アウトライン
主題:「わたしはこの時に至ったのです」
1A 礼拝による応答 1−8
2A 預言の成就 9−19
3A 自分への死による応答 20−26
4A 神の栄光への道 27−33
本文
ヨハネによる福音書12章を開いてください。私たちはついに、イエス様が十字架につけられる最後の週のところを読んでいきます。この章で、とても大切なイエス様の言葉があります。27節です。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。(ヨハネ12:27)」
主題:「わたしはこの時に至ったのです」
イエス様には「時」を持っていました。ご自分の地上の生涯において、この「時」のために生きていたのだという、目的がありました。それは、正直な気持ちとしては、自分は避けたいという願いがあるのですが、それでもこの時こそが、自分の生涯の使命を果たす頂点であることを知っておられました。それはもちろん、ご自分の命を、全人類の罪として捧げ、そしてよみがえり、天に昇られることです。
皆さんは「時」を意識したことがあるでしょうか?私たちは漫然と毎日を生きているのではなく、何かの目的のため、使命のために生きています。つまり、その目的を達成するための「時」を意識しながら生きているのです。けれども、その「時」は、矛盾するようですが、同時に来てはほしくないと願っているものです。これまでの自分の生活を捨てなければいけないものかもしれません。これまで正しいと信じてきたものを捨てなければいけないものかもしれません。けれども、その時から逃げることなく、その時を経る、通過することによって初めて究極の目的が果たされることも同時に知っています。
この福音書の著者ヨハネは、イエス様がこのことを公の活動の初めから意識されていたことを注意深く記しています。
初めの徴として、カナの町の婚礼で水をぶどう酒に変えられた時のことです。母マリヤが、ぶどう酒がなくなったのでイエスに「ぶどう酒はありません。」と言いました。イエス様は、「あなたは、わたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。(2:4)」と言われました。母マリヤは、イエスが救世主、メシヤであれば、今こそ奇蹟を起こして人々にメシヤであることを示す時だ、と密かに思っていたのです。けれども、イエス様は「その時はまだです」と断られました。
そして十字架につけられる六ヶ月前、仮庵の祭りにイエス様が集われた時、エルサレムにいるユダヤ人指導者はイエスを捕らえようとしました。ところがこう書いてあります。7章30節です。「そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。」イエスの時が来ていなかったので、手をかけることができなかった、と言います。そして8章でも同じく、「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(20節)」とあります。
けれども今、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。」と言われました。この、神がお定めになった永遠の救いの時、贖いの時に対して、この12章ではいろいろな人が反応し、応答しています。この12章で、一般のユダヤ人に対するイエス様の働きは終わり、13章から弟子たちに対してご自分の愛をこよなく示されます。その一般の働きが終わりそうになっているときに、それぞれの人々がどのような反応をしているかを見ていきましょう。
1A 礼拝による応答 1−8
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
ここに出てきている中心人物は、マリヤです。マリヤというと聖書にはいろいろな同名の女性が出てきますが、ここでは11章に出てきた、マルタとラザロの姉妹のマリヤです。ここに、彼女が「礼拝」を持ってイエスの死に応答していることにお気づきください。三百デナリ、つまり約一年分に相当する高価な香油を、イエス様に油塗るために使ってしまいました。
時は「過越の祭りの六日前」です。イエス様が死なれるのは、まさに過越の祭りの日であり、その日に世界中から来たユダヤ人が羊をほふり、イスラエルがエジプトから贖いだされたことをお祝いします。11章で学んだラザロのよみがえりがあって、まだその余韻がたくさん残っている所で、イエス様はエルサレムに行く前に、3キロメートルほど手前にあるベタニヤに立ち寄られました。
香油を足に塗るという行為は、自分がその相手を敬い、その人を拝していることの表れです。当時は、お客さんを自分の家に招くときに、サンダルを履いているので汚くなった足を洗うのは、お客さんを招くときの礼儀でした。そして体に油を塗ることも、相手を敬う行為の一つです。彼女が行なったのは、まさに自分が敬愛するイエス様を、王として、主として愛し、この方に自分を捧げている行為に他なりません。
