ヨハネの福音書12章 「神の栄光」
アウトライン
1A 尊敬 1−26
1B 財産において − 礼拝 1−11
2B 口において − 称賛 12−19
3B 耳において − 会合 20−26
2A さばき 27−50
1B 対象 − 世 27−36
2B 方法 − 不信仰 37−43
3B 手段 − イエスのことば 44−50
本文
ヨハネの福音書12章を学びます。ここでのテーマは、「神の栄光」です。本文を読みましょう。
1A 尊敬 1−26
1B 財産において − 礼拝 1−11
イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
私たちは前回、イエスがラザロをよみがえらせた場面を読みました。それによって、多くのユダヤ人がイエスを信じましたが、数人のユダヤ人がパリサイ人に報告しました。それで、彼らが議会を召集し、イエスを殺す計画を実行することに決めました。そして、イエスと弟子たちは、エルサレムから離れて、エフライムという町に行き、ユダヤ人の手から逃れていたのです。ところが、過越の祭が近づきました。イエスは、ふたたびエルサレムへと戻られています。まずはベタニヤに行かれたようです。ラザロをよみがえらせる前でさえ死の危険を感じていたのに、ラザロがよみがえったのですから、イエスがユダヤ人によって殺される危険が増し加わりました。
けれども、同時に、今ここにラザロがいます。彼は、イエスがおこなわれたしるしの7番目のものであり、イエスご自身の復活を除けば、最後のしるしであります。私たちは、今まで、カナの婚礼を初めに、イエスがしるしを行なわれたのを見ました。死にかけている役人の息子を、遠くから直されました。30年間足がきかない人を立ち上がらせました。5千人に食事を与え、水の上を歩かれました。そして、生まれつきの盲人の目を開かれました。これは、ユダヤ人の間にものすごいインパクト、影響力がありました。そして、このラザロのよみがえりです。このしるしによって、イエスをメシヤとして引き上げる気運がユダヤ人の間に生まれたのです。ですから、イエスは、一方では殺されそうになり、もう一方ではメシヤとして担ぎ上げられそうになっている、独特な、悪く言えば異様な雰囲気の中におられたと言えます。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
面白いですね。マルタはここでも給仕をしています。彼女は働き者でした。イエスのために働いていました。彼女は、自分のイエスへの愛を、奉仕によって示しています。その一方、マリヤはまったく別の仕方で、興味深い方法で自分の愛を示します。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
彼女のしたことは理解するのが難しいですが、当時、ぜいたく品をささげることは王に敬意を示すために行なうことでした。エステル記2章11節を見ると、ペルシヤのアハシュエロス王の前に出るおとめたちが、1年もかけて準備をしたことが述べられています。6ヶ月間は没薬の油で、次の6ヶ月間は香料と婦人のための化粧で化粧しました。また、第二歴代誌9章では、シャバの女王がソロモンに、「百二十タラントの金と、非常に多量のバルサム油と宝石とを王に贈った。(9節)」とあります。したがって、マリヤのしたことは、イエスを王としてあがめているに他なりません。
次に対照的な人物が出てきます。ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
マタイとマルコの福音書では、弟子たちがしかったと書かれていますが、その張本人はイスカリオテのユダでした。300デナリはだいたい10ヶ月分の労賃に値します。彼は、マリヤのしたこの行為が、いかにも愚かしいこと、無駄なこととして怒っています。
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
なんと、彼は盗みの罪を犯していました。イエスとその弟子たちが宣教を行なっているときに備えられていたお金は、イエスについて来ていた女性たちからの支援があったものと考えられます。ルカの福音書8章3節に、「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」とあるからです。このお金を管理していたのがイスカリオテのユダですが、彼はそのお金をねこばばしていました。マリヤが自分のものをイエスにささげたのに対して、ユダは主のものを奪い取っていたのです。
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
イエスが諭されています。そして、マリヤがなぜ、王としてあがめるような行為に出たのかを説明しておられます。それは、イエスの葬りの日が近かったからです。マリヤは、とても敏感な人でした。周りの雰囲気がどうなっているのかを、他の人よりも多く感じ取っていました。とくにイエスについては、イエスを愛しているので、その心を感じ取っていたのです。そして、イエスがもう間もなく死なれることを察知して、その重大さを感じとって、イエスのために自分が今できる最善のことを行なったのです。このように、マリヤはイエスに礼拝をささげました。私たちも、御霊によって触発されて、キリストの死を自分のものとして受け止めて行くとき、自分のすべてのもの、高価なものをささげるように導かれます。
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
先ほど説明しましたように、ラザロのよみがえりは、これまでにない大きな影響をユダヤ人に与えました。イエスとラザロを見に来ています。同時に、祭司長たちの殺意は増幅しています。興味深いことに、イエスだけではなく、ラザロも殺そうとしてます。ぱん種がパン全体にふくらむように、彼らの罪が膨らんでいるのです。
