ヨハネの福音書18章 「世とイエスの対決」
アウトライン
1A 武器とイエスの御力 1−11
1B 策略 1−3
2B 御霊の力 4−11
2A 弁解とイエスの主張 12−27
1B 嘘 12−18
2B 愛 19−24
3B 恐れ 25−27
3A 無関心とイエスの証し 28−40
1B 他人事 28−32
2B 無真理 33−40
ヨハネの福音書18章をお開きください。この章でのメッセージ題は、「世とイエスの対決」です。イエスはこれから捕えられ、そして、大祭司のところに連れて行かれ、最後にローマ総督ピラトのところに連れて行かれます。
1A 武器とイエスの御力 1−11
1B 策略 1−3
イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。
イエスは父なる神への祈りを終えられました。そして、神殿の東側にあるケデロンの谷を通って行かれました。
そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。
これがゲッセマネの園です。他の福音書では、ゲッセマネの園における出来事を記していますが、ヨハネは記していません。おそらく、先に福音書で記されており、教会においても知られていたので、書く必要性を感じなかったのかもしれません。
ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。
ゲッセマネの園でイエスが祈られていた場所は、いつも弟子たちといっしょに集まっておられたところでした。だから、ユダは、きっとそこに行くに違いないと思い、策略を巡らせて、イエスを捕える者たちを導いていたのです。交わりの場に、ユダは突け込みました。
そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。
一隊の兵士とありますが、一隊とは通常600人単位のローマの軍隊に使われます。ですから大人数で来たのです。そして、ともしびとたいまつと武器を持ってきているのに注意してください。彼らはおそらく、弟子たちとイエスがどこかに逃げたり、隠れたりすると思って、ともしびを用意したのでしょう。また、武器を使って反逆するかもしれない、と思ったかもしれません。こうして彼らは、策略をめぐらし、用意周到にして、イエスに近づきました。
2B 御霊の力 4−11
イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。
彼らの予期に反して、イエスはご自分から彼らに近づいておられます。すべてのことを知っておられたからです。
彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
イエスが言われたみことばを、単に「それはわたしです。」と読んでしまったら、その衝撃は伝わりません。この前もお話したように、これは神の御名であり、「わたしはある。I AM egw eimi.」と言われているのです。このことばがあまりにも力強かったので、彼らはあとずさりして、倒れてしまいました。こんなにたくさんの人と武器を持っているのに、イエスのたった一言で倒れてしまうとは、滑稽なことです。けれども、ここで、イエスが肉の力に頼っておられないこと、霊に属する事柄で彼らに対抗されていることに注目してください。すべてのことを知ること、また神の御名を知らせることは、御霊に属する事柄ですね。「御霊は、すべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(Tコリント2:10)」とパウロは言いました。また、箴言には、「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。(18:10)」とあります。もちろんイエスはご自分が神であるから、このような行動に出られたのですが、私たちも似たように行動することはできます。肉の武器によって攻撃をしたときに、自分たちも肉の武器を使って対抗したらそこで敗北です。しかし、御霊によって歩み、その与えられた知識にもとづいて行動する。また、イエスの御名を呼んで、苦しいとき、試練に会っているときの砦にする。こうしたことがとても大切です。
そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現するためであった。
ここに、イエスの弟子たちへの愛を伺うことができます。弟子たちは、この出来事に耐えることはできません。また、実際に、彼らの命が奪われるかもしれませんでした。そこで、イエスは、「この人たちは、このままで去らせなさい。」と言われたのです。イエスはここで、弟子たちを守られています。
シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
ペテロは、肉に反応してしまいました。物理的な分野で、彼らに対抗しようとしました。けれども、イエスは、ふたたび御霊に関すること、つまり、父のみこころを求めておられます。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられようか。」とおしゃっています。私たちがこの世から攻撃を受けるとき、悪魔は何とかして私たちを肉の領域に連れ込もうとします。なぜなら、肉の領域に連れ込めば、勝利は悪魔のものだからです。私たちは、物理的な分野では、決してこの世にも悪魔にも抵抗することはできません。しかし、私たちが御霊の武器を用いれば、必ず勝利が与えられます。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(コリント第二10:4)」とパウロは言いました。ですから、私たちは御霊によって世に対抗します。
