教会内部の戦争 2003/03/20
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
ヤコブの手紙4:1
昨日、いつものように、教会の牧師とスタッフたちの中で、みことばの分かち合いと交わりの時を持った。うちの教会の牧師はアメリカ人である(日系だが)。アメリカがイラク攻撃をする直前だったので、ヤコブ4章に出てくる言葉は、特に響いたようだ。かいつまんで内容を話すと、次のようになる。
「アメリカがイラクを攻撃することにあたって、日本人からいろいろな反発を受ける。私はブッシュを理解している方だが、そこでアメリカの立場を擁護することもできるが、それを行なうことが主のみこころにかなっているかは、分からない。
ヤコブの手紙は、クリスチャンに対して書かれたものである。その霊的成熟のために書かれたものである。だから、この箇所も、しばしば文脈をはずして読まれてしまうが、クリスチャンの間の、戦う欲望について話している。
戦争は、聖書全体の中で出てくるものであり、反戦というのは非聖書的だ。聖書の初めのほうから、例えば、アブラハムとロトはうまくいかなかった。モーセとアロンとミリアムはうまくいかなかった。サウルとダビデの間には戦いがあった。戦いや対立は、人間のその欲望があるかぎり、必然的に起こるものであり、戦いに反対というのは間違っている。
しかしながら、クリスチャン同士が、アメリカのイラク攻撃に反対である、賛成であると主張し合うことによって、クリスチャン同士の戦いが起こってしまう。悪魔は、かの地でアメリカとイラクが戦争をするよりも、教会内で、クリスチャンの間で戦争が起こることを望んでいるかもしれない。
だから、アメリカの立場を擁護するよりも、今この時期は、人々が真理について質問してくることが多くなるので、福音について語る機会が多くなる。このことに集中すべきだろう。」
実に時宜にかなった、そして的を射たみことばの分かち合いだった。
私は個人的には、今回の米国によるイラク攻撃は、米国が行なっていることよりも、世界中でマスコミが煽っていることのほうが気になっていた。客観的データを見ると、ブッシュ政権における戦争よりも、クリントン政権における戦争のほうが多かった。マスコミはさほど取り上げることはなかった。また、世界中には、イラクに対する爆撃よりも、はるかに恐ろしい残虐行為、殺戮、搾取を行なっている国々があるのに、マスコミはそれらを何一つ報道しない。だから、真に平和を求めているのではなく、アメリカのやり方が気にくわないという反発が、今回の戦争騒ぎに発展しているのではないか、と見ていた。
しかし、このようなことはむろん、多くの日本人に受け入れられない意見である。在米経験がはるかに長い妻は、私のことを、「アメリカに偏りすぎ」と言う。(私は、妻のことを「それじゃあ、反米だよ」と言い返すが・・・。)
けれども、戦争に反対か、賛成かというのが、今の時点でクリスチャンの焦点にならないということが大切だ。終わりの時に、これらのことは必ず起こるものと預言されており、神のご計画が着々と進行している。今、しなければいけないのは、周りにいる、真理を求める人々に、福音を分かち合うことである。
この前、妻と非常に面白い会話をした。彼女によると、日本はイラク攻撃についてアメリカに追随しており、おんぶにだっこであり、いつか(当時は英国だったが)昔みたいにアメリカに見捨てられるのだそうだ。これは、まんざら嘘ではないだろう。そこで私は反論した。「けれども、国際政治のパワーポリティックスの中では、小国が大国と同盟を結ぶことによって、存続できるという現実がある。アメリカでなければ、中国か?私は共産国中国より、アメリカのほうがいい。」すると、妻はこう言うのだ。「一国におんぶにだっこではなく、ポートフォリオのようにして、周辺地域の国との協力をしていけばよい。」(実は、彼女は、このことをすでにエッセイに書いていた。)僕は、これだ!と思った。聖書にはまさしく、終わりの時の姿は、世界に10のブロックができるというものなのだ。
「十本の角は、この国から立つ十人の王(ダニエル7:24)」
このことを話したら、たえこは、ギャフンとまでいかないが納得してしまった。
私が興味深かったのは、人間的にこれが賢いと思う方法は、どのようなものであっても、結局、聖書の終わりの時に登場する姿へと近づかせる要素になっていることだ。昨日、聖書の学び会で、とてもうれしい感想を聞いた。「私は、戦争の話を聞くと、これまで、『戦争は絶対にダメ!』という反応であった。広島で生まれ育ったので、平和教育が心に根づいているから。けれども、聖書で終わりの時のことについて学んで、アメリカのイラク攻撃のことも、主におゆだねすることができるようになった。」そう、今回のアメリカの行動が正しかったにせよ、悪いにせよ、神がこのことを、ご自分の摂理の中で動かしておられて、ご自分が望まれるままに事を成し遂げておられるのだ、ということが大事である。
先週の日曜日、母がイエスさまを心に受け入れた。父ももう近いのではないかと思っている。祈りが必要だ。そして新しい教会では、いろいろな人たちがやって来て、イエスさまを信じた人もいるし、また求め始めた人たちもいる。福音を伝えるのは、もうそんなにないのだから、主にあって機会を有効活用していきたい。
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