ルカの福音書1章後半 「主への賛美」


アウトライン

1A 信仰の確認 39−56
   1B みことばの実現 「男の子を男の子を宿しています。」 39−45
      1C 行動 「あいさつをした」 39−40
      2C 反応 「喜んでおどった」 41−45
   2B 将来の約束 46−55
      1C 土台 − 大きなこと 46−49
      2C 内容 力強いわざ 50−53
      3C 理由 あわれみ 54−55
   3B 不信仰への配慮 56
2A 人々への証し 57−80
   1B わざ 57−66
      1C 自然の働き 57−58
      2C みことばへの従順 58−63
      3C 恐れ 64−66
   2B 言葉 67−79
      1C 敵からの救い 68−75
         1D 内容 神の国 68−71
         2D 目的 神のしもべ 72−75
      2C 罪からの救い 76−79
         1D 罪の赦し 76−77
         2D 神との平和 78−79
   3B 準備 80

本文

 ルカの福音書1章を開いてください。今日は、後半部分38節から最後までを学びます。ここでのテーマは、「主への賛美」です。二人の賛美がこの個所には載っています。マリヤの賛美とザカリヤの賛美です。前回、私たちは、マリヤが神のみことばを信じて、ザカリヤが信じなかったことを見ました。今回、私たちは、マリヤが信じたことを確認して、ザカリヤがみことばを信じるようになって、人々に証しをする部分を見てみます。それでは、本文に入りましょう。

1A 信仰の確認 39−56
1B みことばの実現 「男の子を男の子を宿しています。」 39−45
1C 行動 「あいさつをした」 39−40
 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。

 御使いガブリエルは、マリヤに、イエスが自分の処女の胎内に宿ることを告げました。なぜなら、神には不可能なことは何一つないからだ、と言いましたが、その証拠として、年老いたエリサベツが子を宿していることを話しました。マリヤは、これらすべてのことばを信じて、「あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言ったのです。マリヤは、そのこと確認するために、ザカリヤの家に行き、実際にエリサベツが子を宿しているかを見に行きました。もうエリサベツは子を宿しているのだから、きっと私が子を宿したことも喜んでくれるに違いない。この喜ばしい知らせを、彼女にも分かち合いたいと思ったに違いありません。

2C 反応 「喜んでおどった」 41−45
 マリヤの信仰による行動に、二人の人が反応しました。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。

  反応した一人は、エリサベツであり、聖霊に満たされました。もう一人は、何と胎内にいるヨハネであり、喜びおどりました。

 そして大声をあげて言った。

 聖霊に満たされると、私たちは神にうながされた言葉を話します。後で、ザカリヤが聖霊に満たされて、預言をしています。使徒行伝を読むと、使徒たちが聖諾に満たされて、大胆に説教をし始めます。イエスご自身、聖霊について語られるとき、エリサベツと同じように大声を上げて、「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。

 あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

 祝福されるとは、神から特別な好意を寄せられることです。マリヤは、キリストをもたらす器として、神に選ばれました。また、胎の実は、もちろん、救い主として神に選ばれています。

 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。

 この発言は、エリサベツが年寄りであり、マリヤが13、14歳の少女であることを考えると、驚かされます。エリサベツが、マリヤを「私の主の母」と呼んで、自分の孫みたいな若い子を尊んでいるからです。彼女をそのように謙遜にさせたのは、彼女自身が御使いのことばをマリヤから聞いて、信じたからです。主を認める信仰は、人をへりくだらせます。

 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。

 ヨハネは、胎の中にいるときから聖霊に満たされている、とガプリエルは言いましたが、ここでたぶん聖霊に満たされていたのでしょう。まさか、声を出すこともできないから、喜びおどったに違いありません。ヨハネの働きが胎の中にいるときから始まっているのは、面白いですね。ヨハネは、キリストが来られる道備えをする使命を持っています。そして、ここでマリヤは、エリサベツが子を宿していると言った御使いのことばが本当であることを確認しました。

