ヨハネ14章21−31節 「父と子と聖霊の愛」
復習: イエスは、「わたしの行く道はあなたがたも知っています(4節)」と言われた。この「知る」は、単に情報として知っていることではなく、また個人的に知っているだけでなく、「一つになる」という究極の交わりを示している。イエスは、「もうひとりの助け主(16節)」について約束された。イエスの復活と、この方が来られることによって、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。(20節)」というイエスの言葉が実現する。
21−26節: イエスの戒めと神の愛
イエスの言葉を守る
イエスから残ることのない愛を注がれた人は、イエスと神を愛さないではいられなくなる。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」そしてその愛は、イエスの命令に従順になることによって現れる。私たちは、自分が愛している相手の言うことは、自ら喜んで聞くはずである!(1ヨハネ5:3)
そして、私たちが愛をもってイエスの言葉に応えるとき、イエスは、「わたし自身を彼に現わします。(21節)」という約束を与えてくださっている。それだけでなく、父なる神がイエスと共に、その人と住んでくださると約束してくださっているのだ(23節)!
ここから分かることは・・・
1)「神は見えないから信じない」という人には、いつまで経っても神を見ることはない。なぜなら、神に対して心を開くという行為がないからだ。問題は理解不足ではなく、心の態度だ。
2)ある人がこう言った。「信仰によって、天に行くことができるようになる。服従によって、天がその人に来るようになる。」
イエスの言葉を思い起こす
聖霊が弟子たちに与えられることによって、神の教えられること、イエスが語られたすべてのことを思い起こすことができる(26節)。 → ご聖霊の働きの一つは、神の御言葉を思い起こさせることである。必要な時に、その人に力と知恵を与える言葉を思い起こさせてくださる。したがって、私たちは聖書の学びと共に、聖霊に満たされることを絶えず求めなければいけない(ルカ11:11‐13)。
ここ21−26節に、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が一つになって、信者に関わってくださる働きを見ることができる。
27−31節: 世の理解を超える平安
「平安」: ヘブル語では「シャローム」。挨拶の言葉になっている。
聖書が語る二つの「平安」
1)神との平和「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)」罪がある限り、私たちは神に敵対している。だから、死ぬことと、死後の裁きを恐れて生きなければいけない。けれども、キリストの死によって、神が私たちと和解してくださり、平和を持つことができる。
2)神の平安「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」私たちの知性では理解できないような混乱の中にいても、不思議に与えられる平安がある。これは、神がすべてを支配しておられることを直感的に知っている所から出てくる平安である。
「わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです(28節)」弟子たちは自分たちからイエスが離れることを嫌がっていたが、イエスのことを考えれば、それが最も良いことが分かるはずである。 → 私たちも、愛する人が死んでも、寂しいのは自分たちのことを考えているからである、その人自身が天に行ったことを考えれば、喜ぶはずである。
「それが起こったときに、あなたがたが信じるためです(29節)」イエスの復活が起こった時に、弟子たちはイエスの言葉に、これまで以上にはるかに大きな確信を持つ。
「世を支配する者(30節)」サタンのこと。先にイスカリオテのユダにサタンが入った(13:27)。彼が捕まえる人を連れて、イエスの所にやって来ている。
「彼はわたしに対して何もすることはできません。」イエスは、サタンに負けて十字架につけられたのではない。むしろ、イエスが支配して、ご自分が死に至るようにされた。
「世が知るため」イエスが、父なる神のみこころに死に至るまで従順であったことを知る。
「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」今、過越の最後の食事を取られたイエスと弟子たちが、屋上の間からゲッセマネの園に移動する。