ところで、彼らがイエスを殺したかった理由は、自分たちからユダヤ人が離れることでした。これを、ねたみと言うこともできるし、自分の立場を失ってしまうとも言えるでしょう。今までユダヤ人を支配し、その高い地位にいることで、彼らは自分自身を支えていました。その根底にあるものが覆されそうになっているので、自分を救おうとしてイエスを殺そうとしているのです。けれども、イエスが言われたように、自分のいのちを救おうとすれば、それを失います。十字架を信じることは、自分自身を失うことであり、クリスチャンの生活は、まさに自分を失い、同時にキリストにあって見出される連続であります。
2B 口において − 称賛 12−19
そこで次の場面に移りますが、大ぜいの人たちが、イエスに対し「ホサナ」と叫んでいます。これは、「今、救ってください。」という意味です。
その翌日、日曜日です。しゅろの聖日と呼ばれています。祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
これは、詩篇118篇からのものです。これはハレル詩篇と呼ばれるものの一つです。これは過越の祭に歌われました。イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」これは、ゼカリヤ書からの引用ですね。ここまでは、他の福音書にも記されています。次が、唯一ヨハネの福音書における注釈です。
初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。
弟子たちは、そのとき、これらの意味が分からなかったのです。イエスが十字架につけられ、復活し、昇天されてから分かりました。なぜかというと、群集が、しゅろの木の枝を持ってきてハレル詩篇をうたうのは、特殊な行動ではなかったからです。しゅろの木の枝について、外典のマカバイ記に記されています。ギリシヤに勝って、汚された宮を取り戻すことができたとき、ユダヤ人たちは、しゅろの枝をかざして、自分たちを救ってくださった神に賛美した、とあります。ですから、過去も見てきたこの出来事に重要な意味があるなど、弟子たちは知ることができませんでした。また、参加しているユダヤ人でさえも、理解していなかったでしょう。けれども、神は彼らを用いて、イエスが王として、キリストとして、たたえられるように仕向けておられたのです。
イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
過越の祭りには、世界中からユダヤ人が来ますので、ラザロのことをまだ聞いていない人々もたくさんいたことでしょう。そこで、そのしるしを、まだ知らない人たちに伝えています。
そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。
群集が出迎えました。彼らのうちに、イエスがキリストではないかという気運が高まっています。先ほども、「救ってください。イスラエルの王に。」とイエスをたたえました。けれども、同じ群集が、数日たつと、「十字架につけろ。」と叫ぶようになります。それは、彼らもまた、「救い」についての意味を取り違えていたからです。彼らのうちにあってキリストについての高揚は、あくまでも、ローマ帝国から救い出されることだったのです。政治的な解放、つまり、彼らも自分たちの立場が守られることを、「救い」だと思っていたのです。ですから、自分を失うことが救いなのです。自分を失い、自分のすべてをイエス・キリストに投げ打って行くことが救いです。黙示録では、天国で長老たちが神の御前にひれ伏して、自分の冠を御座の前に投げ出しています(4章)。先ほどのマリヤのように、自分のいのちを注ぎ出すことが十字架を信じることです。
そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
神のご計画がことごとく成就するのに対し、彼らはとまどっています。彼らは今、何もすることができません。
3B 耳において − 会合 20−26
さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
とうぜん、過越の祭りはユダヤ人たちのためだけのものです。けれども、改宗者というのがいました。異邦人だけれども、割礼を受けて、モーセの律法を守ることを決意する、ユダヤ教への改宗者です。このギリシヤ人は、そのような人々であろうと思われます。いずれにしても、彼らは、ラザロの件もあって、イエスにぜひ会ってみたい。そのみことばを聞いてみたいと思いました。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
ベツサイダは、異邦人が多くいる地域です。異邦人がイエスのところに来ることは、とても勇気のいることでした。そこで、異邦人のことをよく理解してくれるかもしれないピリポに、お願いしたのです。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。人をイエスに連れてくることの得意なピリポとアンデレですが、その二人でさえとまどっています。
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
