ルカの福音書1章前半  「喜びのおとずれ」

アウトライン

はじめに 1−4
1A 祈り 5−25
   1B 課題 5−7
   2B 答え 8−2
      1C 時 8−10
      2C 内容 13−17
      3C 性質 18−23
   3B 実現 24−25
2A 恵み 26−38
   1B 選び 26−27
   2B 祝福 28−37
      1C 内容 28−33
      2C 土台 34−37
   3B 信仰 38

本文

 ルカによる福音書1章を開いてください。今日は、ルカの福音書の全体の説明と、1章の前半部分を学びます。ここでのテーマは、「喜びのおとずれ」です。

 私たちは、今までマルコの福音書を学びました。そこに描かれていたイエスの姿は、神のしもべでした。神のわざを、もくもくと行われていたイエスを見ました。それに対し、ルカの福音書に現れるイエスは、人の姿をしています。イエスの人柄、人性に重点が置かれています。マルコが、イエスの行われたわざを中心として書いたのに対して、ルカは、イエスご自身に焦点が当てられています。さらにさかのばって、マタイの福音書のことを考えてみましょう。そこには、イエスの教え、イエスの語られたことが多く記されていました。山上の垂訓、天の御国の奥義のたとえ、オリーブ山での大講話がその代表的な例です。そこで、マタイ、マルコ、ルカの福音書を合わせますと、イエスの姿をよりはっきりと見ることができます。イエスの教えでだけではなく、実際に行われたこと、また、その人柄を見ることができるのです。

 私たちも、ある人のことを知るとき同じことをします。例えば、ある偉人のことを知るときに、その人の偉業、すなわち、その人が行なったことが記されている本を読みます。

 でも、それだけでは足りません。その人をよりよく知るために、伝記を読みます。その人の生い立ちが細かに記されており、それからどのように成長したか、またどのような性格の持ち主で、どのような個人的な生活を営んでいたのかが、わかります。さらに、その偉人が語った語録集があれば、その人がどのようなことを考えていたのか知ることができます。このつの面から見ることによって、その人の姿をはっきりと知ることができるのです。ただ、イエスの場合は、偉人と違って、もう一つ知らなければならない非常に重要なことがあります。それは、イエスの本性、あるいは正体です。イエスはいったい何なのか、その本質を知る必要があります。その間いに答えてくれるのが、ヨハネの福音書です。ヨハネは、「ことばは神であった。」と言って、イエスが神であることを示し、また、イエスは、「わたしは世の光です。」「わたしはいのちのパンです。」と、「わたしは」という言葉でもって、ご自身の本質を示されました。

 こうして、イエスが4つの面から描かれているのですが、ルカの福音書では、イエスが人として、単なる人ではなく完全な人として描かれています。そのため、ルカは、イエスの誕生と成長の記録に多くを割いていますが、私たちは、今日、その養生の前に起こった出来事を読みます。

はじめに 1−4

 私たちの間ですでに確信されている出来事については、はじめからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから線密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオビロ殿。

 著者であるルカは、この書物を書く相手と、その内容を話しています。その相手は、「テオビロ殿」と言うことですが、彼はルカの以前の雇用者であったと言われています。ルカ自身は「医者」でした(コロサイ
4:14)。ルカは、途中で使徒パウロに会い、その宣教旅行からパウロが死刑になる直前まで、ずっといっしょにいるようになりました。そのことが、使徒行伝などに記されています。ところで、使徒行伝も、ルカによって書かれました。その冒頭は、「」という言葉で始まっています。使徒行伝の16章において、11節からですが、話の主語が、「私たちは」に変わっています。このように、ルカはテオピロから離れるようになりましたが、でも、テオピロは信者であり、ルカとの接触は途絶えていなかったのだと思われます。また、テオピロは、ギリシャ人の名前です。ユダヤ人ではありませんでした。ルカもまた、異邦人です。そのためか、ルカの福音書は、ギリシャ人が好むような、とても表現が豊かな書物になっています。

