ヨハネの福音書17章 「あなたのための主の祈り」


アウトライン

1A イエスご自身のため 「子の栄光を現わしてください」 1−5
2A 12弟子たちのため 「悪いものから守ってください」 6−19
   1B 「御名のなかに保ってください」 6−12
   2B 「聖め別ってください」 13−19
3A すべての信者のため 「一つであるためです」 20−26

本文

 ヨハネの福音書17章をお開きください。ここでのテーマは、「あなたのための主の祈り」です。本文を読みましょう。

1A イエスご自身のため 「子の栄光を現わしてください」 1−5
 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。

 これらのこととは、弟子たちに対する励ましと慰めのことばであります。13章からずっと、イエスは弟子たちにだけに、親密な深い会話をなされました。しかし、これからはさらに深くなります。父なる神へ、御子がお語りになるからです。幕屋であれば、至聖所に入るようなものでしょう。神の御子が、父なる神に語られます。

 父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。

 
イエスは、「子の栄光を現わしてください。」と願っておられます。イエスは、まずご自分のために父にお願いしています。6節からは、12弟子のためにお願いし、20節からは、すべての信者のためにお願いしています。けれども、1節から5節においては、ご自分のためにお願いしています。ここでの「栄光」とは、天における栄光ではありません。そうではなく、十字架における栄光であります。あのむごたらしい、人の憎悪が現れた十字架が栄光なんて、ふつうでは到底思いもつかないことです。けれども、それは実に、神の愛の啓示でした。もし私たちが神の愛を知りたいなら、また神の愛が分からなくなってしまったら、十字架を見上げてください。ご自分の愛する、尊いひとり子を、ただ私たちのために、苦しみとのろいの下に置かれたのです。ただ私たちを愛してやまなくて、私たちが滅びるのを良しとされなくて、イエスを死に渡されました。したがって、子の栄光とは、十字架における死です。


 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

 十字架における神の栄光を見て、それを信じた者は永遠のいのちを持ちます。それは、このイエスに、人の運命を決定する、いっさいの権威が与えられているからです。イエスは弟子たちに、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)」と言われました。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。これは、とても大切な真理です。永遠のいのちとは、神とキリストを知ることに他なりません。私たちは、永遠のいのちが神からの贈り物であると聞きますので、なにか物であるかのように考えてしまいがちです。死んだあとも続く生命であるとか、あるいは、幸せな生活であると考えます。しかし、永遠のいのちとは、私たちが神とキリストを個人的に、人格的に知っていく過程に他なりません。私たちが、日々、祈りの中で、みことばを読むなかで、主がどのように自分に関わってくださったかを知ります。神を仰ぎ見て、神の御前にひれ伏します。そうした行為が、まさに永遠のいのちなのです。自分の世界で生きるのではなく、神とキリストの世界で生きること、それが永遠のいのちです。


 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。

 これは、贖いのみわざです。イエスは、サマリヤの女が男たちにイエスのことを知らせに行ったとき、弟子たちにこう言われました。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。(4:34)」救いのみわざが行なわれました。イエスは、「成し遂げました」と言われていますが、十字架の出来事をすでに起こった事であるかのように語られています。イエスは、十字架の上で、最後のことばとして「完了した。」と言われましたが、そのことを見据えて語っておられます。イエスが弟子たちに語っておられたご自分の喜びも、そこから出ていたものです。ヘブル書には、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)」と書かれています。私たちの罪を贖い、私たちを義人にしたことを見て、喜び、満足されました。


