ヨハネ7章37−53節 「生ける水の川」
アウトライン
1A 御霊の注ぎ 37−39
2A 群衆の分裂 40−44
3A パリサイ人の侮蔑 45−53
本文
ヨハネによる福音書7章を開いてください、今日は7章の後半部分である37節から読みます。今日の説教題は「生ける水の川」です。
前回の学びを思い出してください、イエス様は今、仮庵の祭りに集うためにエルサレムに来られました。エルサレムでは、ユダヤ人宗教指導者がイエスを殺そうと考えて待っていました。そしてユダヤ人の間ではひそこそイエス様のことを話していました。「あの人は良い人だ。」「いや、群衆を惑わしている。」意見が真っ二つに分かれていました。
そして祭りの半ばに、イエス様は宮の中で教え始められました。そのため群衆の多くが、「この方がキリストでなかったら、このような多くのしるしはどこから来ているのだろう。」と言って、その教えに影響されていました。それでパリサイ人や律法学者が役人を遣わして、イエスを捕えようとしました。けれども、なかなか捕まえることができません。今日は、その続きです。
1A 御霊の注ぎ 37−39
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
この祭りは、もちろん「仮庵の祭り」のことです。前回の学びを思い出してください、仮庵の祭りは秋に行なわれ、昔、イスラエルの民が荒野の旅をしている時に主が彼らを守ってくださり、彼らが無事に約束の地に入ることができたことをお祝いする祭りです。彼らが木の枝などで作った小屋の中で過ごし、イスラエルの民が荒野で天幕生活をしていたことを思い出しました。
そして仮庵の祭りでは、シロアムの池から水を運んで神殿の所で注ぎだすことをしていました。七日間、毎日、シロアムの池から祭司が水を水瓶に入れて、そして祭司の後に人々が付いていって、行進をします。
(参照イメージ:http://emp.byui.edu/SATTERFIELDB/Jerusalem/Pool%20of%20Siloam.jpg)
ラッパなどを吹き鳴らし、喜び歌いながら歩きます。詩篇118篇を歌いました。覚えていますか、「これは、主が設けられた日である。この日を喜び楽しもう。(24節)」プレイズにもなっていますね、「この日は、この日は主が造られた、主が造られた。我らは喜ぼう、この日をば、この日をば。」そして、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(マルコ11:9、詩篇118:25から)」この日も、過越の祭りと同じように、メシヤが来てくださることを期待する日でした。
なぜこのような水を注ぎかける儀式を行なったかと言いますと、覚えていますか、イスラエルの民が荒野の旅をしていた時に、水が足りませんでした。そして彼らがモーセに、「水がなくて、私たちは死んでしまう。」と訴えたところ、主がモーセに「杖で岩を打ちなさい。水が岩から出る。」と言われました(出エジプト17:1‐7)。主が、荒野の旅の中で水を与えてくださったことをお祝いしたのです。
けれども、ここ37節には「祭りの終わりの大いなる日」とあります。第八日目です。この日は安息日ですから、水を汲み出して運ぶ仕事も行ないません。そして、これは神が無事にイスラエルの民を約束の地、安息の地に導き入れてくださったことを表していました。
その日にイエス様が立ち上がったのです。当時はユダヤ教のラビ、教師は座って教えていましたから、立って、大声を出すというのは異例です。けれども、主は宣言されました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」これは物理的に喉が渇いていることを意味していません。人間が持つ普遍的な心の奥底にある渇きを指しています。意味ある人生への渇き、神との生きた関係を持ちたいという渇きを表しています。
私たちはもう一度、人間とはどのような存在なのかを思い出す必要があります。人間の構成部分です。もちろんこの肉体があります。けれども、肉体だけではなく精神があります。聖書では精神のことを「魂」と呼んでいます。魂の部分で、私たちは感じたり、考えたり、意思決定をします。けれども、人間はそれだけではありません。「霊」を持っています。動物と異なり、私たちは生きる意味を探しています。何のために生きているのかを知りたいと願っています。死んだ後にどうなるのかを考えます。このような永遠への思いは人間にしか与えられておらず、神の領域なのです。ですから人間は、霊と魂、そして体の三つの部分で出来ています。
そして神は、三位一体の方です。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神がおられます。けれども三人の神々がおられるのではなく、唯一の神です。だから三つにして一つなる神です。父なる神はキリストによってご自分を人に現わされますが、キリストを知らせるのはご聖霊です。ご聖霊が私たちに最も接触してくださる神格です。したがって、神の御霊と人の霊が交わることによって、人間は神と交わりをすることができます。
アダムを神が造られた時に、「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)」とあります。いのちの息、すなわち霊において私たちは神を知り、神と交わることができるのです。