 そして、この書物の内容ですが、「すでに確信されている出来事」であります。これは、イエス・キリストの生涯、とくにイエスが死者の中からよみがえられた出来事であります。

 はじめからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々」というのは、ペテロやヨハネなどの使徒たちや、弟子たちのことです。そして、目撃者から伝えられたことを、多くの人が書き記していますが、ルカは、「すべてのことを初めから線密に調べています。

 と言っています。彼は、イエスの生涯に関わった当事者から、直接、聞いているようです。例えば、今から読むマリヤの話は、マリヤに会って、直々に聞いたものなのでしょう。そして、4節には、この書物を書く目的が書かれています。

 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと思います。

 テオビロはイエスを信じましたが、彼が信じているのは作り話でも何でもなく、実際の出来事であり、正確な事実であることを確認させるために、ルカは確認させるためでした。そのため、5節には、「ユダヤの王へロデの時に」と、歴史的な登場人物と時間を記しています。2章の最初でも、3章の最初でも、同じように、歴史的な時間設定を施しています。

1A 祈り 5−25
 それでは、5節から読んでいきたいですが、今日学ぶ箇所には、一つの喜ばしい知らせがおとずれます。子が生まれるということです。そして、2人の中心的な登場人物が出てきます。ザカリヤという人とマリヤです。ザカリヤは、自分の祈りが聞かれることによって、喜びの知らせを受けて、マリヤは、神が彼女を恵んでくださったことによって、喜びの知らせがおとずれました。まずはザカリヤですが、祈りが聞かれることによって、喜びの知らせを受けます。

1B 課題 5−7
 ユダヤの王へロデの時に、アビヤの組の看でザカリヤという祭司がいた。彼の要はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

 アビヤの組とは、レビ人で祭司となった人々の1グループであります。また、妻のエリサベツは、祭司のはじめであるアロンを父祖としていました。祭司は、神の宮で奉仕する者たちであり、神の前で人々を代表し、人々の前では神を代表しました。神と人との仲介者です。

 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落度なく行なっていた。

 彼らは、神の代表者としての血筋を持っているだけでなく、実際に代表者として生きていました。祭司であっても、ひどく堕落していた人はたくさんいたので、二人は特異な存在だったのです。

 ところが、エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

 とあります。神に従っている二人にも問題がありました。もう年をとっていたのに、子がなかったのです。今では、たいした問題になりませんが、当時のユダヤ人社会では大変なことだったのです。また、この「年をとっていた」の直訳は、「腰が曲がっていた」になります。多くの人は、神にすべてをささげれば、問題はなくなるだろうと思います。「これだけ良いことを行なっているのだから、問題はなくなるだろう。悪いことが起こっているのは、その人が何か間違いを犯しているからだ。」と考えます。しかし、神は、そのような御利益的な考えをはるかに超えた方です。神は、すばらしい計画を立てているがゆえに、あえて問題を引き起こされることがあるのです。子が与えられないことが、彼らにとって大きな祈りの課題となりました。長いこと、真剣に祈りました。それによって、神は、彼ら自身を、ご自分の預言者を生む器として整えておられたのです。

2B 答え 8−23
 そして、祈りが聞かれる時がやって来ます。
1C 時 8−10
 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって。くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。

 彼が当番で祭司の務めをしていたとありますが、当時は、2万人の祭司がいました。それで、組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになって、
2年毎に1週間の周期でその機会がおとずれました。そして、神殿の奉仕でどれを担当するか、くじで決めていました。ザカリヤは、香をたくことになりました。これは、名誉ある奉仕です。というのは、それは、民に代わって、神に祈りをささげることを象徴していました。

 彼が香をたく問、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。

 彼が香をたいた後、人々の前に言って、祝福の宣言をします。祈りによって、神の祝福をますます、はっきりと知るようになるからです。それで、多くの民は、ザカリヤから祝福の宣言を聞くために、祈って待っていました。