 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

 
ここでは、十字架のみわざではなく、天における栄光です。イエスがあらゆる天使によって賛美され、あがめられていた、その地位に戻ることをイエスは願っておられます。


2A 12弟子たちのため 「悪いものから守ってください」 6−19
 そして祈りは、ご自身から弟子たちのために移ります。

1B 「御名のなかに保ってください」 6−12
 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。

 イエスは弟子たちに、父の御名を明らかにされた、と語っておられます。神の御名とは、「ヤハウェ」のことです。神がモーセに、「わたしは、『わたしはある。』という者である。(出エジプト3:14)」と言われましたが、それがヤハウェです。イエスはいつ、この御名を明らかにしたのでしょうか。思い出してください、イエスは、「わたしは、何々です。」と言われました。英語ですと、
I am ギリシヤ語ですと、egw eimiです。7つあります。「わたしがいのちのパンです。(6:35)」「わたしは、世の光です。(8:12)」「わたしは羊の門です。(10:7)」「わたしは、良い牧者です。(10:11)」「わたしは、よみがえりです。いのちです。(11:25)」「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(14:6)」「わたしはまことのぶどうの木です。(15:1)」イエスは神の御名を明らかにされました。

 彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。

 彼らは神のものとなりました。神の所有物です。第一コリントには、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(6:20)」とあります。そして、彼らが神のものとなるまでのいきさつを、次に語られています。

 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。

 彼らは、イエスが神から来られた方、神の御子であることを知りました。

 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。


 イエスが神から来られた方であることを知った彼らは、イエスのみことばを受け入れて、イエスを信じました。こうして、彼らは神のものとなったのです。


 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。

 神のものになった彼らのことについて、特定して願っておられます。イエスはもちろん、世を救うために来られたのであり、世に対する思いもあったのですが、ここでは、神のものとなった者のことを祈られます。私たちも、この祈りは大切ですね。つまり、一般的な祈りではなく、特定の祈りです。とくに、信者である私たちが互いに祈り合うことは、とても大切です。

 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。


 父なる神と御子は、すべてのものを共有しておられます。そして、イエスが弟子たちによって栄光を受けたとありますが、これはどういうことでしょうか。エペソ書1章6節で、私たちが救われた理由として、パウロがこう言っています。「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 (1:6)」恵みの栄光です。私たちは、自分の行ないではなくて、神のみわざによって救われました。死とさばきに定められている私たちが、神のものとされたこと、これによってイエスが栄光をお受けになります。すばらしいですね。このような私たちが、神の栄光の器となっているのです。


 そして次に、イエスが父に願っておられます。わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

 神のものとなった彼らが、そのまま神のものであり続ける、つまり、御名の中に保ち続けられることを祈られています。彼らが失われて、滅びることのないように、イエスが祈っておられました。イエスは、3度ご自分を否定するペテロに対して、こう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)」イエスは、私たちのためにも祈ってくださっています。恵みから落ちて、滅びることのないように、イエスは執り成しの祈りをされているのです。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)」とパウロは言いました。イエスが祈られているなら、その祈りは必ず聞かれますね。だから安心です。私たちは神の御名の中に保たれます。


 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。

 滅びの子とは、イスカリオテのユダのことです。彼が行なうことについては、聖書のいくつかの箇所で預言されています。イエスは、詩篇41篇9節を引用されて、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。」と言われました。ゼカリヤ書11章12、13節には、銀30枚でメシヤを売ることが預言されています。その自殺についても、「彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。」とダビデが預言しました(詩篇69:25)。ですから、ユダが滅んだのは、彼が神の救いからもれたのではなく、予め知られていたからです。


2B 「聖め別ってください」 13−19
 イエスは御父のことを、「聖なる父」と呼ばれましたが、次に、弟子たちを聖め別つことを願っておられます。わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。

 この喜びは、先ほど話したように、贖いを成し遂げたことによる喜びです。

 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。


 彼らは、イエスのみことばを受け入れたので、神のものとなりこの世から離れました。そのためこの世から憎まれます。ヤコブは、「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。(ヤコブ1:18)」と言いましたが、みことばを受け入れることによって私たちは新たに生まれて、そのため、世は私たちを憎みます。

