ヨハネの福音書21章 「わたしを愛しますか」
アウトライン
1A 最上の愛 1−14
1B 古い生活 1−8
2B イエスとの食事 9−14
2A 従順の愛 15−23
1B 新しい道 15−18
2B 独りだけの道 19−23
3A しめくくり 24−25
本文
ヨハネの福音書21章です。この福音書の最後の章に、また、福音書全体の最後の章なりました。次回からは使徒行伝を学びます。
1A 最上の愛 1−14
1B 古い生活 1−8
この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
もう一度現わされた、とありますが、前の20章に、イエスが、弟子たちの集まっているところに現われた場面を見ていくことができました。最初に現われたのは、週の初めの夕方です。イエスはユダヤ人たちを恐れていた彼らの真ん中に現われて、「平安あれ。」と言われました。けれども、そこにはトマスがいませんでした。そこで、次の週の初めの日に、今度はトマスがいるところにイエスが現われ、「平安あれ。」と言われたのです。そして、その後に、またイエスが、弟子たちが集まっているところに現われておられます。今度は、場所をエルサレムから移して、ガリラヤ湖のところにいます。イエスが、先にガリラヤに行かれる、ということを前々からおっしゃっていたので、彼らはここに来たのです。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。数えると、合計七人の弟子がここにいます。シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。
ペテロは、ここで漁に行ってしまっています。イエスがガリラヤに行きなさい(マタイ28:10)と言われたので行ったのですが、イエスが現われてくださらなかったのです。ペテロは待っていましたが待ちきれなくなり、自分たちがここにいる意味が分からなくなって来てしまいました。そこで、ペテロは、自分が古くから持っていた職業である漁をし始めてしまったのです。そして、ペテロは、持ち前の指導者でした。他の弟子たちも付いて行って、漁に出かけました。このペテロの漁について、イエスは、後で、「あなたは、これらのものより、わたしを愛しますか。」と聞かれました。ペテロが古くから親しんでいた、これによって生きていた漁よりもわたしを愛しますか、と聞かれました。ペテロは、主がおられることを意識することができなくて、このように昔から行なっていたもの、古い生活に引き戻されてしまったのです。主への愛よりも、古いものへの愛が優先してしまったのです。
私たちはいつも、このような誘惑を持っています。それは、復活された生けるイエス・キリストが自分たちの生活にほんとうにいてくださっているのか分からなくなり、古くからなじんできたものを行なってしまうということです。けれども、そのときに、私たちは、私たちの主への愛が他のものへの愛着よりもさらに大きいものであるかどうか、試されているのです。
しかし、その夜は何もとれなかった。
何も取れませんでした。ペテロが自分の願いによって、自分の意欲によって行なったことは、徒労に終わりました。自分の願いや意欲で行なうことはみな、このように徒労に終わり、実を結びません。しかし、私たちのうちにおられる主イエスさまに導かれて行なうことには、多くの実が結ばれます。
次をご覧ください。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
イエスの指示によって、漁は大漁でした。ここで思い出すことはありませんか、ルカの福音書で、ペテロが一晩中漁をしたけれども、何もとれませんでした。夜が明けて、イエスが岸辺で教えておられましたが、ペテロの持ち舟に乗って、つづけて群集に教えられました。そして、ペテロに、「網をおろしてみなさい。」とおっしゃったのです。ペテロがおろしてみると、たくさんの魚がはいって網が破れそうになりました。そして、ペテロは、「私は罪深い者ですから、離れてください。」と言って、イエスが、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」とおっしゃって、ペテロが従いました。この出来事とそっくりなことが起こりました。
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
ヨハネは、いろいろな出来事から、即座にその意味を読み取ることができる性格の持ち主であるようです。「主だ!」と言いました。そして、ペテロは、相変わらず衝動的で、すぐ行動に移しています。
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
2B イエスとの食事 9−14
そして、彼らはイエスと食事をともにします。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
イエスがまた、現われてくださいました。そして、イエスが宣教を活発に行なわれていたガリラヤ湖畔で、またこのように現われてくださっています。弟子たちは、さぞかしうれしかったでしょう。あの生き生きと輝く主イエス。悪霊を追い出し、病人を直し、大ぜいの人々に教え、御霊に満たされていた主イエスが、今、また彼らの間におられます。十字架によって、何もかもがめちゃくちゃにされてしまいましたが、今また、その希望がよみがえったのです。
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
