ヨハネによる福音書1章1-5節 「ことばがあった」
アウトライン
はじめに − 紹介するのは人物
1A ヨハネの福音書の目的 20章31節から
1B イエスが神の子
2B イエスがキリスト
3B イエスの名による命
2A 神なる言葉 1−5
1B 永遠の方 1−2
2B 創造主 3
3B いのちと光 4−5
はじめに − 紹介するのは人物
これから私たちは、聖書の中にある「ヨハネの福音書」という書物を礼拝の中で読み、学んでいきたいと思います。
新約聖書を見ると、その初めの四つの書物は「福音書」と呼ばれるものです。四つあるのですが、みな同じ出来事を描いています。イエス・キリストの生涯についてです。イエスがどのようなことを行ない、どのようなことを言われたのか、それをキリストの弟子が書き記しました。
その中でもヨハネは、一番遅く書きました。紀元90年代です。実際の出来事は30年代に起こりましたから既に60年が経っています。他の福音書の著者であるマタイ、マルコ、ルカは、それぞれの視点でイエス様について書き記されたものが、すでに教会の中で出回っています。けれども、ヨハネはそれでも、イエス様について書きたかったことがあったのです。
ヨハネは、その目的をこの福音書の最後でこう書いています。20章31節です。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネは、「イエス様が誰であるのか?ここにあるとおり、神の子でありキリストであること知らせ、そしてそのことを信じて、命を得るためである」と、はっきり語っています。
私たちは海外と日本を行ったり来たりする生活を送っていますが、妻は一生懸命、現地の言葉を勉強しています。その教室には先生も含めてクリスチャンが多いのですが、一人、そうではない人がいました。彼が回りにいる人々に、議論をふっかけたのです。「キリスト教は文化の一形態である」と。
それで、私の妻も含めて、キリスト教が単なる文化ではないことをいろいろ主張しました。妻は、「私は日本人だけれども、もしキリスト教が文化だったら、私はクリスチャンにならなかったよ。日本にはキリスト教の文化はないから。」と答えました。
けれども教室に入ってきた先生がこう一言答えたそうです。「キリスト教は文化かもしれないけれども、イエス・キリストは文化ではないですよね。」それ以来、そのクリスチャンでない人は授業に来なくなってしまったそうですが、妻の話を聞いていて、この先生の答えが一番的確だなあと思いました。キリスト教あるいは宗教が文化であるかどうかの議論は激しく起こるでしょう。けれども、イエス・キリストを文化だと主張したら、あまりにも滑稽なことです。どんなに疑い深い人でも、一人の人物を文化だと言うことはありません。
ヨハネが言いたいこと、そして聖書が言いたいこと、そして私も言いたいことはこの一点です。教会にまで来られて、何かを得なければ時間がもったいないです。でも、みなさんにキリスト教のことを知っていただく必要は一切ありません。教会という組織について知っていただく必要は一切ありません。唯一つ、「イエス・キリストって一体誰なんだ?」この疑問だけを抱いて、ぜひ聞いてください。また礼拝に集ってください。
1A ヨハネの福音書の目的 20章31節から
そうすれば、みなさんの質問が次のようになると思います。「イエス・キリストがなぜ私なんかに関係があるのか?」という質問が出てくると思います。そうですね、ほぼ二千年前に、しかも飛行機で行ったら、乗り換え時間を含めて16時間はかかる、中東のイスラエルという国で起こったことです。今、ここにいる自分に何の関わりがあるのかと思われるでしょう。
すでに信仰を持っている者の人に尋ねれば、「イエス様は私を愛してくださっています。」と答えて、なんか変な気分にならないでしょうか?まるで二千年前の人を亡霊のように今になっても信じているように聞こえるでしょう。それでもヨハネは、「いや、あなたにも深く関わりのある人物なのですよ。その根拠を私は書き記したんです。」と言っているのです。
1B イエスが神の子
ヨハネの第一の主張は、イエスが「神の子である」ということです。神の子と言ったら、「そうだよね、私たち人類みな、神様によって造られた子供だよね。」とお考えになる方もいると思います。実際、日本人の監督が作ったドキュメンタリーの映画で「神の子どもたち」というのがあります。人間の命には尊厳があることを考える時、そこに神秘的なものを感じるので人間をそう呼んでも違和感がありません。
けれどもヨハネが行っている「神の子」は全然意味が違います。「神」というのは、この天と地を造った創造主のことです。この地球よりも宇宙よりもはるかに大きい、無限の神のことです。そしてその「子」というのは、王子のことです。王子が王の全てのものを受け継ぎ、父と同じように全てのものを支配するように、イエスは神であられ、父なる神のすべてのものを受け継いでおられる、ということなのです。
旧約聖書の「詩篇」というところに、こう書いてあります。二篇の7節からです。「「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(詩篇7-8節)」これが「神の子」の定義です。
