ヨハネの福音書14章 「心が騒ぐとき」


アウトライン

1A 主が道となってくださる 1−14
   1B 家の備え 1−6
      1C 約束 「場所を備えに行くのです」 1−3
      2C 確信 「わたしが道です」 4−6
   2B 神の啓示 7−11
      1C 知識 「父を見たのです」 7−9
      2C 信頼 「わたしを信じなさい」 10−11
   3B 祈りの答え 12−14
      1C 条件 「わたしを信じる」 12
      2C 約束 「何でもしましょう」 13−14
2A 主がともに住まれる 15−31
   1B 助け主 15−17
      1C 条件 「愛と戒め」 15
      2C 関係 「知っています」 16−17
   2B 父と子 18−24
      1C 希望 「生きるからです」 18−21
      2C 条件 「愛と戒め」 22−24
   3B みことば 25−31
      1C 確証 「思い起こさせてくださいます」 25−29
      2C 証言 「世が知るためです」 30−31

本文

 ヨハネの福音書14章を開いてください。メッセージの題は、「心が騒ぐとき」です。舞台は、過越の祭の食事時であります。イエスは弟子たちに、「わたしの行くところへは、あなたがたは来ることができません。」と言われていました。ペテロが、「どこに行くのですか。」と聞くと、イエスは、「今はついて来ることはできないが、後には付いて来ます。」とおっしゃられました。でも、ペテロは、「今ついて行きたいのです。命を捨てても、ついて行きます。」と言いました。イエスは、「いのちを捨てるというのですか。あなたは、鶏が鳴くまでに、3度わたしを知らないと言います。」と言われました。そして14章に入ります。

 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 
イエスは、ペテロと他の弟子たちの心が騒いでいるのを、よくご存知でした。これからは、もっと心が騒ぎます。なぜなら、イエスがユダヤ人指導者たちに捕らえられ、自分たちはイエスを見捨て、イエスは十字架につけられるからです。彼らは、最後の最後まで、イエスがローマ帝国を倒し、ご自分が王となって神の国を立てることを期待していました。彼らは、そのために、自分の家族を捨て、職業を捨てて、文字通り、身も心もイエスにささげていたのです。ですから、イエスがいなくなったら、彼らは放心状態になって、恐れと不安に満たされ、何をすればよいか分からなくなるでしょう。そこで、イエスはおっしゃられったのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」そして、心を騒がせない解決法として、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言われました。14章は、心を騒がせず、神を信じてイエスを信じるために、イエスが与えてくださっている約束に満ちています。私たち自身が心を騒がせるとき、どのようなことをすればよいのか知るために、主イエスのみことばから学びましょう。


1A 主が道となってくださる 1−14
1B 家の備え 1−6
1C 約束 「場所を備えに行くのです」 1−3
 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

 イエスが与えられた最初の約束は、弟子たちのために住まいを備えに行くことです。弟子たちは、神のみもとに無事にたどり着くことができます。私たちが心を騒がせるのは、将来がどのようになるか分からないということろにあります。けれども、イエスは、「あなたがたどり着く場所は、父の家なんだよ。だから、どんなことがあっても安心しなさい。あなたは、必ず目的地にたどり着くことができる。」とおっしゃっているのです。ところで、ここの「住まい」という言葉ですが、これは大邸宅と訳すこともできます。けれども、私は、これが文字通りの大邸宅だとは思っていません。天においては、からだを休める必要もなく、寝る必要もないからです。この住まいは、私たちが天においていただく、「復活のからだ」であろうと思われます。パウロはコリント人に手紙を出したとき、私たちの地上のからだはテントのようであり、復活のからだは、「神の下さる建物」と言っています。テントは一時的に住むだけのもので、不便な場所です。けれども、家の中にいて初めて憩うことができます。同じように、私たちの贖われた霊が憩うことのできるようなからだを、イエスが備えてくださいます。


