ヨハネの福音書11章 「神のいのち」
1A 真のいのち 1−44
1B 神の愛 1−16
1C 人知を超えた愛 1−6
さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
3人の登場人物が出てきます。ラザロとマルタとマリヤです。3人は兄弟姉妹でした。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
マリヤが主に香油を塗る話は、12章に出てきます。使徒ヨハネは、この出来事が起こってから60年ぐらい経ってこの福音書を書いているので、その頃までにはマリヤが主に香油を塗った人として知られていたのでしょう。
そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
マルタとマリヤは、イエスのことをよく知っていました。「主よ」と呼んでいるので、霊的に知っています。イエスを、神の子キリストとして知っています。それだけではありません。個人的に、親密にイエスのことを知っていました。「あなたの愛しておられる者が」と言っています。彼女たちは自分たちがイエスに特別に愛されていることを知っていたのです。ルカの福音書にも彼女たちの姿が登場します。おぼえていますか、イエスが彼女たちの家に来られたとき、マルタは給仕をして、マリヤはイエスの足もとでみことばを聞いていました。マリヤが忙しくなってきて、イエスに、「マリヤも手伝わせてください!」と言いました。イエスは、「マルタ、マルタ。」と言われて、優しく、親愛を込めて、マルタを戒められました。ですから、マルタとマリヤについて学ぶと、イエスさまとの個人的な親密な関係を見ることができるます。前回、イエスが、「わたしは良い牧者です。」と言われた個所を読みましたが、彼女たちはイエスを良い牧者として知っている姉妹です。
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
この病気は、神の栄光のためだとあります。9章において、イエスが似たことを語られたのを思い出せるでしょうか。生まれつきの盲人を見て、イエスは、この人が盲目に生まれついたのは、神のわざがこの人に現われるためだ、と言われました。これは、ある意味で、人を神の意図された状態に回復する贖いのわざです。アダムが罪を犯したときに、病が人々の中に入りました。そのため、個人の罪によらなくても、病気になる者が出てきました。しかし、イエスは世を救うため、悪魔の支配にあるこの世を買い戻されました。そして、この章でのわざは、死人を生き返らせることです。これが贖いの究極のわざと言うべきでしょう。究極の病は死です。アダムが犯した罪によって、全世界に死が入り込みました。しかし、神は、人をご自分とともに永遠に生きるようにされるために、御子を世に遣わしてくださったのです。ですから、神の子としての栄光が、死んだラザロによって示されることになります。
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
ここで面白いことに気づきます。3節でマルタとマリヤが、「あなたが愛しておられる」のギリシヤ語と、ここの「ラザロとを愛しておられた。」のギリシヤ語が異なります。最初の方はフィレオです。感情的な愛です。「とても大好き」というような愛です。しかし、後のほうはアガペです。霊的な愛です。神の愛です。イエスは彼らを単に好きだったのではなく、さらに深く、霊的に愛されていたのです。そこで次の行動に出られます。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
なんと、なお二日間とどまられておられます。もう死にそうなのに、あえてそこに赴くのを延期されているのです。普通に考えたら、意地悪です。愛なんてとんでもないことです。しかし違います。アガペの愛は、その人が永遠に益になることを考えます。その永遠の計画に基づいて、物事を考えます。けれども、私たちは目の先のことしか知ることはできないので、時に理解できないのです。私たちは感情的な愛、一時的な愛を求めますが、イエスは、私たちの思いをはるかに超えた、永遠の愛で私たちを愛してくださっています。ですから、一時的に、いっけん意地悪をされているのではないか、と勘ぐってしまうようなことをイエスは行なわれるのです。一時的に悲しむべきことを行なわれますが、しかし、それは将来の益になることなのです。
2C 最善への道 7−16
その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
マルタとマリヤ、そしてラザロが住んでいたベタニヤは、ユダヤ地方にあり、エルサレムから3キロメートルしか離れていないところにあります。そこで、弟子たちはびっくりしています。イエスは、宮きよめの祭りで、エルサレムの神殿の中を歩いておられるとき、ユダヤ人から石打ちにされそうになっていたからです。だから、また戻るのかと弟子たちはびっくりしています。
イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」イエスは間もなく、この世を去ります。十字架につけられるときが近づきました。だから、イエスがまだおられるうちに、光のわざを行なわなければならない、と言われています。
イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