もしイエスが神であり、神の子であるならば、この地上に生きていたイエス・キリストという人物は、みなさんに直接関係します。二千年前にこの地上にいた単なる歴史上の人物ではないのです。ただ一度、人として歴史の中に介入されたが、時間を超えて、今生きている私たちのことを考えて、十字架にかかり、そして復活されたことになるからです。
そしてもちろん、時間だけでなく空間も越えています。神はイスラエルだけにいるのではなく、飛行機で16時間離れた日本にいる私たちのところにも同時におられるのです。
2B イエスがキリスト
そしてヨハネのもう一つの主張は、イエスが「キリスト」だと言うことです。「イエス・キリスト」というのは名前と姓ではありません。「イエス」が名前で、「キリスト」というのは称号です。一つの働きを示す呼び名なのです。
新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、旧約聖書は主にヘブライ語で書かれています。そして旧約聖書で「メシヤ」と呼ばれているもののギリシヤ語訳が「キリスト」です。メシヤとは、もともと「油注がれた者」という意味であり、イスラエルで王や祭司が任命される時に、その人に油を注ぎました。
そこでメシヤは、いわゆる「救世主」としての働きをする人物として描かれています。この世界を救ってくれる人です。人間は誰しも、メシヤを求めています。どうでしょうか?テレビのドラマで、人々が苦境に立たされている時に、そこから救ってくれる人、そして虐げている人を正義でもってやっつけてくれる人がいたら、気持ちがすっきりしますね。おじいさん、おばあさんなら「水戸黄門」、若い人なら「ごくせん」のヤンクミというところでしょうか。
そして今、アメリカのオバマ大統領が世界で人気です。なぜなら、世界を平和へと導くのではないかという期待があるからです。これこそメシヤ待望の気持ちが込められています。
そして聖書の最初の書物、創世記3章には、男と女がそれぞれ抱いている救済の願望が描かれています。まず女に対してですが、神がこう言われました。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(16節)」女の人は、人との関係、特に男に対して期待を抱くのです。男との関係があれば、私は回復するという切望があります。だから「夫を恋い慕う」のですが、その期待はすぐに裏切られます。「彼は、あなたを支配することになる。」
そして男に対しては、神はこう語られます。「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。(17-19節)」男にとっての救いは、仕事です。会社で一生懸命働き、それで良い報酬と地位を得ることができれば、彼は自分が生きていて意義があると自覚します。けれども、その期待もことごとく裏切られます。会社から離れれば、多くの人はまるで抜け殻のようです。自分が生きている意味を見出すことすらできません。
その原因は、この話の前を読むと、アダムが食べてはいけないと神に命じられた木からの実を取って食べたからであり、その結果としてこうした、いわゆる「呪い」があるのだと言っています。
このようにアダムが犯した罪の結果、私たち人間は罪の下にあり、自分を救いたくても救うことのできない状態にあると、聖書は教えています。
そしてこの罪を処理してくださったのが、イエス・キリストであるというのが聖書の主張です。イエスが十字架につけられたとき、それは私たちの罪の身代わりの死であり、そして三日目に復活した、よみがえってくださったというのが聖書の言っていることです。
3B イエスの名による命
ですから、イエスが本当に神の子なのか、そしてキリストなのか、これらの証拠を持ってきたのがヨハネによる福音書です。そしてその証拠を見て、イエスが確かに神の子であり、自分の救い主であると認めて、信じた人には命が与えられるという約束が与えられています。
この「命」についてもこれからの学びで詳しくお話しします。これは単なる肉体の命のことではありません。霊魂の命です。私たちが生きていることに意味を与える命であり、肉体が死んだ後でもなお存在している命です。
2A 神なる言葉 1−5
では、ヨハネの福音書1章の最初の言葉をご覧ください。
1B 永遠の方 1−2
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
「ことば」という言葉が出てきました。これをギリシヤ語で「ロゴス」といいます。「ロゴス」というのは、ギリシヤ人の哲学の中で、大きな意味を持っていました。「すべての物の背後には、その物を存在させる考えがある」というものです。
例えば、ここにペンがあります。このペンが存在する前に、このペンについての考えがなければいけません。形があり、機能があり、目的があります。これらの考えが、ペンが存在する前になければいけない、というものです。
これは当たり前ですね。すべて形あるもの、秩序あるものであれば、それを造るための考えがなければできません。
