ヨハネの福音書6章 「2つのいのち」


アウトライン 

1A イエスのしるし ― 信仰を建て上げる 1−21
   1B 必要を満たす方 1−15
   2B 嵐の中の助け主 16−21
2A いのちのパン ― たましいを満たす 22−40
   1B 信じるという仕事 22−29
   2B 約束 30−40
3A イエスの肉と血 ― いのちを得る方法 41−59
   1B 神のいのち 41−51
   2B 人の子の死 52−59
4A 御霊のいのち ― 60−71
   1B 肉の無益さ 60−66
   2B いのちのことば 67−71 

本文

 ヨハネの福音書6章を開いてください。ここでのテーマは、「2つのいのち」です。それでは、本文に入りましょう。

1A イエスのしるし ― 信仰を建て上げる 1−21
1B 必要を満たす方 1−15
 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

 その後とは、5章のことです。イエスはユダヤ人がご自分を信じないことを指摘されました。その後、ガリラヤ湖のテベリヤという町の向こう岸に行かれました。

 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。


 これから読むところは、他の福音書にも描かれている、5千人への給食とイエスが水の上を歩かれる奇蹟の場面です。この時点で、イエスの公生涯の半ばにさしかかっており、ちょうどバプテスマのヨハネがヘロデによって殺されました。そして、この6章は、ペテロがイエスを、生ける神の御子キリストであると告白する出来事にまで及びます。つまり約2年という期間が、この章の中にあります。

 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

 
過越の祭りが近づきました。ユダヤ人にとって、それはイスラエルの国が誕生した記念の祭りです。ユダヤ人が愛国的になる季節です。

 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

 ピリポが、ご自分についてどれほど知っているかためされています。テストされています。

 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

 
ピリポはテストに合格しませんでした。本当なら、「主よ。あなたでしたら、何でもおできになるはずです。」と言えば良かったのですが、その代わりにお金を数えてしまいました。

 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

 アンデレも、テストに不合格ですね。この少年を連れて来たこと自体、あまりもばかばかしいと言わんばかりです。

 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。


 こうして、イエスは奇蹟を行なわれました。5つのパンと2匹の魚から、5千人が満腹になり、なお残ったものが12のかごにいっぱいになりました。そして、ここで、弟子たちがこの残ったものを集めるように命じられていることに気づいてください。それは、弟子たちに、この奇蹟の現実をしっかりと受けとめてほしかったからです。イエスは、このように必要を満たされます。必要を満たされるだけでなく、あふれるまでにしてくださいます。パウロは言いました。「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。…また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:18、19)

 そして、次からです。次から問題が起こります。人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

 
彼らはむりやり、イエスをイスラエルの王としようとしました。そして、過越の祭りも近いので、この方を引き連れてエルサレムに行こうとしたのでしょう。そして、彼らが預言者だと言っているのはキリストのことです。モーセはイスラエルの民に、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。(申命18:15」と預言していました。こうして、彼らは今、物質的な必要が満たされて、イエスをキリストとして仰ぎました。けれども、これは間違った動機です。キリストが世に遣わされたその使命は、失われた魂を見つけるということです。罪によって神から離れた人間を、再び神のみもとに連れて行くことが使命です。そのため、彼らから退かれ山に行かれました。

2B 嵐の中の助け主 16−21
 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。

 
これは、ガリラヤ湖でよく起こる強風です。ガリラヤ湖は海面下にあるので、地中海に面した海岸から来る冷たい風が強く吹いてきます。

 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。


 過越の祭りの時期は満月なので、イエスは山から弟子たちが苦しんでいるのをご覧になっておられたでしょう。イエスはそれを見て、彼らのところに近づかれました。そして、「恐れることはない。」と言って安心させておられます。私たちも嵐の中を通りるとき、イエスがそばに来てくださいます。そして、イエスが支え、平安を与えてくださるのです。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と預言者イザヤは言いました(43:2)。

 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

2A いのちのパン ― たましいを満たす 22−40
 こうして弟子たちは、イエスが必要をあふれるほど満たし、恐れを取り除かれる方であることを知り、この方が確かに神の子キリストであるという確信を深めたに違いありません。けれども、先ほどイエスを王に持ち上げようとした群集たちは違います。次を読みましょう。

1B 信じるという仕事 22−29
 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。彼らはイエスを捜しました。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

