ヨハネの福音書20章 「見ないで信じる神」
アウトライン
1A 新しい関係 1−18
1B 主への愛 1−10
2B 兄弟なるイエス 11−18
2A 新しい臨在 19−31
1B 平安 19−29
2B いのち 30−31
本文
ヨハネの福音書20章を開いてください。ここでのテーマは、「見ないで信じる神」です。20章は、イエスが死者の中からよみがえられる記事であります。この復活の姿を弟子たちが見たことが描かれていますが、この章では、この復活の出来事によって、弟子たちがまったく新しいかたちでイエスを信じるようになることが記されています。今までは、目に見えるかたちでのイエスを信じていました。イエスは、神のことを教えてくださる教師であり、イエスが物理的にともにおられることによって安心することができました。けれども、この章では、「見ずに信じる者は幸いです。」というイエスのみことばにあるように、目に見えないかたちでイエスを信じることに変化したことが書かれています。それでは、本文を読みましょう。
1A 新しい関係 1−18
1B 主への愛 1−10
さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
週の初めの日とは日曜日のことですね。イエスが安息日の前に葬られて3日たちました。そして朝早くまだ暗いうちに墓に来ています。そして、来たのはマグダラのマリヤでした。他の福音書では、女たちが来たことになっていますが、おそらく、マグダラのマリヤは、途中まで女たちといっしょにいたけれども、足早になって、独りで先に墓に来てしまったと考えられます。マグダラのマリヤは、イエスが十字架につけられたときも、すぐそばにいたし、そして、今、イエスがよみがえられるときも、すぐそばにいました。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
走って、ペテロとヨハネのところに行きました。マリヤは、墓が取りのけてあるのを見て、それをだれかがイエスのからだを取って行ったからだと解釈しました。
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
二人とも走っています。ヨハネはひそかに、ペテロよりも自分のほうが速かったことを言及していますが、ささやかながら、ペテロとヨハネの間には競争心があったようですね。たぶんヨハネのほうがペテロよりも年若かったので、体力があったのかもしれません。まあ、それはともかくとして、二人とも走って墓に行っています。ここで、本当は他人事であるとして、聞き流すこともできたのでしょうが、彼らはすぐに反応しています。私は、これは彼らのうちに、イエスへの愛が残っていたからです。彼らは、イエスのことばを信じない、イエスがよみがえられると話されたことばを信じない不信仰に陥っていました。イエスが死なれたとでつまずき、失望していました。けれども、反応しているのは、まだイエスに愛着が残っているからです。不信仰になっているのですが、イエスへの愛は拭い去ることはできていなかったのです。このことはとても大切だと思います。彼らはあとで、よみがえられたイエスに出会いますが、イエスに何の愛も持っていないローマ兵やユダヤ人たちは、だれもイエスの復活の姿を見ませんでした。イエスを愛している者のみに現われてくださったのです。私たちは、よく信仰的にダウンします。弟子たちのように、失望し、がっかりし、先行きが見えなくなってしまうときがあります。けれども、私たちに、イエスが自分を愛してくださった、そして愛してくださっているという強い確信があれば、私たちの心の奥底に、決してだれも取りさることができないような、イエスへの敬愛があります。そして、私たちは必ず、生ける主とお会いし、交わることができます。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
律法には死体にふれてはいけない、という掟があるので、ヨハネは入るのを躊躇したのかもしれません。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
シモンは、だれかが取っていったのではおかしい、亜麻布と布切れの置き方がされているのに気づきました。
そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
後から入って来たヨハネは、この意味が分かりました。だれかが取って行ったのではなく、主がよみがえられたのです。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
彼らは、イエスが墓におられないという事実の意味を把握できていませんでした。ヨハネも、よみがえられたことが分かったものの、あまりにも驚いており、それを他の人には明かさなかったのようです。それで自分たちの家に帰りました。
ここで、ギリシヤ語を調べるととても面白いことに気づきます。ここまでの箇所において、「見る」という言葉が4回出てきました。1節で、マリヤが墓から石が取りのけてあるのを見ました。そして、5節でヨハネが、かがんでのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見ました。ここでのギリシヤ語は、ブレポウというもので、ただ単に見る、と言う意味になります。つまり、マリヤもヨハネも、注意深く墓を見たのではなく、ただちらっと見たにすぎません。そのため、マリヤの場合、彼女は、だれかが主を取っていったしまったと判断したのです。けれども、7節では、ペテロが、亜麻布が離れた所に巻かれたままになっているのを見た、とありますが、ここでの「見る」は、セオレオウというものです。注意深く見る、調べる、という意味になります。