イエスは、ラザロが死んだことを、「眠っている」と語られました。死が終わりではないからです。他の個所で、イエスは、ヤイロの娘のことを、「子どもは死んだのではない。眠っているのです。(マルコ5:39)」と言われました。聖書では、信者が死ぬことを、「眠っている」と表現しています。例えば、パウロは、テサロニケ人に、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことがないためです。(Tテサロニケ4:13)」と話しています。死が終わりではないからです。そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」何だかよく分からない発言ですが、イエスが今さっき石打ちにされそうになった、エルサレム方面へと向かうので、こう言ったのです。このトマス、イエスが復活されたことを信じないで、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに指し入れ、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない。(20:25)」と言った弟子です。他の弟子たちと拍子が合っていないというか、いろんろ深く考えているので、出て来る発言が変に聞こえます。でも、このような性格のトマスも、イエスは愛し、ご自分を現わしてくださったことは注目に値します。
これで、イエスがなぜ、なお二日間、そのおられた所におられたかが理解できました。イエスは、単にラザロの病を直されるのではなく、あるいは、死んだか死んでないか分からないような状態で生き返らせるのではなく、明らかに死んだことがみなに分かった上で生き返らせるために、とどまれたのです。イエスは、神の偉大な力を人々に見せるため、とくに弟子たちや、マルタとマリヤに見せるために、なお二日間とどまったのです。ですから、一見意地悪に見えるようなことでも、実はかえって、彼らを深く愛するが故に行なわれたことでありました。私たちはこの章で、神のいのちについて学んでいますが、神のいのちはこの愛に根ざしています。私たちが、一時的な感情的な愛ではなく、深い永遠の愛を受け入れるとき、神のいのちにあずかる事ができます。今は悲しくても、平和の義の実を永遠に結ばせてくださるような深い愛を受け入れるとき、本当に生きているということができます。
2B 神の希望 17−37
それでは実際に、イエスが神にある希望をマルタとマリヤに告げられる個所を読みます。
1C よみがえり 17−29
それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
ラザロが死んで4日たっています。ユダヤ人は、人が死ぬとすぐその日に埋葬します。もちろん、私たち日本人のように焼却することはありません。ですから、だれの目からもラザロが死んでいることが分かります。
ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
ユダヤ人の葬式では、その死んだ人をいかに愛しているかを示すために、なるべく大げさに泣きます。嘆きが大きければそれだけ、その人を愛していたことになります。それで、ユダヤ人には、プロのなき屋がいたのです。雇って、死者のために嘆き悲しむ人たちを雇ったのです。その人たちが、この大ぜいのユダヤ人の中に含まれます。
マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
ここに、マルタとマリヤの性格の違いが表れています。マルタは行動派です。良い意味で行動派です。給仕をして、主のために忙しく働く人です。そしてマリヤは思索する人です。深く考え、とても敏感な人でした。イエスは、どちらのタイプも愛してくださっています。
マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
ここには、落胆と少し苦みが入っています。「いてくださったら直っていたでしょうに、なぜもっと早く来られなかったのですか。」と言っています。しかしマルタは信仰の持ち主でした。次を見てください。
今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。イエスはこの信仰に応じて、この願いに応じて、次の約束をされます。イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
マルヤは、イエスのことばを、終わりの日に神がよみがえらせるという、ダニエル書などに書かれている約束として受け止めました。けれども、イエスは、その彼女の思いをはるかに超えて、その願いをかなえようとされています。ラザロについては、終わりの日ではなくて、今、それを行なおうとされているのです。もちろん、ラザロの場合は蘇生です。地上の肉体のよみがえりであり、再び朽ちていくものです。終わりの日のよみがえりは、復活のからだです。朽ちません。けれども、ラザロは、終わりの人ではなく、今よみがえります。
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
イエスは、とてつもない発言をされました。わたし自身が、よみがえりであり、いのちです、言われています。そして2種類の約束をされました。一つ目は、「わたしを信じる者は、死んでも生きます。」という約束です。これは、肉体の復活の約束です。聖書では、私たちの地上のからだは、幕屋のようであり、テントのようであると表現しています。本当の私たちは霊であり、体は住まいです。そして、この地上に住んでいるあいだ、朽ちる、不便な、テントの中に住んでいます。しかし、イエスを信じる者は、新しい復活のからだをいただきます。朽ちない、永遠の住まい、神の建物が与えられます。地上のからだと違って、栄光に輝いたからだです。そして2つ目の約束は、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない。」ということです。これは、新生のことを話しています。復活のからだではなく、御霊によっていのちを持つことを話しています。この地上で生きている間にイエスを信じれば、その時から神が自分のうちに住んでくださいます。そして、神から離れることは、一瞬たりともないのです。死とは、基本的に離別を意味します。私たちの意識が離れることを意味します。肉体の死は、肉体から私たちの意識が離れることを意味しますが、霊的な死は、神から私たちの意識が離れることを意味します。ですから、神のことを考えてない人は、生きていても、実は死んでいるのです。つまり、肉体が生きているときにイエスを信じれば、いつまでも神から離れることはない、肉体が滅んでも離れることはないのです。
彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」彼女は再び信仰表明をしていますが、イエスが行なわれようとしていることは、理解していません。こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
さすがのマリヤも、このときは立ち上がっています。こうしてイエスは、マルタによみがえりの希望を与えられました。マルタは、終わりの日に行なわれるよみがえりと、終わりの日に贖ってくださるキリストのことを考えましたが、目の前でみわざが行なわれることには希望を置いていなかったのです。しかし、神のいのちにあずかるためには、今、イエスが自分の生活に介入してくださると言う希望を持たなければいけません。私たちは、キリストとともに復活したと聖書には書かれています。新たないのちによって生きることが書かれています。したがって、死んだ後にイエスが天国に連れて行ってくださる、と希望を置くだけでは不十分なのです。今、生ける神が自分に介入してくださると願うとき、私たちは本当の意味で生きていることになります。
2C 死の滅び 30−37
さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。イエスはまだ、村にはいっていませんでした。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
マルタと同じ事を言っていますが、ひれ伏していますね。マリヤのイエスへの敬愛は、いつもこのような礼拝の中に表れています。マリヤの場合は、悲しみに沈んでいるような発言でした。マルタのときは責めているような感じでしたが、マリヤはあまりにも悲しくて、その思いでいっばいになっている感じです。
そして次に、興味深いイエスの反応が記されています。そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
イエスが憤りをおぼえておられます。心を動揺させておられます。情け深く、怒るのにおそく、平和に満ちたイエスが、憤り、心を騒がせておられます。これは、彼らを怒っているのではありません。人々に悲しみをもたらす死に対して、憤られているのです。神にとって最大の敵はだれでしょうか。悪魔と答えるかもしれませんが、そうではありません。死です。パウロは、「キリストは、…最後の敵である死も滅ぼされます。(Tコリント15:26)」と言いました。人は死をもっとも恐れています。どんなことよりも死を恐れています。なぜなら、人はもともと永遠に神とともに生きるように造られていたのにもかかわらず、死ななければならないからです。「神は、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者3:11)」と書かれてあるとおりです。そこでヘブル書には、主が、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださった。(2:15参照)」と書かれています。イエスは、恐れと悲しみをもたらすこの死に対して、アダムの罪によってもたらされた死に対して、神と人を引き離し、人と人を引き離す死に対して、憤りをおぼえておられるのです。
イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
人々が、イエスが涙を流された理由を取り違えています。イエスは知っているのです。人は死んではいけないのに死んでいる、ということで涙を流されましたが、ユダヤ人たちは、しょうがないこととして、必然的なこととして泣いていました。
3B 神の真実 38−44
そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。イエスがまたも憤られています。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。当時の墓は、ほら穴になっていました。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
使徒ヨハネは、注意深く「死んだ人の姉妹」と言っています。ラザロは確かに死に、もう4日も経っています。
イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
マルタの信仰は、この偉大なイエスのみわざまでには及びませんでした。
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
イエスは、心の中で父なる神に願い出ておられたようでした。その感謝の祈りをささげておられますが、ふつう、人前で行なわれません。けれども、今、この出来事によって人々がご自分を信じるように、声を出して人々に聞こえるように祈られました。
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
小声ではありません。大声で叫ばれました。イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きます。」と言われましたが、そのことばが真実である事を、今、みなの前で証明されようとしているからです。もし、出て来なかったら、イエスのことばを信じることはできません。しかし、出来たら、信じるに値するのです。
すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
ラザロは生き返りました。イエスが言われたことは真実でした。イエスが与えられる約束は必ず実現するような約束です。単に望みを置かせるような、むなしい希望ではありません。ペテロは言いました。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける希望を持つようにしてくださいました。(Tペテロ1:3)」生ける希望です。事実に裏付けされた希望です。日本人は、「心に安らぎが与えられるなら、どんな宗教でも良い。」などと言いますが、信じている対象に実質がなく、それが作り話なら、その希望はむなしいのです。しかし、神がご自分のことばを確かに実現させてくださることを知るのであれば、私たちは本当の意味で生き生きと毎日を過ごす事ができるのです。
