ヨハネの福音書8章 「世の光」


アウトライン

1A 光を持つ者 1−12
2A やみの中を歩む者 13−59
   1B 無知 13−30
      1C 神との関係 13−20
      2C 自分の行き先 21−30
   2B 偽り者 31−47
      1C 奴隷状態 31−36
      2C 悪魔の子 37−47
   3B 人殺し 48−59


本文

 ヨハネの福音書8章を開いてください。ここでのテーマは、「世の光」です。早速、本文を読んでみましょう。

1A 光を持つ者 1−12
 イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。イエスは宮に入られて、民衆に教えられました。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。

 姦淫の罪を犯した女が、その現場で捕らえられ、イエスのところに引きずり込まれてきました。女は叫び、わめいていたことでしょう。そして、モーセは石打ちにすべきと言っているが、あなたはどうするのかと言っています。モーセは神の預言者であるから、もしイエスがモーセと違ったことをするのであれば、イエスは偽預言者、偽メシヤということになります。こうして彼らは、イエスをためしました。イエスの敵である彼らでさえ、イエスが恵みとまことに満ちておられることを知っていたのです。罪人を受け入れ、弱った者を助け、汚れた者にふれられることを知っていました。だから、この女も受け入れるに違いない、そうすればモーセの律法にしたがって、イエスを捕らえることができると思ったのです。

 しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。イエスは、彼らを無視しておられるようです。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 
罪のない者とは、罪を犯したことがない者ということです。イエスはここで、この女が石打ちの刑になるべきであることを否定されていません。むしろ、「彼女に石を投げなさい。」と命じておられます。そうです、彼女は死に値する罪を犯したのです。けれども、イエスは同時に、あなたたちは石打ちの刑を受けなければいけませんね、と暗に示されています。罪を犯せば、モーセの律法によれば死刑です。彼らも殺されなければならないのです。

 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
ある人は、イエスはおそらく、彼らの罪を一つ一つ、地面に書いておられたと言いました。そうかもしれませんね。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。年長者から出て行っているのが興味深いです。長く生きればそれだけ、自分の犯した罪が大きいことを強く感じているのでしょう。

 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

 女を連れて来た者たちはだれもいなくなりましたが、イエスだけはそこにおられました。イエスは、「罪のない者は石を投げなさい。」と言われましたが、ご自分がその人だったのです。イエスは、この女に石を投げる権利を持っておられました。けれども、唯一、石を投げる権利をもっておられる方が、この権利を放棄しました。なぜなら、御子は世をさばくために来られたのではなく、世を救うために来られたからです。女の態度はこの時点で急変したでしょう。叫んで、わめいていたところが、今は涙を流しているかもしれません。「だれもいません。主よ。」と彼女は言いました。そして、イエスは、「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。このあわれみと恵みにふれたとき、私たちは初めて、悔い改めて、主を恐れ、罪を憎む歩みを始めることができるのです。

 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 姦淫の女に石を投げなかったイエスは、世の光でした。女は、隠れてだれにも気づかれずに犯していた罪が、今、みなの前にあらわにされました。そして、イエスは、この女だけではなく、すべての人が罪に定められ、死ななければいけないことを示されました。イエスは、暗やみのわざを明らかにされる光なのです。そして同時に、神の恵みとまことを完全に示す光でもあります。その罪が赦される恵みを現わす神であります。イエスは、「わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われましたが、この女はいのちの光を持った例です。


2A やみの中を歩む者 13−59
 一方、この光のところに来ようとしない人々の姿が次から描かれています。やみの中を歩む人たちの姿です。

1B 無知 13−30
1C 神との関係 13−20
 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」

 
律法の中に、二人か3人の証人が必要であることが書かれています。彼らは、イエスは自分自身で世の光だと主張しているが、他の証人の証言がいないではないか、と言いました。確かにイエスも、ヨハネ書5章で、「もしわたしだけが自分のことを証言しているのなら、わたしの証言は真実ではありません。(31節)」とおっしゃられました。

 けれども、問題があるのです。それでは神のことをだれが証言するのか、という問題です。イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。


