ヨハネの福音書1章1−18節 「神の言語」

 

アウトライン

1A 神なることば 1−5
   1B 永遠 1−2
   2B 創造 3
   3B いのち 4−5
2A 光なることば 6−13
   1B 光のあかし 6−8
   2B 光の到来 9−13
      1C 受け入れない人々 9−11
      2C 受け入れる人々 12−13
3A ひとり子なることば 14−18
   1B 栄光 14−15
   2B 恵み 16−17
   3B 説き明かし 18

 

本文

 私たちはこれから、ヨハネの福音書1章の前半部分を学びます。1章の1節から18節までを学びます。ここでのテーマは、「神の言語」です。「ことば」あるいは、「ロゴス」という言葉が、この箇所で繰り返し使われています。

 ヨハネがこの書物を書いたのは、だいたい紀元90年ごろのことです。イエスがよみがえられて、弟子たちに聖霊が降ってから、もう60年近くたっていました。福音は、イエスが約束したとおり、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリヤ全土、そして地の果てにまで伝えられました。福音書は、すでにマタイとマルコとルカによって書かれており、それは教会の中に行き巡っていました。そして、12使徒は、自分を除いてみな殉教によって天に召されました。ヨハネ自身も、90歳ぐらいのおじいさんです。つまり、広く福音が言い広められて、教会も多く建て上げられ、かなり落ち着きを持ち始めたときに、彼はこの福音書を書きました。

 けれども、なぜ書く必要があったのでしょうか。一見、教会が成熟し、整えられたように見える状況において、なぜイエスについてもう一度書く必要があったのでしょうか。それは、ヨハネの思いの中に、イエスとはいったい誰なのかという思いがあったからです。たしかに、マタイとマルコとルカは、イエスの生涯を正確に描きました。けれども、まだ何かが足りません。イエスが誰なのか、イエスの本質は何なのかを、まだだれも記していない、とヨハネは感じていたのかもしれません。

 そのとき、ヨハネは、ギリシヤ語で「ロゴス」という言葉が与えられました。日本語では「ことば」です。ことばこそ、イエスが誰なのかを描くのに適切であると判断しました。それで、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…」という冒頭で始めています。イエスは神のことばであり、神がご自分を表現された究極の言語と言うことができます。

 ことばには、書かれた文字があります。でも、それだけでなく、ある考えを表現するために音楽や絵画などの手段も用いられます。神は、過去にこれらの手段を用いて、ご自分のことを現わしました。預言者ととおして、書かれた文字を残されました。また、夢や幻を通して、目で見たり、聞くことができるようになさいました。けれども、神は最後に、イエスという人物をとおしてご自分を完全にお示しになったのです。ヘブル書1章1節にこう書かれています。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。…御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われです。」ですから、イエスは、神が完全に表現されている神のことばなのです。 

 さらに、ヨハネは、イエスこそが人間が信じるに値する方であることを言うべき必要を感じました。20章31節に、この福音書が書かれた目的が述べられています。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」他の福音書では、イエスの生涯についての事実は述べられていますが、その意義についてはあまり深く話されていません。そこでヨハネは、イエスについて過去に語られていないことを補いながら、この方こそ信頼に値するのだと強調しました。さらに、信じることによっていのちを持つと言いましたが、イエスを信頼して生きることは、本当の意味で生きることであり、いのちを持つことなのです。 

1A 神なることば 1−5
 それで、1章の前半部分には、イエスがなぜ信じるに値するのか、その理由が述べられています。第一に、イエスは神ご自身であることです。イエスは宗教家でもなく、預言者でもなく、神そのものであるから信頼に値するのです。1節から5節に、このことが書かれています。