2A 偽のいのち 45−57
こうして私たちは、神のいのちにあずかった人たちを見てきました。本当に生きるとは何か、その要素を見てきました。すなわち、神の愛を知り、神に希望を抱き、神が真実である事を知ることによって、いのちにあずかるのです。しかし、次に、これとは対照的な出来事が起こります。
1B 自分の救い 45−53
そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
このしるしを見て、信じなかったユダヤ人が幾人かいました。パリサイ人のところに行って、つげ口をしています。こんなにも明らかに見たのに、信じられないのです。ルカの福音書では、同じ名前でラザロという人物が出てきます。彼は貧乏で、町の門のところでこじきをしていました。そこに金持ちがおり、毎日ぜいたくな暮らしをしていました。ふたりが死にました。ラザロはアブラハムのふところにいて慰められ、金持ちは、火の中にいて苦しみもだえました。金持ちはアブラハムに言いました。「私にラザロをよこして、私の舌を水で浸すように言ってください。」アブラハムは、「いや、大きな淵があなたと私たちの間にあって、それはできない。」そこで金持ちは、「それじゃあ、兄弟が5人おりますから、ラザロを父の家に送ってください。死んだ者が生き返ったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」アブラハムは言いました。「いいや。もし、モーセと預言者の言うことに耳を傾けなければ、死人がよみがえっても、彼らは聞き入れはしない。」事実、ここでラザロがよみがえりました。けれども、信じないで、ユダヤ人指導者のところに行っている人たちがいるのです。
つまり、イエスを信じることは、本人の心の状態によります。奇蹟を見るからではありません。そして、一時的に状況が好転して、良いことが起こるから信じることができるのではないのです。むしろ、一見、理解できないようなことが起こっても、神の愛を信じてそれを忍び、神に望みを抱き、それが実現するのを経験するときに生き生きとします。一時的にハッピーにさせるいのちは、安物のいのちです。偽物のいのちです。
そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
彼らが最も恐れていたのは、自分たちの地位が奪われることでした。自分たちのものになっている土地や国民が自分から取られてしまうことを最も恐れていました。自分が居座っている立場が揺るがされるのを、もっとも恐れたのです。
しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」彼らは、地位が奪われるのを恐れて、自己保身をはかって考え出したのが、人殺しです。政治的な理由をつけていますが、エゴの塊がここに噴出しています。
けれども、使徒ヨハネは面白い注釈を加えています。ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
カヤパは、その立場のゆえ油注がれていました。神は、この罪あるカヤパをも用いられました。イエスが、イスラエルのために死なれること、また、異邦人も神の子どもにされるために死のうとされていることを預言しました。
そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
こうして、いのちを与えるみわざは、いのちを奪い取ろうとする仕業を引き起こしました。彼らは自分たちの地位を守ろうしましたが、言い換えれば、自分たちのいのちを救おうとしたのです。聖書では、霊のいのちの他に、食べること、飲むこと、着ることもいのちと呼んでいます。彼らは、このいのちを救おうとしたのです。けれども、イエスは言われました。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)」自分の今の状況が、神によって揺るがされるのを恐れて、自分を守って生きるのであれば、本当には生きていないことになります。
2B 殺神 54−57
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。
一行は、エルサレムから離れました。しかし、再び祭りの時期が来ます。そして、イエスが経験される最後の祭りとなります。
さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。
過越の祭りは、4月ごろに行なわれる、イスラエルの三大祭りの一つです。これはもちろん、イスラエルがエジプトから贖い出された事を思い出して、祝うための祭りです。そして、三大祭りには、ユダヤ成人男子は、エルサレムに来ることが義務付けられていました。それで、世界中に散っているユダヤ人が、このときにはエルサレムに集まってくるのです。
彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。
世界中でも、イエスのことはうわさで広まっていたようです。ユダヤ人指導者は、イエスを逮捕するために、行動し始めました。イエスを殺すための行動に出ました。人殺し、いや、神殺しをしようとしています。自分のいのちを救うため、彼らは神殺しをしようとしていたのです。
私たちにも、選択が与えられています。神は、私たちにいのちを与えようとされて、私たちに介入されます。ラザロに対して行なわれたように、ご自分の愛を示したいと願われています。また、私たちが神に希望を持ち、実際に神のみわざを経験するように願われているのです。私たちは、その働きを受け入れるときに、本当の意味で生き生きとしていることができるのです。けれども、自分の今置かれている状況が変化するのを恐れて、その働きを拒むこともできるのです。いのちを救うために、神のみわざを拒むこともできるのです。選択はみなさんにゆだねられています。神のいのちを選ぶか、それとも自分のいのちを選ぶかです。
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