 イエスは、わたし自身が証人であるとおっしゃっています。人間の中で、神についてすべてを知っている者はひとりもいません。だから、他に証人を立てろと言われても、それを知っているのは、父のふところにおられる独り子の神、イエス・キリストだけなのです。

 あなたがたは肉によってさばきます。

 
彼らの問題は、イエスの人間サイドの姿だけを見てさばいていたことでした。田舎のガリラヤ育ちで、どこのものだか知らないヨセフとマリヤの子である。彼の弟子たちはみなガリラヤ出身だ。周りには罪人ばかりで、神の預言者とはとうてい及びもつかない、という判断を下していました。

 わたしはだれをもさばきません。
しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。

 イエスは、ご自分でさばくことをせず、すべて父にお任せになりました。けれども、イエスは再び来られるとき、神の下した判決をもって、この世をさばかれます。

 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」

 わたしだけでなく、父なる神がわたしの証人です、と言われています。

 ここで、彼らがイエスに次々と質問を浴びせます。すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」

 彼らが考えている父は、肉の父です。イエスの父はヨセフということになっているが、彼は本当の父ではないかもしれない、と彼らは疑っていました。それに、この時点で、ヨセフは死んでいる可能性があります。そこで、彼らは、「あなたの父はどこにいるのか。」と聞いています。

 イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」


 あなたがたは、神のことも、神のひとり子も知らないとおしゃられています。多くの人がイエスを見たし、イエスから聞きました。けれども、本当の意味で知っている人はわずかでした。ペテロや他の弟子たちが何もかも捨ててイエスに従っているのは、イエスを知ったからです。でも、このユダヤ人たちは知りませんでした。これが、暗やみの中を歩んでいる者たちの姿です。光が来たのに、光に来ようとしないので、その結果、見えるものまでが見えなくなってしまいます。無知がその人のうちに入り込みます。パウロは言いました。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となりました。(ローマ1:21−22参照)」彼らは神も、イエスも知りませんでした。

 そしてイエスは、「わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」と言われています。これは紛れもなく、ご自分が父と一つであることを意味しておられます。ピリポがイエスに、「父を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったときに、イエスは、「こんなに長い間いっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:8−9)」と言われました。

 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 献金箱は、女の庭の中にありました。神殿は、その中心部分に聖所や祭壇があるところがあります。その外は、「男の庭」と呼ばれており、女たちは、いけにえをささげるときだけ、そこを通りすぎることができました。そして、女の庭の外側に異邦人の庭があり、男であろうと女であろうと異邦人は中に入ることが許されていませんでした。イエスは献金箱のある所で語られていました。サンヘドリンもすぐ近くにあり、そこではイエスを殺す計画が論議されていたのです。そんな近くにいるのに、彼らは捕らえることができませんでした。それは、イエスの時がまだ来ていないからです。イエスが父のみこころに従い、全世界の罪の供え物となる時はまだ来ていませんでした。

2C 自分の行き先 21−30
 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」

 これはイエスが父のみもとに行くことを意味します。イエスは弟子たちに対して、「わたしが行って、あなたがたに場所を供えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(ヨハネ14:3)」と言われましたが、このユダヤ人たちに対しては、「来ることができません。」と言われています。

 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
彼らはまだ、物理的なレベル、肉のレベルで考えています。それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」イエスは、彼らが神から離れた存在であり、罪の中に死ぬ。神のところには行くことができない、と語られています。天国ではなく、地獄に行くことを話されています。でも、彼らには分かりませんでした。ヨハネは手紙の中でこう話しています。「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くかを知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(Tヨハネ2:11)」暗やみの中を歩む者は、無知になるだけでなく、自分が進んでいる行き先が分からなくなります。罪と滅びに向かって進んでいることが分からなくなります。

 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。さっきから話しているでしょ。最初ッから話しているではないですか。彼らは、実に明らかなことを見えなくされているのです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。彼らはまだ、父なる神のことを話されていることが分かりませんでした。そこでイエスは話を少し変えられます。