 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 
イエスは、わたしが天に入ったら、た戻ってきます、と言われています。私は、これを携挙であると考えます。イエスが天から来られて、私たちは地上から引き上げられます。そして、両者は空中で会うことになり、それから私たちは、永遠に主とともにいることになります。

2C 確信 「わたしが道です」 4−6
 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

 弟子たちから、2回目の質問が出てきました。トマスからです。1回目の質問はペテロからですが、似たようなことを聞きましたね。「主よ。どこにおいでになるのですか。(13:36)」と言いました。トマスも分かりませんでした。イエスがどこに行くのか分からないのに、どうしてその道をたどってイエスについて行くことができるのだろう、と感じました。そこでイエスは言われます。

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。


 ここで大事な言葉は、「わたしが」であります。他のどこかに道があるのではなく、イエスご自身が道であると言うことです。イエスは本質的に、「あなたがたは、どうやって生きていけば良いのか迷うけれども、至極、簡単だよ。わたし自身が道なのだ。わたし自身が真理なのだ。わたし自身がいのちなのだ。」と言われました。彼らは、どうやってこれから生きていけばよいのか迷いましたが、イエスをもっと深く知り、イエスご自身を求めることが生きる道なのです。ですから、私たちが悩むときも、このことを思い出してください。生きる道はとても単純です。それは、主イエスを知ることです。


2B 神の啓示 7−11
1C 知識 「父を見たのです」 7−9
 「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 3番目の質問が飛んできました。ピリポからです。「父を見せてください。そうすれば満足します。」と言いました。私たちは神がどのような方か分からないではないか。神がだれかが分からなければ、どうやって神を信じればよいのか分からない。自分が見たこともない人を、どうやって信頼することができるのでしょう、という質問ですね。私たちもよくする質問です。神がどのような方であるかが分からなくなると不安になります。神がどこかに行ってしまったかのような、あるいは、神が自分に罰を与えているかのような気持ちになります。


 そこで、イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」

 
ものすごい発言ですね。イエスが神を完全に現わしてくださっています。ヘブル書には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」であると書かれています(1:3)。そして、ここでもイエスは同じことを言われています。「神が分からないと言っているけれども、すごく簡単だろう。あなたが見ているこのわたしが、神を現わしているのだ。ほら、わたしを見てごらんなさい。ここに神がいるよ。」とおっしゃています。私たちは、自分の経験をとおして、自分なりの勝手な神概念を持ちます。そして、それが本当の神だと思って、慌てたり、不安になったりするのです。けれども、イエスを見てください。そこに明らかに、はっきりと神がどのような方であるかを知ることができます。イエスが弟子たちに対し、彼らの願いを聞き入れないで、彼らを見捨てられたところを見つけることができるでしょうか。イエスが、弟子に腹を立てて、八当たりをされた個所を見つけることができるでしょうか。どこにもありませんね。ならば、神も同じです。私たちの願いは、必ず聞き届けられ、私たちに災いがふりかかるようなことは決してなさいません。必ず、私たちに良くしてくださっています。


2C 信頼 「わたしを信じなさい」 10−11
 そこでイエスは、「そのことを信じなさい。」と促しておられます。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

 信じなさいというのは、信頼しなさいということです。単に信条を受け入れることではなく、人格的に、個人的に信頼を寄せることであります。イエスは、まず、「わたしが言うのを信じなさい。」と言われました。イエスが、ご自分についておっしゃっていることを信じることです。私たちの信仰は、イエスのご性質に対するものでなければいけません。例えば、イエスは神の子であり、全知全能である。永遠に生きておられる方であり、決して変わらない方である。愛と恵みに満ちておられ、また義と聖を身にまとっておられる。こうしたイエスのご性質に信頼を置きます。けれども、そこまで私たちが信頼を寄せることができないときのために、「さもなければ、わざによって信じなさい。」とイエスは言われています。神を信じきることができない私たちのために、主は私たちをあわれんで、しるしを私たちに見せてくださいます。ものすごく小さな事かも知れませんが、神が確かに生きておられるを示すために、わざを見せてくださるのです。


