ヨハネによる福音書2章13−22節 「最後の徴」
アウトライン
1A 宮清め 13−17
2A 体のよみがえり 18−22
本文
今日は、ヨハネによる福音書2章の後半部分を読みます。前回は前半部分を読みましたね?カナにおける婚礼の話です。そして、それはヨハネが福音書の中で記している八つの徴のうちの最初の徴であった、と言いました。イエスが確かに神の子であり、キリストであることの証拠です。
今日は、「最後の徴」について話します。「えっ?ヨハネによる福音書はまだずっとあるのに、もう最後の徴なんですか?」と思われたかもしれません。イエス様がこれから最後の徴を予告されるだけです。
場所は、ガリラヤ地方のカナという田舎町から、ユダヤ人の首都であり、宗教の中心地であるエルサレムに移ります。今もエルサレムについて、時々ニュースの中に出てきますね。黄金に輝く「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教の寺院があります。そのすぐそばには、嘆きの壁と呼ばれる、ユダヤ教徒にとって最も神聖な場所があります。その嘆きの壁は、ちょうど私たちが読んでいる神殿の西側の壁の一部であり、当時のものです。そして、岩のドームが建っているところは神殿の丘と呼ばれており、私たちが読んでいるこの神殿が建てられていた所です。
ですから周りの雰囲気が一気に変わっていることに気をつけてください。片田舎で、非常に内輪の間で主が、水をぶどう酒に変えるという奇蹟を行なわれたわけですが、ここエルサレムはユダヤ人にとって中心地であり、もしここで奇蹟を行なえば、全てのユダヤ人の間にも広がっていくものであり、良くも悪くもその影響力は計り知れないものがあります。
そして前回、私たちはイエス様を信じる時に、心の中で起こる葛藤について考えました。イエス様を信じる時に、自分の肉の家族との関係、血のつながりとの断絶を感じることを話しました。もちろん、家族から離れなさいということではないのですが、イエスを自分の救い主とし、主として生きていくのは、家族よりもこの方を大事にしていくことになるのだ、ということです。
そして今日読んでいる所は、自分の世界観との葛藤と呼んでよいでしょう。イエス様は、ご自分が復活する、死んだのに生き返ると宣言されました。ご自分が神の子であり、世界の救い主であることを公に現されたのです。この世界には、イエスという名前によってのみしか救いがないのだ、この方こそすべての主であり、世界はこの方を王としなければいけないのだ、ということを明らかにする出来事なのです。世界にはいろいろな宗教があります。そしてキリスト教がその一つだ、ではなく、すべての人がイエスに対面しなければいけない、ということの立証です。
そうしたら、反発する人は必ず出てきますね。それが、今読んでいるイエス様と宗教指導者との激しい対立なのです。
1A 宮清め 13−17
2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
「過越の祭り」というのは、ユダヤ人が祝っている祭りの中で最も大切な祭りです。日本で言うなら正月みたいなものです。これは、紀元前1445年に、イスラエルがエジプトで奴隷状態であった所から、神がイスラエルを救い出し、ご自分の民としてくださった大きな出来事を記念としています。旧約聖書の出エジプト記にそれが書いてあります。
ハリウッド映画が好きな方は、「十戒」を思い出していただけるでしょうか?かなり古い映画なので、アニメでは「プリンス・オブ・エジプト」という映画なら思い出せるでしょうか?イスラエルが奴隷状態で苦しんでいる時、神がモーセをエジプトの王ファラオの前に連れていき、「わたしの民を去らせなさい」と命じられます。パロ(ファラオ)が拒むたびに、エジプトには天災が下ります。そして最後の十番目の災いが、エジプトで生まれた長男、動物も含めて、全てが殺される、というものでした。
けれども神は、イスラエルの人々には、「家族で一頭、子羊をほふりなさい。その血を家の戸の門柱と鴨居につけなさい。その肉を食べなさい。死をもたらす天使がエジプト中を回るが、家に血がついているのを見たら、そこを通り越す。」と約束してくださいました。ここから過ぎ越す、災いが過ぎ越す、ということで、「過越の祭り」と呼ばれています。
その後、パロは無理やりイスラエルを追い出し、けれども後で気を変えて、彼らを追いかけます。けれども、イスラエル人は水が分かれた紅海の間を通り、エジプトの軍は海の間にいるところで水が元に戻り、それで全員滅んだ、という話です。