 イエスは、彼らの質問に答えられませんでした。代わりに、彼らがイエスを捜している動機をずばり指摘されました。彼らは魚とパンを与えられたしるしを見て、イエスを神の子キリストとしてあがめ礼拝するのではなくて、何かもっとパンをくれるかなあと思っていたのです。この人のところにいれば、飯をただで出してくれると思っていました。一般的な言葉を使うと、これは「ご利益信仰」であります。日常生活における自分の今ある必要を満たされたい、ただそれを満たしてくれよと訴えていることです。ですから、嵐の中にも主はおられるというようなメッセージは受けつけられません。「そんなのは、どうでもいいんだ。今、持っている問題をあんたが解決してくれるんだろ。早く直してくれよ。」と言い張ります。神が自分にしてくださったことによって、神に対する敬意や尊敬が深まるのではなくて、自分のことだけに関心が向いているのです。みなさんはどうでしょうか。教会に来て、今ある自分の境遇で頭がいっぱいになっているでしょうか。それとも、神とキリストのことをもっと知りたいと願って来ているでしょうか。この群集は、間違った動機でイエスを捜しました。

 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

 イエスはここから、群集を物質的なレベルから霊的なレベルに導かれようとします。サマリヤにいた女との会話を思い出してください。イエスは、「飲む水をください。」と言われてから、「わたしはあなたに生ける水を与えます。」と言われました。彼女は最初、物質の水のことだと思っていましたが、イエスがこの女の隠れた部分を明らかにされると、彼女は心の中の渇きを潤してくれる永遠のいのちであることを理解したのです。イエスは、このことが起こるように導かれようとしておられます。そして、ここのイエスのことばを噛みくだくと、「あなたがたは、目の前にある一時的なことのために生きるのではなく、永遠のことを考えなさい。」ということです。ただ生きることだけでなく生きている意味を考えなさい。今のことだけではなく将来のこと、死んだ後のことを考えなさいとおしゃっています。

 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」

 イエスが、「働きなさい」と言われたので、彼らは「それでは、何をすればいいのですか。」と尋ねています。これは私たちの多くが抱いている質問です。意味のある人生を送るために、何をしなければならないのか。また、クリスチャンはこう思うはずです。「イエスを信じたけれども、私はこれから何をしなければならないのか。」何をすべきなのでしょうか?

 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 信じること、イエスを信じることをすべきなのです。これが私たちのお仕事です。クリスチャンなら、「えっ、イエスを信じたのに、また信じるの?」と思われるかもしれません。そうです、また信じます。そしてまた信じます。実は絶えず信じ続けるのです。これを言いかえると、イエスを見続けること。あるいは、礼拝することです。この方が語られる声を聞き、この方が行なわれるわざを見て、この方が命じられることを行ないます。そして、信じるときに、神のわざを行なうための御霊の力が与えられます。

2B 約束 30−40
 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。

 先ほど、パンと魚を食べた奇蹟を見たばかりなのに、このようなことを言っています。多くの人は、「見なければ、信じない。」と言いますが、そう言う人は見ても信じないのです。

 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」


 過去に、預言者モーセを通して、イスラエルの民はマナという食物を食べました。毎日、朝、テントから出て見ると、白い霜のようなものが降りていました。それは蜜を入れたせんべいのような味がしました。これを食べていたので、荒野で生活をしているとき、ひもじい思いをすることがなかったのです。ですから、彼らは、キリストはモーセのようなひとりの預言者なのですから、あなたはどのようなしるしを見せてくださるのですか、と聞いています。

 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

 
モーセは主に祈りましたが、モーセ自身が与えたのではありません。父なる神が与えられました。そして、イエスは霊的なレベルに話しを移されます。父なる神は、霊のいのちを与えるキリストを私たちに遣わしてくださったことを話されています。

 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」

 面白いですね、これはサマリヤの女が申し出た願いと同じです。イエスが、「わたしが与える水はを飲む者はだれでも、決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われたら、女は、「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言いました(ヨハネ4:14−15参照)。水がどんどん出来くる魔法の壷を女は想像したのでしょう。この群集も、パンをイエスが尽きることなく空から降らせてくださることを想像していたのです。

