アウトライン
1A 時に応じた応答 1−11
1B 高価な香油 (おさらい) 1−8
2B ユダヤ人の恐れ 9−11
2A 地に落ちて死ぬ種 12−36
1B ろばの子 12−19
2B 自分の命を憎む者 20−26
3B 御名の栄光 27−36
5A 信じられる間
1B かたくなにされる心 37−43
2B 最後の大声 44−50
本文
ヨハネによる福音書12章を開いてください。今日は9節から学びたいと思いますが、メッセージ題は「限られた時」です。この章での鍵となる言葉は27節にある、「わたしはこの時に至ったのです。」です。12章の1節に「過越の六日前にベタニヤに来られた」とあるように、主が十字架につけられる六日前になっています。イエス様が、この地上に来られたその第一目的である、世界中の人々の罪のために、犠牲となって十字架につけられるという日があと一週間も経たないうちにやってきます。
1A 時に応じた応答 1−11
1B 高価な香油 (おさらい) 1−8
このことを敏感に察知したのがマリヤでした。前回は1節から8節までを学びましたが、イエス様は、マルタ、マリヤ、そしてラザロの家を訪問されました。マリヤは約一年分の給料に値する高価な香油をイエス様の足に注いだのです。弟子たちが互いに、イエス様が建てられる神の国で誰が一番偉くなるのかと議論している時に、マリヤは正しく応答しました。
このように、人々は今がどの「時」なのかを悟っているかどうかによって大きく分かれました。
2B ユダヤ人の恐れ 9−11
そして9節をご覧ください。12:9 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。12:10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。12:11
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
ラザロを生き返らせたことで、祭司長たちはイエスを殺そうと企んでいましたが、ラザロも殺そうと考えていました。理由はここに書いてある通りに、「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行っ」たからです。けれども、彼らは全然このことを実行できません。いつもイエス様やラザロの周りには人々でいっぱいで、連れていき捕らえることさえもできなかったのです。
2A 地に落ちて死ぬ種 12−36
イエス様は、ある意味、これら群衆に守られるようにしてエルサレムに入城されます。
1B ろばの子 12−19
12:12 その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。12:15 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。12:17 イエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。12:18 そのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこれらのしるしを行なわれたことを聞いたからである。12:19 そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
この「翌日」の日曜日を、しばしば「棕櫚の聖日」と呼びます。ここにあるとおり、エルサレムに入って来られるイエス様を、人々が棕櫚の木の枝を取って招き入れたからです。この群衆だけではなく、その中でラザロのよみがえりを目撃した人々が、エルサレムに巡礼に来ていた仲間に言いふらしていました。パリサイ人たちが、入念にイエスを捕らえる計画を立てていたのに全くうまくいっていないので、くやしがっています。
けれどもここで、イエス様が行われたことと、群衆が行っていたことの間には考え方の開きが、違いがあります。群衆がイエス様を迎えた時に、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫んだのは、詩篇118篇25-26節からです。詩篇113篇から118篇までは「ハレル詩篇」と呼ばれて、祭りの時に感謝や賛美をささげるために使われます。
「ホサナ」というのは「救ってください」という意味です。これは確かに、メシヤ、キリスト、救い主に対する声です。けれどもイエス様は、「ろばの子」に乗って来られました。民衆を圧制者から救う英雄は「ろば」ではなく、馬に乗っています。古代を描く映画で、よく見ませんか?自分を抑圧して苦しめていた者たちと戦っていた人たちが、自分の町に入ってくるとき歓声をあげて喜びますね?(古代映画でなくても、ナチスと戦っていた連合軍の米兵が、デンマークのある町に入ったら、ものすごい歓声と女性たちの抱擁を受けている映画の場面を私は思い出します。)事実、当時のローマ人は一つの国や地域を征服すると、その町を馬に乗って凱旋していました。
けれどもイエス様は「ろばの子」に乗っておられたのです。同じように馬ではな、雌の騾馬に乗ってエルサレムに来た王が聖書に書かれています。ソロモン王です(1列王1:38)。父ダビデがすでに戦って周囲を平定させたので、彼は戦う必要がありませんでした。騾馬は平和を象徴していたのです。
イエス様は、当時のユダヤ人が考えていたように、ユダヤ人を圧迫していたローマを軍事的に倒して神の国を立てるために来られたのではなく、私たちが神に敵対しているその反抗の罪を取り除くために、神と私たちの間に平和をもたらすために来られたのです。本当の敵はローマではなく、私たち自身の心にあったのです。
イスラエルに対して戦っているパレスチナのテロ組織で、「ハマス」という組織がありますね?ガザ地区からロケットミサイルを発射してイスラエルに打ち込んでいるあの組織です。そのハマスを創設した者たちの一人の息子がいます。モサブ・ハッセン・ヨーセフさんと言います。彼は、いつしかテロ行為を未然に防ぐためにイスラエルの警察に協力するようになりました。つまりスパイです。そしてイエス様を信じています。今はアメリカに政治亡命しています。