1B 永遠 1−2 
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

 ロゴスというギリシヤ語は、もともとギリシヤ人哲学者たちによって用いられていました。彼らは、すべての物は、形が存在する前に考えにおいて存在していた、と考えます。その考えをロゴスと呼びました。例えば、ここにテーブルがありますが、テーブルができる前に、テーブルについての考えがあったのです。その考えがなければ、このような秩序ある、きちんとした形に成り得ません。ですから、ギリシヤ哲学者は、この宇宙にあるすべての物は、それが存在する間に、考えにおいて存在していたと言いました。けれども、ヨハネは、さらに一歩突っ込んで語っています。全ての物の背後には、考えだけでなく、考える方がいたはずたと言っているのです。再びこのテーブルの例を挙げるなら、テーブルを考える人がいなければこのテーブルはできません。単なる考えだけではなくて、考える存在がいなければいけません。したがって、「初めに、ロゴスがあった。」というのは、すべての物の前に考える方がおられる、と言うことです。

 それが、聖書で語られている神です。聖書の冒頭には、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。神は、すべての物が存在する前に、すでに存在されていました。永遠の昔から生きておられあのです。そして、ヨハネの福音書によると、イエスも最初からおられました。最初に父なる神がおられて、その後にイエスが存在し始めたということではありません。他の箇所を読むと聖霊も永遠に生きておられることがわかります。ですから、この創世記1章1節の、「神」という言葉のヘブル語はエロヒムという複数形です。また、神は、人を造られるとき、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。(1:26)」と言われました。神は3つの人格をお持ちなのです。

 そして、ヨハネは、「ことばは神であった。」と断言しています。イエスは神なのです。これを否定するのがエホバの証人ですが、彼らは、イエスはミカエルのような高い位の天使であったと主張します。神として呼ばれるような高い位にいたけれども、その本質は神ではなかったと言います。けれども、もしそれが本当なら、神が、「あなたがたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)」と言われた戒めはどうするのでしょうか。本当は神ではないものを神とする罪を犯すことになります。イエスは神のような方ではなくて、神ご自身なのです。父なる神も神です。さらに聖霊も神です。けれども、聖書は、「神はひとりである。」という教えで一貫しています。私たちには理解できないのですが、3つの位格(Persons)においてひとりの神がおられる、というのが聖書の真理なのです。

2B 創造 3
 ですから、イエスはすべての物のまえに存在されていた永遠の方であります。そして、次には、イエスが創造主であることが語られています。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 パウロもこの事実を確認しています。コロサイ人への手紙1章15節です。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また、見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 このことを考えて福音書を読むと、なぜイエスが、数々の奇蹟を行なうことができたかを容易に理解できます。ヨハネの福音書2章において、イエスは水をぶどう酒に変えられたことが記されていますが、水の元素からぶどう酒ができることはありません。H2Oを分解しても、ぶどう酒にはなりえません。ですから、水がぶどう酒になるには、無から有の創造が必要なのです。

 それは、また、ヨハネの福音書11章に出てくる、死人のよみがえりの奇跡において、イエスは大声で、「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれました。ことばによって、よみがえらせました。創世記1章を見ると、神は同じように、ことばを話されて天と地を創造されました。「光よ。あれ。」と仰せになったら、光ができたのです。ですから、イエスは、創造主である神にしかできないことを行なわれました。

3B いのち 4−5
 さらに、イエスはいのちであります。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。とあります。

 すべての物を造られた神は、人のいのちも造られました。すべてのいのちの源は神にあります。イエスはこう言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)」人がいのちを得るだけでなく、豊かに持つことをイエスは話されましたが、それを聖書では霊のいのちと呼んでいます。人は、単に肉体が生きるだけでなく、また精神的に生き生きとしているだけでなく、霊的に生きるために造られました。自分が生きている意味を知って生きるために造られたのです。そして、これは神につながることによって、初めて可能になります。そして、いのちは人の光だとありますが、私たちが生きる意味を見出すとき、光が私たちに照らされます。光は、聖書の中で、真理を悟ること、聖く生きることなどいろいろな意味に使われています。また、神ご自身が光であり、神が私たちのところに来られるとき、「暗やみの中に光が照った。(イザヤ9:2参照)」というような使われ方をしています。