 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

 エリサベツは、信仰によって自分のところにあいさつに来たマリヤを祝福しました。マリヤは、まだ自分が身ごもっているか認めることができませんでした。また、エリサベツが子を宿しているか見ていませんでした。しかし、これらのことを信じて疑いませんでした。信じて疑わなかったので、それが行動になって出てきたのです。私たちはどうでしょうか。私たちは確かに確認はしますが、それは、神の言われたことがまだ信じきれないためのことが多く、不信仰によって行動してしまいます。例えば、イエスがよみがえったとき、弟子のトマスは、イエスの手にある釘の穴と、わきに手を入れてみなければ、私は信じない、と言いました。イエスが現れて、トマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ20:29」と言われました。見ないで信じる者は幸いなのです。

2B 将来の約束 46−55
 マリヤは、行動するにとどまりませんでした。まだ見ぬ将来を信仰によって見て、神を賛美さえしました。次から始まるマリヤの賛歌は、「マグニフィカト」と呼ばれる有名な個所です。旧約聖書の知識と背景が色濃く出ています。マリヤが13、14歳の少女であることを考えると、彼女が非常に霊的な人であることがわかります。

1C 土台 − 大きなこと 46−49
 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

 神をほめたたえています。それは、たましいから、霊からのものでした。口先ではなく、心の奥底から、からだ全体からあふれ出るものでした。そして、賛美をしている相手は、「我が救い主」でした。抽象的な神ではなく、自分と個人的な関わりをもつ神だったのです。

 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

 前回、説明しましたが、マリヤは、ナザレという町の、比較的貧しい家庭で育っていました。社会的に低い立場、卑しい状況の中に置かれていたのに、主は、そのような者をも心に留めてくださったと言っています。主イエスは、「貧しい者は幸いです。いま飢えている者は幸いです。いま泣いている者は幸いです。(ルカ6:20−21参照)」と言われました。

 ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と言うでしょう。

 エリサベツがマリヤを幸せ者と言いましたが、これからもずっと、人々は、マリヤを幸せ者と言う、と言っています。なぜなら、自分が宿している子は、いつの時代にも生きておられる、永遠の神キリストであるからです。

 力ある方が、大きなことをしてださいました。

 マリヤは、神を「力ある方」として表現しています。処女に子を宿らせたのですから、力強いのです。そして、マリヤが今、主をほめたたえているのは、神の大きなみわざに基づくものでした。ここから、私たちは賛美について大事なことを学びます。賛美は、私たちが神の注意を引き寄せて、神に祝福してもらうための手段ではありません。たくさん賛美したら祝福される、というものではありません。賛美は、神がすでに良いことをしてくださったことを思って、自然に発生してくるものなのです。神がこんなに大きなことを私の生活にしてくださった。神がこんなに良くしてくださった。そう考えていると、このマリヤのように、たましいから、霊から、神をほめたたえるようになります。

2C 内容 力強いわざ 50−53
 その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

 マリヤは、自分が受けたことは、主を恐れかしこむ、すべての人にも当てはまることを話しています。マリヤが主の器として選ばれたが、私はそんな祝福を受け取ることはできない。マリヤは特別だ、ではないのです。私たちは、主に用いられた器を特別視してしまいます。けれども、聖書は、注意深く、彼らはスーパーマンではない、私たちと同じ普通の人間であることを教えています。むしろ、そうした彼らが祝福されるのを見て、私たち自身も祝福される希望があることを、知るように促されているのです。ローマ書15章に、こう書かれています。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(4節)

 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き下ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

 ここでは、社会的な地位の低いマリヤがこれほど高められたことは、全社会的にも起こることが書かれています。これは、キリストにあって、霊的に、そして物理的に実現します。霊的には、イエスが貧しくなられて、十字架にまでしもべの姿を取ら、れるため、社会的、経済的、人種的な壁が壊されます。パウロは、「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)」と言いました。そして、物理的には、キリストが再び来られるとき実現します。詩編10篇には、こう書かれています。「主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。(詩篇10:16−17)」このように、マリヤは、主の力強いみわざを眺めました。私たちは、神のみわざをただ見つけるときが必要です。私たちは、自分のしていること、人のしていることに思いを寄せることが多いですが、神のみわざに目を留めるとき、マリヤのように心に喜びが湧き出ます。

3C 理由 あわれみ 54−55
 次に、マリヤは、自分に起こったことが、イスラエル民族にも起こることを歌っています。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもベイスラエルをお助けになりました。