3B 祈りの答え 12−14
1C 条件 「わたしを信じる」 12
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

 ここでの「さらに大きなわざ」とは、数的に大きなわざと考えられます。イエスが救いに導いた人数よりも、使徒たちはもっと多くの人々を救いに導きました。大切なのは、このわざを行なう人々の特徴です。「わたしを信じる者は」とあります。イエスに信頼を置いている人が、イエスのわざを行なうことができるのです。


2C 約束 「何でもしましょう」 13−14
 そのために、私たちに大きな約束が与えられます。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

 ものすごく大きく、広い約束ですね。イエスの御名によって求めれば、何でもかなえられるのです。「えっ、今まで祈ったことで、全部聞かれていないよ。」と言うかもしれません。けれども、条件をまた思い出してください。「わたしを信じる」というのが条件です。何か他のものを信じるのではなく、イエスに全面的な信頼を置いているとき、祈りは必ず答えられています。周りの状況が全然変わっていなくても、自分の心の状態が変わってしまっていることに気づくでしょう。神を信じ、イエスを信じる者の祈りは、必ず聞き届けられています。ヤコブは、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。(5:13)」と言いました。心が騒いでいるとき、これからどうなるのか分からないとき、イエスの御名によって神に祈ってください。必ず神は、その祈りに答えてくださいます。


2A 主がともに住まれる 15−31
 こうして、私たちがこれからどうすればよいか分からないときの約束をイエスは教えてくださいました。次からは、イエスは、「あなたを孤独にしない」約束を与えられます。心が騒いでいるとき、自分はたった独りしかいないと感じます。だれも助けてくれないと考えます。その場合に知らなければならない真理を、イエスは教えてくださいます。

1B 助け主 15−17
1C 条件 「愛と戒め」 15
 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 イエスは、ご自分に代わって、もうひとりの助け主を遣わすことを話しておられます。この方はいつまでも彼らとともにおられ、また、その方は彼らのうちに住んでくださいます。ですから、彼らは一人ぼっちにはならないのです。けれども、助け主の約束が与えられる前に、「わたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守りなさい。」という命令があることに注意してください。この条件を満たしている人々が、助け主がともにおられることを楽しむ事ができます。


 この条件について、3つの事を指摘したいと思います。一つ目は、「愛する」ということです。助け主がともに住んでくださるということは、単にそこにじっとしているということではありません。夫婦がいっしょに住んで、ともに愛し合うように、愛の関係にあってともに住むのです。ですから、主に愛されて、主を愛するという、親愛な愛の関係を望む人々が、助け主がともにいてくださることを知ることができます。二つ目は、「もしわたしを愛するなら」と、「もし」という条件が付いていることです。イエスを愛したいと願っている人が戒めを守るべきで、イエスに愛がない人は戒めを守っても意味がないのです。多くの人が、イエスへの愛を度外視して戒めを守ろうとします。戒めを守ることによって、自分に福をもたらそうとする人が多くいます。けれども、戒めはあくまでも、神の愛を受け入れて、神の愛にとどまり、心からイエスへの愛が生まれてくる人に与えられています。そして、3つ目は、「戒めを守りなさい。」という命令ですね。愛という言葉は、現代、大きく間違えられて捉えられていますね。ハリウッドの作り出した、ロマンスが愛だと思っています。しかし、聖書が唱えている愛は、服従の愛です。意思的な愛です。自分がしたいことよりも、相手が望んでいることを優先させていく愛です。イエスは新しい戒めを与えられました。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」という戒めです。イエスが自分を愛してくださったのを真似て、兄弟たちを愛していきます。