2A 弁解とイエスの主張 12−27
1B 嘘 12−18
そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
アンナスは、いぜん大祭司であった者です。紀元6年から大祭司の職に就きました。けれども、紀元15年に、ローマ帝国によって罷免させられています。というのは、大祭司職において腐敗が起こっていたからです。アンナスは非常に裕福な者でした。それは、神殿で牛や羊を売っていたからです。イエスが、牛や羊や鳩をみな神殿から追い出されたことを思い出してください。それは、神殿において、べらぼうに高い値段で、いけにえのための動物を売っていたからです。その利益が大祭司のふところに入りました。したがって、大祭司になることは、お金をもうける手段となり、その任職が買収するところまで腐敗しました。そこでローマはアンナスを罷免して、その娘の夫であるカヤパを大祭司として任命したのです。けれどもユダヤ人の間では、まだアンナスが大祭司として認められていました。そのため、イエスを捕えた者たちは、まずアンナスのところにイエスを連れていったのです。
カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。
ヨハネは、カヤパが何を言ったかについて思い起こさせています。「ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である。」言いかえると、「あいつを殺せ。邪魔だ。」となるでしょう。政治的ゲームの中で、非人道的な行為を行なっています。
シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。
この「もうひとりの弟子」はおそらく、ヨハネ自身であろうと思われます。でも、なんでヨハネが大祭司の知り合いなのでしょうか。ある説では、ヨハネの父親であるゼベダイは裕福な漁師であったというものがあります。当時は、魚は重宝がられ、体の貴重なたんぱく源でした。そこでエルサレムにいた大祭司アンナスは、ガリラヤ湖でとれた魚をゼベダイから買っていたという可能性があります。いずれにせよ、ヨハネは、イエスが大祭司の前に連れて行かれるとき、その場にいたのでした。面白いと思います。ヨハネはこの他に、イエスの復活の墓を見に行くときも、ペテロといっしょに自分がいたことを話しています。他の福音書には、ありません。これは、おそらく、他の福音書におけるイエスについての記録が正しいことをヨハネは言いたかったのかもしれません。この福音書の最後のところで、「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。(21:24)」と言っています。時は紀元90年を越えています。使徒たちはみな殉教し、自分だけが残っています。しかし、この自分が目撃者であり、じかに体験した証人であることを読者に伝えたかったのかもしれません。
しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。
ペテロは、中に入るのをためらいました。けれども、ヨハネが、門番の女に話してペテロを連れてはいらせました。
すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。
第1回目の否定です。著者ヨハネは、これから注意深く、このペテロとイエスさまを対比させています。ペテロは自分が迫害されるのを免れようとして、嘘を主張しました。自分のために主張したのです。次に出て来る、イエスの主張と比べてください。
寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。
なんと、先ほど剣を振りかざして、立ち向かった敵たちといっしょにいます。気が動転していたのでしょうか、単にどじだったのでしょうか分かりません。けれども、これが2回、3回とイエスを否定してしまう道へとつながります。
2B 愛 19−24
そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」
イエスが主張されました。律法の中における条項で、被告人は自分に不利になる証言を自らしなくてよい権利があることが述べられていました。彼らは、今、不法な裁判を執り行なっているのです。
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」イエスはふたたび、彼らの違法行為を咎めておられます。アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
今度は、カヤパのところへ連れて行きますが、そのことは他の福音書で記されていることです。神の子キリストであるなら、はっきりと言いなさい、とカヤパが聞くと、イエスは、「その通りです。人の子は、神の右の座に着き、天の雲に乗って来ます。」と答えられ、カヤパは服を裂き、死刑に当たる罪があるとしました。
けれども、アンナスの前において、イエスがご自分の正しさを主張されていることは不思議です。人々が「十字架につけろ。」と叫んだとき、イエスは何もお答えにならず、ピラトが、「あなたは私に話さないのですか。」と聞いたほど、イエスは沈黙を守られていました。イザヤ書にも、「ほふり場に引かれて行く小羊のように、…彼は口を開かない。(53:7)」と書かれてあるとおりです。なぜ、ご自分の正しさを主張されたのでしょうか。答えは、19節にあります。「大祭司は、イエスに、弟子たちのことについて尋問した。」とあります。大祭司は、イエスだけではなく、弟子たちをも道連れにして罪に定めようとしていたのかもしれません。つまり、イエスはご自分を守るために主張されたのではなく、弟子たちを弁護するために権利を主張されたのです。弟子たちがひとりも失われないように、律法の中における権利を主張されたのです。