ペテロは、性急な人であっただけでなく、力持ちだったみたいですね。独りで、153匹の魚がある網を引き上げました。
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
弟子たちは、イエスの顔を見ただけでは、この方が主イエスであるとは分かりませんでした。十字架前のイエスの御姿と復活のイエスの姿には違いがあったようです。けれども、イエスの手足には釘の跡があったし、また、わき腹には突き刺された跡もあります。でも、この方がイエスであることが分かったのを決定付けたのは、先ほどの網をおろしなさい、という指示と、それに伴う大漁です。弟子たちは、過去にイエスがほとんど同じことを行なわれたのを知っていました。ですから、彼らはイエスを、その目で見るかたちで認識したのではなく、この方の言動によって認識して、判断したのです。他の箇所では、二人の弟子が、イエスがパンを裂かれて、それを祝福されたのを見て、この方がイエスであることを知りました。
ですから、私たちは、この復活の主に今でもお会いすることができます。私たちの生活のなかに、福音書で描かれている主イエスのみわざを見るとき、これは主が行なわれているのだ、と分かるのです。人々の間で、その救いといやしのみわざを見たり、愛とあわれみの行ないを見たり、また、多くの人々が神のみことばを聞いているのを見たりするとき、ああ、ここには主がおられるのだ、主イエスが活躍されているのだ、と認識することができます。
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
すばらしい愛餐です。一つのパンを分けて、また魚も同じように分けられました。お互いに一つのものを体の中に入れて、交わっているのです。これが、私たちクリスチャンが持っている特権です。つまり、主と深い交わりをすることができるという特権です。この主との交わりをもっとも愛するとき、この交わりが一番楽しい時となっているとき、イエスさまがおっしゃった、「わたしを愛しますか。」という質問に、はい、愛しています、と答えることができます。黙示録において、イエスがラオデキヤの教会に言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(3:20)」主イエスと私たちは食事をすることができるのです。
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
もちろん、これまでに、個々人が主イエスに会ったのは、3回以上になります。まずマグダラのマリヤに現われ、次に女たちに現われ、それからペテロに現われて、二人の弟子たちに現われました。それから、弟子たちが集まっているときに現われてくださいました。それで三度目になります。
2A 従順の愛 15−23
1B 新しい道 15−18
そしてイエスがペテロに質問をされます。彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
この人たち以上に、となっていますが、原文では、「これらのもの以上に」となっています。ですから、「この人たち以上に」と取ることもできますし、また、いまぴょんぴょんはねている魚のことを指しているかもしれません。とりあえず、ここでは、魚のことを指しているとします。この魚よりも、あなたはわたしを愛していますか。あなたがもっとも親しみがあって、生きる糧にしていた漁よりも、あなたはわたしを愛していますか、という質問です。そして、ここの「愛していますか。」のギリシヤ語は、agapawです。名詞形はアガペですね。これは、新約聖書にしか出て来ない、新しい言葉です。古代ギリシヤ語の古典には、アガペという言葉は使われていませんでした。けれども、イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という命令を送られて、このアガペの愛で愛し合いなさいと言われたのです。
この愛は与える愛です。惜しみなく与えて、相手から見返りを期待することなく与える愛です。そのほとんど反対の意味を持っているギリシヤ語の愛は、エロスですね。肉体のレベルの愛であり、相手からどれだけ奪い取ることができるか、そうした愛であります。そして、その他に、フィレオがありますね。これは友人愛に使われますが、同じ興味、同じ考え、同じ活動をしている者どうしが持つ愛です。でも、そこには、「あなたがこういう人物だから、私はあなたを愛します。」というように、見返りを期待する、受け取る事を期待する愛になっています。ここでイエスは、ペテロに、アガペという言葉を用いられて、これから、全く新しい方法でわたしに付いて来るか、と聞いておられるのです。これまでの人間的な愛し方ではなく、すべてをささげて、神をもっとも大切にして、わたしを愛しますか、と聞かれています。
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
ここでペテロが使っているギリシヤ語は、フィレオーでした。友人愛です。ここで、ペテロが、アガパオーの言葉を使わなかったことについて、自分にイエスをもっとも大切にすることができていない、と見る人たちもいますが、私はそう考えません。アガペーは、ペテロにはまだ真新しいことばであったため、それを使わなかったと考えます。今まで使って慣れているフィレオ−の言葉を使ったように感じています。私がアメリカから帰ってきて、とまどいを感じたのは、自分が「先生」と呼ばれることでした。自分は何も変わっていないのに、「きよきよ」とか呼ばれていたのが急に、「○×先生」になってしまったのです。だから、新しい言葉というのは、居心地が悪い者であり、ペテロも、そうした意味の言葉を使うことができなかったのではないかと思われます。