けれども、注意深く見ても、その意味は分かりませんでした。そこで、8節の、「見て、信じた」というのは、エイドンというギリシヤ語であり、見て、理解するという意味になります。今、自分が見ているものが何の意味を持つのか、理解できたのです。パウロは同じエイドンのギリシヤ語を使って、「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。(コリント第二5:7)」と言いました。ですから、私たちも、見ることにおいて、このような段階が必要になります。私たちは日々の忙しさの中で、ただ物事を眺めている、ちらっと見ていることして行ないません。けれども、主がどのように働いておられるのか、それをじっくりと見つめる時がどうしても必要になります。そして、ただじっくりと見つめるだけではなく、それがいったい何を意味しているのか、こんなことが起こっているが、主は何を私に語ろうとされているのか、見極めなければいけないのです。ですから、静かな時間が必要です。主とともに過ごし、自分の生活を省みて、ヨハネが見て信じたように、理解して見ていくことが必要なのです。
2B 兄弟なるイエス 11−18
しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。
10節のことばは、「自分のところに帰って行った。」ですが、ここで、接続詞が「しかし」になっています。ペテロやヨハネとは対照的に、マリヤは墓にいました。弟子たちには自分たちの帰る家がありましたが、マリヤにはありませんした。マリヤにはただ、イエスのそばにいるところしか自分の家を見つけることはできなかったのです。マリヤは、7つの悪霊をイエスによって追い出していただいた人です。人間的な生活を過去に送っていませんでした。しかし、イエスによって解放され、救われ、いやされて、イエスに従うようになりました。もしかしたら自分の家があったかもしれませんが、精神的にはイエスのそばにいないと、何の生きる道も分からなかったのです。私は漫画で、飼主が交通事故で死んだ場所にそのペットがずっとその場所にいて、ついに餓死してしまった話しを読みましたが、まさにそんな感じだったのでしょう。イエスを離れては、行くべき場所がないのです。
けれども、そんな彼女に御使いが現われます。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
面白いですね、彼女はイエスのことをまだ、「私の主」と呼んでいます。彼女にはまだ、イエスへの深い愛がありました。イエスが、香油を御足に注いだ女について、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。(ルカ7:47)」と言われました。多くの罪が赦されたことを知った人は、このマリヤのように、イエスに対して深い愛を抱きます。
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
これまた面白いです。他の女たちに対しては、御使いが、イエスがおられない意味を告げましたが、マリヤにはイエスご自身が現われてくださっています。よみがえられたことを告げられてのではなく、よみがえられたことを見させていただきました。マリヤにはこのことが他のだれよりも必要だったのでしょう。けれども、彼女にはイエスであることが分かりませんでした。たぶん、墓の中ですから暗かったのと、それに、泣きじゃくっていたので、涙でイエスの顔がよく見えなかったのだろうと思われます。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
御使いと同じように、「なぜ泣いているのですか。」と聞かれています。今は泣くべき時ではありません。喜ぶべきときです。クリスチャンの悲しみは、必ず喜びに変えられます。復活の主がおられるので、喜びに変えられるのです。
彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエスはこのことを聞いて、少し微笑まれたのではないでしょうか。それで、次にこう言われます。イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
実に麗しい、愛情に満ちた声だったのでしょう。マリヤはすぐに気づきました。
彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。」
マリヤは、イエスが窒息しそうなぐらい、かたく握り締めたのでしょう。もうだれにも取られてはいけない。どこかに行ってもらいたくない。ぜったい、イエスさまといっしょにいる、という死ぬ物狂いの抱擁です。
そして、次に実に興味深いイエスのみことばがあります。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」と告げなさい。
イエスは、「わたしはまだ父のもとに上っていない。」と言われています。おぼえていますか、過越の祭りの食事を弟子たちとともにされたときから、イエスは弟子たちに、「わたしは父のもとに行きます。」と繰り返されていましたね。イエスはまだ、昇天されていません。だから、すがりついてはいけない、とイエスは言われていますが、これは別に、マリヤが抱きしめているから物理的に天に昇ることができない、ということではありません。これはイエスが昇天されて、聖霊が彼らに注がれなければ、新しい関係の中に入ることが出来ないという意味です。イエスは、父なる神を、ご自分の父であるだけでなく、弟子たちの父とおっしゃっています。また、ご自分の神だけではなく、弟子たちの神であるとおっしゃっています。そして弟子たちを、「わたしの兄弟」と呼ばれています。弟子たちはこれから、聖霊によって、神との新しい関係の中に入っていくのです。