ヨハネの福音書5章 「イエスのわざ」

アウトライン

1A 足なえのいやし(現在の生活における望み) 1−15
   1B 「よくなりたいか」 − 問題の克服 1−9
   2B 「罪を犯してはなりません」 − 大切なことの見極め 10−15

2A よみがえり(将来の行き先についての望み) 16−30
   1B 神と等しい方 − 神を求める必要性 16−23
   2B 声を聞く者 − 今、求める必要性 24−30
3A 証言(確かな望み) 31−47
   1B 御父 − 31−37
   2B 聖書 − 38−47

本文

 ヨハネの福音書5章をお開きください。ここでのテーマは、「イエスのわざ」です。私たちはこれまでにも、ヨハネの福音書でいくつかのイエスの奇蹟のわざを見ました。この5章においても出てきますが、ここでは、イエスがはっきりとご自分が神であることを宣言されています。それでは、本文を読みましょう。

1A 足なえのいやし(現在の生活における望み) 1−15
1B 「よくなりたいか」 − 問題の克服 1−9
 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

 イエスは、ガリラヤからエルサレムに上られました。ガリラヤにいるときは、王室の役人の息子を、遠くからいやされました。時は、あるユダヤ人の祭りということですが、その祭りなのかは分かりません。

 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

 
エルサレムという町は、他の町と同じように、城壁で囲まれていました。そして、城壁にいくつかの門があり、その一つが羊の門でした。そこにベテスダと呼ばれる池があったようです。

 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そして、下にある脚注をご覧ください。彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。

 
とあります。天使が実際に、この水をかき回していたのか、それとも単なる迷信だったのかは分かりません。けれども、大事なのは、病人が自分が直されることを期待してこの回りにいたことです。

 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

 長い年月ですね。この前、ある人が、この箇所のことを話していましたが、彼女は聖書を題材にして芝居をする人でした。「38年よ。こういうところを簡単に読み過ごす人が多すぎるのよ。きよきよさんなんか、38年前なんて、生まれる前のことでしょ。」そうですね大変なことです。みなさんも、自分のできる範囲でこのような状態を想像して見てください。イエスは、この男のことに心に留められて、かわいそうに思われたようです。次を見てください。

 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

 
イエスがかわいそうに思われて聞いたことは、「よくなりたいか」でした。「さぞかし、辛くて苦しいだろう。」と慰めたのではなく、「よくなりたいか。」でした。もしこれが、人間が聞いていることであれば、あまりにも愚かでばかばかしいことです。けれども、イエスは神の子キリストであります。世界中のどんなすぐれた医者でさえ直すことのできない病気でも、イエスはお直しになることができます。イエスは、私たちに対しても同じように「よくなりたいか。」という質問をされています。私たちが持っている問題、心の悩み、克服したいけれどずっとできていないこと、そのような領域に対して、「よくなりたいか。」とお聞きになっているのです。普通の人間が聞いているのなら、無視して構いません。けれども、イエスが聞かれているなら耳を傾けたほうがよいのです。

 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

 
男は、イエスの質問に答えていません。よくなりたいなら、「はい。」と答えるべきであり、よくなりたくないなら、「いいえ。」と答えるべきです。この男はどちらでもなく、なぜ自分がよくなることができないかの説明をしています。

 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

 すぐに直りました。この男は、イエスが命じられたあとも、なぜよくなることができないかぶつぶつ言うことはできました。けれども、彼はイエスの言われたことに、あえて従おうとしました。もちろん、自分の力では従うことはできません。けれども、自ら進んで従おうとしたとき、従うことができる力を神が授けてくださったのです。思い出せるでしょうか、ペテロが夜通し漁をしていましたが、一匹もとれませんでした(以下ルカ5:1−11参照)。イエスが、「網をおろして魚をとりなさい。」と言われたら、ペテロは、足なえの男と同じように、魚が取れない理由を述べました。けれども、彼は、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言ったのです。そして、そのとおりにしたら、網がやぶれそうになりました。ですから、私たちがイエスの言うことを聞き従おうとするとき、イエスは、従うことができる力を与えてくださいます。

2B 「罪を犯してはなりません」 − 大切なことの見極め 10−15
 ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

 
さて、ここからがこの章での本題です。今までの奇蹟は、弟子たちなど、一部の人にしか知られない形で行なわれました。けれども、ここではユダヤ人指導者たちに知られることになります。時は安息日でした。安息日は、聖書で、神が7日目に創造の働きを休まれたように、人々も働きをやめ、神を礼拝する日として定められています。けれども、ユダヤ人は、この「働き」とは何かを定義しはじめました。荷物を持って歩くことは働くことになるから、入れ歯はつけてはだめ。義足をつけて歩いてはだめ、というようなヘンテコな規則もできあがりました。そこで、床を取り上げることは働くことに該当していたので、ユダヤ人たちは、厳しくこの男に問い詰めたのです。