3B 恐れ 25−27
それでは、これと同時間に起こったことを見てみましょう。イエスと対比されて、ペテロの姿が出てきます。一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。
ペテロは、言い張って、主張しました。しかし、それは自分が迫害されるのを恐れたためで、自分を守ろうとして主張しました。恐れによって自分を守ろうとしたペテロと、愛によって弟子たちを守ろうとしたイエスとの違いが、明瞭に現われています。世から圧力を受けるとき、私たちはペテロのように恐れを持ちます。そして自分を守ろうとする行動に出ます。あるいは、イエスのように、神を愛し、人を愛するため世に対抗することができます。ヨハネは手紙の中で、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。(Tヨハネ4:18)」と言いましたが、世から圧力を受けるとき、愛によって反応することができるし、また恐れによって反応することができるのです。ですから、動機が大事です。自分が反応しているのは、人を恐れているからか、それとも、神と人を愛しているからなのか、そうしたことを自問しながら、この世において主に仕えていけば良いでしょう。
3A 無関心とイエスの証し 28−40
1B 他人事 28−32
さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。
イエスをピラトの総督官邸に連れて行きました。そして、自分が汚れないように、官邸に入りません。過越の祭には、自分の土地にいっさいパン種があってはならないのですが、異邦人はそんなことは気にしないので、パン種を取り除きません。そこで彼らは官邸の中に入らなかったのですが、なんたる偽善でしょうか。続けざまに違法行為を自分たちで行なっているのに、このような律法の細かいおきてについては守ろうとするのです。これはまさに、イエスがパリサイ人や律法学者を糾弾されたことばのとおりです。「あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。(マタイ23:23)」宗教的な活動をしながら、なおかつ、正義やあわれみをおろそかにすることは充分可能なのです。私たちは、ただ教会に行っているからとか、献金をしているからとか、そうした活動で自分の霊性をはかることはできません。
そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。
イエスは、自分は上げられなければならないことを何回かお話しになりました。それを聞いてユダヤ人は、キリストが殺されることなのか、と疑問を持ちました。つまり、イエスが話されていたのは十字架刑であると理解したのです。ところで、このピラトとユダヤ人の会話ですが、ピラトはいかにも彼らの告発を聞きたくない、という態度が見え見えです。自分が異邦人であるからです。ユダヤ人のことには関わりたくない。やっかいだ、と思っています。さらに、史実によりますと、ピラトとユダヤ人との間には亀裂が走っていました。彼がユダヤ地方の総督になって、エルサレムに訪問することがよくありました。そのとき、彼は、カエザルの肖像がある旗をかかげて赴いたのですが、ユダヤ人は彼が入るのを拒みました。「その旗を取り降ろせ!」と主張したのです。そこで激しい対立が起こり、ピラトは、殺すぞ、と脅しました。するとユダヤ人は、逆に首を突き出して、「殺せ!」と言いました。殺すのはあまりにもむごいと思ったので、仕方がなく旗を取り降ろしたという経緯があります。したがって、ピラトはユダヤ人のことを取り扱うのが嫌なのです。自分には関係のないことだから、取り扱いたくないのです。
2B 伝道 33−40
けれども、「私たちは、だれを死刑にすることもできません。」と言うからには、取り扱うしか仕方がありません。なぜなら、ユダヤ人は死刑にする権利を逸していたからです。そこで、イエスへの尋問が始まります。
そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
これが、ユダヤ人指導者の告発理由でした。ユダヤ人の律法についてならローマがさばくことはできませんが、カエザルへの謀反の罪であれば、さばかれます。したがって、「ユダヤ人の王ですか。」と聞いています。けれども、次のイエスの返答が面白いです。
イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」
あなたは、ほんとうにわたしのことを知りたくて、そのような質問をしているのですか、ということをピラトに聞いておられます。なんとイエスは、この場において、伝道をなされているのです。サマリヤにいた女にされたように、普通の会話から始められて、ご自分のことをあかしするほうへ持っていかれます。
ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」