彼はなぜハマスを抜けたのか?彼がイスラエルの刑務所に入っている時に、ハマスの他の囚人たちが互いにいじめを行っているのを目撃したからです。イスラエルが自分たちを苦しめていると怒っている者たちが、仲間のハマスやパレスチナ人を自分の楽しみのために拷問にかけたりしていました。
この彼は、本当の敵がイスラエルではなく、自分たちの心だと知りました。たとえ仮にイスラエルがなくなっても、ユダヤ人がパレスチナの地から出て行って、世界中に散らばったとしても、パレスチナ人は互いに争っているだろうと。殺し合っているだろうと。誰が一番偉いのかを競い合っているだろうと、言っています。
私たち人間は当時のユダヤ人にように、「自分自身を、今の状況から救い出してくれる人物」を求めています。この不便な状況から、圧迫された状況を救ってくれる人。または、あの嫌な人が自分からいなくなってくれれば、せいせいするのに、と思います。けれども、聖書は、「あなた自身が元凶なのだ!」と教えます。その怒ったり、憎んだり、恨んだりしているあなた自身が問題なのだ。その心が神に反抗し、敵対しているから、あなたは神の裁きを受ける、と唱えます。
その敵対している私たちと神との間に、キリストが平和を与えるためにこの地上に来られました。私たちは平和を考える時に、何を思うでしょうか?日本人は、人と対立したくないので争わないで距離を起きます。そして自分自身の事に没頭します。けれども真の平和は、人との関わりをなくすことではなく、その人に仕えていくことなのです。その人の重荷を自分が担っていくことです。相手の弱さを背負うことです。イエス様は、その敵対している罪を負われるために十字架への道を進もうとされているのです。
ユダヤ人の群衆は、ラザロのよみがえりを喜んでいたのですが、復活があるということはその前に死ななければいけません。神の生きた力を知るためには、その前に自分が死ななければいけません。そのことをイエス様は次に教えられます。
2B 自分の命を憎む者 20−26
12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
イエス様の人気が上がって、ついにギリシヤ人、異邦人の人たちまでがイエス様に会おうとしています。過越の祭りは、もちろんイスラエルのための祭りであり、ユダヤ人だけが集うものです。けれども、自分たちの国民が持っている偶像ではなく、天と地を造られた神をあがめたい、イスラエルの神を知りたいと願っている異邦人たちもいました。
弟子たちが少しとまどっている様子をここで見ることができます。ピリポもアンデレも、いつもは人々にイエス様を紹介して、イエス様のところに連れて行くのに長けていましたが、ギリシヤ人だということで、ピリポは直接イエス様の所に行かずアンデレに相談しています。それでピリポとアンデレの二人でイエス様の所に行ったのです。
イエス様はこの話を聞かれたとたん、突然、嘆息されました。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と。イエス様は、ご自分が死なれて、そして復活し、天に昇られた後に、ユダヤ人だけでなく異邦人にもご自分が受け入れられていくことを知って、このように反応されました。
けれども、人々がイエス様を求めているその動機が間違っていました。ラザロのよみがえりを見て、この方はキリストかもしれないと思っていたのですが、イエス様は、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言われたのです。キリストはまず死なれることによって、そしてよみがえり、人々に豊かな命を与えることができる、と教えられているのです。
そしてイエス様についてくるというのであれば、同じ道を辿らなければいけないことを「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」と言われているのです。「憎む」というのは、自分を痛めつけることではありません。フィリピンでは受難週に、自分を十字架につける人が現れるということですが、その人は十字架につけられて、自分がいかに苦しみに耐えられるのかを人々に見せたいためにそれを行うのです。つまり、自分を憎んでいるのではなく、自分が可愛いからそれを行っているのです。この自分が生きている限り、私たちはまことの命、永遠の命を得ることはできません。
3B 御名の栄光 27−36
そしてイエス様は、ご自分の父に祈り始められます。
12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。12:28 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」
いつも平静でおられたイエス様が、心を騒がしておられます。そして「この時からわたしをお救いにください。」と祈られています。イエス様もご自分を失うのではなく、救いたいと願われたのです。これから受ける肉体的苦痛、精神的苦痛はもとより、罪を負うことによって父なる神から引き離される霊的苦しみを味わわなければいけないからです。イエス様は後に十字架上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)」と言われました。イエス様は永遠の昔から、父なる神のふところにおられました。一度も、御父から引き離されたことがなかったのです。これが最もイエス様を心騒がせたのであり、文字通り地獄の苦しみです。
でもイエス様は、「このためにこそ、わたしはこの時に至った」と言われて、そして御父に「御名の栄光を現わしてください」と言われています。イエス様は、この福音書の中で何度も何度も、「わたしが自分で行い、話したことはありません。父が子に示されたことだけを行い、話しているのです。」と言われました。自分ではなく、神が自分から現れることをイエス様は願われていたし、いつもそうなっていたのです。