 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」

 この男は、ユダヤ人に罰せられるのを恐れて、その責任を自分に命じた方に転嫁しました。

 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

 イエスはここで、この男のフォローアップをしています。この男の病気を直したあとで、これからしなければならないことを話されました。「もう罪を犯してはいけません。」と言われました。この男が足なえだったのは、たぶん彼が過去に行なった悪い行ないによるものなのでしょう。もちろんすべての病気がその人の犯した罪によるものではありません。けれども、一部には、自分の犯した罪によって引き起こされる病気もあります。たとえば、性病などはそうでしょう。そして、イエスは、「そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と優しく警告されました。これは、この男だけではなくすべての人に当てはまる原則です。使徒ペテロが、こう警告しています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2ペテロ2:20)」ですから、イエスがもっとも気にかけてくださったことは、罪を犯さないようにすることでした。病気よりも、罪こそがはるかに大きな問題であり、神と私たちとの関係に断絶をもたらす唯一の問題なのです。いろいろな種類の問題があるかもしれませんが、自分が神に対して犯している罪を告白し、きよめていただくことが最も大事です。

 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

 
この男は、神をあがめてイエスを主とするよりも、自分がユダヤ人から罰を受けないようにすることのほうが重要でだったようです。

2A よみがえり(将来の行き先についての望み) 16−30
1B 神と等しい方 − 神を求める必要性 16−23
 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

 
彼らにとって、イエスの行われたことは死刑に値しました。

 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」


 神は、7日目に創造の働きを休まれましたが、いつも生きて働いておられます。詩篇を書いた人は、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121:4)」と言いました。このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。ユダヤ人は、イエスが安息日を破った罪だけではなく、神を冒涜する罪を犯したと考えました。イエスがご自分を神と等しくしたからです。エホバの証人よりも、ユダヤ人たちのほうが正確にイエスのことばを理解していました。イエスは、神の力を授けられた人ではありません。神ご自身であり、父なる神と等しい方なのです。

 そこで、イエスは次から、明らかに、隠されることなく、ご自分が神であることを丁寧に説明し始められます。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。まことに、とは、ギリシヤ語で、「アーメン」です。「いいですか、聞きなさい。わたしは本当のことを話しますよ。」ということです。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。

 
ユダヤ人は、イエスが自分で勝手に神にようなことを話し、神のように振舞っていると考えました。けれども、イエスはそうではないことをここで説明されています。父がなされていることしか自分にはできない、つまり、自分と神とは一つなのだ、ということです。

 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。

 イエスは、ロボットのように父の示されることを行なったのではなく、父に愛されて、その愛のゆえに父の行なわれることだけを行なっておられます。

 また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。


 38年間、足のきかない人を直すりも大きなわざを行なわれます。神からのものでなければ、こんなことは起こらないというわざです。

 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

 大きなわざとは、いのちを与えることです。いのちを与えることは神にしかできません。イスラエルの王はナアマンに、「私は、殺したり、生かしたりすることのできる神だろうか。(2列王5:7)」と言いました。人間には、だれもがいつか死ななければいけません。自分の力と知恵で人生を動かしてきた、あるいは人の手を借りて動かしてきた、という人でも、死ぬことについてはどうすることもできません。けれども、だれもがずっと生きてみたいのです。あるゴスペル・シンガーが、こう歌っています。「『いつ死んでもいいよ。』と言ってるおばあちゃんに、なぜ死ななきゃいけないの、って聞いてみたら、『順繰りだからね。あきらめなきゃいけないの。家族の手をわずわらしちゃ、悪いからね。』あきらめなきゃいけない、ていうことは、本当はそうじゃないほうがいいって、願ってることさ。」聖書にも、「神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。(伝道者3:11)」とも書かれています。ですから、この問題は、人間ではなく神に解決してもらわなければならないのです。みなが神を必要としているのです。そして、ここでは、わたしがその神であることおっしゃっているのです。

 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。

 いのちを与えることだけでなく、さばくことも神にしかできないわざです。人のしたことについて、完全に正しくさばくことはだれにもできません。なぜなら、人は、他人の心の動機までを知ることはできないし、悪い行ないは人から隠されることが多いからです。けれども、聖書には、「人は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。(ヘブル9:27)」とはっきりと告げられています。死んで人は終わりではないのです。生きている時に行ったことを公平にさばく神がおられるのです。そして、イエスはさばきにおいても、ご自分が神であることを告げておられます。