2C 内容 13−17
 ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。

 天使が、ザカリヤの祈りが聞かれたことを宣言しに来ました。祈りの奉仕をしている時に、祈りが聞かれました。

 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に恐れわれたが、御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。」

 ザカリヤは、もう年をとっているのに、まだ子が与えられることを祈っていたのです。主は、しつこく、執拗な祈りを好まれます。

 あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。当時、男の子を産むことは名誉あることでした。名をヨハネとつけなさい。ヨハネは、「神は恵み深い」という意味です。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

 当時は、子どもが生まれるところに人々が集まります。楽団も来ます。そして、男の子が生まれると、楽団ほ音楽を奏でて、人々は祝宴を持ちます。そのような楽しい、喜びのときが間もなく来るのです。

 彼は主の御前にすぐれた者となるのです。男の子だけでなく、神に用いられるすぐれた器となります。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼の神である主に立ち返らせます。

 ぶどう酒や強い酒を飲まないというのは、ナジル人という、神にすべてをささげた者のする誓いです。ヨハネはナジル人となり、さらに、聖霊に満たされて、多くの人を主に立ち返らせるのです。つまり、神の預言者になります。

 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。

 ヨハネは、単なる神の預言者ではありませんでした。預言者は主が来られることを預言しましたが、彼は、最後の預言者となります。というのは、主ご自身が実際に来られるからです。彼は、その直前に、人々の心を整える先駆者になるのです。エリヤの霊と力とありますが、これは旧約聖書の最後に出てくるマラキ書の預言です。主が来られる前に、エリヤが来ます。けれども、ヨハネ自身は、他の箇所で、自分がエリヤであることを否定しています。エリヤ自身は、キリストは再び来られる前に来ざます。ヨハネは、キリストが最初に来られたときに、エリヤに似た働きをするので、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをする」と呼ばれているのです。

3C 性質 18−23
 これらが、祈りが聞かれた内容でした。神に自分をささげていたザカリヤにとって、これほど喜ばしい知らせはないはずです。ところが次を見てください。

 そこでザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、事も年をとっております。」

 ザカリヤは疑いました。ずっと祈っていたくせに、実際に祈りが聞かれると疑ったのです。信仰のない祈り、というのは存在します。

 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガプリエルです。」

 ずいぶん偉そばった言い方ですね。でも、ガプリエルは、実際、天使の階級の中で一番上のほうにいる天使です。自分の名前を告げることによって、神の権威を授かっていることを言いたかったのでしょう。ガブリエルは、旧約聖書のダニエル書に現われます。彼は、ダニエルにキリストがいっ来られるかについて、告げました。その約
500年後に、キリストが実際に来られることを告げに来たのです。それで、彼は、まず、その備えをするヨハネの誕生を告げたのです。後で、マリヤに現われます。

 あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。その時が来れば実現します。

 ザカリヤは、ガプリエルが神から授かったメッセージを信じませんでした。ならば、そのことは実現しないかというとそうではなく、必ず実現します。神は、人が信じても、信じなくても、ご自分のことばを実現されます。でも、信じないことにより、私たちは大きな犠牲を払わなければなりません。たとえ喜ばしい知らせが実現しても、そのことを楽しむことができないという犠牲です。

 人々はザカリヤを待っていたが、神段であまり暇取ってるので不思議に思った。やがて彼は来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神威で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。

 ザカリヤは、神の祝福を人々に告げることができませんでした。喜びの知らせを受けたとき、私たちは、喜びをもってその知らせを告げたいものです。しかし、ザカリヤは、神のみことばを信じなかったので、それを告げることができなくなりました。

 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。

 祭司たちの家は、エルサレムの回りにありました。

3B 実現 24−25
 そして、みことばが実現します。その後、妻エリサベツはみごもり、5ヵ月の間引きこもって、こう言った。『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

