ヨハネによる福音書63071節 「いのちのパン」

アウトライン

1A 「しるしとして何を下さいますか」 30−40
   1B 神が与えられる真のパン 30−33
   2B イエスが命のパン 34−40
2A 「天から下ってきたパンである」 41−51
   1B 父から聞いて学んだ者 41−46
   2B 永遠に生きるパン 47−51
3A 「わたしの肉です」 52−59
4A 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」 60−71
   1B 霊であり命である言葉 60−65
   2B 永遠の命の言葉 66−71

本文

 ヨハネによる福音書6章を開いてください、前回は6章前半部分を学びました。今日は後半部分を読みたいと思います。ここでのメッセージ題は「いのちのパン」です。

 イエス様がたった六つのパンから、男五千人に対して食事を与えられた奇跡を私たちは前回読みました。それでそのユダヤ人の群衆はイエス様を王に担ぎ上げようとしましたが、イエス様は山に退かれて、そして彼らに知らせないでカペナウムに行かれました。ガリラヤ湖の水の上を歩かれて弟子たちの舟に乗られて、行かれました。

 そして群衆はカペナウムでイエス様を見つけて、「いつ、ここにおいでになったのですか?」と尋ねました。イエス様が答えられました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。(2627節前半)」つまり、物質的な必要が満たされることを認めて、神を求め、キリストを求めるのではなく、永遠の命を求めてキリストを求めなさい、ということです。

 私たちの肉体が健康でいる。家計も安定する。商売がうまく行く。そして学業がうまくいく。人間関係も良くなる。これらの物質的、社会的な必要はもちろん大事です。けれども、イエス様は、それらは「なくなる」と言われます。それらを追い求めるならばいつまでも満足できません、と言われます。そうではなく、永遠のいのちのために生きなさいと言われます。

 そしてイエス様はユダヤ人の群れに、こう言われました。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29節)」永遠のいのちを得るためには、わたしを信じなさい、ということです。それに対する反応が30節から書いてあります。いや、「反応」ではなく「反発」と言ったほうが良いでしょう。もっとパンを与えるわけでないことにがっかりした群衆が、「では、いったいあなたは何をしてくれるのか。」と挑んでいます。

1A 「しるしとして何を下さいますか」 30−40
1B 神が与えられる真のパン 30−33
6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

 彼らの発言で重要なことは、「私たちが見てあなたを信じるために」であります。驚きますね、彼らは五千人にパンを与えたのを見たばかりなのに、イエスを自分の救い主、キリストであることを信じていなかったのです。

 「見たら信じる」という心は、いつまでも満たされることはありません。それは、たとえ見ても信じることはできないからです。問題は証拠が足りないからではありません。疑っている心が問題なのです。この地球上で最も不思議なことは何でしょうか?解明できないことは何でしょうか?人の「心」です。神がおられることがこれほどまでに明らかになっているのに、それでも信じないという人間の心の不思議です。

 信仰を既に持っている人でも、毎日、目に見える物質の世界に生きているために、「いったい神がここでどのようにおられるのだろうか。」と疑ってしまいます。その時は思い出してください、「見て信じるのではなく、信じたら見えてくるものだ。」ということです。たとえ、目に見える徴がなくても、それでも信じるときに、今まで見えなかったものが見えてくるようになります。

 そして群衆はイエスをモーセと比べています。前回の学びに来られた方は覚えていますか、ユダヤ人の群集は、イエス様がモーセのような預言者だと思って、イエス様を王に担ぎ出そうとしました。五千人にパンを与えられたからですが、ユダヤ人は、「あなたがモーセより偉大だというならば、それ以上のしるしを見せなさい。」と要求しているわけです。

 それに対してイエス様は、「モーセが天からのパンを与えたのではありません。」と答えられています。そうですね、モーセは神がパンを与えられることを聞いて、それをイスラエルの民に与えられたのです。荒野の旅で食べる物がなく、モーセとアロンに不満をぶつけましたが、主は、朝ごとに霜が降りるように、クリーム色の少し甘いマナという食べ物を与えられました。でもこれは、主が言われるとおり、モーセが与えられたのではありません。モーセは、主が与えるということを聞いて、それをイスラエルの民に伝えただけです。