 イスラエルほど、多くの敵を持った国はありません。けれども、イスラエルは残っています。そして、終わりの日にイスラエルは回復されて、大いなる国となることが預言されています(創世12:1−3)。そして、イスラエルが助けられたのは、主の「あわれみ」によると書かれています。あわれみとは、白分が受けるに値するものを受けないことであります。自分は、本当は神のさばきを受けなければならない。なのに、神は、私をかわいそうに思われて、さばかないようにしてくださった、ということです。この神のあわれみのことを考えると、マリヤのように、神をほめたたえざるを得なくなるのです。

 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。

 神がイスラエルを助けたのは、初めにイスラエルに約束をされていたのです。イスラエルの父祖アブラハムをはじめとして、数多くのイスラエル人に約束されました。神は、人と違って、決して約束を破ったりせず、必ずそれを実現されます。現に、マリヤのお腹の中には、イスラエルを救う方キリストがおられたのです。

 こうしてマリヤは賛美をしましたが、この時点で、マリヤは自分から子どもが生まれていないことに気づいてください。なのに、子どもが生まれることについて、あたかもすでに生まれたかのように、喜んで神を賛美しています。それは、彼女が、神のみことばを信じてやまなかったからです。実際に事が起こる前に、賛美することは、聖書で勧められています。アブラハムは、サラから子が住まれることについて、まだ見ていないのに、「神に栄光を帰した」と書かれています。傍から見たら、ちょっとおつむは大丈夫、と問われそうですが、その賛美はとての純粋なものです。というのは、それは、自分の目で見ていることよりも、神のみことばのはうが確かなものであることを、示しているのです。

3B 不信仰への配慮 56
 これでマリヤの賛美は終わりましたが、次を見てください。マリヤは3ヵ月はどエリサベツと暮らして、家に帰った。

 マリヤがエリサベツにあいさつに来たのは、エリサベツが妊娠6ヵ月のときでした。マリヤが3ヵ月後に家に帰ったということは、エリサベツの出産直前に帰ったということになります。これは、エリサベツが出産したときには、彼女の親族の人々が彼女を訪れるからです。58節を見ると、実際に訪れたことがわかります。マリヤは、エリサベツの親戚の一人ですから、彼らとも親戚であるはずです。したがって、もしいいなずけのマリヤが身ごもっていることを聞いたら、彼女を右打ちにして殺すことも考えられます。ましてや、主を身ごもっていることは、彼らはとうてい信じることはできないでしょう。マリヤは、地位の高い者は低く下げられることを話しましたが、まだこの世は、地位の高い者が誇り高ぶっているのです。マリヤの卑しい身分を見て、人々は、決してガブリエルの言ったことを信じないでしょう。マリヤは、自分に与えられた信仰は、エリサベツにしか分かち合うことができないことを知っていました。他の人は、その事実を受け止める準備ができていないことを知っていました。

2A 人々への証し 57−80
 ただ、祭司職についていたザカリヤが話すなら、あるいは信じるかもしれません。そこで次に、ザカリヤが人々にキリストのことを証しをします。

1B わざ 57−66
1C 自然の働き 57−58
 さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。

 人々は、エリサベツが子どもを産んだことを、主の大きなあわれみとしてとらえました。不妊で年寄りの女から男の子が生まれるとは、偶然ではなく、神が特別に彼女を顧みてくださったのだ、と思ったのです。それで人々は喜びました。ガブリエルが、「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」と言った言葉のとおりです。このように、神は、出産という、ごく自然の成り行きの中に働かれます。結婚もそうですし、また悲しみをもたらすはずの葬式においてもそうです。そうした何気ない動きの中に、私たちは神を認めることができます。

2C みことばへの従順 58−63
 さて8日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言った。

 母は、ザカリヤから御使いのことばを聞いていました。彼女は、そのことばを信じて、そして、「名をヨハネと名づけなさい」という命令を守ろうとしています。

 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。と言った。そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねさせた。

 最終決断は夫ザカリヤに委ねられます。ザカリヤは、口がきけないだけでなく、耳も聞こえなかったようです。

 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々はみな驚いた。

 エリサベツだけでなく、ザカリヤも同じ名前を書いたので、人々は驚きました。ザカリヤは、この時点で、自分の不信仰を悔い改めています。そして、ザカリヤも、神のみことばを守って、その子をヨハネと名づけたのです。これは、みことばを行なうことによる証しです。私たちは、みことばに従順になることによって、神の働きを示すことができます。