 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。


 ここは大切な祈りですね。私たちがこの世のなかで生きているのは、イエスのこの祈りによるものです。イエスはもちろん、弟子たちをご自分のおられる天に連れて行きたいと願っておられます。この世は彼らにとってふさわしいところではなく、憎しみと迫害があります。しかし、イエスが取り去るようにお願いしなかったのは、目的があるからです。それは、行って実を結び、その実が残るためです。私たちがこの世に生きているのは、ただ一つの理由しかありません。イエスを証しして、私たちをとおしてイエスの栄光が現れることです。その一つの目的と使命のために、私たちはこの世にいます。その他の理由はありません。


 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

 聖別してください、という祈りです。聖別とは、他のものから離れて、ただ神だけのものになる。神の器になるということです。イエスが言われているように、この世は悪に満ちています。ますます満ちています。したがって、私たちがこの世に汚される機会はますます増えてきています。けれども、神のものであるならば、それらのものから離れて、聖められなければなりません。聖なる神との交わりを保つためには、私たちも聖くなければいけません。しかし、聖くあるにはどうすれば良いでしょうか。イエスは、「真理のみことばによって、聖め別たれます。」と言われました。神のみことばによって、私たちは自分を聖く保つことができます。私たちが、常にみことばに触れていることは大切です。家から外に出た瞬間から、私たちは汚れと接触します。いや、家の中からすでに始まっているかもしれませんね。夫婦げんかによって汚されますから。外に出て、電車に入り、いやらしいスポーツ新聞を読むサラリーマンの姿を見ます。職場では、シモねたを聞かなければいけません。ビジネスの中の不正もあるでしょう。そして、家に帰ります。家に帰ったら、お風呂に入って肉体をきれいにするだけでなく、魂もきれいにしなければいけません。聖書を読まなければならないのです。なのに私たちは、テレビを見て、続けて魂を汚くしてしまいます。けれども、イエスは、「真理のみことばによって、聖別してください。」と祈られました。みことばが、私たちをきれいにします。


 ですからイエスは、弟子たちのために、御名の中で保たれるよう、そして聖め別たれるよう祈られました。私たちの救いについて、また聖化について、どちらのことも祈られているのです。そこで必要なのはみことばです。救いもみことばを受け入れることによって起こるし、聖化もみことばによって起こります。私たちのいのちは、神のみことばに頼っているのです。

3A すべての信者のため 「一つであるためです」 20−26
 そして次にイエスは、すべての信者のために祈っておられます。つまり、私たちに対して祈っておられます。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

 彼らのことばとは、使徒行伝と書簡、そして福音書と黙示録です。つまり、新約聖書を読んで、それを信じる私たちのために、今、イエスは父にお願い事をされています。

 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。


 イエスの祈りは、私たち信じる者が一つになること、一致することです。これが、私たちのための、イエスの祈りであることを知るのは非常に大切です。なぜなら、私たちクリスチャンは、本当にバラバラになっているからです。神が持っておられる私たちへの目的は、ご自分のようにすることです。人を神のかたちにして、ご自分の栄光を現わすことです。そしてその神の性質とは、一つであること、交わりをしていることでした。神は人をお造りになるとき、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。(創世1:26)」と言われました。神が、ご自分のことを「われわれ」とおっしゃっているのですから、私たちも、「私たちは一つです。」と言えるようになることが、神の願っておられることです。この、神が持っておられる大きな目的と、イエスの祈りを忘れないようにしたいと思います。そして、私たちが、「主よ、どうか、私たちが互いを受け入れることができるようにしてください。お互いに違いがあっても、それを受け入れ、愛によって結ばれるようにしてください。」と祈らなければいけません。なぜなら、私たちはキリストにあって一つとなるために、この世に生きているからです。


 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

 使徒たちに与えられた恵みに栄光を、私たちにも下さいました。そしてこの恵みによって、一つとなることができます。ですから、「恵み」をよく知ることは大切です。私たちは、自分たちのしていることによって神に喜ばれているのではなく、イエスがしてくださったことを信じることによって神に喜ばれています。したがって、私たちと異なる働きをしている人々でも、イエスがなさったことを信じているのであれば、神にとっては同じ評価なのです。私たちが、他の働きをしている人々にも、神さまと同じ評価をするとき、私たちは一つになり、神の栄光を現わします。