主はこれを、ユダヤ人の成年男子であればエルサレムに来て祝わなければいけないと命じられました。ユダヤ人であるイエス様は、それを守りにエルサレムまで来られたのです。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
「宮」とありますが、エルサレムの神殿には「外庭」というのと「内庭」があります。ここは外庭の部分です。他の日本語訳の聖書(新共同訳)ですと「境内」と訳されています。日本人にはこれなら理解しやすいかと思います。ここで商売のようなことが行なわれていたのです。
「牛や羊や鳩」が売られていたとありますが、前回の学びのことを思い出してください。神は、私たちの罪を赦すために、血が流されなければならないことを教えられました。罪を犯す者は死ななければならず、血は命を表しているからです。血が流されることによって、水では決して流し落とせない心の良心における清めが可能となるのです。
そのことを、旧約聖書ではレビ記を中心にして細かく教えています。そして神は、それぞれの経済的な力に応じて、牛、羊、そして鳩と分けておられます。牛は一番高価な動物で、鳩は牛や羊が買えない人の為のものです。
そして罪のない存在が罪を代わりに負うのですから、その牛や羊にはしみや傷のないものでなければいけませんでした。そしてこれらはすべて、キリストが私たちのために行なってくださった、罪の赦しを予め表していることを前回お話しました。イエス様は罪をまったく犯されなかったのに、十字架刑の処せられた。それは、私たちの罪の身代わりのためであり、この方の血によって私たちの罪が洗い清められる、ということです。
ですから、このいけにえの制度、犠牲の制度はとても大切なものです。イスラエルの人々は、神殿にまで自分の牛や羊を連れて行き、そこで神を礼拝します。ところが、その神殿を管理している人々が商売を始めました。祭司が、イスラエル人が連れてきた家畜を調べます。しみや傷、欠陥を見つけたら、「これは神殿に持って入ることはできない。」と言います。そして、「すでに認証済みの家畜がある。それを購入しなさい。」と言います。その家畜が認証済みだからということで、べらぼうに高いのです!その利益を神殿の管理者らが自分たちのものにしていたわけです。
私がこの前イスラエルに行った時、当時のエルサレムの模型を見ましたが、「下町」と「上町」がありました。下町は貧しい人たちが住んでいて、上町は裕福な人が住んでいますが、ガイドの説明は、「当時の祭司たちは非常に金持ちで、上町に住んでいた。」とのことです。とんでもないですね。
そして「両替人」とあります。再び、旧約聖書のレビ記の所に、神にささげるお金として「シェケル」という貨幣単位が定められていることが書かれています(27章)。ところが、彼らはローマ時代に生きていました。ローマ帝国の「ユダヤ属州」におり、自分たちの主権国ではありませんでした。そしてローマの貨幣には皇帝カエザルの顔が刻み込まれており、ローマの人々は彼を神とあがめていましたから、そのような偶像、汚れたものは使えないと反発していたのです。それで神殿にささげるものは、神殿用のシェケルがあったのです。
ところがこれも神殿管理者は利用しました。両替する時にべらぼうな為替手数料を取ったのです。これで一儲け。つまり、神を礼拝したいという心を利用して金儲けするという汚いことを彼らは行なっていました。
この話を聞くと、「なんてユダヤ人は狡賢いのだろうか。ベニスの商人は本当にそうなのではないか!」などと考える人がいるかもしれません。ヨハネがここにこの出来事を書いている理由はそんなことではありません。人間ならば、誰もが陥っている過ちだから書いているのです。
この日本で、このことが思いっきり行なわれているのです!数多くの日本人が、「神を信じていますか?」と聞かれたら、「いいえ、私は無宗教です。」と答えます。けれども、年始には恒例の行事である初詣があります。あれだけ沢山の人々が行列をなしてお賽銭を投げ入れます。その裏で、神社の人たちが何をしているか分かりますか?お金を数えているのです。
そして、「坊さんには不況はない」という言葉があるように、日本人は仏教の葬式で、多額の金を使います。謝礼だけならまだしも、戒名であるとか、とにかくものすごいお金を要求します。
檀家制度をご存知ですね?自分の家は生まれた時からどのお寺で葬られるか、初めから決められている制度です。これは昔、キリシタン取締りのためにすべての日本の家に課せられた制度であり、寺は何をしなくてもどんどんお金が入ってきて、坊さんたちは堕落しました。そして、これが今でも続いているのです!でもそれを続けて、やめられないのは、精神的に、宗教的に自分にとって拠り所だからです。でもその心を利用して、やはり金儲けを行なっているのです。