この時の人間は、霊が魂を支配し、そして肉を支配していました。肉の欲求自体は、何ら悪いものではなく、神が与えられたものです。最も基本的な欲求は空気を吸う欲求です。そして次に水です。さらに性欲があります。主が、「生めよ、増えよ、地に満たせ。」と命じられたように、男女が一つになることによって子孫を生み出すことを主は喜ばれます。けれども、その欲求を神が喜ばれるように使うには、霊による支配が必要です。これを、罪を犯す前のアダムはできていました。
ところが、アダムは罪を犯しました。神は、「善悪の知識の木から実を取って食べたら、必ず死ぬ」と言われたのに、食べました。そのために彼は死にました。肉体はすぐには死にません。けれども霊が死にました。神が近づいて来られたのに、恐くなって隠れたのです。神との交わりができなくなりました。神の御霊と自分の霊がつながっていればこそ、自分の霊は生きることができるのに離れたので死んでしまいました。
そのため、人は、肉の欲によって支配されるようになりました。自分の精神、思いが以前は、霊によって支配を受けていたのに、今は、肉の欲求のまま生きるようになったのです。何を食べるか、何を着るか、どこに住むか、など、肉体を生かすことのみを求めています。
こうして人間は心の奥底で、何か意味あることをしたいという願いを持っています。それは実は、生ける神ご自身への渇きなのです。ちょうどダビデの祈りの通りです。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(詩篇42:1)」これが、人間が普遍的に持つ渇きです。
そして多くの人は、この渇きを物質的で埋めようとします。お金さえあれば私は幸せになれると思います。けれどもお金がある人に訊いてみてください、不幸な人だらけです。ある人は感情的なもので満たそうとします。誰か素敵な人が与えられたら私は幸せになれると思います。どうでしょうか?私は結婚する前に職場の人から、「結婚は人生の墓場だ」と言われました。幸い、私はキリストを知っていたので、そうなりませんでした。今の結婚生活は幸せです。
ある人は知的なことでこの渇きを埋めようとするでしょう。学問で探求します。哲学や思想を学びます。けれども多くの場合は、ただ疲れるだけです。それから、刺激的なことを求めて渇きをいやそうとします。映画を見たり、スポーツ観戦をしたり、温泉旅行に行ったり。それでも、やはり渇きはいえません。
そこでイエス様が言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエス様に行けば、そのまま生きている意味を見出すことができます。私たちの内側の非常に深い部分、奥深い部分が完全に満たされます。黙示録でイエス様は、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(22:17)」と言われました。ただ、です。そのままのあなたで、イエス様のところに行くのです。何かを着飾る必要はありません。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
主は「聖書が言っているとおりに」と言われていますが、この言葉を聞いている人々は、聖書をよく知っています。特に仮庵の祭りに集っているのですから、主が後の日に与えてくださる約束を待ち望んでいます。例えば、イザヤ書44章3節です。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」かわききった地に豊かな水の流れを与えてくださる。それとともに主の御霊を注いでくださる、というものです。また、イザヤ書58章11節にはこうあります。「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」すばらしい約束ですね。
これらの約束の通りに、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」と言われます。「心の奥底」は元々「腹」という意味のギリシヤ語です。当時の人々は、感情の深い部分を腹で感じていると信じていました。日本語では意地悪い人を「腹黒い」と言います。また中国から来た諺で、非常な悲しみを表す時に、「断腸の思い」と言います。腸がちぎれるほどの辛さですね。
そこから「生ける水の川」が流れます。生ける水については、以前、主がサマリヤの女に語られましたね、覚えていますか?「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 (ヨハネ4:14)」永遠の命に至る水です。つまり霊的な命です。
けれどもここでは、単に泉から湧き出る水ではなく、「川として」水が流れ出します。この「川」は、ちょろちょろ流れる小川ではありません。滝の水のように、また急流の川のように、非常に勢いのある水のことです。
イスラエルには荒野、砂漠がたくさんあります。死海の西側に広がっているユダの荒野があります。イエス様が誘惑を受けられた所がそうですし、またダビデがサウルの手から逃げていたのも、ユダの荒野です。またネゲブがあります。ネゲブの南に、イスラエルが旅をしたシンの荒野やパランの荒野があります。
そこに行くと、数々の川があります。といっても、全く水のない川です。「ワジ(Wadi)」と呼ばれますが涸れた川です。そこに水が流れることを全く想像できないほど、乾いています。ところが冬になると、雨が降ります。雨季に入ります。そして、そこの川に水が入り込んでくるのですが、そのときは決まって、突然、鉄砲水が押し寄せてきます。ちょろちょろ流れるのではありません、涸れた川が一気に洪水で氾濫した川になるのです。