ピラトは、「あなたは何を言っているのか。訳がわからないね。」というような態度です。自分は異邦人だ。だから、あなたがメシヤと言っていようが、言ってなかろうが私には関係ない、と言うことであります。とにかく関わりたくない、という態度であります。イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そうですね、イエスが王であることは、まず自分自身の個人的な王でなければいけません。心の中でイエスを王とせずに、イエスを世界の王としてお迎えすることはできません。イエスが初めにこの地上に来られたとき、それは、個人的な王として迎えることの招きでした。そして、その招きに答えた者のみが、神の国において、世界の王となったキリストを真に礼拝することができるのです。そして、ここでも、イエスは弟子たちのことを守られておられるのに、お気づきでしょうか。弟子たちが謀反の罪を犯しているのではないことをお語りになっているのです。イエスは、役人たちに捕えられたときも弟子たちを守り、大祭司に詰問されたときも弟子たちを守り、そしてピラトに尋問されているときも、弟子たちを守られました。イエスさまの、弟子たちへの深い愛を感じます。
そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。」
はい、そうです、とも言われないし、いいえ、そうではありません、とも言われませんでした。あなたが言うとおりです、とややあいまいに答えられています。それは、確かにイエスは王であるけれども、ピラトが描いている王のイメージとは合致しないからです。私たちもそのような経験がありますね。人から、「クリスチャンになったら、献金しなきゃいけないの?」なんて聞かれたら、「ううん。まあ、そうだね。」と答えてしまいます。それは、献金をすることによって救われるという間違った考えを、その人が持っているからです。だから、献金はするのだけれども、献金することによって神から喜ばれるのではない、という気持ちが働いて、「まあ、ううんと、そうだね。」となってしまうのです。
わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
イエスは、ふたたびピラトに伝道しておられます。「真理」という言葉を用いられました。これなら、異邦人のピラトでも分かる言葉です。イエスは、自分はユダヤ人ではないから関係ない、と思っているピラトに対して、「そうではない。ほら、あなたが分かるように、今わたしはあかししている。あなたも救いが必要なのだよ。」と言うことを伝えようとされています。
そこでピラトは、少しかちっと来ました。ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
ピラトが生きていたのは、ギリシヤ哲学の後退期でした。哲学者たちが真理とは何か、考えあぐねた時でした。しかし、彼らは結論を出すことができず、結局、「人によって真理は違うのだ。自分が真理だと思っていることが真理なのだ。」ということになってしまいました。でもこれでは、絶望です。私たちに共通する普遍的な真理は存在しないことになり、希望がなくなってしまいます。そこで、ピラトは、やや冷笑的に、「真理とは何かね?」と聞いているのです。けれども、私たちは、この世に生きていて、多くのピラトに出会います。あまりにも多くの者が希望を約束し、その通りになっていないのを人々は見てきました。それで無気力感、無関心が広まっているのです。けれども、この無関心が、私たちの最大の敵でもあります。神は、ねたみにかられ、憎悪に燃えるユダヤ人指導者を用いることはできましたが、無関心な者たちは用いることはできませんでした。キリストに対して中庸な立場を取っているようで、実は神の働きをもっとも妨げる要因なのです。ですから、私たちは、この世の無関心と対決しなければなりません。何とかしてねたみを起こさせ、キリストと対決してもらわなければなりません。イエスはピラトに証しされました。
イエスが語られたのは「真理」ですが、実は、これがピラトにもっとも欠けていたものでした。次をご覧ください。彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。
ピラトは、明らかにイエスは無罪であることを知っていました。それが真実でした。ですから、ピラトはこの時点で、「このイエスを釈放する。」という判決を出し、群集を無視して釈放すべきでした。護衛をつけて群集からイエスを守るぐらいしても良かったのです。しかし真理などないと失望しているピラトにとっては、人々の間の意見にバランスを持たせることがもっとも大切になっていたのです。打算的になっていました。だから、ひとりの者を釈放するのがならわしになっています、などと代替案を持ち出しています。真理などないのだから、多数派の意見を採用すれば良いと思っていたからです。なんとイエスさまは、的を得ておられたでしょうか。ピラトにもっとも欠けたところから証しをされましたが、これが私たちに必要でしょう。その人の必要にぴったり合うメッセージをかたる必要があるのです。
こうして、私たちは、この世がイエスと対決している部分を見ることができました。一つは武力にとの対決がありました。肉の武器ではなく、御霊の武器を持とう、ということです。もう一つは、世からの圧力に、恐れではなく愛によって対抗することです。そして、最後に、無関心に対して、勇敢に証しによって対決する、ということであります。そしてイエスは、ずっと弟子たちを守っておられました。彼らを愛しておられました。私たちをも愛してくださっています。イエスさまの思いのなかでは、いつも私たちのことが思い出されています。お祈りしましょう。
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