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
イエス様が怒り心頭されました。そしてこのような行動に出られましたが、その理由が非常に興味深いです。「わたしの父の家」です。ユダヤ人たちが、天と地を造られた神、偉大な神を礼拝している所なのに、「パパの家を商売のところにするな」と言われたのです!つまり、自分が神、神の子であることをここで宣言しているのと同じなのです。
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
これは旧約聖書の詩篇という所に載っています。このように、弟子たちは、イエス様を通して確かに預言が実現していることを確かめることができたのです。
2A 体のよみがえり 18−22
そして神殿管理者らが怒ってやって来ます。
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
「見せてくれるのですか」なんて、ずいぶん丁寧な言い方ですが、これはもちろん敬語表現がある日本語の問題でありまして、新共同訳では「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」となっています。喧嘩腰ですね。
ユダヤ人たちは、イエス様が言われたことをよく理解していました。「わたしの父の家」というのは、「俺のお父さんの家」、つまり自分が神と同等なのだと言っていることがすぐに分かりました。だから、こんなに怒り、そして「どんな徴を見せるつもりか」と迫っているのです。
ユダヤ人にとって徴が必要でした。誰かがメシヤ(キリスト)であり、神の子であると言うなら、それを示す徴が必要でした。はっきりメシヤだと示す徴です。
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
イエス様とユダヤ人指導者との間に、言葉の行き違いがありました。イエス様はご自分の体を指して「神殿」と言われたところを、ユダヤ人たちはそこにある神殿の建物のことだと誤解しました。神殿はものすごい建物で、世界の七不思議に入らなかったのが不思議なぐらいです。ヘロデ大王が紀元前19年にこの神殿を建て始めました。そして今46年経っています。だから紀元27年頃です。そして完成したのは紀元66年だと言われています。
けれども、イエス様はあえて「神殿」という言葉を使われました。イエス様は、はっきり言われても必ず拒否する人々に対しては、あえてこのようにぼかして、謎々をかけるように考えさせる方法で語られました。「よく考えてみなさい。」という意味を含ませておられます。彼らはいつか、イエス様を十字架刑に処せられるようにしむけるのです。けれども、わたしは三日目によみがえる、と言うことです。
聖書では、私たち人間の体を一つの建物に例えています。パウロという人が、こう言いました。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(2コリント5:1)」幕屋、つまりテントです。私たちの肉体はテントのようである、と述べています。
肉体はあくまでも器であり、私たちの本質は霊であるというのが、聖書の説明です。本当の自分は霊であって、この体は霊を表現する器でしかありません。今、私の右腕がなくなっても私はなくなりません。左腕がなくなっても、そうです。右足、左足がなくなっても、そこには私はいません。私は心臓の中にいるのでしょうか?脳の中にいるのでしょうか?違いますね、この肉体ではないどこかに私がいて、その私が肉体を通して表現されているのです。
パウロは、今の肉体を幕屋、テントと呼んでいますが、後で神からのちゃんとした建物が与えられると述べています。テントは数日いるには良いところですが、長くはいることはできません。非常に不便です。同じように、私たちの体はしだいに衰えます。それを否定するのは若い人ですが、けれども運動などをして怪我をしたら、やはりテントにしか過ぎないことに気づくはずです。これは一時的であり、キリストを信じる者には復活の体が与えられるという約束が与えられています。それは衰えることもなく、朽ちることなく、完全な体です。