では今度は私たち自身、人間を見ましょう。人間の体がいかに精巧に作られているかは、皆さんよくお分かりだと思います。どんなに優れた機械であっても、人間の体の機能よりは優れていません。目を取っても、キャノンなどの高画質の写真を撮ることのできるカメラを持ってしても、私たちの目に映る像より鮮明にすることはできません。
では、その背後にも考えがあるのです。そうでなければ、存在しえないのです。では、今度は天体を見ましょう。昔からの自然科学者には、数多くキリスト者が多いですが、数々の法則を発見した天文学者ケプラーもそうでした。彼は、「神が創った宇宙ならば、そこには美しい秩序が隠されているに違いないと」という信念があったのです(こちらを参考)。きれいな山も川も、そして海にも、私たちは秩序を見ることができます。
であるならば、これら自然また宇宙が存在する前に、何らかの考えがないと存在できないのです。これをすべての事象は、偶然によってもたらされたと考える進化論では、到底説明することができません。
けれどもヨハネは、ギリシヤ人の考えよりもさらに一歩、踏み出しました。「すべて秩序あるものの背後には、考える方がおられる。」というものです。単なる考えではなく、考えている人がいる、ということです。
だから、ここで「初めに、ことばがあった」とあります。この言葉は、神とともにあり、神であった、とありますが、14節以降にことばが人となった、そしてこれはイエス・キリストであることを説明しています。
創世記1章1節、聖書の一番初めの言葉は何でしょうか?「初めに、神が天と地を創造した。」です。ヨハネ1章1節の「初めに」は、天と地が存在する前のこと、永遠の昔のことを言っています。イエス・キリストは天と地が造られる前から存在し、永遠の昔からおられた、ということです。
イエス様は、ユダヤ人の宗教指導者から、「あなたはまだ50歳になっていないのに、アブラハムを見たのですか。(ヨハネ8:57)」と聞かれました。アブラハムはユダヤ人の始祖です。紀元前2000年頃に生きていた人です。ですから、だいたい二千年前にいた人のことについて、イエス様は「アブラハムは、わたしの日を見た。」と言われたのです。まだ30歳そこそこの若造なのに、お前は何を言っている?と彼らは疑問を呈したのでした。
そうしたらイエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58節)」つまり、もう二千年以上生きているということです。ここで日本語の聖書の訳が成就ですが、「わたしはいました」と訳さずに、「わたしはいるのです」と訳しています。そうなんです、神は時間を超えた方であり、過去も現在も未来も存在せず、すべてが「今」なのです。二千年前も、今の2009年7月も、そして将来も、すべて神にとっては「今」なのです。イエス様が二千年前に死んだとしても、今の私たちのことを考えて死んでくださったのです。時間に制約される方ではありません。
それでユダヤ人は、石を取ってイエスに投げつけようとしました。彼らは聖書を知っていますから、イエス様が天地を創造した神と自分を等しく置いていることがはっきり分かったからです。「人間に過ぎない者を神とするとは何事だ。」という怒りです。でも、本当に神だったら、どうしましょうか?この疑問に皆さんも答えてみる必要があります。
2B 創造主 3
そして3節をご覧ください。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
これは明確に、ことばが、イエス・キリストが、万物を造った創造主だという宣言です。コロサイ人への手紙1章16,17節にも、こうあります。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
キリスト教のように見えて、実はキリスト教ではないと言われるのが異端と呼ばれますが、異端の代表格に「エホバの証人」という団体があります。彼らは、イエスは創造主ではないと教えます。けれども、この箇所を読めばあまりにも明確です。
イエス様が地上におられた時に、弟子たちに「思い煩ってはいけない。」と言われて、こんな例を話されました。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)」また、「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。(28節)」空の鳥が優雅に飛んでいる、その空気力学を造られたのはイエス様です。飛べるようにしているのはわたしなのだよ、ということです。花がきれいに咲いているのも、それを考案し、造ったのはわたしなのだよ、ということです。
そして私たちが今、こうして生きていて、呼吸をしていて、目で見ていて、胸に手を当てたら心臓の鼓動を感じることのできるのは、すべてイエス様がそれを行われているのだ、ということです。
こんなこと、誰が信じられるか!と思われたら、続けてヨハネの福音書を読んでください。どんな人間も、どんな魔術師も、どんなにすぐれたものであっても、することのできない、創造主にしかすることのできない独特の、さまざまな徴がヨハネの福音書には記されています。その極めつけは、死んでいるのに生き返るという、墓からの復活です。
3B いのちと光 4−5
