ヨハネ15章1−8節 「ぶどうの木にとどまる」

イエスは今、弟子たちを屋上の間から連れてゲッセマネの園に向かわれている。その途中にぶどう園があったか、あるいは神殿の敷地には門に金でぶどうが掘られていた。それを見てイエスが語られた。

この箇所は、キリスト教にとっての要になる教えである。それは、ぶどうの木と枝の例えに表れている「結ばれた関係」についてである。

1−3節: ぶどうの木なるキリスト
「わたしはまことのぶどうの木(1節)」: イスラエルには、ぶどうの木がたくさん栽培されている。それで神は旧約時代から、イスラエルを「ぶどう」として例えられた(イザヤ5:12)。神は、イスラエルから正しさや憐れみという実が結ばれることを望んで、彼らを育てられたのに、出てきたのは実に酸いぶどうであった。 → イエス・キリストの話を聞いてから、かえって生活が悪くなっている人はこれに当てはまる。

ユダヤ人指導者は、自分たちがぶどうの木であると自賛していたが、イエスは「わたしこそが、本当の木である。」と言われた。そしてもちろん、農夫は父なる神である。

「実を結ばないもの(2節)」: 自分は教会に来ている、または聖書を学んでいると言っていながら、実は心からイエスを信じていないのであれば、つまりイスカリオテのユダのように偽の信者であれば、取り除かれる(地獄に行く)。

「刈り込みをなさいます」: これは「手入れをする」という意味。イスラエルでは、ぶどうの枝が地面を這っていることが多い。それを持ち上げて枝を洗浄することによって、さらに実を結ぶことができる。だから、次の節で「わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(3節)」と言われた。 → イエス様の御言葉には魂をきれいにする力がある。

4−6節: イエスにとどまる
「わたしにとどまりなさい(4節)」: 「とどまる」とは何か?イエスはこれを、ぶどうの木につながっている枝に例えておられる。つまり、第一に、イエスを自分の主として心に受け入れること。第二に、イエスを信じている心を保ち続けること。第三に、イエスの命令に従順であること、である。

間違った態度: @活動だけをすること。 A何もしないこと。

他の箇所では、「宿泊する」と訳されている。イエスと時間を過ごすことなのだ。祈り、御言葉を聞き、そして賛美を歌い、礼拝をささげ、そして信者との交わりをすることである。

「あなたがたは枝です(5節)」: これが私たち人間の本当の姿である。私たちは、自分の内に力があり栄養があると思っている。けれども、完全に神とキリストに自分の命は支えられているのだ。

「実を結びます」: この実とは何か?「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23

そして「実」とは、時間をかけて、自然に出てくるのを待つしかない。工場では生産することができるが、実は、イエスとの関係を深めていくことによってのみ与えられるものだ。

「何もすることはできない」: 私たちは「少しは」することができると思っている。すると神は、私たちには何もすることができないことを教えるために、私たちだけでやらせる。そして自分には何もできないことを悟ったときに、初めて私の内で働いてくださる。

「燃えてしまいます(6節)」: イエスに関心のない人、個人的に、人格的に関係を持っていない人は、このような状態になる。 → 私たちが生きているのは意味があるからだ。けれども、それは自分を造られた神を知っているからこそ見つけることができる。自分のためだけで生きるのであれば、何の実も結ぶことはできない。

「何でも・・・求めなさい(7節)」: イエスは繰り返し、祈りにともなう特権を教えておられる(ヨハネ13:1314)。これは、イエスに従う「弟子(8節)」となった人が、「実」を結ぶために与えられたものだ。私たちは、聖霊の実を結ぶための祈りをもっともっと捧げよう。