2B イエスが命のパン 34−40
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 ここに興味深い意思疎通のずれがあります。群衆は、イエス様の「神のパン」というのを物理的に捉えています。一回だけでなく、いつまでも、いつまでもパンを作り出す製造機のようなものを、イエス様が与えられると思っていました。けれども、イエス様は物理的なパンではなく、霊的な食物、つまり永遠の命のことを話しておられました。

 覚えていますかヨハネの福音書4章で、サマリヤにいた女に対してイエス様がこう言われました。「この(井戸の)水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(1314節)」そして女は、「先生。私が渇くことなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。(15節)」と言いました。彼女は、イエス様がいつまでも尽きることのない水が吹き出る魔法瓶を持っていると思ったのです。

 でも、イエス様が話題を変えられて、彼女の男との付き合いの遍歴を明かされると、彼女はすぐにこれは霊的な命のことだと理解しました。

 つまり、いつまでも飢えることのない、渇くことのない命のパンです。完全な満足を与えるパンです。イエス・キリストは単に「心の安らぎ」を与えるだけではありません。完全な安らぎを与えられます。心の平安も、完全な平安を与えられます。喜びも、いつまでも尽きることのない心の奥底から湧き出る喜びを与えられます。愛も、いつか冷めてしまうものではなく完全な愛を与えられます。「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(コロサイ2:10」または「完全なのです」と使徒パウロは言いました。

 仏教徒の人たちが、涅槃の境地に至るべく修行をしているのですが、私たちキリスト者は、たった一歩でこの涅槃の境地に至ります。その一歩とは、イエス・キリストを信じることです。

6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

 ここには、ものすごく大きな約束が詰まっています。一つ目に、「イエスを信じることをさえ、父なる神が導き、支えていてくださること」です。37節に、「父がわたしにお与えになる」とあります。「自分がしっかり神につながっていないと、しがみついていないと、私は神から引き離されてしまう。」という不安を感じられる方はおられるでしょうか?初めに信じた時に、そのような不安はあったでしょうか?他の大勢の人々が信じることができないのに、なぜか自分は信じることができた、という状況ではなかったのでしょうか?なぜなら、神がキリストにあって初めに私たちを救うように選んでくださったからです。

 主が弟子たちに対して後にこう言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16」私たちが努めて、主にしっかりくっついていることは大事です。けれどもそれ以上に、主がご自分の御手で私たちをしっかりと握りしめてくださっているのです。ちょうど小さな子供が父親の手をぎゅっと握っているのだけれども、実は父親の手がつかんでいるような状態です。

 まだ信仰を持っていない人がここにおられるかもしれません。けれども、教会にさえ来ることのない人が大多数なのに、なぜ今、教会の礼拝に来られているのでしょうか?確かに自分の意志があったでしょう、けれどもこれも神の導きであり、神の選びなのです。このこと自体が、神の呼びかけであり、「わたしのところに来なさい。」という声なのです。

 そして二つ目の約束は、「わたしは決して捨てません」です。すばらしい約束です。私たちが神に見捨てられた、と感じる時があります。事がうまく運ばない時、苦しい時がそうです。ヘブル書135節には、「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」とあります。

 また罪を犯してしまった時、自分は救いを失ったと感じる時があります。「もうこれは赦される罪ではない。」と自分を責めるのです。けれども、その良心の呵責、惨めな思いがあるということは、実はむしろ救われている証拠なのです。内におられる聖霊様が、そのような良心の呵責を与えておられるのです。

 イエス様を三度、「知らない」ととんでもない罪を犯したペテロですが、イエス様は既にその罪を犯すことをご存知で、ペテロにこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32」ペテロの信仰がなくならないように、イエス様が祈ってくださったのです。

 主は、私たちが神から離れないようにこのように執り成しの祈りをしてくださっています。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34

 そして三つ目の約束は、「ひとりひとりを終わりの日によみがえらせる」ことです。つまり、一度イエス様のところに来た人は、この地上で生きている時もイエス様によって守られ、そして死んだ後復活まで与えてくださる、ということです。永遠の命の保証です。途中で、「ああ、こいつはちょっとだめだから、やめておくか。」と放棄することはないのです。