イエス様は、それで「わたしは、三日で神殿を建てる」と言われたのです。エルサレムの神殿にいるユダヤ人には、これが究極の徴であると言われています。他の場面で、イエス様は同じように詰問されているところがあります。「あなたから、徴を見せてほしい。(マタイ12:38参照)」と。イエス様は、きっぱりと「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ12:40)」と言われました。三日三晩、つまり三日目に墓のなかからよみがえる、ということです。イエス様は、それまでに数多くの奇蹟を行なわれました。メシヤでなければ、神の子でなければ決してできることのない徴をお見せになりました。それでも、あなたがたは信じなかった。だから、残っている徴は、わたしの復活なのだよ、ということです。
復活が徴の中の徴です。いろんな奇蹟が起こっても、死者の中からよみがえるというのは、どんな人にもできません。「蘇生」という出来事はもしかしたら起こったかもしれません。死んでいたのに、蘇生して息を吹き返した、というものです。けれどもいつかは死にます。ここでイエス様が言われている復活は、決して死なない体を持つことです。二度と死ぬことがなくなるように生き返ることです。どうでしょうか?もし本当にイエスが復活されたのなら、これこそこの方が本当に神の子であられ、キリストであることの証拠です。
皆さんが学校で習う、倫理や世界史の教科書の中にも、キリスト教の生い立ちとしてイエス・キリストが出てきます。けれども、そこには十字架の出来事までは記されているかもしれませんが、復活したことまでは書いていないのです。あるいは、書いてあっとしても「弟子たちが後で復活の話を作り出し、それでイエスが神格化された。」と書かれていることでしょう。なぜでしょうか?もし復活を受け入れたら、世界がひっくり返ってしまうからです。「キリスト教は数ある宗教の一つ」とすることができなくなり、この方が言われていることはすべて本当であり、全ての人がこの方を自分の主、救い主として認めなければならなくなるからです。
だから、もしご自分がイエス様を信じることはないという決断をされるなら、どうかイエスが実際には復活しなかったのだと証明してみてください。矛盾を探して、それで実は復活していなかったのだと確信できれば、信じなくても大丈夫です。いや、信じるほうが馬鹿をみます。どうでしょうか?
四つの福音書の中に克明に記録されているのが、そしてその主題となっているのがすべてキリストの死と三日後の復活です。
そして、この復活を目撃した弟子たちが、その事実を伝え始めたのが使徒行伝というところに書いてあり、彼らと他の信仰者によってローマにまで伝えられていきました。そして西洋でキリスト教が始まったのです。十二弟子たちは、この福音書を書いたヨハネ以外はみな、殉教しています。信仰のゆえに死んでいます。もしこれを自分たちで作り上げてあげたのであれば、激しい拷問攻めの中で誰かは自白するはずです。ところが彼らは、「見たかぎりは、触ったかぎりは、否定できないのだ。」と言って死んだのです。とてつもない迫害を受けながらも伝えていったこと自体が、イエスが本当に復活したことの証拠です。
そして、その後もイエスを自分の主、救い主として受け入れていった人々の生活と人生が変貌しているのをどう説明できるでしょうか。私がアメリカにいた時に、共に勉強していた仲間は、90パーセントは元麻薬常習者でした。タイからの移民の人は、麻薬を売り買いしていた、と言いました。麻薬がどれほど人の人生を破壊するか、そしてそこから立ち直るのがどれだけ大変かご存知だと思います。ある人は、人生の半分以上を牢屋の中で過ごしたと言います。
その彼らが真人間になっているのです。麻薬を止めているのはもちろんのこと、愛と喜びに満ちた顔をして生きているのです。はたしてどうやって、これを説明するのでしょうか?その信じている人々の信仰の対象には実体がある、というのが合理的な判断です。実体のないものでそんな力が出てくるはずがありません。実体がないとして説明するほうがかえって無理があり、非合理的です。
どうでしょうか?今の人生が変えられたいでしょうか?神から背いた罪の生活から変えられたいと思われるでしょうか?このイエスがよみがえられた、という事実を信じてください。自分の罪のためにキリストが死なれ、そして三日目によみがえられたのだと信じてください。よみがえって、今も生きておられるイエス様が、あなたの心の中に入ってきてくださり、あなたの人生を変えてくださいます。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)」
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