そして4節を読みましょう。1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
先ほども出てきた「命」です。ヨハネの福音書では、「永遠の命」とも呼ばれています。肉体の命ではなく、霊の命、そして永遠に続く命です。
イエス様が、子供を受け入れて祝福された後に、ある金持ちの青年がやってきて、こう言いました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。(マルコ10:17)」この青年は、イエス様に何か違うものを見たのです。イエス様の言われること、行っておられることに、何か自分にはないものがある、それは命だ、永遠の命だ、ということです。
永遠の命というのは、もちろん肉体の死後、その後も存続する命のことです。もし死んだ後にどうなるか、その問いに答えることができないなら、私たちは今の命に意味を見出すことができません。とうぜ80年ぐらいしたら無くなる命なのです。「自分の肉体が滅んでも、生きる命がある。だから、今このときをきちんとしなければいけない。」と考えるのです。
このことについて最近ある方と話をしました。その人は「私は魂を信じない。」と言われました。「でも死んだら消滅してしまって、永遠に意識も何もかもなくなるって考えたら、怖くないですか?」と聞いたら、「限りある命だから、今しかない命だから、一生懸命生きられる。その後に命があると思ったら、だらけてしまう。」と答えられました。
これは典型的な日本人の死生観です。「この目に見える世界だけがすべてであり、霊や魂というのもこの目に見える世界だけの中にあるのだ」というのは、まさに神道の考え方です。
永遠の命というのは、そうものではありません。「生きている時に行ったことによって、永遠の報いを受ける。」という類のものです。「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2:7-8)」今、この地上で生きている時に行う決断が、永遠の運命を決定づけるのです。死んでからでは遅いのです。
だから永遠の命の考えを受け入れると、私たちは、今の生活に責任を持つようになるのです。今、自分が行っていることが永遠の評価を決めてしまうのだ、という責任感が出てきます。
もし今だけの世界が全てだと考えるならば、「どうせ明日は死ぬのだから、飲んで、食べて、楽しく暮らそう。」という、その場限りの虚無的な生活しか送ることができません。生きていても、どんな成果をこの地上で上げても、どうせすべては死に至るのだから、空しいと結論せざるを負えなくなるのです。もし詳しくお知りになりたかったら、旧約聖書にある「伝道者の書」をお読みください。あらゆる知恵と富と栄華を持ち合わせたソロモンという王が、同じ結論を出しています。
このように命がこの方にありました。そしてこの方に光がある、とありますね。1:4bこのいのちは人の光であった。1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
「光」です。聖書の中で「光」は「聖さ」を表しています。欠けたところがなく、悪が一切なく、すべてが完全である姿を表しています。
人はみな「闇」を持っています。他の人には知られたくない、隠された自分の真実があります。パウロという人は、このことについて明確に話しています。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。(ローマ2:16)」
これからイエス様の生涯を読んでいきます。その中で、この方がいかに聖いかを知りますが、それだけでなく、今度は自分の醜さ、愚かさ、罪、汚れが露にされます。他の人は誰も知らないし、また一般社会の基準で言っても、まあごまかしても何とか許される類のものです。けれども、自分の良心は許せません。恐ろしさを感じます。確かに、最後の審判があって、そこで裁かれるかもしれない、と思います。
その時に、「もうキリストは要らない。その話を聞きたくない。」と思ったらどうなるのでしょうか?イエス様はニコデモという人にこう語られました。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:19-21)」悪い行ないが明らかにされるのを恐れて、光よりも闇を愛します。そして光を憎みます。
でももう一つの選択があります。「真理を行なう者は、光のほうに来る」のです。私たちの罪、汚れ、闇が露にされます。けれども、そのありのままの姿で主の御前に出てください。十字架刑に処せられたイエス様の前に出てください。そうすれば、そこで流されているその血は、自分の為であることに気づくのです。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)」キリストの血が皆さんを清めてくれます。そして雪よりも白くしてくれます。恐れずに、ありのままの自分をイエス様に差し出してください。主は、怒られるどころか、そのすべての罪をご自分の上に置いてくださるのです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)」