2A 「天から下ってきたパンである」 41−51
 これらの言葉を聞いて、今、喜んでおられる方がいるでしょう。また、「何を言っているのか。」と感じている方もおられるでしょう。その分かれ目は、「イエスを信じるか、信じないか」なのです。その言葉をそのまま受け入れているか、受け入れていないかの違いです。ユダヤ人の群衆は、受け入れていませんでした。

1B 父から聞いて学んだ者 41−46
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」

 彼らが信じられない理由が、イエスが肉の家族の中で生まれ、育ったからです。けれども彼らが知らなかったことは、主が生まれる時、その母マリヤはヨセフと夫婦の関係を持っていなかったのに、妊娠したという事実です。処女降誕だったのです。その他、主がお生まれになる時に、この方が人から生まれた子である以上に、神ご自身の子である徴がありました。

6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。6:46 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。

 ここの「預言者の書」というのは、おそらくエレミヤ書31章にある「新しい契約」の預言であると考えられます。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(33節)」旧約時代は、石の板に神の律法、神の言葉が書き記されていました。けれども、新しい時代には心の中に書き記してくださる、というのです。

 これは主が下さる聖霊によって可能です。イエス様を信じた人は、聖霊が与えられます。ご聖霊が私たちの心に神の御言葉を与えてくださり、私たちの力では決してできなかったことを行なうことができるようにしてくださいます。

 キリスト教と異端の違いは何でしょうか?いわゆる「カルト」と呼ばれる団体とキリスト教会の違いは何でしょうか?それは後者が、「あなたは、私たちの教えを続けて受けなければ、堕落する。地獄に行く。」というものです。聖書以外にこのようなプログラムがあるから、それに参加しなければあなたは神の教えを受けることはできない、と言います。

 はたしてそうでしょうか?使徒ヨハネはこのことに対して第一の手紙の中でこう言っています。「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(2:27」注ぎの油、つまりご聖霊です。ご聖霊がとどまっていてくださるので、あなたがたは誰かの教えを請う必要はない、ということです。

 もちろん教会には、神から賜物が与えられた牧者また教師がいます。神の御言葉によって聖徒を養うために立てられた人々がいます。けれども、実際に教えてくださるのは主の御霊ご自身です。真の教師は聖霊様なのです!主が教えてくださらなければ、何も聞くことさえできません。

2B 永遠に生きるパン 47−51
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。6:48 わたしはいのちのパンです。6:49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

 イエス様はさらに積極的に話されています。「わたしは命のパンだ。だからわたしを食べなければいけない。わたしの肉を食べなければいけない。」ということです。前回お話しましたが、これは「わたしを見なさい。じっくりと見なさい。そしてわたしのことばを、心の奥底で受け入れなさい。わたしを信じなさい。わたしと交わりなさい。」という積極的な言葉です。

 食べ物は食べなければ、私たちはその味を知ることはできません。食べる前に、その味についてどんなに説明しても食べることなしに知らせることはきわめて難しいです。食べれば、すぐ分かります。これをわたしに対しても行ないなさい、と主は言われています。

3A 「わたしの肉です」 52−59
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。

 ユダヤ人たちは、まだ肉の領域、物質的な領域でイエス様の言葉を聞いています。つまり、今度はパンではなくて肉をイエスは自分たちに用意するのか、と話し合っているのです。「このパンを食べれば、健康になり長生きできますよ。」ではなく、「この肉を食べれば長寿を約束します。」と言っている、と解していたのです。

6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。

 イエス様は、「肉というのはわたしの肉だ。そしてわたしの血のことだ。」と言われています。「わたしを信じなさい」ということを、もっと積極的にお語りになっているのです。

 私たちがイエス様を信じていく中で、何をじっくり見なければならないでしょうか?この方を親しく交わるのに、この方の何を一番見ていななければならないでしょうか?十字架です。この方がむち打たれ、その肉が裂かれ、そして十字架に釘づけにされ、血を流された、そのことをじっくりと見ていかなければなりません。

 メル・ギブソンが監督で製作した映画「パッション(The Passion of the Christ)」をご覧になったでしょうか?あまりにもむごたらしい場面がたくさん出てきますが、特にあの鞭打ちは見るに耐えないです。そしてローマ兵が釘を打つ場面もあります。打つ毎に、血が手から吹き出ます。