そしてキリストを信じる者たちは、イエス様が父なる神に従われたように、キリストに従わなければいけません。つまり「自分ではなく、キリスト」です。パウロがこう言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)」
私は信仰を持つまえ、また持った後もしばらくは、「クリスチャンになることは、良い人間になることだ。」と勘違いしていました。今までの悪いことを改めて、品行方正な生活をすることがクリスチャンだと思っていました。
けれども、それは大きな間違いでした。品行方正な生活をしようとする「自分」が生き生きとしているのです。その自分が、自我がいっぱいあるのです。クリスチャンになるというのは、むしろ、「自分は良い人間になるどころか、とんでもない罪人だ。良くすることも、改善することもできない、堕落した人間だ。そして死んで、地獄に行くしか能のない者だ。」と悟ることから始まるのです。自分がもう、キリストと十字架につけられていることを信じることから始まるのです。そして、このようなとんでもない自分には信用できないから、キリストが自分のうちで生きてくださることを願い求めるのがクリスチャン生活であることを知りました。
私たちは、「いかに『自分』ではなく、神が生きてくださるのか。」という至上命題を、自分の人生に持っています。いかに自分が行った業績ではなく、神が自分を通して行ってくださるかを知ることが、私たちの仕事なのです。
12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。12:31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」12:33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。
父なる神が天から語られました。これで三度目です。一回目は、イエス様が水のバプテスマを受けられた時、二回目は高い山で御姿が変えられた時でした。そして三回目に、ここで再びイエス様をご自分の子として認めてくださっています。けれども群衆には、大きな雷のような声にしか聞こえませんでした。
そしてイエス様はその群衆に、「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」と言われます。これは悪魔のことです。聖書には、最初の人間アダムが罪を犯したとき、この世の支配権は人間から悪魔に移ったことを教えています。この悪魔がアダムの妻エバを惑わせて、そしてアダムが罪を犯して、そのために罪がすべての人に入っていき、死も入っていきました。
イエス様が十字架上で死なれることによって、悪魔が追い出されました。ヘブル人への手紙2章にこう書いてあります。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(14-15節)」イエス様が死なれたことによって、自分ではどうにもならない罪、そして死ぬしかない運命、そして死んだ後に地獄に行かなければいけないという恐怖、この死の恐怖から私たちは解放されるのです。
12:34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。
32節と33節で、イエス様はご自分が引き上げられると話されました。これは天に昇ることではなく、十字架の木に磔にされて、高く上げられるという意味です。それを理解した群衆は、「あれ?キリストはいつまでも死なないで、生きているはずですよ。」と尋ねました。我等が信じているメシヤがなぜ死ぬことがあるのですか?と尋ねているのです。
イエス様は、その聖書的質問に返答されていません。その代わりに、「光があるのは、もうわずかな間です。光のあるうちに信じなさい。」と言われました。聖書に出てくる「光」は、悟りや理解という意味以上に、「清さ」を表します。群衆は理解していたのです。イエス様が何を言っておられるのか理解していました。だから、聞いて理解していない、という問題ではなかったのです。その知識に基づいて、自分を捨てて、キリストに自分を従わせるという決心ができていなかったのです。
イエス様はかつて、「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)」と言われました。分かっているのに信じないのは、自分の闇を愛しているからです。自分の悪い行ないを捨てたくないからです。自分の生活を変えたくないからです。だから、「光のあるうちに信じなさい」というのは、「あなたが悔い改めて、神の聖さの中にはいる時は終わりに近づいているのだよ。いつまでも救いの招きが届くわけではないのだ。」と教えているのです。
5A 信じられる間
そしてヨハネは、これまでの「徴」のまとめを行います。2章から、11章のラザロのよみがえりまでの七つの徴に対して、ユダヤ人指導者がどう対応したかを記されます。
1B かたくなにされる心 37−43
12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
徴をイエス様が行われた総括は、37節、「彼らはイエスを信じなかった。」ということです。これだけの徴を見たのに信じませんでした。そして、39節をご覧ください。「彼らが信じることができなかった」とあります。信じなかった、のではなく、信じることができなかった、信じられなかったのです。彼らが「信じなかった」という行為を繰り返しているうちに、「信じることができなくなる」という、硬い心、頑なな心になってしまったのです。