一見、イエスは彼らの願い出に答えられていないかのようです。けれども、実は答えておられます。イエスは、ご自分への関心が、ユダヤ人だけではなくギリシヤ人にも及んだことを知って、神の栄光の時が来たことを知ったのです。神のご計画は、ご自分の民だけではなく、地上のすべての民がキリストを拝し、キリストからみことばを聞くことでした。イザヤ書には、こう書かれています。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(2:3)」けれども、本当の栄光は、キリストが死なれてからでないと現れません。イエスが死ななければ、救いが異邦人に及ばないからです。そこで、イエスは、死んでしまう一粒の種の話をされているのです。イエスが死ななければ、イエスご自身は生きるが、他の人々はみな滅んでしまう。けれども、イエスが死ねば、多くの人が救いを受けるということです。ですから、ギリシヤ人がイエスのところに来たとき、この十字架によって、あなたがたは救いにあずかることができるのだよ、と言うことをお伝えしたかったのに違いありません。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
先ほどから話していたことです。自分を救おうとして失われてしまうか、自分を失って救われるかのどちらかなのです。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
十字架を受け入れることは、一回限りのことではありません。十字架を受け入れるというのは、一生涯、その中に生き続けることを意味します。この世界は、自分への可能性がゼロになる世界です。状況や他人や自分の能力にたよることができず、ただキリストにより頼み、キリストだけを信じていくことしかできない世界です。けれども、その中にあって霊的祝福があります。だから、ここで、「その人に報いてくださいます。」とイエスは言われました。
さて、ここまでは、イエスがキリストとして、王としてあがめられた個所です。マリヤから礼拝を受け、群集から賛美を受け、ギリシヤ人がみことばを聞くためにやって来ました。けれども、次から、信じない人々についての話が始まります。十字架は、イエスが王としてあがめられる場所でしたが、今度は、イエスが王としてさばく場所として紹介されます。
2A さばき 27−50
1B 対象 − 世 27−36
今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」
イエスの心が騒ぎました。なぜなら、間もなく、イエスが十字架につけられる時が来るからです。ヨハネの福音書では、「この時」のことがずっと引用されていました。例えば、カナの婚礼では、母マリヤに対して、「わたしの時はまだ来ていません。」と言われました。しかし、今は時が来ました。十字架につけられる時が来ました。そして、「この時からわたしをお救いください。」と祈っておられます。イエスは、ゲッセマネの園でも似たような祈りをされました。「もしできますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られました。イエスにとって、もっとも恐ろしかったことは、肉体の苦しみもさることながら、父なる神から見捨てられることだったのです。「わたしと父はひとつです。」と言うことができる方が、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばなければならないのです。それゆえ、「お救いください。」と祈っておられます。しかし、イエスは理性を使って、「いや、むしろ、この時のためにこそ、わたしは世に遣わされたのだ。」といおっしゃっています。父なる神が、永遠の昔から定められていた時です。ご自分のひとり子を、罪のいけにえのために与える時です。そして、父なる神にこの苦しみをゆだねておられます。
そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
すでに現わしたとは、イエスによって7つのしるしが行なわれたことです。その7つによって、神はご自分の栄光をイエスにあって現わされました。神のみが行なうことのできるわざが、イエスから現れました。けれども、もう一度栄光を現わそう、とおっしゃっています。これは、十字架のことです。あざけられ、苦しめられる十字架がなぜ神の栄光なのか、と思われるかもしれませんが、間もなくその理由が書かれています。
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。
父ご自身の声は、音でしか聞こえなかったようですが、聞こえました。もう一つのしるしが彼らに与えられました。
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
ここです。ここに十字架が神の栄光である理由が書かれています。十字架は、この世をさばくわざです。この世を支配する者は悪魔ですから、悪魔に下るさばきが、十字架であります。悪魔はずっと、人を神から切り離していました。しかし、十字架によって、人は神と一つになることができるのようになったのです。ですから、悪魔の仕業は、根本的に打ちのめされました。イエスは、十字架の上で、王として悪魔にさばきを下されたのです。
イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
「地上から上げられる」というのは、十字架につけられることであります。ユダヤ人から石打ちにあうのでなく、ローマの死刑台につけられます。
そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
ここから群集がとまどいます。もしやキリストではないか、と思っていたイエスは、ご自分が十字架につけられることを話し始められたのです。確かに、旧約聖書には、人の子は、永遠の御国の王となることが書かれています。いつまでも生きる方なのです。けれども、同じく旧約聖書には、メシヤは断たれるとも書かれているのです。このことに知的に困難をおぼえたのです。
イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