 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。

 
イエスを除いて、神を礼拝しているとか、神を信じていると言うことは決してできません。私たちはこの前、パック旅行でマレーシアに行って来ましたが、ホテルからも、町を歩いていても、モスクからコーランを読む声が聞こえました。とても熱心です。神を信じています、と言いたいところですが、このイエスのことばによるとそうではありません。イエスを敬わないものは、神をも敬っていないのです。

2B 声を聞く者 − 今、求める必要性 24−30
 イエスは、ご自分がいのちを与え、さばきを行なう神であることを示されたあと、今度は、私たち自身のことを示されます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 イエスがご自分のうちにいのちを持っておられるので、イエスを信じる者には、その時に永遠のいのちが与えられます。永遠のいのちとはまさにイエスご自身が心の中に住んでおられることを言うのです。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(1ヨハネ5:12)」とヨハネは言いました。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。

 イエスは、そのいのちを持つのは、まさに今であることを伝えておられます。今がその時です、とおしゃられています。死んだ後のことは、今から考えなければいけません。今、ひとりひとりがイエスの声を聞き入れるか、それとも耳をふさぐかで、永遠の運命が決まるのです。

 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

 イエスは再び、さばきについて語られていますが、ご自分を「人の子」と呼ばれています。これは旧約聖書における、キリストの呼び名です。ダニエル書7章12節に書かれています。

 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 
イエスはここで、今あたえられる霊のいのちのことではなく、からだの復活について語られておられます。人はみな、終わりの日によみがえります。そして、それぞれの行ないに応じてさばかれます。29節のイエスのことばは、再びダニエル書12章と同じものですが、ダニエル書はこのさばきを神が行なう事として描いています。けれども、イエスはこの神のさばきにおいてもイエスがそれを執行する権限を与えられる事を話されているのです。

 復活についてですが、聖書には第一の復活と呼ばれているものと第二の復活と呼ばれているものの二つがあります。第一の復活は、イエスを初めに復活されてから今に至るまで続いています。イエスを信じて死んだ人は、天からの新しい、朽ちないからだを与えられます。そして、これは、黙示録20章によると、大患難時代にイエスを信じて殉教した人々が復活することによって終わります。第二の復活は、イエスが地上に来られて、千年間、地上を統治されたあとに起こります。「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。(黙示20:13−14)」ですから、人はいつかイエスの声を聞くときが来るのですが、今、聞き入ってイエスを信じる者は永遠のいのちを得ますが、聞くのを拒む人は終わりの日に聞いて、神のさばきの御座に立つようになるのです。

 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

 ここでも、イエスは、ご自分が父から離れて、別に動いておられるのではないことを話されています。

3A 証言(確かな望み) 31−47
 こうして、イエスはご自分が神であることを、はっきりと、詳しく語られました。次は、このことは単にイエスが言い張っていることではなく、客観的な証拠があることを語られます。

1B 御父 − 31−37
 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。

 法廷のことを考えてください。原告人や被告人がそれぞれの主張をしますが、その証言はそれだけでは事実として受けとめられません。なぜなら、もしかしたら嘘をついているかもしれないからです。けれども、第三者が同じことを証言したら、それは事実と判断されます。イエスはここで、このことを話されているのです。自分が話してもそれだけでは真実と認められないが、他の者が証言すれば真実と認められますと言われています。

 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。

 そうですね、1章に、「ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、『あなたはどなたですか。』と尋ねさせた。(19節)」とあります。そのときにヨハネは、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。(26節)」と証言しました。イエスがキリストであることを、はっきりと告げたのです。といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。イエスは、人のうちにあるものをすべて知っておられるので、イエスご自身が人から証言を受ける必要はありません。けれども、今聞いているユダヤ人のために、このことを話しておられます。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。バプテスマのヨハネは、人気ある預言者でした。イスラエル全体から人々が訪れて、イスラエルにメシヤが来られて、神の国が立てられる機運が高まりました。

 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。

 イエスは、この偉大な預言者ヨハネから証言を受けておられましたが、さらに偉大なのは御父ご自身の証言であります。天と地を創造された神ご自身が、「イエスがわたしの子である。」とおっしゃられるのであれば、もう間違いありません。神は、人ではなくご自分にしかできないみわざをイエスに託すことによって、イエスがご自分のひとり子でることを証言なさったのです。私たちは、ヨハネの福音書において、二つのしるしを見ました。一つはカナにおいて、水をぶどう酒に変えられたことです。ここで創造の働きをされています。次に、同じくカナで、遠く離れたところにいて死にかけている病人を直されました。神の性質の一つに偏在という難しい言葉がありますが、神はどこにでもおられるという意味です。イエスは遠くにいる人をいやされることによって、ご自分が偏在の神であることを現わされました。これからも、次々と神から与えられたわざを行なわれます。

