ヨハネ5章19−47節 「神と等しいイエス」
アウトライン
1A 主張 19−30
1B 父との一体性 19−23
2B 復活と裁き 24−30
2A 証言 31−47
1B 真実な証言 31−39
2B 人の栄誉 40−47
本文
ヨハネによる福音書5章を開いてください、今回は5章19節から最後までを読みたいと思います。前回、私たちはベテスダの池において、イエス様が38年間足なえの男を癒されたところを読みました。けれども、その日が安息日でした。男が、自分が伏せていた床を担いだのが安息日の掟に違反するというのです。
そこでユダヤ人指導者は、イエス様を迫害し始めました。イエス様を最終的に十字架につけることになったのは、このベテスダの池における出来事です。
そしてイエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。(17節)」と言われました。これをユダヤ人ははっきりと、「イエスが・・・ご自分を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(18節)」と認識していました。
この怒りに対してイエス様が返答しておられるのが、今から読む箇所です。とても長いですが、イエス様がどのように神と等しい方なのかを、ご自分で説明しておられます。
1A 主張 19−30
1B 父との一体性 19−23
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。5:20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。5:23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
なぜイエス様が神と一つなのか、その第一の理由は、「御父から独立して行動していない」ということです。19節で「自分からは何事も行なうことができません」と主は言われています。主は後に弟子たちに対して、「わたしを見たものは、父を見たのです。(14:9)」と言われましたが、行動がまったく同じであれば、その通りです。
そして第二に、20節「父が子を愛して」おられること、ゆえに「すべてを子に知らせておられる」ことです。イエス様は機械的に、ロボットのように御父が言われることを行なわれたのではありません、父を愛する愛のゆえに命令を守られたのです。
そして愛する者には、すべてのことを明かします。私たちが愛する人に、自分のことをなるべくすべて明かしますね、それと同じです。
そして実は、この御父と御子の間にある関係、この一つになっている関係を、イエス様はご自分を信じている者にも引き伸ばしたいというのが、大きな願いです。イエス様が父に祈られた時、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。(ヨハネ17:21)」と言われました。
子は父が行なうこと以外のことを行なわないのと同じように、私たちが主イエス・キリストが命じられていることを行ない、それ以外のことは行なわないようになる。また父が子を愛して、すべてのことを示されたように、主イエス・キリストが私たちを愛し、私たちにご自分のことを示される、という関係に入れようとされています。「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」と主は弟子たちに言われました。
そして第三に、「神にしかできない業をイエスが行なわれる」ことによってご自分が神と等しい方であることを示されます。神にしかできない業は何でしょうか?「命を与え、また取られる」ことです。「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」とあります。生命というのは、完全に神に頼っています。
自分が生まれることを、だれが支配することができるでしょうか?例えば「私は1989年4月26日に生まれます。」と決めることができるでしょうか?また、誰か、自分を永遠に生かすことができるでしょうか?どんな偉大な人でも、権力のある人でも、知恵のある人でも、いつか死ぬ時が来ます。これは完全に神の領域だからです。
そして神にしかできない業は、生命だけではなく「審判」があります。「すべてのさばきを子にゆだねられました。」と主は言われました。人間は、究極の裁きは神にしかできないことを知っています。何か事件が起こって、裁判でもその真相が解明されずに迷宮入りした時、「神のみぞ知る」と言いますね。信者でない人々もそう言います。なぜなら、神のみしか正しい裁きができないことを知っているからです。
そこで主は「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」と言われています。これはとても大事な言葉です。多くの人は、「私は神を信じる。けれども、イエス・キリストは信じない。」と言います。また一般の人々には、「神に至る道はいろいろあり、イエス・キリストもその一つだろう。」と言います。けれども、イエス・キリストを敬わない者、つまりこの方を自分の救い主、主として受け入れないのであれば、神をも受け入れていない、ということなのです。なぜなら、神とイエスは一つだからです。どちらかを受け入れ、どちらかを拒むことはできないのです。
2B 復活と裁き 24−30
イエス様は、20節で「これより、さらに大きな業を行なう。あなたがたが驚き怪しむためだ。」と言われていますが、これまでは足なえを直すなど、癒しは行なわれていました。けれども、イエス様は、「わたしは死んだ者を生かし、そして裁きを行なうのだ。」と言われます。この命と裁きについて、さらに詳しくお語りになります。
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
ところで私たちは教会に来るたびに、命であるとか死であるとか、一般の社会では葬式の時にしか扱わない重い内容を、毎回、聞きます。人々が普段の生活の中で避けたい話題、一心に直面しているのがキリスト者です。「神に頼るのは心が弱いからだ。」というのは嘘であり、むしろ、「人生の最も根本的な問題に、真正面から立ち向かっている。」というのが正しいです。
だから、何かが起こっても免疫が付いています。霊的な筋力がついていると言っても良いでしょうか。その反面、もし教会が永遠の命について、その希望について語らなければ、弱くなります。今の生活でどのように幸せにいければよいか、についての話だけを聞いていたら、私たちは教会の真理の柱を失ってしまうことになります。
そして若くても立ち向かうのです!これからどのように生きればよいのかは、自分がもしかしたら明日死ぬかもしれない、けれども天国に行けるから安心だ、という確信があるからこそ、これからの人生を正しく見ていくことができるのです!