イエスが父なる神と関係を持っていたのと同じように、弟子たちが父なる神と関係を持つことができます。もちろん、イエスは神のふところにおられるひとり子の神ですから、その関係の持ち方は全く異なるのですが、それでも、聖霊によって私たちは、父なる神を「お父さん」「アバ。父。」と呼ぶことが許されるようになります。また、キリストと共同相続人になります。イエスがすべてのものを父から与えられましたが、私たちも父からすべてのものを与えられるのです。こんなすばらしい関係の中に入るのだから、マリヤよ、今、しがみついてはいけません、と言われています。ですから、弟子たちは、目で見えるイエスを見て、信じていましたが、実は、目で見ないイエスを信じて生きていくことのほうが、さらに深い、さらに偉大な関係を持つことができるのです。私たちの神との関係が、このようなものでしょうか。神は、このような関係にいることを、私たちが悟ることができるようにつねに願っておられます。
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
マリヤが、復活の第一の証人となりました。そして、マリヤが第一の福音宣教者となりました。福音の根幹は、キリストの死と死者からのよみがえりだからです。そして、聖書が、人が考える方法とは異なる方法で神が働かれているのに気づくことは大切です。人が、神は男を用いられると考えるときに、女性を用いられます。人が王によって戦争に勝利が与えらあれると考えるときに、列王記第二を読みますと、腹ぺこで死にそうになっている4人のらい病人を神は用いられました。長男によって相続が行なわれると人が考えるときに、神は弟を用いられました。アベル、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、これらはみな弟です。なぜなら、神は、弱い者や取るに足りない者を選ばれることによって、強い者やおもだった者たちをはずかしめるためです。神にこそ力があり、知恵と栄誉があることを、すべての人が知るためです。ここではマリヤが用いられました。
2A 新しい臨在 19−31
1B 平安 19−29
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。先ほどまでは朝の出来事でしたが、ここから夕方に入ります。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
弟子たちは、ユダヤ人たちからの迫害をおそれて戸をしめていました。けれども、イエスが真ん中に現われて、「平安があるように。」と言われています。イエスはよみがえられたとき、私たちが持っている肉体とは異なるからだをお持ちになりました。復活のからだです。これは、物理的な壁も通り抜けることができる体です。しかも、同時に、いろいろな場所で現われることができるからだであります。コリント人への第一の手紙15章では、「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。(6)」と書かれています。ですから、弟子たちは、イエスとの新しい関係に入っただけではなく、新しい臨在を手に入れることができました。これまで、物理的にイエスがおられなかったら臨在がなかったのですが、これからはどこにいても、そこにイエスはおられ、目で見えなくても、いっしょにいてくださるのです。そして、いっしょにいてくださることによって出て来る祝福は平安です。彼らが恐れているように、これからユダヤ人に迫害されます。実にヨハネ以外の使徒は、殉教で死にました。けれども、そのような過酷な状況にいても、イエスがともにいてくださるので平安なのです。私たちも同じです。どのような過酷な状況にいても、イエスがともにいてくださる、私たちの真ん中にいてくださることを知るとき、平安であります。
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは彼らに、ご自分が確かに十字架の上で死なれたことをお示しになりました。確かに死なれたのです。死んだのが、よみがえられたのです。だからこそ、弟子たちの喜びはこの上もないものになりました。イエスが死なれたということは、人間がとてつもなく罪深く、救いようがなく、どうしようもない存在であることを伝えます。十字架を見つめることは、自分がそして人間が罪の泥沼の中にいて、真っ暗やみにいる現実を直視することであります。多くの人は、「そんなに、人間が悪い悪いって言うなよ。もっと明るく生きなきゃ。」と言うのですが、そんなことでは、イエスがよみがえられた事実に喜ぶことはできないでしょう。本当に罪に対して絶望した者のみが、イエスのよみがえりを真に喜ぶことができるのです。この喜びは、イエスが言われたように、だれも取りさることのできない喜びです。死の恐れを乗り越え、どんな障害物も乗り越えていくような喜びです。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
今度は、イエスと同じような任務に弟子たちをつかせます。
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
弟子たちは、この時点で新たに生まれました。聖霊がともにおられるだけではなく、うちに宿ってくださったのです。この聖霊のとの関係によって、父なる神と交わることができるし、ここでは、主イエスと同じ働きを行なうことができるようになります。
あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。