けれども、これからイエスに従うには、まったく新しい方法で従わなければいけなかったのです。ペテロは自分の願いで、自分の意欲でこれまでイエスに従ったのですが、そのため失敗を繰り返し、実を結ばず、主を3度も否定することさえしてしまいました。ですから、今度は、イエスが用いられているアガペの愛で、イエスに付いて行かなければいけません。まったく新しい道、自分が導くのではなく、イエスが導かれる道に踏み出していかなければいけません。イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」ペテロは今まで漁師でした。しかし、イエスは、羊飼いになりなさい、と言われています。もちろん、これは、信徒たちを整える働きの比喩ですが、イエスが羊と羊飼いのたとえを用いられているところに、漁師という職業から羊飼いというまったく新しい領域にはいることをほのめかしているのではないか、と私は思います。
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ここでもまた、アガパオーになっています。
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
ここでもまた、ペテロは、フィレオ−というギリシヤ語を使いました。
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
先ほどの「子羊を飼いなさい。」とは、少しニュアンスが異なっています。子羊ではなく大人の羊であり、そして、単に飼うだけではなく、牧する、つまり、食事を与えるだけでなく、羊を守ったり、導いたり、その他のすべての管理を含んでいます。したがって、イエスは、ペテロにお任せになる務めを、さらに大きくされたのです。単に子羊だけではなく羊を、また養うだけでなく、すべての牧会を任されました。
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ここで、イエスは「フィレオ−」の言葉に変えられています。ペテロが、2回もフィレオ−の言葉を使っていたので、イエスはペテロのレベルに合わせて、ご自分もフィレオ−を用いられました。ペテロにはまだ、この新しい道にはいる準備が出来ていなかったのです。
ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
ここでもフィレオーですが、面白いことに、「イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われた」というところは、フィレオーになっています。イエスは二度アガペーを用いられたのですが、ペテロにはその言葉は頭に入っておらず、フィレオーと同じにしか聞こえなかったのです。
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
イエスは、「牧しなさい」ではなく、「飼いなさい」と再び言われました。
では、ペテロが、ずっとフィレオ−を使いつづけてしまった理由は何なのでしょうか。イエスがアガパオーの言葉を使われていたのに、ペテロの頭の中に入っていなかったのはなぜでしょうか。イエスが答えられます。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。
ここがとても大事です。ペテロは今まで、自分で願っていることにしたがって歩いていました。イエスを愛していて、イエスに従っていたのですが、心の奥底のところで、自分のやり方で、自分の望んでいるようにイエスに従っていたのです。イエスを主と言いながら、やはりまだ、自分が主役となっていました。けれども、イエスは、「年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」と言われます。自分の願いや意欲ではなく、すべてをイエスにゆだねて、自分の行きたくないところへ導かれるようになります。これは、いやいやながら行なうということではなく、自分の心が聖霊に支配されることを意味しているのです。
次回から使徒行伝を学びますが、そこには聖霊の主権的な働きを見ることができます。人間が何かを考案して、計画して、実行するような働きではなく、聖霊が考えて、聖霊が計画されて、聖霊が実行される働きの中に弟子たちが入れられるのを見てきます。弟子たちの思いと、意思と、感情がみな聖霊に、言い方が悪いですが、「乗っ取られて」、あるいは、「とりつかれて」、自分が自分のものではなくなり、聖霊のものになってしまい、聖霊に満たされて生きていくのです。そのため、その中には、人間の愛であるフィレオーではないアガペの愛が宿っていたのです。
次に、19節に、これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。