 
エリサベツは、自分が身ごもったことを人に知られないように、引きこもったのかもしれません。そして、主が、このようにしてくださったと告白しています。なぜなら、家に戻ったザカリヤが、書いて、自分に起こったことを知らせたからです。恥を取り除こうと心にかけられるとありますが、当時のユダヤ人は、創世記章に出てくる「女の子孫」、すなわちメシヤが到来するのを待ち望んでいました。子を産まないというのは、メシヤをもたらすことのできない体であるとして、女として恥であるとされていたのです。

 ということで、祈りが聞かれて、それが実現しました。みこころにかなった祈りは実現します。イエスは言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)」また、神は、祈りがかなえることによって、私たちを喜びに満たしたいと願われているのです。続けて、イエスはこう言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:11)」ですから、祈ることは、義務感からするのではなく、楽しいことなのです。神の豊かな祝福が、祈りに約束されています。

2A 恵み 26−38
 その一方で、祈らずして、喜びの知らせを聞いた人がいます。マリヤです。ここでは、神の一方的な恵みを見ます。

1B 選び 26−27
 ところでそのヵ月日に、御使いガプリエルが、神から遭わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

 エリサベツが身ごもってから
ヵ月目に、ガブリエルはマリヤを訪れました。マリヤはナザレという町に住んでいました。ナザレは、評判の良くない町です。後にキリストの弟子となったナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出るだろう。(ヨハネ1:46)」と言っています。

 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤと言った。

 マリヤは、まだ、いいなずけの処女でした。ユダヤ人の社会では、結婚に
3つの段階があります。最初に、両親たちが同意して、将来、結婚するように定めます。それは、5歳とか、6歳とかいう、非常に小さいときに行われます。けれども、次に、実際の婚約を、結婚の1年前にします。これは、結婚と同じような法的な力がありました。ここで婚約を破棄すれば、離婚届を出さなければいけなくなり、他の人と子どもが出来たことが発覚したら、姦淫の罪で右打ちにされます。マリヤは、この婚約の時にいたのです。彼女は、おそらく13歳か14歳であったと言われています。

 しかし、ガプリエルは、子が生まれることを告げるために、彼女のところに来ました。ナザレの町にしても、いいなずけにしても、キリストがお生まれになるには、普通で考えたら不適切なところです。先はどの、エルサレムのあるユダヤに住んでいる、祭司の夫婦とは対照的ですね。けれども、神は、ご自分の恵みによって、マリヤという女性をメシヤをもたらす器としてお選びになったのです。使徒パウロは、主のことばを引用してこう言っています。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。(ローマ9:15)」マリヤは、受けるに値しない祝福を受けるようにされました。

2B 祝福 28−37
1C 内容 28−33
 御使いははいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 そして、28節の脚注には、あなたはどの女よりも祝福された方です。

 マリヤが、創世記
315節にある「女の子孫」として選ばれました。ですから、どの女よりも祝福されています。

 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。」ザカリヤのときと同じ、男の子です。名をイエスと名づけなさい。

 イエスは、「ヤハウェは救い。」と言う意味です。まさに、救い主なるキリストの名前です。ユダヤ人は、自分から生まれてくる子がキリストであるようにと願って、イエスという名前をつけていたはどです。エリサベツがみごもったのは、主の到来を知らせる預言者でしたが、マリヤには、主ご自身がみごもる、と言うのです。

 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。いと高き方というのは、神のことです。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

 これは、メシヤの預言についてです。神は、ダビデに、その王位からメシヤを送ることを約束されました。

 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。

 これは神の国のことです。イエスは、イスラエルを治めて、さらに全世界の支配者となられます。

2C 土台 34−37
 そこでマリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 ここでマリヤは、疑っているのではありません。どのようにして起こるのかを聞いており、ガプリエルのことばを神のみことばとして受け取っています。処女から子が出来るというのは、聖書には前例のないことでした。ゼカリヤの場合は、聖書に多く出てきます。特に、アブラハムとサラの場合と、とても似ています。
サラは不妊の女であり、アブラハムはおよそ100歳、サラはおよそ90歳なのに、イサクが生まれました。けれども、マリヤの場合のようなことは、かつてありませんでした。