 そして、光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。とあります。

 やみを打ち消したいと思って一生懸命手を振っても、消え去りません。やみを打ち消すのは、ただ光を照らすだけでできます。自分がいくら一生懸命努力しても、意味のある生き方をすることはできません。ただ、イエスを信じることのみ、真に生きることができるのです。でも、多くの人はそれを認めません。そして、神はいない、イエス・キリストは信じないと言って、この光を消そうとします。過去にもその試みがなされました。イエスを気にいらない宗教指導者たちは、イエスを十字架につけて殺しました。これで光が消せたと思いました。1日がたち、2日が過ぎました。ところが、3日目にイエスは死者の中からよみがえられたのです。光を消すどころか、光はますます輝くようになったのです。

2A 光なることば 6−13
 こうして、イエスは神ご自身であることがわかりました。最初から存在し、すべての物を造り、いのちを与え、人の光となってくださいます。そして、次に、この光について、さらに詳しく述べられています。ですから、イエスが信じるに値する方であることの第二の理由は、この方が光だからです。

1B 光のあかし 6−8
 神から遣わされたヨハネという人が現われた。

 これは、この福音書を書いているヨハネのことではありません。バプテスマのヨハネと呼ばれているまた別の人であります。

 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

 バプテスマのヨハネは、イエスが来られたことを宣言した預言者でした。また、彼は神のことばを語りました。人々はその宣教によって力づけられ、罪を悔い改め、神に立ちかえりました。けれども、彼は神ではなかったのです。神を指し示すことはしましたが、彼自身は神ではありませんでした。使徒ヨハネは、このような預言者とイエスを区別しています。イエスは、預言者以上の方であり、いや、預言者と比べることさえできないほど偉大な、神ご自身であられると言っているのです。

 世界の宗教には、多くの預言者的な働きをする人たちが現われました。代表的な人物の一人は仏陀でしょう。彼は、生きるべき道を人々に教えました。意味のある人生を送るには、どうすればよいかを教えました。けれども、イエスはこう言われたのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(14:6)」生きるべき道を教えたのではなく、ご自身が道そのものであることを主張されています。ですから、バプテスマのヨハネと違って、光そのものであられる方なのです。

2B 光の到来 9−13
1C 受け入れない人々 9−11

 そこで、次にこう書かれています。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 すべての人を照らす光です。一部の人ではなくすべての人です。ですから、世界中にいるどの人も、この方に無関心であることはできないのです。

 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

 世とは、世界にいる人間のことです。人間は、イエスのことを聞いても、この方がすべてのものを造られ、自分のからださえも造られたことを知りません。「私は、イエスを信じようとは思わない。」と言っているその口を、まさにイエスが造られたことを知らないのです。イエスは、地上を歩かれていたとき、弟子たちに言いました。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。みてごらんなさい。栄華と富を窮めたソロモンさえ、このような小さなゆりの一つほどにも着飾ってはいませんでした。(マタイ6:28−29)」イエスは、このゆりを造ったのはこのわたしなんだよ、とおっしゃっていたのです。どのようにしたら種を生じ、またきれいな花をさかせるか、それらをみな考えて造ったのだよ、と言われたかったのでしょう。また、「空の鳥を見なさい。」と言われましたが、空のなかに飛ぶことも、イエスが設計されました。

 ところが、そのことを人間は知りませんでした。後になってわかったヨハネは、第一の手紙でこう書いています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの。すなわちいのちのことばについて。(1:1)」イエスが、弟子たちの肩にふれたとき、それは万物を創造した神がふれておられました。にこっとイエスがほほえんでおられたとき、それは神がほほえんでいました。「ペテロ。」と話しかけられたとき、それはこの全宇宙を造られた神が語られていました。このような、ものすごいことが起こっていたのだと後になって気づいたのです。それども、イエスが地上におられたときは気づかなかったのです。

 さらに、この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。とあります。

 この民はユダヤ人のことです。神はイスラエル民族を選ばれて、ご自分の民となさいました。イエスはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の救いのために来られたのに、彼らはイエスを認めませんでした。ヨハネの福音書でも、そのことが鮮明に現れています。数多くのしるしを見て、ユダヤ人指導者たちが下した結論は、「こいつを殺すしかない。」だったのです。