2C 関係 「知っています」 16−17
 そして、この助け主の約束に注目したいのですが、「助け主」のギリシヤ語はパラクレトスです。これは、「援助のためにそばに呼ばれた者」という意味です。弟子たちはこれまで、イエスが助け主でした。困ったときは、いつもイエスが助けてくださいました。納税の通知が来たときに、ペテロはイエスに、「どうしましょうか。」と言いました。イエスは、「ほら、あなたの得意な釣りをしなさい。魚がコインをくわえているよ。」と言われました。それで無事に納税できました。また、パリサイ人にいじめられたことが何回かあります。「なぜ、安息日に穂なんか積んだりするのだ。」と問い詰められました。そのときにイエスが出てきて、きちんと答えてくださいました。ですから弟子たちにとって、イエスがいつもいっしょにいる助け主だったのです、でも、もういなくなってしまうので心が騒いだのです。けれども、イエスが、「もうひとりの助け主」と言われているところに注意してください。ここでのギリシヤ語は、「アロス」です。これは、同じ性質だが別のものという意味です。違う性質で別のものは「ヘテロス」というギリシヤ語があります。ですから、この助け主はイエスと同じ性質を持っている方であるということです。イエスが神の子として弟子たちを助けられたように、この助け主も神の聖霊として、弟子たちを助けてくださいます。

 そして17節を見ますと、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる。」とありますが、ともにおられるだけではなく、うちにおられます。聖霊と私たちの関係には3つありますが、一つは、「ともにおられる」関係です。これは、不信者の人も持っている関係です。彼らに罪を指摘し、救い主が必要であることを教えます。そして、その人がキリストを救い主として受け入れると、次の二つ目の関係を持ってくださいます。それが、「うちにおられる」関係です。私たちを心の中で働いてくださり、愛と平和と喜びで満たしてくださり、キリストの似姿に私たちを変えてくださいます。これが、私たちのうちにおられる関係です。そして、3つ目は、使徒行伝1章8節に書かれていますが、「上に臨まれる」関係です。「聖霊があなたがたの上に臨まれる。」とあります。これは、私たちの内側で聖霊が働かれるだけではなく、私たちを通して、外側で聖霊が働いてくださる関係です。自分だけが神を個人的に知るのではなく、自分をとおして、周りの人が神を個人的に知っていく関係であります。これは、私たちがイエスの証人となるときに必要な関係であり、クリスチャンがだれでも求めなければいけない関係であります。

2B 父と子 18−24
1C 希望 「生きるからです」 18−20
 そしてイエスは、ふたたびご自分が戻って来られる約束を与えられます。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

 ここでイエスが「戻って来る」とおっしゃっているのは、復活のことです。イエスが生きるので、あなたがたも生きるとありますが、イエスの復活によって弟子たちに新生が与えられるからです。「世はもうわたしを見なくなる」とおっしゃられていますが、復活のとき、イエスは弟子たちにしかご自分を現わしませんでした。

 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。

 
その日とは、イエスが復活された日であります。弟子たちは、この日にはじめて、本当の意味で、イエスが生ける神の御子であることを知るようになります。イエスが父にいることが分かるようになります。それだけではありません、「あなたがたはわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」と言われています。今までともにおられたイエスは、聖霊によって彼らの中にいてくださるようになるのです。イエスが復活されて、弟子たちに現われたとき、イエスは彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました(ヨハネ20:22)。そのときから、弟子たちは、イエスが自分たちのうちに生きておられることと、自分たちがイエスのうちにおられることが分かったのです。

2C 条件 「愛と戒め」 21−24
 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。先ほどど同じように、ともにおられる関係は愛に根ざしています。イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」

 弟子たちによる4回目の質問です。イスカリオテでないユダ、つまり、イエスを裏切ったユダではない人が質問をしています。なぜ自分たちにばかりご自分を現わされて、世には現わさないのか。公になぜ現わさないのか、と聞いています。