 そこで、御使いが説明します。御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に睦み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 
聖霊ご自身が、子をマリヤの胎に宿すというのです。ヨハネの場合は、胎内にいるときから聖霊に満たされるというものですが、イエスの場合は、聖霊ご自身がイエスを身ごもるようにされるのです。だから、イエスは聖なる方、神の子と呼ばれます。全人類はみなアダムの子孫であり、アダムが犯した罪の性質を受け継いでいます。しかし、イエスは、その罪の性質を受け継がずして、かつ人間の肉体をもってお生まれになったのです。それを可能にしたのは、聖霊による誕生でした。

 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう6カ月です。神にとって不可能なことは一つもありません。

 とっても大切な教えです。神には不可能なことが一つもありません。神は全能なのです。マリヤが男の人を知らないのに、みごもることは、この全能の力によるものでした。

3B 信仰 38
 そして、マリヤの反応を見てください。マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から離れて行った。

 ザカリヤは信じませんでしたが、マリヤは信じました。マリヤは、自分がこのような祝福にあずかる価値がないことを認めています。「私は主のはしためです。」と言いました。けれども、そう言うことによって、自分が主の器になることを受け入れています。そして、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」というのは、ものすごい発言です。信仰の究極の姿と言ってもいいでしょう。聖書では、神の恵みの働きを受け取ることの出来る人が、高く評価されています。神が新しい働きをされるときに、前例がないのだけれども、それを信じて、神の器になることを受け入れます。そういう人が聖徒と呼ばれますが、例えば、ノアは、「神の恵みにかなった」と評価され、まだ雨もふったことのない地に、箱舟を造ったのです。アブラハムも、何も知らない土地に、出かけて行きました。その信仰によって義と認められたのですが、マリヤの場合も同じです。前例のない神の働きを、受け入れました。

 ただ、この発言がさらにすごいことは、みことばの実現が自分の体のなかにあったことです。神の器になって、自分をとおして人々が変えられて、状況が変わるというのであれば、まだ信じることができるかもしれません。けれども、自分の体に変化が起こってしまうとなると、神を信頼しきっていなければ、決して受け入れられないことです。でも、マリヤは、神を信じきったのです。

 聖書は、神の恵みを受けて、それを楽しむようにできるのは、信仰によることを告げています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)」とあります。恵みを受けても、信じなければ、ザカリヤのように楽しむことができません。そして、マリヤの信仰は、みことばをどのように受け止めていくかの模範になります。みことばに対する私たちの対応は、3段階あります。1つは、みことばを聞くことです。耳から聞いて、それを知識として理解します。多くの人は、信者の人、信者ではない人を問わず、そこでとどまっています。もう一歩、進み出なければなりません。それは、みことばを知ることです。みことばが本当であることを実感する必要があるのです。頭で理解するのでなく、心で理解します。けれども、神の恵みを受けるには、もう一歩出なければいけません。それは、みことばが、自分自身に実現するということです。聖書に約束された、神の子どもとしての歩み、キリストの似姿に変えられること、隣人を愛すこと、そのほかのたくさんのみことばがありますが、それが自分のうちに実現しているでしょうか。ほとんどの人は、私も含めて、「いや、私にはできない。」と言ってしまいます。けれども、それを実現される方は、全能の神なのです。神にできないことは、何一つありません。どうぞ、キリストのみことばが自分のうちに実現することを願ってください、信じてください。もしかしたら、今までの古い自分から大きく変化するかもしれません。でも、神を信じきった人は、幸いなのです。祝福されます。みことばが、まさに自分の体に起こるようにしてください。