 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。

 父なる神は、わざだけでなく、声によってもイエスを証言されました。バプテスマをお受けになるときに、「これはわたしの愛する子。」とおっしゃられました。同じく、高い山で変貌されたときも、また、エルサレムに入られるときも、「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度現わそう。(ヨハネ12:28)」と仰せになりました。

2B 聖書 − 38−47
 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。

 イエスは、これらの証言に対し、ユダヤ人たちが応答していないことを指摘しはじめておられます。そのため、ユダヤ人たちが失っている者を語られています。まず最初はみことばです。イエスを信じないので、みことばが彼らのうちにとどまっていません。私たちは、イエスを信じない限り、どんなに聖書を学んだとしてもそれを理解することができません。生きた神のことばとして、自分の生活の中に働くことはありません。

 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

 
新改訳聖書ですと、合計1900ページにのぼる膨大な書物は、たった一人の方イエス・キリストについて描いています。私たちがイエスを知り、イエスを愛したいと願うなら、この書物をじっくり学べば良いのです。旧約聖書は、救い主がやがて来られることがテーマとなって語られています。具体的に預言されている部分は、だいたい2000ヶ所に及びます。その300強がキリストの初めに来られるときの預言であり、1500以上が再び来られるときの預言です。そして、その300以上の預言はすべてイエスにあって成就されました。これこそが、私たちに与えられている確かな証拠です。

 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 
ユダヤ人指導者は、聖書を綿密に調べていましたから、それらの預言についてよく知っていました。けれども、彼らはイエスのところに行かなかったので、いのちが失われていたのです。聖書を知っているということと、イエスを知っているということには大きな違いがあります。聖書の話をいくらたくさん聞いても、そこに証言されているイエスを自分の主としなければ、永遠のいのちはないのです。あるいは、その生き生きとしたいのちを楽しむことはできません。イエスを主であると口で告白するだけでなく、日々の生活の中で、瞬時瞬時において、イエスを主としているでしょうか。聖書を知っているだけではなく、実際にイエスのところに来る必要があります。

 わたしは人からの栄誉は受けません

 
イエスは証言のことから少し話を変えられています。ユダヤ人たちは、イエスに対して、「あなたが神の子というなら、私たちからの正式な認証が必要ではないか。」と思っていたかもしれません。そこでイエスは、人からの栄誉は受けないとおっしゃっています。

 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。

 
彼らはイエスを受け入れないので、みことばがとどまっておらず、いのちが与えられていないだけでなく、神の愛を持っていません。神の愛は、イエスを受け入れることによってのみ来ます。

 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。

 イエス
を受け入れない結果、自分の名前で勝手に活動する偽教師や偽預言者を受け入れるようになります。パウロは言いました。「不法の人の到来はサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。(2テサロニケ2:11)」真理を受け入れないと、実に愚かしいものを信じ、希望を持つようになります。事実ユダヤ人は、この不法の人をメシヤとして受け入れて、だまされてしまうことが預言されています。

 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。


 お互いの栄誉を求めています。人にこびへつらったり、人に良く見せようとしていました。

 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。

 
イエスは誤解のないように、このことを話されました。イエスはこの世を救うために来られたのであり、さばくために来られたのではありません。もしさばくものがあるなら、彼らが信じているとされるモーセの律法であります。

 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。

 
モーセ五書を読めば、キリストの姿がくっきりと現れていることを発見します。私たちは今まで創世記から出エジプト記まで読みましたが、預言をとおして、人物を通して、出来事をとおして、またささげ物をとおして、キリストとはどのような方であるかを見ることができています。ですから、本当にモーセを信じているのなら、イエスを信じるはずなのです。

 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」


 こうして、彼らが望みを置いているモーセの律法において、彼ら自身がさばかれることを伝えられました。イエスとユダヤ人指導者、とくにパリサイ人との対決がこうして始まりました。これからこの対決が、さらに激しいものとなります。

 こうして、イエスのみわざについて見ました。このわざはイエスが神であることを示すものでした。ですから、この方に希望を置けば、あの足なえのように立ち上がることができます。私たちも、イエスの命令に従って、このみわざを体験しましょう。

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