 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。」

 ものすごい過激な発言です。いのちのパンがどこかにあるのでなくて、イエスがそうであるとおっしゃっています。この人はペテン師や精神異常者か、あるいは本当に神ご自身であるかのどちらかです。立派な活動をした宗教家であるとか、道徳的教師ではありえません。中立の立場を取ることはできません。そして、特にユダヤ人にとって、これは別の意味で過激な発言です。群集は今、モーセとイエスを比べました。そのモーセですが、彼は、イスラエルの民をエジプトから解放するよう神に呼びかけられました。でも、「イスラエルの民は、あなたが私を遣わしたと信じるでしょうか。その神の名前はなんだ、と聞かないでしょうか。」と言いました。神は、「わたしは、『わたしはある。』という名前の者である。」と答えられました(出エジプト3:13−14参照)。英語ですと、
”I AM”という名前です。イエスは今、わたしはいのちのパンです、と言われました。I AM THE LIVING BREAD.であります。つまり、イエスはモーセよりも優れているどころか、モーセが神としてあがめていた張本人であることを、今ここで主張されているのです。

 わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。


 イエスのところに来る者は、完全な満たしを受けます。完全な平安と、完全な愛、完全な喜びを手に入れることができます。それ以上、何も加えることのできない満足感を得ることができます。なぜなら、人のたましいの飢え渇きは、神に対するものだからです。それを人は物やお金、学問やスポーツ、友人関係、恋愛関係に求めます。でも満たされないのです。けれども、イエスが神であるお方なので、イエスのところに来れば、その空洞が埋められます。

 イエスはこれと同じことをサマリヤの女に話されましたが、女はイエスをキリストとして信じるように導かれました。けれども、この群集たちは違います。次をご覧ください。しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。

 
信じられないのではなく、信じようとしません。しるしを見ても信じないのです。

 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

 イエスはここで、彼らが信じない理由をお話しになっています。父のみこころである、ということです。神はご自分が救う者を予めお定めになって、それをイエスに与えてくださいます。神の主権があります。それなら、彼らがどんなに頑張っても、イエスのところに来ることはできないではないか、という意見がありますが、それもまた違います。イエスは、ご自分のところに来る者をだれも拒むことなく、受け入れてくださるとあります。ですから、神の主権と人間の責任のどちらもあるのです。

 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」終わりの日によみがえるというのは、復活することです。新しい肉体が与えられることです。そして、永遠のいのちは御霊のいのちであり、今、それを持つことができます。イエスはそのどちらも話されています。そして、イエスがここで強調されているのは、「ひとりも」という言葉です。私はイエスを信じたけれども、私だけは例外だ。地獄に行ってしまうかもしれない、ではありません。ひとりも失われず、みなが永遠のいのちを持ちます。

3A イエスの肉と血 ― いのちを得る方法 41−59
1B 神のいのち 41−51
 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。

 イエス
がこのことを話されてからしばらくして、ユダヤ人がつぶやきました。イエスは単なる人であるのに、自分が神から来たなどと言っている。彼はヨセフとマリヤの子であるのに、神から来たなんていうのはどういうことか、とつぶやきました。

 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
また、先ほどと同じことを繰り返されています。彼らが信じない理由を話されています。預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。

 これは、旧約聖書の預言の引用ですが、旧約聖書を本当に学んで神のことを知ったものは、イエスがキリストであることを知ります。旧約聖書には、キリストは人でありかつ神であることが明確に描かれています。例えば、イザヤ書9章6節にはこう書かれています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」人間の赤ちゃんとして産まれながら、かつ力ある神、永遠の父と呼ばれるのです。ですから、イエスが主張されていたことには、数多くの証拠がありました。けれども、証拠を知りながらも、信じようとしない人たちがいるのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

 
イエスはこうして、信じる者が永遠に生きることを強調されました。物質のパンを食べても一時的にしか生きられないが、霊のパンは永遠に生きることができます。

 またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

2B 人の子の死 52−59
 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。

 
彼らは、イエスの肉体をひきちぎって食べなければいけないのか、と思って気持ち悪がりました。まだ物質的なレベルで考えていますね。

 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。


 イエスがここで話されているのは、十字架のことです。イエスは十字架において、肉が裂かれて、血を流されました。この十字架のみわざを信じる者が、永遠のいのちを持ちます。なぜなら、イエスは、ご自分が死なれることによって、そのいのちを私たちにお与えになるからです。これはちょうど、お互いに交換するようなものです。私たちは罪の中にいて死んでしまいますが、イエスが罪と死を身代わりに負ってくださいました。そして交換に、イエスの正しさといのちを私たちがいただくことになります。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

 これは、聖餐のことです。イエスは十字架につけられる前夜、過越の祭りの食事を弟子たちとともに取られました。パンを裂いて、「これが、わたしのからだです。取って食べなさい。」と言われました。また、ぶどう酒の杯を飲ませて、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました。これは、イエスがかかられた十字架は、まさに自分自身のものであることを確認するためのものです。それでは、確認するとどうなるのでしょうか。次を見てください。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