これは、どういう意味でしょうか。もし私のところに、罪意識で悩んでいる兄弟が来たとします。罪を何度も犯したから、自分は救われないのではないか、と悩んでいます。それで私が、「イエスさまがあなたの罪のために十字架につけられ、あなたにいのちを与えるためによみがえられたことを信じますか。」と聞きます。すると、「信じます。」と応えます。そのとき私は、「あなたの罪は赦されました。」と宣言することができます。聖書に告げられているところにしたがって、神の権威をもって罪の赦しを宣言することができるのです。このような大きな任務、イエスが父から授かっていたような任務が弟子たちに与えられ、そして私たちにも与えられているのです。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
ここで、私の好きなトマスが登場します。イエスが来られたときに、彼らといっしょにいませんでした。トマスは、他の人たちとは違った行動を取ったり、突拍子もない発言をしたりします。イエスがラザロの家に行こうと言われたとき、「主といっしょに死のうではないか。」と言ったのはトマスです。イエスが、「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と言われたとき、「そんな、あなたの行かれる道は私たちにはわかりませんよ。」と言ったのはトマスです。突拍子もないのですが、それは、彼のプラグマチックな性格から出ています。比喩的な、霊的な会話を理解できず、実際的な事柄だけを追っていきました。そこで次のトマスの発言をご覧ください。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
主を見た、という実に空想めいた会話に対して、彼は、釘の跡を実際に見て、見るだけでなく自分の指をその穴に差し入れて、さらに、わきに自分の手を差し入れてみなければ信じない、と言っています。彼の性格がよく表れています。
しかし、これは大きな代償を伴ないました。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
8日間、トマスは悲しみの中にいました。他の弟子たちは喜んでいたのに、彼は悲しんでいたのです。これが不信仰によって支払わなければいけない代償です。私たちは、イエスの十字架の贖いと復活を信じているかぎり救いを失うことは決してありませんが、今、与えられるべき祝福を失うことはありえます。それをイエスがあとで指摘されます。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスにとって、イエスはいない存在でしたが、そうではありません。イエスはその8日間、弟子たちとともにずっとおられたのです。ただ見えなかっただけです。これから、イエスはそのようなかたちで弟子たちの真ん中におられます。私たちにも同じです。私たちは、目には見えていないが、イエスがここにおられて、私たちの会話、行動、思いをみな知っておられることを知らなければいけません。このイエスのご臨在を知るときに、私たちは聖い生活へと導かれ、平安の道を手にすることができます。
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
ここは、明らかなイエスの神性の宣言です。イエスが神と呼ばれています。ヘブル書1章では、父なる神ご自身がイエスを神と呼ばれています。私はエホバの証人の人のことばよりも、父なる神のみことばを信じたいですね。そして、今日のメッセージの題になっている、次のイエスのみことばがあります。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
見ずに信じる者は幸いです。私たちはここまで、弟子たちが平安を得る方法、喜びを得る方法は、イエスが目に見えるかたちで物理的にいてくださるのではなく、目に見えないところに存在することを知りました。私たちは、弟子たちのことがうらやましいと思ってしまうのですが、当の弟子たちは、父なる神はほどとおい存在であり、悲しみに満たされ、ユダヤ人を恐れていたのです。ですから、イエスがよみがえられて、そして、目に見えないかたちで私たちにおられることは、実は幸せなことなのです。聖霊が私たちに与えられ、聖霊さまによって、父なる神との親密な交わりが許されて、さらに、どこにでもイエスがいてくださいます。
2B いのち 30−31
そこで、ヨハネはこの福音書を書いた目的を述べています。この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
ヨハネは、数あるイエスのしるしの中から、7つのしるしを選びました。カナの婚礼、役人の息子のいやし、足なえの男のいやし、5千人の給食、盲人のいやし、ラザロのよみがえり、そして、イエスの復活です。数多くのしるしを書き記すことなく、これらのしるしだけを選んだのは、ここにあるとおり、イエスを信じて、イエスの御名によって永遠のいのちを得るためです。これは単にクリスチャンではない人たちにだけ書かれたのではありません。今、見ましたように、イエスを信じるということは、イエスが父なる神に近しいように、それだけ私たちが父なる神に近しくなっていることを信じることであり、また、イエスが私たちの行くところどこでもいっしょにおられ、私たちのすること言うことをみなご存知であることを信じることです。ですから、私たちは、クリスチャンになってもずっと、この信じるという過程を繰り返していかなければなりません。日々、イエスの御名によって父なる神に近づき、日々、どこにいても、イエスの臨在を意識して歩むことを繰り返す必要があるのです。これがイエスを神の子としてキリストとして信じることであり、そこに本当の幸いがあります。「見ずに信じる者は幸いです。」お祈りしましょう。
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