 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。

 人の子をあげる、とは、十字架につけるということです。彼らがイエスを十字架につけたときに、イエスはその上でこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」彼らはわかりませんでした。けれども、このイエスの祈りは聞かれました。使徒ペテロが祭りに参加するために世界中から集まって来たユダヤ人に、説教をしました。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」そして、それを聞いた人が心を刺されて、「私たちは、どうしたらいいですか。」と聞きました。ペテロは、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。(以上使徒2:36−38参照)」こうして、彼らはイエス・キリストが主でありキリストであることを、その十字架によって知りました。

 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」

 みこころにかなうことは、その方を喜ばすことと言い換えることができます。神を喜ばすことをいつもされていました。それで、神は、イエスのことを、「これはわたしの愛する子。わたしは、これを喜ぶ。」とおっしゃられたのです。

 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。


 多くの者が信じました。けれども、これは説得されただけです。後を読むと分かります。この信じたとされる人々が、イエスに石を投げようとします。

2B 偽り者 31−47
1C 奴隷状態 31−36
 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 
イエスはフォローアップをされました。頭で信じるだけでなく、心とたましいを主におささげすることが必要です。イエスのことばにとどまることが必要です。そのことによって、初めて光のところに来るのであり、光の中を歩むことができます。

 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。


 私が大学生のとき、国会議事堂図書館の中に、このことばが大きく掲げられていました。でも真理とはイエス・キリストご自身のことです。真理を知ることによって、自由が与えられます。

 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」


 まったくの嘘です。彼らは、自分たちが奴隷状態だったこと、そして今も奴隷状態であることを知りながら、嘘をついています。イスラエルはエジプトで奴隷の生活をしていました。そして、バビロンにエルサレムを滅ぼされてから、ずっとユダヤ人は異邦人の諸国に支配されつづけています。彼ら自身、ローマ帝国の支配下にありました。まあ、確かに彼らの心は奴隷ではなかったでしょう。ローマ帝国に反発していました。そして、神に対しても反発していました。

 このように、人は光に来ようとしないで暗やみの中を歩くと、無知になるだけでなく、嘘を信じるようになります。あまりにも明らかなことが分からなくなるだけでなく、明らかに間違っていることを正しいと思い込むようになるのです。パウロは言いました。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それから神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。(Uテサロニケ2:9−11)」今の日本の知識人、哲学者と言われている者たちが、天皇をふたたび崇拝するようになっています。もう実在しないと分かっている神なる天皇を拝み始めているのです。また、政治家が、死んだら神として祭られている靖国神社に参拝に行きます。本当に愚かです。救われるために真理への愛を受け入れなかったので、神は偽りを信じるようにされています。

  イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

 
このことを知るのは大切なことです。私たちは自由人ではなく、なんらかの力に支配されていることを知らなければいけません。私たちは神から自由になることはできますが、同時に罪の奴隷になります。また、神に心から従い、神の奴隷となるなら、罪から自由にされるのです。パウロは言いました。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。イエスは、父なる神の家にいつもおられます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。ほんとうに自由です。イエス・キリストにある者は、決して罪に支配されることはありません。誘惑は受けるかもしれません。肉の弱さを持っているかもしれません。けれども、支配されないのです。子が自由にするなら、ほんとうに自由です。

2C 悪魔の子 37−47
 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。

 イエスは、彼らがアブラハムの子孫だと言ったことに答えられています。そして、殺そうとしていることを告げられました。先ほど信じはずの者が殺そうとしているのです。なぜなら、イエスのことばが彼らのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」ここからイエスは、彼らの父について話し始められます。

 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。

 
アブラハムは神を殺そうとしないで、神を信じました。「アブラハムは神を信じた。主はそれを彼の義を認められた。(創世15:6)」とあります。イスラエル人なら、そのアブラハムにならうはずではないか、とイエスは言われています。

 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」

 議論が激しくなってきました。彼らはイエスを不品行の子と呼んでいます。ヨセフとマリヤが結婚してから、すぐにイエスがお生まれになりました。そのことを知っていた彼らは、イエスは私生児であると疑いかかったのです。そして、今度は、アブラハムの子孫ではなく、神の子どもであると言っています。