イエスは、彼らの質問に答えられませんでした。イエスは、すぐに事の本質を尽かれました。事の本質は、知的な問題ではなくて、道徳的な問題だったのです。やみとは、罪に支配された世界であり、光はその反対です。イエスは、ユダヤ人たちが罪に支配されていること事態を問題視されました。知的に困難をおぼえると言って信じない人たちの多くは、実は道徳的な問題を持っています。暗やみを愛して、光のところに来ません。この時点から、群集たちのキリスト気運は薄くなっていきます。なんだ、この人はローマ帝国を倒すのではないのか。逆に、自分が十字架につけられると言ってるよ、と興ざめしてしまいました。そのため、イエスは身を隠されました。もう話すことがないからです。
2B 方法 − 不信仰 37−43
そして、彼らのことをヨハネは説明をします。イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
多くのしるしが、目の前で行なわれました。今さっきも、神の声を彼らは聞きました。でも信じなかったのです。その理由が次に書かれています。
それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
預言の成就でした。面白いことに、この個所はイザヤ53章です。この言葉の後に、キリストが打たれて、苦しみを受ける預言があります。この知らせは、だれが信じましたか?と、イザヤは言っているのです。事実そうなりました。
彼らが信じることができなかったのは、
見てください、信じなかったのではなく、信じることができなかった、と書かれています。信じようとしても、信じることができなくされてしまったのです。
イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
神が、積極的に彼らが信じないようにされた、というのです。とても恐ろしいことが書かれていますね。私たちは、神から、選択の自由が与えられています。信じるか、信じないかの選択が与えられています。そして、私たちは、福音を信じる機会が与えられるときに、その自由意思を行使します。信じる者は、そのときに新たに生まれ、心が一新されます。けれども、信じない者は、心がかたくなにされます。次に福音を聞くときは、もっと信じるのが難しくなります。そして、受け入れないとさらにもっとかたくなるのです。そして、ついて、信じる能力が失ってしまうほどの状態されてしまいます。それが、「信じることができなかった」ということであり、神が盲目にされていることであります。イザヤは言いました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」ですから、私たちがみことばを聞くことは真剣勝負なのです。今、みことばに従わなかったら、次回そのような機会が与えられたときは、もっと従うことが困難になります。ですから、機会が与えられたら、その時に応答する必要があるのです。
イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
この栄誉という言葉は、先ほどの栄光と同じものです。神の栄光ではなく、人の栄光を愛しました。私たちは迫害されることを恐れて、自分がクリスチャンであることを言うのをひかえたり、隠したりするとき、それは、自分に栄光を帰していることに他なりません。外見を良くしたいのです。
3B 手段 − イエスのことば 44−50
また、イエスは大声で言われた。
大声で言われました。すべての人に聞かせるためです。実は、イエスのこの言葉を持って、公のメッセージは閉じられます。13章からは、イエスを信じた者たちへのメッセージになります。ですから、もし信じていない人がこの後を読んでも、理解できないし、読んでも意味がないのです。そこで、イエスは最後の招きをされます。これは、この福音書を12章まで読んできた読者ひとりひとりに対する、最後の招きです。
わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。イエスが、父なる神を現わしていました。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。罪の支配から解放され、いのちの支配を受けます。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
これは、とても大切ですね。イエスの言うことを守らなくても、イエスはさばきません。私たちがイエスのことばを守れなくて失敗しても、神の恵みによって祝福を受けることができるのです。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
十字架における罪の赦しを信じない者は、罪が赦されないまま終わりの日を迎えることになります。そして、さばかれます。こう見てきますと、イエスが十字架において、3つのさばきをなされました。1つは、世の支配者、悪魔へのさばきです。2つ目は、不信仰のさばきです。信じないと、とうとう信じることができないようにされてしまいます。3つ目は、終わりの時のさばき、つまり大きな白い御座であります。
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
イエスがここまで話されたことは、みな神のみことばでした。こうして、公のメッセージが終わります。13章1節では、「この世にいる自分のものを愛されたイエスは」とありますが、もうこの世に対しての話はありません。ですから、これでお終いです。けれども、信じた人たちには永遠のいのちが約束されています。そのいのちとは何かが、13章から詳しく書かれているので、楽しみにしていてください。
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