 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。

 
これは補い合って一つとなるということです。したがって、私たちがそれぞれ異なるのはマイナスではなくて、逆にプラスなのです。競走するのではなく、補い合うことによって、キリストのからだとして完全なものとなります。

 それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 この一致は、愛によって結ばれます。教理や考え方によって結ばれるのではなく、愛によって結ばれるのです。そして、その結果、世がイエスを知り、イエスを信じるようになります。ですから、私たちの伝道は、口でイエスのことを伝えるだけでなく、私たちが互いに愛して一つになることでもあります。


 そしてイエスは、最後の願いをされます。父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

 この世において一つになった私たちが、今度は天において、イエスの栄光を見ることができるように、イエスが祈られています。そうですね、天国においては、ブレザレンもカルバリー・チャペルもないわけです。主イエスにあって私たちは一つであり、天にあるその一致を、この地上でも証ししなければなりません。そして、天におけるイエスの栄光ですが、黙示録で、そのことが賛美されている箇所があります。この世界の封印を解く者がいなくて、激しく泣いていたヨハネに、天の長老がこう言いました。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。(5:5)」そして、ほふられたと見える小羊が立って入ました。この方が巻き物を受け取られたとき、4つの生き物と長老が賛美しました。「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』(5:9‐10)」さらに、万の幾万倍、千の幾千倍の御使いが、一声に小羊を賛美しました。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。(5:12)」イエスは、この賛美の中に私たちが加わってほしいと願われて、父に祈っておられるのです。


 ですから、イエスは、私たちが救われ、聖別されるだけでなく、天においてご自分の栄光を見てほしいと願われています。ですから、イエスは、私たちのすべての歩みにおいて、執り成しの祈りをされているのです。私たちが恵みから落ちないように、御名の中に保たれること。みことばによって聖別されること。世において一つになること、そして将来、天に引き上げられること、これらすべてのことにおいて、イエスは私たちのために祈っていてくださっています。

 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。

 先ほどは、父を「聖なる父」と呼ばれましたが、ここでは「正しい父」と呼んでおられます。そして、この世は神を知らないと言われています。つまり、この世は神の正しさを知りません。この世は、神について間違った概念を持っています。神は不公平であり、人のちょっとした間違いを怒り、意地悪をしていると考えています。1タラントを受け取けとったしもべは、主人をこう表現しています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。(マタイ25:25)」しかし、イエスによって、私たちは神を知ることができました。神は公平な方であり、正しく、情け深く、怒るにおそい方であることを知りました。


 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。御名をこれからも知らせる、と言われていますが、次の18章で、イエスは、ご自分を捕らえに来た者たちに、こう言われました。「わたしはある。」新改訳は、「それはわたしです。」となっていますが、英語は、I amです。「わたしはある」と言われたとき、彼らは後ずさりし地面に倒れてしまった、とあります。彼らは、神の御名の中にいないからです。けれども、弟子たちはいます。イエスご自身に彼らはつながれており、イエスご自身に信仰を置いており、イエスご自身を生きる目的にしていました。私たちが他の何かではなく、イエスご自身を見つめます。トマスが、「どこに道があるのですか。」と聞いたとき、イエスは、「わたしが道です。そして真理で、いのちです。」と言われました。マルタが、「ラザロは、終わりの時によみがえるのを知っております。」と言ったとき、「わたしがよみがえりです。いのちです。」と仰せになりました。他の何かではなくて、イエスが自分にとってすべてとなるとき、私たちは御名の中にいるのです。

 そして、最後の祈りは、次の一言で終わります。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

 愛が私たちの中にあります。イエスの私たちへの祈りは、神の愛が私たちの中にあるようにというものでした。これがイエスの祈りです。どうか、私たちがこの祈りに気づいて、御霊の働きを受け入れていくことができるよう、お祈りしましょう。



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