それでここ24節、25節には、霊的な命をイエス様は語っておられます。「死」と言っても、肉体の死ではありません。肉体は生きているのに、霊は神から離れ死んでいる状態です。
すばらしい約束ですね、「わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがない」とのことです。ローマ8章1節には、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とあります。一度、救われたけれども、また堕落して、地獄に行くのではないのです。そのようなことを決して繰り返すことのないように、神がただ一度、キリストにあって私たちのすべての罪を負うようにお定めになったのです!
5:27 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。5:29 善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
これが肉体の復活です。私たちの肉体は滅びるけれども、キリストにあって死んだ者たちは、新しい体をもって生き返ることを神は約束してくださっています。「墓の中にいる者がみな、出てくる」とここにありますが、私たちがキリスト者の墓地に行く時に、そこに死んだ人が宿っていると思ってはいけません。そこから出てくると信じてください!復活の希望です。
明治時代のキリスト者、内村鑑三は、自分の娘るルツ子を19歳で亡くしました。けれども彼は告別式において、「これはルツ子の葬式ではない。結婚式である。彼女は天国に嫁入ったのである。」と言いました。そして棺おけが穴の中に入れられる時に、一握りの土をつかみ、高く差し上げて、「ルツ子万歳!」と叫びました。(http://www.kinpouden.com/main/mission_page/red/red1.htm)
コリント第一15章を開いてください、ここは死者の復活についてパウロが詳しく説明している箇所ですが、50節から読みます。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(50-55節)
そしてこの52節の「終わりのラッパ」はいつ吹かれるのか?パウロはテサロニケ第一4章で語っています。16,17節です。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」主が空中にまで戻ってこられる時です。私たちは、イエス様が戻ってこられるのを楽しみにしていますか?この時に、生き残っている私たちは一瞬にして新しい体に変えられ、そして既に死んだ人は復活して、空中にまで引き上げられるのです。
そして大事なのは、イエス様はキリストを信じる者だけでなく、信じていない者も復活を経験します。「よみがえってさばきを受ける」と主は言われます。黙示録20章を開いてください。11節から読みます。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(11-15節)
非常に恐ろしいことですが、これが信仰を持たずに死んでいった人々に永遠の運命です。神は「行ないの書」を持っておられます。そこに生まれてから死ぬまでの、すべての行ないが記されています。外側の行ないだけではなく、思いの中で犯したこと、また発言した言葉、すべてが裁かれます。
また「いのちの書」もあります。イエス様は、悪霊を追い出すことよりも、「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。
5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
イエス様は再び、ご自分を神と等しくされています。ご自分の判断で裁くのではなく、父なる神の裁きによって裁かれます。
2A 証言 31−47
ここまでイエス様は、驚くべき発言、主張を行なわれました。これを聞いているユダヤ人指導者は血相を変えていただろうと思われます。そこでイエス様は、この発言、主張にかなう証言を行なわれます。ここまで大胆なことを言うからには、どんな証拠があるのか?ということを以前、ユダヤ人は言いましたが、イエス様は、「確かにある」と答えられます。
1B 真実な証言 31−39
5:31 もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。5:32 わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。
そして具体的な証言を列挙されます
5:33 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。5:34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。5:35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。
一つ目の証言は、バプテスマあるいは洗礼者ヨハネです。福音書四つのすべてがバプテスマのヨハネから始まっていることを思い出してください。これは聞いている、ユダヤ人にとってかなりきつい事実だったと思います。なぜなら、バプテスマのヨハネはイスラエル人の中で神の預言者として認められていたからです。そして神の預言者であるヨハネが、「やがて来られる方、メシヤが来られたのだ。」とイエス様を見て、証言したのです。
イエス様が神殿にいたユダヤ人指導者に、「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。(マタイ21:25)」と尋ねられました。彼らは非常に戸惑いました。もし天からだと答えれば、そのままイエスがメシヤであることを認めることになる。だからと言って人からだと言えば、イスラエルの民衆が恐い。彼らがヨハネを神の預言者と認めていたからです。それで彼らは「わかりません。」と答えました。