イザヤの預言をヨハネは言及していますが、「主が彼らの目を盲目にされた」とあります。主が彼らの心をかたくなにされた、ということです。同じような話が、かつてイスラエルを奴隷としていたエジプトの王、パロの心でも起こりました。「わたしの民を出て行かせなさい。」と聞いたのに、パロは出て行かせませんでした。そして、神は奇蹟を見せたのにも関わらず、彼は強情を張りました。そのため彼の心はどんどん硬くなり、ついに、もう悔い改めることさえできなくなった心になってしまったのです。それを神は、「わたしがパロをかたくなにする」と言われたのです。
私たちは、イエス・キリストの福音を、今後、いつでも聞くことができると思ったら、大きな間違いです。私たちが恵みの福音を聞いて、それを信じないで拒めば、次にその言葉を聞くときに、受け入れることが難しくなります。拒むと、心が硬くなるのです。初めは心も敏感に反応して、良心の咎めを感じますが、同じことを聞いているうちに平気になってしまいます。「いつか信じればよいだろう。」と思っているうちに、実は、信じられない心に変わってしまっているのです。
これは恐ろしいことです。だからイエス様は群衆に、「光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。(36節)」と言われたのです。
12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
そうですね、ニコデモを覚えているでしょうか、彼は夜に独りでイエス様のところに言って、イエス様に神が共におられることを話しました。そして、イエスについてサンヘドリン(ユダヤ人議会)が議論していた時、全体の意見に反論しました(7:50-51)。そしてイエス様が十字架で死なれた後、その死体を埋葬するのを手助けしています(19:39)。そしてアリマタヤのヨセフという人も、自分の用意した墓にイエス様を葬ったのですが、彼も議員です。
でも、これは痛い真理です。「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」他人にどう見られるかを気にすることは、実は、人の栄誉を愛しているからです。自分が他の人々から高く評価されたいと思っています。これが人を恐れる原因です。
イエス様を信じない人たちの数多くが、周囲の人が自分をどう思うのか?という理由を第一に挙げます。けれども、神が自分をどう思うのか?とは考えないのでしょうか?イエス様は、こう言われたことがあります。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5)」死んだら地獄に送る権威を、神は持っておられるのです。この方を恐れずして、どうして人を恐れるのでしょうか?
私たちはイエス様を信じる時に、自分の恐れを人から神に移す必要があります。今の命から、来る世の命、死後の世界のことに注意を払う必要があります。死ぬのは間もなくなのです。死んだ後のほうが、ずっとずっと長いのです!
2B 最後の大声 44−50
そしてイエス様は最後の訴えかけをなされます。12:44 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。12:46 わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。
大声で訴えておられます。なぜなら、一般の人々に対する言葉、公に語る言葉はこれで最後になるからです。
12:47 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。12:48 わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
とても、とても大事な言葉です。数多くの人が、「私はクリスチャンになっても、その高い基準の中に生きることはできない。」と言って、なかなか信じません。けれどもイエス様は、その基準に達しなくても、わたしは裁かないと言われています。
そうではなく、「私は高い基準に従って生きることはできないし、したくないから、信じるのはやめにしておきます。」と拒む人たちに対しは、裁くものがある、と言われます。信じるのは私たちの責任です、そして信じてから神の命令を守ることができるようにするのは、イエス様の責任です。信じるという行為そのものに対して、終わりの日に、最後の審判において裁きを受けます。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
「そのまま」話されています。これが、どこか二千年前にキリスト教という宗教を始めた創始者が語っていた格言ではないのです。実に、あなた自身を創造し、今、その心臓を動かし、呼吸をさせている神が、あなたに語っておられることなのです。イエス様はこのことを言うために、「自分から話したのではない」と言われているのです。
そしてこれは、イエスの御言葉をあずかっている説教者、また聖書をもってイエス様を紹介するクリスチャンからの言葉でもあります。私たちは、自分たちでこのことを話しているのではありません。神が、そしてキリストが一人ひとりに話しておられることを、ただ伝言のように伝えているだけです。
これを受け入れない時は、今聞いているその言葉によって、最後の審判で裁かれます。「なぜ、あなたは、わたしの息子を信じなかったのか?これが、わたしがお前に与えられた、永遠のいのちだったのだ。」と。「私は知りませんでした。」と言っても、「いや、確かにお前は聞いた。その言葉で、わたしはお前を裁く。」と天地万物を創造された方はあなたを裁かれます。
だから使徒パウロが、こうも言いました。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:2)」今日、今が救いを受ける恵みの時なのです。そして、預言者イザヤがこう言いました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」今、心に語られる声を聞いておられるなら、心の戸を神に開いてください。神は近くにおられます。