とありますが、ペテロは殉教しました。伝統では、十字架につけられるのですが、自分は主イエスと同じようには死にたくない、いたらない人間だと思って、さかさまで十字架につけてくれるように申し出て、さかさまになって十字架につけられて死んだと言われています。ペテロがそのような、アガペの愛をイエスに持っていたのは、自分の願いや意欲ではなく、聖霊に導かれて、自分の行きたくところへ連れて行かれたからです。自分ではなく、キリストの御霊がペテロのうちに宿っておられたのです。私たちも、このように、ゆだねるということが必要になってきます。これは簡単なようで、とても難しいことです。今までのやり方があるし、自分なりの方法があるし、自分の思うとおりにイエスさまに従いたいと思ってしまうのです。けれども、実が結ばれず、失敗を繰り返し、このペテロのように、自分が行きたくない所につれていかれて、主のわざを行なうように導かれます。そのときに、私たちは本当の意味で聖霊に満たされて、聖霊のパプテスマを受けて、多くの実を結ばせることができるのです。そのときの自分は、傍観者になっています。自分ではなくて、神が次々をみわざを行なわれ、それを見ているようになります。自分の意思ではなく、神さまの意思によって動かされるときに、私たちは、このような祝福された領域の中に入ることができるのです。また、ほんとうにアガペの愛で、主を愛することができるようになるのです。
2B 独りだけの道 19−23
こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
これでようやく、ペテロは再出発をすることができるようになりました。前回、「人をとる漁師になります。」と言われて、主を3度否定することで終わってしまいましたが、ふたたび立ちあがって、イエスに従うことができるようになりました。神さまは、私たちにやり直しを与えて下さいます。
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。これはもちろん、ヨハネです。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ペテロは、まだ問題を持っていました。その問題とは、他人と比べるという問題です。イエスは、各々個人に召命を与えられるのであって、他の人と比べることのないように諭しておられます。神さまは、それぞれに異なる独特な道を用意して下さっています。みな一つ一つ違うので、他の人たちと比べる必要はないし、してはいけないのです。神さまが私個人に用意してくださった道が何かを知って、それに専念することによって主に従っていくことができます。また、その個人的な召しを知ることによって、アガペの愛を持つことができるのです。
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。
ヨハネがこの21章を書いたのは、エピローグであると思われます。後書きですね。20章の時点で、この福音書は完結していたのですが、あとで、変なうわさが流れていたようで、それを修正するために、21章を書いたように思われます。そのうわさとは、ヨハネが生きているうちに、主イエスが再臨されるというものです。でも、イエスさまはそんなことおしゃっていなかったよ、とヨハネはここで言っています。
3A しめくくり 24−25
そして最後の締めくくりです。これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
この私とは、ヨハネ自身のことです。ヨハネがこの福音書を書いた主な目的は、この前学びましたように、イエスが神の子キリストであると信じて、その御名によって永遠のいのちを持つためでした。けれども、その他に、また別の目的があったようです。それは、あかしを残すことでした。ヨハネがこの書物を書いている時点で、すでに他の使徒たちは殉教によって死んでいました。彼だけがイエスの近くにいた生き証人でした。そして、ヨハネは、イエスを知っている中でもっとも長老であります。イエスを一番長く、しかも、他の人たちよりも長く知っている人でした。ヨハネは単に、3年半、イエスとともにいたのではありません。イエスが復活されてからずっと、この書物を書く紀元90年ごろまで、ずっと復活の主イエスに出会い続け、イエスのことを深く知っていたのです。この深い交わりをとおして、ヨハネは、他の使徒たちが書き尽くすことのできなかった、イエス・キリストの側面を書くことができました。それは、神としてのイエスです。神側からのイエスです。人間の目で見たイエスを他の福音書の記者は書いていましたが、ヨハネは、天において、イエスがどのような方であるかを、父なる神がどのようにイエスを見ておられるかを、眺めることができました。だから、書き出しも、「はじめにロゴスがあった。ロゴスは神とともにおられた。」となっているのです。だから、ヨハネは貴重な証人でした。
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。
ここにヨハネの気持ちが、伝わってきます。ヨハネはあまりも多くのイエスのみわざを見てきました。直接的に、また間接的に見てきました。あまりにもたくさんあるので、それを今、書き記すことはできないと思ったのです。そこで、はっきりとした目的をもって、数多くあるしるしの中からいくつかを選んで、書き記しました。けれども、この書物はまだ続いています。イエスは、過去に活動されただけではなく、使徒たちの間に、そして、後世の信者たちの中でさまざまなことを行なわれています。そして、私たちの間でも行なわれます。ですから、私たちの人生・生活がそのままイエスのみわざの書物となるのです。イエスが行なわれることの記録となるのです。この記録を見て、他の人々が、ああ、イエスはまさしく神の子キリストなんだ、と知ることができるのです。もちろん、聖書は黙示録で完結しています。けれども、この聖書が真実であることを、聖書の中だけではなく、私たちの生活の中でもあかしされようとしています。
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