 
イエスとの交わりです。これほど深い交わりはありません。自分のうちにイエスが自とどまって、イエスのうちにも自分がとどまります。夫と妻はその夫婦の交わりにおいて一つになりますが、肉体の交わりよりも、はるかに深く、親密な交わりです。もちろんそれは、聖い交わりです。

 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

 
ここから、永遠のいのちとは、イエスが自分にうちにおられ、イエスのうちに自分がいるという関係そのものであることが分かります。妻が夫を慕い、夫が妻を愛しいたわるようように、その関係の中に実質的な、霊的ないのちがあるのです。これが、神が人に対して最も願っておられることであり、アダムとエバがエデンの園を出て行ってから願っておられたことなのです。

 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。

 こうして、イエスは、十字架のみわざを信じることによっていのちを得ることができ、また、いのちとは交わることであることを語られました。



4A 御霊のいのち ― 60−71
1B 肉の無益さ 60−66
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

 
群集やユダヤ人だけでなく、弟子たちまでが物質的な領域から抜け出すことができないでいます。

 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。


 イエスはここで、わたしが十字架につけられたのを見たら、あなたたちはますますつまずきやしないか、と言われています。弟子たちがイエスについて来ていたのは、物理的な神の国が立てられることでした。イエスがキリストであるなら、この方はエルサレムに行って、ローマ帝国を倒し、神の国を立ててくださると信じました。確かに、物理的な神の国は聖書に約束されています。イエスが再び来られるとき、それは実現します。けれども、彼らがイエスご自身を知り、イエスと交わりをするということを最も大きな願いとしていないことが問題です。ローマ帝国が倒されて、ユダヤ人の国ができるのを最も大きな楽しみにしていました。間違った動機でイエスに従っていたのです。そのため、神の国が立てられないどころか、キリストが殺されてしまうのを聞いて、つまずきます。これは、私たちに十分当てはまることです。イエスのために生きているようで、いつの間にか自分のために生きているようなことがあります。イエスに用いられるのではなく、イエスを利用して自分を高めてしまいます。そこで、そこでうまく行かなくなると、イエスに対する信頼を失ってしまいます。つまずくのです。

 そして、次に、この6章において中心テーマとなる聖句があります。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

 今までは長い会話は、イエスの御霊のことばと、人々の肉のことばのすれ違いでした。イエスは、霊のいのちのことを語られたのに、人々は肉のいのちのことを考えていました。この世には2つのいのちがあります。御霊のいのちと肉のいのちです。そして、肉のいのちによっては何の益ももたらされません。それはいつか滅び、心の満たしをもたらしません。御霊のいのちによって初めて、私たちは本当の意味で生きることができるのです。

 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」・・イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。・・そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 群集だけでなく、弟子たちまでがイエスを離れて行きました。

2B いのちのことば 67−71
 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

 この「神の聖者は」他の写本によると、「生ける神の御子」となっています。この少数の弟子たちだけは、永遠のいのちを手に入れ、イエスを信じ、また知っていました。なぜでしょうか?ペテロが、「私たちがだれのところに行きましょう。」と言っています。イエスにつまずいて、この世に戻ったところで、益になるものは何もないことを知っていたのです。この世におけるむなしさを重々知っていたのです。だから、イエスとともにいることが唯一、自分の渇きをいやし、飢えを満たしてくれることを知っていました。イエスは言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人の者だからです。(マタイ5:3)」心の貧しさが永遠のいのちを得る第一歩です。

 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。

 
少数の残された弟子たちの中にも、さらにイエスを離れる人物が一名いました。イスカリオテのユダです。けれども、他の弟子たちもイエスが十字架につけられるときはみな離れて行き、イエスはただひとりでその苦しみをお受けになりました。けれども、神はこの悲しき出来事さえも益としてくださっています。最後までイエスに付いて行くことが出来なかった弟子たちも、後で復活したイエスにお会いしました。そして、罪赦され、励ましを受け、完全に立ち返ったのです。私たちも同じです。私たちは群集のように、イエスから距離を離しているかもしれません。ユダヤ人のようにつぶやいているかもしれません。弟子たちのようにつまずいて、イエスから立ち去っているかもしれません。けれども、今、戻ってくれば良いのです。今、肉のいのちを求めずに、御霊のいのちを求めれば良いのです。イエスとの深い交わりの中に入れば良いのです。キリストの十字架が自分の罪のためであることをもう一度ふりかえって、イエスのうちにとどまってください。イエスもあなたのうちにとどまってくださいます。

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