2C 受け入れる人々 12−13
 しかし、ヨハネは言っています。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 受け入れる人は、大きな特権が与えられます。神の子どもとなる特権です。神が遠く離れた存在ではなく、父のように親しくなることのできる特権です。この前、子どもたちの前で祈りましたが、ひとりが質問しました。「お父さんがここに連れてきたんじゃなくて、お母さんだよ。」それは、私が、「天のお父さん。この子たちを連れてきてくれて、ありがとうございます。」と祈ったからです。パウロは、私たちが、この神を、「お父ちゃん」「アバ。」と呼ぶ御霊を受けたことを話しています。小さな子がお父さんに全面的に信頼するように、イエスを受け入れる者は神を信頼し、親しく交わることができるのです。

 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 先ほど、イエスにいのちがあることがわかりましたが、それはただイエスを信じるだけによって私たちに与えられます。神によって霊的ないのちが与えられるのです。血によっては与えられません。生まれながらのクリスチャンは、存在しません。また、肉の欲や人の意欲によっても与えられません。どんなに頑張っても、教会に行ったり、聖書を読んだりしても、それでクリスチャンになることはできないのです。ただ、イエスを心に受け入れることによって与えられます。

3A ひとり子なることば 14−18
 こうして、イエスは神だけでなく、光であることがわかりました。そして、イエスを信じるに値する第3の理由は、イエスが神のひとり子であることです。

1B 栄光 14−15
 次を見てください。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 ことばは人となったというところは、肉となったと訳すことができます。神が肉体の姿を取って現われました。すべての物の前に存在し、すべてを造られ、いのちであり光である方が、人となって私たちに現われたのです。私たちは、クリスマスを祝っていますが、まさにこの奇蹟を祝っているのです。神が、あの飼い葉おけに寝ておられる赤ちゃんになりました。このようなものすごいことが、約2千年前に起こりましたが、それを見て、聞いて、触ることのできたヨハネは、「私たちはこの方の栄光を見た。」と言っています。

 そして、「ひとり子としての栄光を見た」と言っていますが、神は、単に天と地を創造された存在だけではなく、人格を持っておられます。私たちが、話し、考え、計画を立て、また、笑ったり泣いたりするように、神も話し、考え、笑ったり泣いたりされます。むしろ、神がそのような方ですから、人間は神に似たように造られたのです。もし神が人格をお持ちなら、他の人格を必要とします。たった一人しかいないのに、話したりすることはできないからです。ですから、神は最初からご自分の子を持っておられました。神ご自身の中に、父という人格と子という人格がありました。(注:正確には、「位格」です。)その中の関係によって、神は人格を保っておられるのです。

 ですから、ヨハネは、「この方は恵みとまことに満ちておられた。」と言っています。恵みとは、神が人にお近づきになった恵みです。全宇宙を造られた、全知全能で、計り知れないエネルギーを持った神が、このような小さな人間と人格的な交わりをしてくださる恵みです。

 ヨブは、神があまりにもかけ離れた存在であり、超越された方なので、こう叫びました。「神は私のように人間ではないから、私は、『さあ、さばきの座に行こう。』と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはない。(9:32)」神と人のうえに手を置く仲裁者がいない、と叫んだのです。しかし、イエスがその仲裁者となってくださいました。神のひとり子として、神のうえに手を置き、人の子として人のうえに手を置いてくださったのです。イエスは、神と人との掛け橋であります。そして、まことに満ちておられたとありますが、神の真理がイエスにおいて完全にあきらかにされました。

 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

 ヨハネは偉大な預言者でした。イエスご自身が、ヨハネを女の中から産まれたもので、彼より偉大な者はいないと認められたほどです。けれども、ヨハネは、イエスは自分よりもまさっていると主張したのです。なぜなら、先におられるから、つまり、自分が生まれる前に、すでに存在されていたからです。ヨハネは、イエスの従兄弟にあたり、イエスがマリヤからお生まれになる6ヶ月まえにすでに生まれました。ですから、先におられたというのは、イエスが神のひとり子であることを証言しているに他なりません。