(参照ビデオ映像:http://video.google.com/videoplay?docid=-8750134985340587369&hl=en#)
イエス様が言われているのは、この川です。単に心の中が何となく満たされるだけではないのです。からからに干からびていた心の奥底が、とてつもない勢いで命の潤いがほとばしり出るのです。単に心の内側の満足だけではなく、周囲に影響を与えるほどのものです。
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
イエス様がこのことを叫ばれた時、弟子たちは何のことを主が言われているのか分かっていませんでした。ペテロは恐らくヨハネのほうを見て、「ヨハネ、主が言われているのは何だろうね。」と尋ねたでしょう。ヨハネは、「さあ、分からんね。」と答えたかもしれません。
けれども、後になって分かりました。「後になってから受ける御霊」です。「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」とありますが、主がよみがえり、天に昇られて、神の右の御座に着かれたことを意味しています。つまり、使徒行伝にあるイエス様が弟子たちに約束されたことです。1章8節にこうあります。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
聖霊が自分の上に臨まれて、それから力を受けて、エルサレムだけでなく地の果てにいたるまでのイエス・キリストの証人となる、ということです。これが「生ける水の川」の約束でした。
私たちには聖霊との関係が三つあります。一つは、「共におられる」関係です。これはまだイエスを信じていない人にも存在します。自分の罪が示され、キリストの十字架のみが罪を赦すことができ、この方を信じて、その名を呼び求めれば救われるという知識が与えられます。それでイエス様を信じます。これは聖霊が行なわれることです。
もう一つは、「内に住まわれる」関係です。イエス・キリストを自分の主として心に受け入れてから、聖霊は自分の内に住んでくださいます。これによって、キリストが自分の内に生きてくださり、自分がキリスト者としての生活を歩むことができます。
けれども三つ目の関係があります。それは「上に臨まれる」関係です。心の内で満足するだけでなく、心の内から溢れ出て、周りの人々に影響を与える関係です。効果的なイエス・キリストの証人となるためのを力を与えてくださる関係です。これをまた「聖霊のバプテスマ」と呼びます。
皆さんは今、どの関係におられるでしょうか?まだ聖霊が共におられるだけですか?それとも内に住んでおられますか?愛、平安、喜びなどの聖霊の実を自分の心に認めることができるならば、聖霊はおられます。けれども、聖霊は上に臨んでくださったでしょうか?周りの人々にまで、自分とイエス様との生きた関係が影響を与えているでしょうか?溢れ出ているでしょうか?
パウロは、エペソにいる信者たちに、「信じたとき、聖霊を受けましたか。(使徒19:2)」と尋ねました。彼らは聖霊のことさえ聞いていませんでした。それでパウロが彼らの上に手を置いたとき、「聖霊が彼らに臨まれ、異言を語ったり、預言をしたりした。(同6節)」とあります。
イエス様は言われました。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13)」どうか求めてください。主との関係を持っていなくて心がからからになっている人も求めてください。奉仕や伝道をしているけれども、何か空回りする。力が足りない、という心の渇きを感じておられる方は、ぜひ、この聖霊の体験を求めてください。
2A 群衆の分裂 40−44
7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、7:41 またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
イエス様のこの言葉はかなり力を持っていました。ある人は「あの預言者だ」と呼びました。以前お話しましたが、モーセが死ぬ前に預言した預言者のことです。自分のような預言者が現われることを彼は話しました(申命記18:15)。そしてある人は、「この方はキリストだ」とまで言いました。
けれども、必ず反対者がいます。必ず疑心暗鬼になる人がいます。「まさかキリストではないだろう。」とのことです。その根拠がガリラヤ出身だからということですが、非常に興味深いのは、「キリストはダビデの子孫から出て、ベツレヘムの村から出る」というのを言っています。これはミカ書5章2節に書いてあります。この人はよく聖書を知っていました。
けれども、彼は全ての情報を持っていませんでした。イエス様は実際にベツレヘムに生まれ、彼の父ヨセフはダビデの子孫でした。その出身の町ベツレヘムで住民登録をしなければならなかった時に、マリヤの月が満ちてイエス様を出産したのです。
あまりにも多くの人が、一部の情報だけで既に決断をしてしまっています。「キリスト教は、私には合わない。これこれ、こうだからだ。」というのですが、果たして本当にその通りなのでしょうか?イエス・キリストについて、自分が拒むに価する十分な情報を得たのでしょうか?このイエス・キリストは、永遠の命に至るか、永遠の死に至るかのどちらかだという二つの道を示されているのです。不確かな情報に基づいて、もし本当だったらどうするのでしょうか?