5:36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
二つ目の証言は「わざ」です。これが、使徒ヨハネがこの福音書を書いている目的です。主が行なわれる業や徴を記して、それによって人々が、この方が神の子キリストであることを信じるように書いています。水をぶどう酒に変える業、死にそうになっている人を、遠くから言葉だけで癒される業、38年間の足なえを瞬時に直す業、これからまだまだ出てきますが、これらが創造主であられる神にしかできないことであることを指し示しています。
5:37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。5:38 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
三つ目の証言は、父なる神ご自身が語られたことです。イエス様がバプテスマ(洗礼、浸礼)を受けられた時に、天から声がありましたね。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(ルカ3:22)」
興味深いことに、この声はユダヤ人指導者たちには聞こえなかったようです。「一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。」と主は言われます。理由が、「父が遣わした者を信じないから」つまり、イエス様を信じないからです。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
四つ目の証言は、「聖書」です。ここで言っている「聖書」とは、もちろん旧約聖書のことです。私はクリスチャンになって間もない時は、イエス様が現れる福音書だけでイエス様のことを知ることができると思っていました。けれども実は、創世記1章1節から黙示録の最後まですべてが、たった一人の方、「イエス・キリスト」を証ししている書物であることを発見して、驚き喜びました。
イエス様が復活されてから、二人に弟子に、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ24:27)」とあります。
例えば創世記1章、神はことばによって、「光よ、あれ」と言われましたが、そのことばは神であり、そのことばが人となった、とヨハネ1章14節にあります。そしてアダムを造られ、エバを造られ、彼らが罪を犯しましたが、主は、「女の子孫が、おまえ(蛇)の子孫のかしらを打ち砕く。」と約束されました。キリストの十字架の約束です。後に生まれた子はカインとアベルでした。カインがアベルをねたみ、殺しましたが、同じようにユダヤ人が同じユダヤ人であられるイエス様を殺しました。
ノアの時代、箱舟によって水の裁きからノアの家族が救われましたが、同じようにキリストのうちにあるものは、神の裁きから救い出されます。
アブラハムは、イサクをささげようとしました。なぜが主は、「あなたの愛するひとり子、イサクをささげなさい。」と言われました。アブラハムにはもう一人の子イシュマエルがいたのです。でも、「ひとり子」と言われたのです。それは、アブラハムとイサクが、父なる神ご自身とその独り子キリストを表していたからです。そしてアブラハムがささげようとした所は、モリヤの山であり、今のエルサレムの神殿の丘の辺りです。エルサレムで主は十字架につけられました。
アブラハムは、イサクは死なない、いや死んでもよみがえる、と信じていました。イサクから子孫が増え広がると主は約束してくださっていたからです。だから、同じように神は御子キリストを三日目によみがえらせました。
ヤコブの子ヨセフは、自分が王になり、兄たち、また親までもが自分にひれ伏す夢を見ました。そのために兄は彼をねたみ、憎み、そしてエジプトに行く商人に売り飛ばしました。銀20枚で売りました。ユダヤ人はイエスを憎んでいましたが、そして弟子のユダが銀30枚でイエスを売り飛ばしました。
ヨセフは、囚人の身から一気にエジプトの首相になりました。そして、飢饉だったのでエジプトで食糧を購入するために、エジプトに下りました。そこでヨセフとは知らず、彼の前でひれ伏しました。これも、イエス様を表しています。ユダヤ人は初めイエス様を拒みました。けれども、イエス様は、二度目は、王の王、主の主として戻ってこられます。世界の王となられた主が戻ってこられる時、ユダヤ人はこの方を自分たちのメシヤとして認め、ひれ伏します
出エジプト記の、紅海が分かれるのは、水のバプテスマ、浸礼を表している、過越の祭りの子羊は、世の罪を取り除くキリストを表している。まだまだ、何百、何千とあります。
そして、具体的に預言書では、例えばベツレヘムでメシヤがお生まれになる。ガリラヤ地方で活躍される。たくさんの人を癒し、悪霊につかれた人を解放する。民の罪の身代わりになって死なれる。木にかけられる。その下では、その方の着物がくじ引きされる。預言のうち300以上が、初めに来られた時に成就したと言われます。
2B 人の栄誉 40−47
そしてイエス様は、適用を行なわれます。これだけの証言がありながら、なおわたしを信じないのですか、と問いただされます。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
非常に重要な言葉です。私たちは知識として聖書を知ることと、実際にイエス様のところに行くこととの違いを知るべきです。聖書の話を聞いてそれで納得して聞くのと、実際に、自分の身をイエス様に任せ、この方を主として、人生の中心として心にお迎えするとでは全然違うのです。