 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

 ここまではっきり言っているのに、あなったがたは何も分かっていない、とおしゃられています。その理由を次に明かされます。

 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 イエスが話されいた、「あなたがたの父」とは悪魔のことでした。彼らは悪魔の子なので、悪魔がやりたいことをやろうとしているとおしゃっています。悪魔について二つのことが書かれています。一つは人殺しです。悪魔は神を憎み、神のかたちに造られた人間を殺すことだけを考えています。悪魔は、アダムとエバを殺しました。彼らは霊的に死にました。そして、悪魔はアベルを殺しました。そして今、人となって来られた神を殺そうとしています。もう一つは、うそつきだということです。悪魔はもともとうそつきであり、嘘をつかないことはできません。面白いですね、神は真理を言うことしかできないのに対し、悪魔は嘘をつくことしかできません。神が嘘をつくことは不可能です。悪魔が真実を語るのは不可能です。このように、暗やみの中を歩いている者は悪魔の子になっています。パウロは言いました。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。(エペソ2:1−2)」彼らは、悪魔の欲望を果たそうとします。

 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

 イエスは、わたしに罪があると責める者はいますか、と大胆に発言しておられます。それに反論できる者はひとりもいませんでした。イエスは本当に、非難される点がないお方だったのです。

 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

3B 人殺し 48−59
 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」ものすごい侮辱的な言葉です。議論が熾烈化しています。イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。イエスは、ご自分に対する侮辱に対して弁明するかわりに、父なる神にさばきをゆだねておられます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」

 
みことばを守るならば、死を見ることはありません、とあります。先ほどは、神から出た者は、神のことばに聞き従います、とありました。本当に救われて、神の子どもとされている人々は、イエスのみことばを漫然と聞くのではなく、従うように聞きます。注意して聞き、それを自分のものとして受けとめます。そして、イエスは、そのような人は、決して死を見ることはない、つまり永遠のいのちを持つと言われています。

 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。彼らはまた、物理的なレベルでイエスのことばを聞いています。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」とうとう出て来ました。お前は、自分を何者にしようとするのか、という質問です。アブラハムより偉大で、預言者より偉大だというなら、何者かと質問しています。イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。イエスは、ご自分がアブラハムより偉大だと言っていることで、ご自分に栄光を帰しているわけではありません。ご自分が神のひとり子であることを伝えているにしかすぎません。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。イエスのことばも、ものすごくなっています。もしわたしが神を知らないというなら、お前さんみたいにうそつきになる、とおっしゃっています。

 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

 
ここから、ユダヤ人はイエスが何を主張しているのかを理解し始めます。イエスは、創世記の中に書かれているキリストの預言について触れられています。アブラハムは、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(12:3)」という神の声を聞きました。アブラハムはこれを、キリストが自分の子孫から出て来るものとして喜びました。そして、アブラハムには、エルサレムから神の祭司であり、平和の王であるメルキゼデクが来ました。メルキゼデクは、父母が存在せず、系図もなく、その生涯の初めもなく終わりもありません。神の子のようであり、とこしえに祭司としてとどまっています(へブル7:3)。アブラハムは、この方から祝福を受け、この方に10分の1のささげものをしました。つまり、アブラハムはキリストに出会ったのです。キリストに出会い、イエスがこの世に現われる日を思って大いに喜びました。

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは、30すぎであります。イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 イエスは、わたしはいました、と言われていません。わたしはいる、と言われています。これはまさしく、「わたしはある」という、ヤハウェなる神の名前です。イエスはさっきから、わたしは神と一つなのだよ、と主張されていたのです。ここでユダヤ人はようやく理解しました。

 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

 彼らはその場で石打ちにしようとしました。けれども、超自然的にイエスはその場から出て行くことがおできになりました。イエスを信じたとありましたが、実際はイエスを殺そうとしました。イエスは、「世の光」であります。心のあるすべてのはかり事を明らかにされます。私たちが、姦淫の現場で捕らえられた女と同じように、暗やみのわざが明らかにされることを拒まず、そして主の十字架に走っていくなら、いのちの光を持ちます。けれども、みことばにとどまらず、主に自分を明け渡さないなら、暗やみの中を歩みます。みなさんは、どちらの道を歩んでいるでしょうか。イエスは、あわれみ深い方です。ご自分のところに来る者を決して見捨てられません。



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