ヨハネによる福音書13章31節−14章4節 「互いに愛し合いなさい」
過越の食事の時、イスカリオテのユダがイエスを売るために外に出て行った。真にイエスを慕っている弟子たちのみの交わりになった時、イエスがさらに深くご自分の愛を示された。
31−35節: 新しい戒め
「人の子が栄光を受ける」(31‐32節)
イスカリオテのユダがイエスを売るために出て行ったことによって、イエスが十字架につけられる時がなおいっそうのこと近づいた。神が、キリストの死によって、人の救いを与える方として栄光を受けられる。
「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない(33節)」
イエスはこれから天に昇られる。したがって、地上には弟子たちだけが残る。そのため、イエスは弟子たちの間で行なってほしい大事な命令を与えられる。第一は、「あなたがたもまた互いに足を洗うべきです。(ヨハネ13:14)」であった。
「あなたがたは互いに愛し合いなさい。(34節)」
・これをイエスは「新しい戒め」として与えられた。旧約聖書にも「愛」は出てくる。けれども、キリストの愛を知っている者たちが、互いにその愛を示すことにおいては新しい領域である。
・ヨハネ1−12章に「愛」は12回出てきたのに対して、13−17章には44回出てくる!それだけ、ご自分のものとなった者たちの間には「愛」が特徴となっている。
この命令において注意すべきこと
1)イエスが自分を愛されたことを知っている人のみが、従うことのできる命令である。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:5-8)」
@ 十字架の奥義を知っている人
「罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」という所に現れている神の愛を知っているか?
A 聖霊による新生を体験している人
「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とある、聖霊の新生を経なければこの愛は理解できない。
2)教会(キリストの体)に行かなければ、その人はこの愛を持っていない。
キリストの体は、御霊によって新たに生まれた人が一つになっているところである(1コリント12:13)。したがって、互いに機能することによって始めてキリストを親密に知ることができる。鍵となる単語は「互いに」である。独りで信じているだけでは、この命令を守ることはできない!
3)伝道は、互いに愛し合っているところで行なうことができる(35節)。
自分の信仰や考えのことしか考えれば、人々にはその信仰を見せることができない。効果的な伝道は、互いに愛することによって自ずと与えられる。
36−38節: イエスを三度否定するペテロ
ペテロは、「互いに愛し合いなさい」という命令に対しては無関心であった。(同じように、私たちの間でもないがしろにされやすい話題である!)それよりも、「わたしが行く(36節)」とイエスが言われた言葉が気になった。イエスの答えは、「しかし後にはついて来ます」である。 → ペテロを始め、弟子たちはイエスを見捨ててしまうが、後にキリストのゆえに殉教を果たす。
「あなたのためには命も捨てる(37節)」と言ったペテロだが、間もなくしてイエスを知らないと三度も言うことになる。 → これが、私たちが持っていると考える「愛」である。私たち人間の内に持っている愛が粉々に砕かれてこそ、真のキリストの愛に満たされることができる。
14章1−4節: 父の家の住まい
「心を騒がしてはなりません。(1節)」今、ペテロに対して「あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われたばかりである。そのため、イエスは心が騒ぎ始めた弟子たちに平安を与えるため、慰めの約束を与えてくださった。イエスが教えられたかったのは、「彼らはご自分がどこに行くか分からなくても、わたし自身を信じていなさい。」ということである。 → 私たちがこれからどういう生き方をすればよいか分からなくても、イエスご自身が道になっていてくださっている。
「わたしの父の家(2節)」: これは、イエスを知っている者たちに対する神の豊かな約束である。天に私たちのおるべき住まいがある、ということである。イエスが間もなくそこに行かれるので、弟子たちのために住まいを用意すると約束してくださった。この「住まい」を、復活の体と解釈することもできる(2コリント5:1−4)。
「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(3節)」イエスが地上にいる弟子たちのために、戻ってきてくださる時がある。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17)」
「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」: これが信仰者にとって、究極の慰めである。何にもまして、主が共にいてくださることが嬉しい。