ヘロデ大王のところに、東方からの博士が来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。(マタイ2:2)」と聞きました。ユダヤ人の王はヘロデ自身だったので、けれども彼はユダヤ教にも精通していたので、恐れました。それでユダヤ人の学者にメシヤはどこから来るのか聞きました。彼らは、「ユダヤのベツレヘムです。」と言って、ミカ書の預言を引用しています。
彼らは平気で、無感動なままで聖書の箇所を引用することはできるのですが、全然、メシヤが生まれたという知らせに対して反応することも、応答することもなかったのです。むしろ異邦人であるヘロデが、自分の王座が危ぶまれると強く反応しているのです。
ですから私たちは、聖書を知るために聖書の学びをするのではありません。そうではなく、イエス様を知るために学んでいます。この方に、自分の身を任せるため、明け渡すことができるために学んでいます。主のもとに、具体的に行くことができるように学んでいます。
この中で、聖書の話は聞いたけれども、まだイエス様との関係がよく分からない、と言われる方がいらっしゃったら、ぜひこの方を心に迎え入れてください。聖書の知識は知識だけで終わってはいけません、イエス様との個人的な、人格的な関係に入らねばならないのです。
5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。5:42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。5:43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。5:44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか
ユダヤ人指導者が持っていた大きな問題は、「人の栄誉」または「評判」を気にしていたことです。私たちが周りの人々が自分をどのように見ているかを気にしていたら、イエス様がここで言われているように、「神の愛」を持つことはできません。これがおそらく、日本の人が持っている一番大きな課題の一つであると考えられます。
私がアメリカに行って来た時に、アメリカで働いておられる日本の方に、とてもキリスト教のことを求めておられるので、信仰という一歩を踏み出すことを勧めました。そうしたら、「故郷の日本に戻ったら、家は仏教です。家族が、クリスチャンになった私を見てどう思うでしょうか。」ということを心配しておられました。
私たちが、キリストにある神の愛、私の罪のために命を捧げてくださった、血を流してくださった、そこにある大いなる愛、これを受け入れとき、他の人の目など気にしていたらできないのです。恋愛をするときに、親の目、周囲の目を気にして楽しめるでしょうか?結婚するとき、妻より自分の親を先に考えて結婚できるでしょうか?彼女に自分のすべてを捧げると決心するからこそできます。これと同じです。神の愛は、人からの栄誉を受けることから離れて、神の栄誉、つまり神から自分がどう思われるのかのみを考えて、初めて経験することができます。
5:45 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。5:46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。5:47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
ユダヤ人指導者は、モーセこそが神の最高権威を授けられた預言者であると思っていました。近年出版された、「ユダヤ人が選ぶ、偉大なユダヤ人100人」という内容の本には、第一にモーセが上げられます。第二にイエス・キリストが出てきますが。
だからモーセの言うことに彼らは聞き従わなければいけないのです。モーセの律法の中にキリストが証しされています。ですから、キリストも信じなければならないのです。でも信じませんでした。
いかがでしょうか?私たちはこれまで、イエスがいかに神の子であられ、キリストであるかを読んできました。けれども、実際の一歩を踏まれたでしょうか?この方を自分の救い主、主として受け入れ、この方を主として生きているでしょうか?もししていなかったら、それはもはや知識の問題ではありません。拒んでいるという態度の問題です。
もしそれが、「人の栄誉」を求めていることから、つまり人目を気にしていることから来ているのであれば、どうか神のみを見てください。この方の愛を知ってください。これほど大きな愛はこの世に存在しないのです。親で、犯罪人のために自分の息子を身代わりに死刑にする人がいるでしょうか?けれども、私たちが神の裁きを受け、地獄に行くことを望まれないこの方は、ご自分の子を神の裁きに服させたのです。それだけ愛しておられます。
ヤコブがラケルとレアの二人の妻を持ち、二人が競争して子を産もうとしていたことを思い出してください。一向に妊娠しないラケルがヤコブに、「私に子どもを与えてください。でなければ、私は死んでしまいます。(創世30:1)」と言いました。ヤコブは、「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ。(同2節)」と言いました。
また命を取ることについては、ヨブが息子、娘を失った後で、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21)」と言いました。
ローマ人への手紙1章に、異教徒たちがあらゆる不義や悪を行なっている姿をパウロは描いていますが、最後にこう言いました。「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、・・・(32節)」最後の審判というのは、キリスト教の考えだ。死んだら自分は存在しなくなるのだ、というのが多くの人が言うことです。けれども、心の意識の深いところ、良心の深いところでは、自分はただ死ぬだけでなく、死んだ後に裁きを受けることを知っています。