2B 恵み 16−17
 使徒ヨハネはさらに、イエスの恵みについて語っています。

 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 彼は、イエスをモーセと比べて、恵みの上にさらに恵みが与えられたことを言っています。神が人々に近づいてくださったのは、あのシナイ山の上においてでした。シナイ山は、雷といなずまと密雲があり、激しく震えていました。そこで神は、イスラエルの民が聖なる国民と成るべく、律法を与えられたのです。このこと自体恵みであります。神は遠く離れたお方ではなく、イスラエルの民に深く関わってくださいました。けれども、私たちは、多くのイスラエル人が死に、さばかれたことを知っています。神は聖いお方なので、汚れた人が近づくと死んでしまったのです。

 けれども、イエスにおいてさらに恵みが与えられたのです。また、イスラエルの民には幕屋が与えられました。そこに神が住まれて、ご臨在されました。新約聖書では、幕屋は実体の影にしかすぎないこと語っています。実体は天国であり、天国にあるものを、神は幕屋において模型として表してくださったのです。けれども、面白いことに、14節の、「わたしたちの間に住まわれた。」というギリシヤ語を直訳すると、「わたしたちにために、幕屋を張られた。」となります。つまり、イエスご自身が幕屋であり、天国であられたのです。ですから、ヨハネの福音書を読むと、出エジプト記に描かれている幕屋の詳細と重なる部分が多く出てきます。旧約聖書の学びで、幕屋のところを学ぶときに詳しく見ていきたいと思います。ですから、イエスにおいてすべての恵みが凝縮されていました。天国も、律法も、幕屋もみなイエスにおいて実現されていたのです。

3B 説き明かし 18

 それで、ヨハネはこう言っています。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 だれもまだ、神を見たことはないとヨハネは断言しています。神は、私たちが想像するようなおじいちゃんのようなお方ではありません。目に見えない方です。たとえ目に見えたとしても、それは幻か夢というかたちで現われるだけです。そして、この幻でさえ、私たちが見ると、あまりもの聖さにショック死してしまうほどなのです。預言者イザヤは、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(6:5)」と言いました。ですから、神がモーセを通り過ぎろうとされたとき、死なないように、岩の裂け目に入っていることを命じられました(出エジプト33:22)。けれども、神ご自身をそのままの姿でご覧になられた方がいます。それがイエスです。イエスは、父のふところにおられたひとり子であります。

 さらに、イエスは、父なる神を説き明かされました。この説き明かすというギリシヤ語を英語にすると、exegesisとなります。これを日本語にすると、「釈義」とか「講解」という意味になります。聖書講解をするときの講解です。つまり、聖書講解を受けると、聖書の言葉がはっきりと分かるようになるように、イエスを見ると、神がはっきりと分かるようになるのです。決して見ることのできない神、見たら即座に死んでしまう神を、目で見えるように、しかも、耳で聞いて手でさわることができるように説き明かしてくださいました。

 イエスは、「わたしを見る者は、父を見たのです。」と言われました。私たちは、神の姿をかなり誤解して見ています。怒るにはやく、すぐに自分を見捨て、へこひいきをする方のように考えています。けれども、それが間違った神の姿であることは、イエスを見るとすぐわかります。まことと恵みに満ちておられることを見ます。ですから、私たちはじっくり、イエスを見なければなりません。この方を通してのみ、正しい神概念を持つことができるのです。

 こうして、イエスご自身は神のことばロゴスであることがわかりました。ロゴスは神であり、私たちの光であり、そしてひとり子であられます。ですから、これだけを聞いても、イエスは信じるに値する方であることが分かります。

 でも、また信じることができない人のために、ヨハネは21章分、ページにすると約50ページを割いて説明してくれています。ここからイエスがどのような方であるかを知ってください。わからない人を信頼することは難しいですが、その人を知れば信頼することができます。同じように、イエスをもっと知ることによって、この方を信じることも容易になります。

 また、すでにイエスを信じた方は、この方が誰であるかをはっきりと見てください。ヨハネの福音書に出てくる、「信じる」というギリシヤ語は、現在進行形で書かれています。つまり、絶えず信じつづけていることによって、初めて永遠のいのちを得ている、ということです。したがって、生き生きとした信頼関係の中に永遠のいのちがあります。そして、イエスを見ることによって、イエスにある神の栄光を見ることによって、はじめて自分も変えられて、キリストに似た者になるのです。