 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

 再び、ものすごい約束が書かれています。イエスだけでなく、父なる神ご自身が私たちのところに住んでくださるとイエスは言われています。三位一体の神の働きをここで見ることができるのですが、今までは、とうてい近づくこともできない、手を伸ばしても届かないような存在が、今、私たちをご自分の家にしてしまうというところまで接近して下さいました。けれども、これは世には分かりません。なぜなら、イエスを愛していないからです。このすばらしい神の臨在は、イエスを愛している人でなければ分からないのです。

3B みことば 25−31
1C 確証 「思い起こさせてくださいます」 25−29
 このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 
イエスは、今いろいろなことを話されましたが、それが彼らには今の時点で理解されないことをご存知でした。それでイエスは、聖霊が彼らに教え、イエスの話されたことを思い出す働きをすることを伝えておられます。ヨハネの福音書に、弟子たちはその時に理解できなかったが、後で分かったいう個所がいくつか出てきます。それは聖霊が働いてくださって、イエスのみことばを思い起こさせてくださるからです。これは、私たちが日ごとに、毎時間、経験しなければならない聖霊のみわざです。私たちは、24時間、聖書を読んでいることはできません。仕事に行くし、勉強もあるし、家事もあります。けれども、実際の場面で、聖霊は私たちにみことばを思い起こさせて、その場面での導きを与えてくだるのです。この働きによって、私たちは心を騒がせることなく、まっすぐ歩いていくことができます。


 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 イエスは、先ほどの事柄に戻っておられます。「心を騒がしてはなりません。」と繰り返されました。そして、イエスは、この世が与えることのできない平安を与えてくださいます。ある絵画コンテストで、平安というテーマで競われたことがあったそうです。そして、そこで最優賞になった絵は、のどかな田園風景ではありませんでした。嵐の中に、岩の断崖の横に穴をがあって、わしの子どもが住んでいる情景でした。嵐の中で、確固たる平安を持つことは、世によって与えられません。ただキリストのみが与えることのできる平安です。


 わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。」とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

 
イエスは神の子であるなら、地上に人としているよりも、父のもとにいることのほうがはるかにすばらしいです。弟子たちが悲しむのは、イエスのことを思って悲しむのではなく、自分たちのことを思って悲しむのです。これは、死んでいくクリスチャンのことを思って、悲しむ人々についても言えます。本人は苦しみと痛みがともなう地から、栄光に輝く天に移されたのですから、幸せなことなのです。けれども、残された人々は自分たちのことを考えて悲しみます。イエスは、「父はわたしよりも偉大なかただからです。」と言われましたが、人として地上に生きておられる主は、もう間もなく父のみもとに帰り、また栄光の姿で輝くことがおできになります。


 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。

 
イエスが預言について語っておられます。預言の言葉は、私たちクリスチャンにとって、とても励ましになり、元気づけられます。聖書の預言が100パーセント実現されていることは、私たちの信じている神が生きておられることをまざまざと証明しているからです。そして、この世に対しても、神が生きておられることを弁明する大きな武器になります。


2C 証言 「世が知るためです」 30−31
 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。

 この世を支配する者とはサタンのことです。けれども、イエスはサタンが自分に対して、何も手出しをすることはできず、ついにさばかれることをご存知でした。

 しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

 
イエスの十字架の出来事は、みな聖書の預言どおりであることを、この世は後で知ります。そして、イエスは、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言われました。過越の食事の場面から離れて、これからゲッセマネの園のほうに向かわれます。


 こうしてイエスは、数々の約束をとおして、神を信じ、ご自分を信じなければいけないことを教えられました。あまりにもたくさんあるので、心を騒がせる余裕さえもなくなってしまいそうです。また、一つ一つがものすごく大きな約束です。理解できないほど偉大な約束です。イエスの愛が、弟子たちに対しほとばしり出ています。そして、心を騒がせる私たちにも、イエスはご自分の愛を注いでくださるのです。イエスこそが平安をお与えになることができます。イエスを信じ、神を信じましょう。


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