この行為をマリヤが行なったのは、「わたしの葬りの日のために取っておこうとしていたのです。」とイエス様は言われています。葬る時に、その死体からの臭いを消すために当時の人々は、油を死体に塗りますが、そのために彼女はこの非常に高価な香油を取っておいていました。けれども、イエス様が死んでからでは遅すぎると思ったのでしょう、まだ生きている間に自分がイエス様を慕っていて、イエス様の死のことを思って行いたいと思ったのでしょう。ちょっと、合図の前に駆け出してしまう競走選手のフライングと同じようなことをしてしまいましたが、けれどもマリヤがそれだけ、イエス様の死が近いことを知っていたのです。
他の人々、イエスに同行していた弟子たちでさえ、イエス様が死なれることを悟っていませんでした。イエス様は、何度も、何度も、ご自分が多くの苦しみを受け、ユダヤ人指導者らに捨てられ、殺された後に三日目によみがえることを話されました(マルコ9:31)。彼らは、はっきりとイエス様がそうなることを聞いていたのにも関わらず、まだ分かっていませんでした。
皆さんにも、こういう経験がないでしょうか?何度も前もって伝えているのに、相手が全く意に介しないで、実際に自分がそのことを行ってから初めて気づいて、驚いていることです。理由は自分のことに関心がない、ということもあるかもしれませんが、その人の思いの中ではあまりにも驚くべきことで、衝撃的で、事実として受け入れることはできないと思っているからです。
弟子たちは後者でした。イエス様が言われる言葉には、いつも耳を澄ましていました。けれどもイエス様が「殺される」という言葉を聞いたときに、彼らの思考がそこで停止してしまったのです。その後の言葉「よみがえる」というのは一切聞こえていません。ペテロは、イエス様をいさめた、叱ったと書いてあります。そんなことがあってはならない、と強く訴えたのです。
それでイエス様が言っている言葉は聞いているのですが、それをその通り、文字通り受け入れないで、意識の中で押しつぶしていました。だから、イエス様が再び自分が殺される話をされた時に、なんと弟子たちは神の国で誰が一番偉くなるのかを論じ合っていたのです。弟子たちは、イエス様とずっと一緒にいたのですが、イエス様の究極の使命、その時をわきまえていませんでした。
けれどもマリヤは違いました。彼女は、いつもイエスの足元で、ただイエス様の言葉に聞き入っていた人です。姉妹のマルタが、イエス様が自分たちの家に来ておられるのに、部屋も片づけない、食事やお菓子も出さない、何もしないでいるのに苛々した程でした。でも、イエス様が言われる言葉を思い巡らし、イエス様を慕い、イエス様に何が起こるかを最も敏感に感じ取っていた人でした。
ここのマリヤの行為はしばしば、献金を捧げることを強調するために使われます。高価だけれども、惜しまず捧げなさいという勧めに出てきます。けれども、この話を単に献金だけの話にしてしまっては、話の真意から逸れます。なぜなら、弟子のイスカリオテのユダは同じように献金の話をして、マリヤを咎めているからです。「貧しい人に施すことができるのに。」と言っています。一年近くの給与のお金ですから、今で言うならば数百万円の単位です。そういうのも無理はなく、他の福音書によれば弟子たちも、イスカリオテのユダに乗せられて一緒になって彼女を責めました。
むしろ使徒ヨハネは、彼がイスカリオテのユダが金を横領していたことを暴いています。もっとお金が自分の手に入るところだったのに、という貪りから出た言葉だったのです。
ですから単に献金の話ではなく、むしろ心がイエス様と一つになっていたのかどうか、という話です。彼女の心がイエス様と一つになっていた証拠として、ここでこのような主に捧げる、礼拝行為として表れたのです。そして、イエス様が十字架につけられる時が近づくにつれて、他の人々の心も明らかにされました。イスカリオテのユダは、これまで自分がイエスに心を一つにしていなかったにも関わらず行動を共にしていたのに、ここに来て、本当の心が露になったのです。
ですから私がみなさんにお勧めすることは、「マリヤのようになってください」ということです。イエス様がいったい、今、何を考えておられるのか、どのような働きをしてくださっているのか、これらに耳を澄まし、自分の思いがいつもイエス様に向けられて、イエス様を恋い慕っているようにしていてください。そして、誰に強制されるのでもなく、ただ自発的に、主に対する自分の思いを、捧げ物を通して表します。それがある時は、恥ずかしいことかもしれません。他の人がどう見るか気になるかもしれません。ダビデも、自分が精一杯踊っている姿をさげすんで見ていた妻、ミルカがいました。けれども、主に対しての思慕、敬慕を持ってください。