ベレヤという町にいるユダヤ人にパウロは福音を伝えました。そして彼らについて、こう書いてあります。「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17:11)」調べてください、謙虚になって調べてください。早まった判断をしないでください。
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。7:44 その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
イエス様のことで人々は分裂します。イエス様自身がこう言われました。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。(マタイ10:34-35)」みなさんもどちらかです。イエス様につく者か、あるいはイエス様に反対するかのどちらかです。
3A パリサイ人の侮蔑 45−53
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
捕えに行った役人までが、イエス様の言葉に影響を受けています。
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
惑わされているのは、このパリサイ人自身です。信じる人はいるのです。まず、次に出てくるニコデモがいます。彼が以前、夜一人で、イエス様のところに行ったのを思い出してください。イエス様は彼に、「新しく生まれなければ、神の国に入ることができない。」と言われました。
そしてアリマタヤのヨセフがいます。彼が同じくサンヘドリン(ユダヤ人議会)の議員でした。他の議員たちがイエスを殺す計画や行動に同意しませんでした。イエス様が死なれた時、十字架から取りおろすことをピラトに願い出て、それで自分が所有している墓にイエス様を葬りました(ルカ23:51‐52)。そしてヨハネの福音書によるとニコデモも、この死体の埋葬の手助けをしています(20:39)。
その他、イエス様を信じる指導者はたくさんいました。みな、隠れて信じていました(ヨハネ12:42)。だからたくさんいたのです。けれども、このパリサイ人は何も分かっていませんでした。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
酷い蔑視です。このパリサイ人のほうが、神の目から見て呪われています。なぜなら、箴言において主の憎むべきものが七つあると書かれていて、その筆頭に挙げられているのが「高ぶる目(箴言6:17)」だからです。
主の御言葉を任されていた使徒たちは、信徒たちに対してこのような態度を取ったでしょうか?いいえ、まったく同じ人間であると言ってはばかりませんでした。コルネリオが彼の前でひれ伏そうとしたら、ペテロは、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。(使徒10:26)」と言いました。パウロとバルナバは、ルステラの人々が自分たちを神々として祭り上げようとしたので、自分の衣を裂いて、「私たちも皆さんと同じ人間です。(同14:15)」と叫びました
使徒ヨハネはもう90歳ぐらいになっていました。そしてただ一人、イエス様を直接見た証人です。誰もがヨハネを高い所に持ち上げたくなるでしょう。けれども彼はこう言っています。黙示録1章9節です。「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」あなたがたの兄弟だ、共に苦しみにあずかっている者だ。
イエス・キリストの福音は、恵みの福音であることをどうか知ってください。誰かが、他の人よりさらに神に近いということは決してないのです。イエス・キリストが十字架で行なわれたことによって、どんな人でも同じように、神にそのまま近づくことができるのです!ある牧師は神に近い人かもしれないが、私はまだまだ遠くにいる、というのは絶対にありません!神がその牧師に近くにいてくださるのと全く同じように、あなたにも全く同じようにいてくださいます。そして祈りも全く同じように聞いてくださいます。キリストの福音の中に、階級は存在しないのです!
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
前回学びましたね、ユダヤ人指導者は律法を振りかざしていますが、自分たち自身が律法に大きく違反していました。律法は公正な裁判を要求しています。「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。(申命17:6)」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
これも嘘です。イザヤ書9章によれば、ガリラヤに光が訪れることが約束されています。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。(イザヤ9:1)」
憎しみや高ぶりは、このように人を盲目にします。
皆さんにも選択が与えられています。イエス様の言葉、「わたしに来なさい。わたしを信じる者は、腹から生ける水の川が流れ出るようになる。」という言葉を受け入れるか、それとも拒んでしまうかのどちらかです。どうぞ、今、御霊の声を聞いておられるなら、それに屈してください。自分を心の王座から取りおろしてください。そしてイエス様を心にお迎えしてください。からからに乾いた心に、怒涛のごとく生きている川が流れてきます。