 監督メル・ギブソンは、この映画で一場面のみ出演しているとのことです。それは、ここローマ兵がイエス様の手を釘で打つ、その手の部分です。彼はこの映画で、「私、この私がキリストを十字架につけたのだ。」という思い入れを表現したかったそうです。

 主がここで言われているのは、このことです。キリストの十字架が、まさにこの自分のものであった。主が受けられた苦しみは、まさにこの者のせいなのだ。この私が、あの十字架につけられなければならなかったのだ。けれども代わりにキリストがかかってくださったのだ。

 このことを真剣に受け入れれば、イエス様は、「永遠に生きます」という約束を与えてくださっています。「わたしが命のパンです」というのは、このことです。

4A 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」 60−71
1B 霊であり命である言葉 60−65
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

 ユダヤ人の群衆、そして弟子たちまでが、主が言われたことを誤解しました。彼らは、イエスの肉を文字通り食べて、イエスの血を文字通り飲まなければいけないと聞いたのです。だから、「これはひどいことばだ。」と言いました。人を食うというのは、私たち異邦人にとっても酷いことですが、ユダヤ人は動物の肉を食べる時でも、その血を完全に絞り出してから食べます。

6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

 つまり、イエス様が天に昇られる、ということです。

6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

 これがイエス様の言葉と、ユダヤ人たちの理解の間にあるすれ違いでした。主は、霊的なこと、神の御霊に関することを話しておられました。けれどもユダヤ人たちは肉に関すること、目に見える事柄のみで考えていました。

 ローマ82節で、「いのちの御霊の原理」というのがあります。ちょうど自然界に重力の法則があるのと同じように、いのちの御霊の法則があります。これに従えば、主は私たちの内で、私たちができなくなっていることをしてくださいます。いのちの御霊の原理は、私たちがイエス・キリストを信じる時から働きます。この方を信じることによって、主が与えようとしている力、知恵、知識を知ることができるのです。

 ここにいるユダヤ人たちのように、多くの人が肉によって神のこと、キリストのこと、聖書のことを知ろうとしています。どんなにギリシヤ語を学んでも、どんなにヘブライ語を学んでも、神学の博士号を得ても、神の真理に至りつくことはできないのです。御霊を受けた無学の信徒が、これら学識ある人々よりも、神の知識について優れています。肉は何の益ももたらさないのです。

6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」・・イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。・・6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」

2B 永遠の命の言葉 66−71
 主がこのように言われた後に、多くの人が去りました。

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

 すばらしいですね、ここに残された弟子たちの信仰告白があります。まず、「私たちがだれのところに行きましょう。」です。彼らは他の人々、他のラビ、他の預言者と呼ばれる人々、また国の権力者、学者、または世の楽しみ、他のどんなところに行っても、今、受けている永遠の満たしを見つけることはできない、と言っています。この世にあるものに失望しているのです、いや絶望しているのです。

 そして次に、「永遠のいのちのことばを持っています」と言っています。イエスが語られる言葉は、私たちはこれらを信仰によって読むだけで、命を持っていることを知ります。まるで自分の奥深く、霊に語りかけておられることを知ります。主が語られていることが、この地上のことではなく、永遠の領域、もっと高い次元から語られている言葉であることを知っています。

6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」6:71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。

 十二人の中で、一人は去っていった弟子たちと同じような考えを持っていました。イスカリオテのユダです。彼についてはヨハネの福音書で多くが語られています。

 ということで、いかがでしょうか?みなさんの霊的理解はどれほどのものでしょうか?主がお語りになったことで、ご自分の霊は今喜んでいるでしょうか?それとも、「何を言っているのか、さっぱり分からない。」でしょうか?もう一度考えてください、第一に、目に見える世界、肉よりも、目に見えない世界、霊の世界、死んでからの世界が優先するということです。永遠のために人生設計を始めることです。第二に、イエスを知ってください。自分の今の問題や関心事に集中するのではなく、またキリスト教についての宗教を知るのではなく、この人物が何を語っているのか、何を行っているのかに、全神経を集中させてみてください。必ず、この方の言葉に「永遠のいのちがある」ことを発見します。


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