人たちに、自分が発見したメシヤを伝えたいという強い願いを持っていましたが、彼がユダヤ人に福音を伝えるごとに、ねたまれ、憎まれ、殺されそうになり、そこで他の地へ逃げるようにして動いていった経路を見ます。けれども、そのために爆発的に異邦人への福音宣教が実を結びました。彼の同胞に福音を伝えるという目的は達成されましたが、ものの見事に失敗しています(使徒22章)。ですから、私たちの務めは、自分の悟りに頼らず主を恐れ、聖霊に導かれることを主眼とすることです。
多数決による評定は、この世が定める法律を遵守する目的のために行なわれる(ローマ13:1)以外は、霊的には何ら意味を持ちません。会衆による多数決の意見はむしろ、聖書では主に逆らうことばかりであり(荒野の旅路におけるイスラエルの会衆を思い出してください)、真理に立つ人たちは少数派だったのです。教会は、民主主義ではなく神主主義です。私ではなく、キリストが教会のかしらです。
参考文献:
http://www.calvarychapel.com/library/smith-chuck/books/harvest.htm#02
http://www.calvarychapel.com/library/smith-chuck/books/ccd.htm#01
http://www.calvarychapel.com/library/smith-chuck/books/ccd.htm#02
自分の体験
以上のようなことは、客観的に、第三者的に見ると、あまりにも馬鹿ばかしく、子供じみたことをなぜ大の大人がすることができるのか、と思います。けれども実は、自分自身が馬鹿ばかしいと思うような、似たような問題の渦中に、長年のこといました。非常に簡単に出来そうなものができず、意思伝達に混乱が起こって、双方の不信感や猜疑心を駆り立てること事が起こります。まさに霊の戦いであり、福音宣教の働きが前進せず、妨げられてしまうのです。また、キリストのからだに分裂と混乱をもたらせるような状況があります。
今、自分が奉仕を始めた新しい開拓教会の牧師とスタッフとの間で、「ヤコブの手紙」を読み進めています。自分が通ってきたいろいろなごたごたや問題を、解決する鍵が書かれていることに気づきました。
ヤコブの手紙の目的は、「キリスト者の成熟」です。教会を始めるに当たって、霊の戦いがあるのは当然のこと。だからそれに驚くには当たらない。けれども、そこで私たちが、キリストに似た者になる霊的成熟さが要求される、ということです。
初めにヤコブは、「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。(1:2)」と言っています。なぜなら、「信仰がためされると忍耐が生じ(1:3)」るからです。そして、「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(1:4)」試練、また信仰がためされることによって、そこにキリストにある忍耐が培われて、その結果、キリストにある成人になることができる、ということです。
そして、いろいろな問題が起こっているとき、それを対処する知恵は、神から来ます。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブの手紙1:5)」私がこれを読んだとき、なにか、棚ぼた式に問題に対処するテクニックが得られるという印象を受けましたが、箴言に、「主を恐れることは知恵の初めである。(1:7参照)」とあるように、知恵は主との成熟した関係の中で与えられます。その知恵が、自分の賢い(?)頭では、プライドが砕かれることであり、自分の正義感では許されないことであっても、へりくだって、その指導に従うことによって、問題解決への道が開かれます。
そしてヤコブは、試練に耐えることは幸いである(1:12)と言った後に、誘惑について話します。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(1:13−15)」自分が正しいことをして、自分が悪い仕打ちを受けて、それで苦みを持っているとします。そうです、自分のほうが客観的に見ても正しい時があるのです。けれども、自分が客観的に正しいと思うことさえ、ヤコブは、「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(1:20)」と言っており、多くの場合、自分の都合に合わせた独り善がりのものになっています。だから、「愛する兄弟たち、だまされないようにしなさい。(1:16)」と言っています。
そして、たとえ自分が正しくとも、そこで赦さない思い、苦みを抱くならば、それは神のせいではなく、自分の責任です。神は悪に誘惑するような方ではなく、苦みを抱くなら、それは自分の欲に引き寄せられているからです。むしろ、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。(1:17)」とあるように、神は、そのような試練や誘惑の中においてでさえ、キリストのご性質を私たちのうちに培われる賜物を与えてくださいます。
そして、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(1:22)」という有名な言葉があります。これは、「私はクリスチャンです」という発言と、実際の自分の行ないとの間に遊離が起こっていますよ、という発言です。クリスチャンである、神を信じると言うのであれば、その信仰を行ないで見せてください、という指摘です。みことばは鏡のようであり、私たちの、ありのままの姿を明らかにします。私たちは、自分たちが賢いと思っても、実は愚かな者であり、ただ悔い改めて、神の前でその愚かさを泣き悲しみ、主の前でへりくだることしかできないのです。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:6−10)」
具体的な例として、「えこひいき(2:1)」をヤコブは取り上げています。えこひいきは、人を見た目でさばく、その悪い動機(2:4)が問題であり、人をあわれむのではなく、さばく行為です(2:13)。この手紙が、ユダヤ人信者(1:1)に書かれていることにも注目したいです。主に異邦人がいる教会に対する手紙には、不品行や偶像礼拝についての警告が書かれていますが、ここにいるユダヤ人クリスチャンには、比較的問題になっていませんでした。ですから、「教科書的クリスチャン」を演じることができたのです。けれどもヤコブは、そのようなクリスチャンが持っている大きな問題をあからさまにして、その罪を悔い改めるように促しているわけです。ですから、教会に問題が起こっているとき、その問題を起こしている人たちは、個人的には主を愛し、主に従っているしもべに見える人たちばかりでしょう。けれども実はヤコブが取り上げているいろいろな問題を孕んでいます。その一つが、「えこひいき」であり、また「さばき」なのです。
その他、「口」や「言葉」の問題があります(3:1)。そして初めに掲げた、苦みや敵対心の問題があります(3:13−18)。クリスチャン用語を使っての中傷合戦は、実は、成熟したとされるクリスチャンだからこそ、起こる問題です。牧師や教会指導者たちの間だからこそ起こる問題です。それに対処する解決の鍵は、「へりくだりと忍耐」であり、それによってキリストにある成熟へと向かいます。
以上、現代進行中のヤコブ書の学びを通して、私が、その問題をたくさんもっている者として教えられていることを書きました。教会の中で起こっている、いろいろ具体的な場合があるでしょうが、今すぐにでも出来ることは、「試練に耐える人は幸いです。(1:12)」という約束によって、励まされることでしょう。
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