3C 恐れ 64−66
 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は開け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

 子どもの名前がヨハネであることを伝えた途端に、口が開けて、神を賛美しました。ガブリエルは、「これらのことが起こる暇では、あなたは、おしになる。」と言っていましが、今、それらが実現したのです。ザカリヤは、ずっと、神を賛美したかったのでしょう。でも、信じなかったことでそれができませんでした。今、口が開けて、賛美を自由にすることができました。

 そして、近所の人々はみな恐れた。この奇蹟によって、人々は恐れました。さらにこれらの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。聞いた人々は、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう。」と言った。主の御手が彼とともになったからである。

 この出来事による衝撃があまりにも強かったので、主が何か特別にこの子に働かれているに違いないと思うようになりました。このように、神は、超自然の働きの中でもご自分のことを示されます。そして、これで、ヨハネを預言者として受け入れる準備が人々に出来ていったのです。そして、このヨハネがイエスをキリストとして指し示して、最終的には、人々がイエスご自身を受け入れるように準備をするのです。もし、いきなりイエスがキリストと言われたら、人々は即座に拒んだでしょう。でも、神は、いくつもの段階をつくられて、人々がイエスを受け入れる準備をされました。

2B 言葉 67−79
 そしてザカリヤは、預言の言葉によってそのことを証しします。さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。最初、胎にいるヨハネが聖霊に満たされ、次にエリサベツが聖霊に満たされ、ここではザカリヤが聖霊に満たされています。

1C 敵からの救い 68−75
1D 内容 神の国 68−71
 ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を願みて、煩いをなし、救いの角を、われらのために、しもペグビデの家に立てられた。

 ザカリヤが預言したのは、主の救いについてです。神は、イスラエルを救い、その救い主をお立てになります。ここの「角」とは、戦いにおける強さを表しています。また、「ダビデの家」とは王の家のことです。第ニサムエル記には、ダビデの世継ぎの子が、永遠に王なり、世界を治めることが約束されています。これを聖書は、「神の国」と呼んでいますが、聖書の大きなテーマの一つであります。天と地を造られた神が、すべてを支配し、正義と平和で特徴づけられた、理想の国です。ここでは、イスラエルが願われるとき、世界にそのような国が立てられることが示されているのです。

 古くから、その聖なる預言者たちを通して、主が話してくださったとおりに。

 この救い主キリストについては、旧約の預言者たちによって、一貫して語られていました。旧約聖書のテーマは何かと問われれば、それはメシヤ、あるいはキリストが来られるということです。「すべての道はローマに通ずる。」という諺がありますが、旧約聖書においては、「すべての預言はメシヤに通ずる。」と言えるでしょう。どの預言をとっても、その行き着くところはキリストという人物だからです。

 この救いはわれらの散からの、すべてわれわれを憎む者の手からの救いである。

 神の国が建てられることが、なぜ救いかと言うと、現在は、敵が世界を支配しているからです。敵とは、この世の神であるサタンです。この世は今、2つの政府によって成り立っています。一つは、神の支配であり、もう一つは、神の支配に反逆するサタンの国です。アダムが罪を犯してから、サタンがこの世を牛耳っているのです。この悪魔の仕業が滅ばされて、私たちがその力から完全に解放されるとき、私たちは救われることになります。

2D 目的 神のしもべ 72−75
 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、

 マリヤが賛美したときと同じように、ここでも神の約束が言及されています。神は、アブラハムに、「敵の門を勝ち取る」ことを誓われました。それが成就します。

 われらのすべての生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

 ここに、何のために救われるのかが書かれています。それは、神にお仕えすることです。「サタンから自由になっても、神からは自由になれないの。」と思われるかもしれませんが、そうなのです。というのは、私たちは神に仕えるか、それとも悪魔に仕えるかのどちらかでしかないからです。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)」とパウロは言いました。私たちは、神に従うときに、はじめて悪魔の力から自由になることができます。こうして、ザカリヤは、私たちを敵から救う、救い主のことで、神をほめたたえました。

2C 罪からの救い 76−79
1D 罪の赦し 76−77
 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

 これは、生まれたばかりのヨハネについての預言です。奇蹟がヨハネの誕生において起こりましたが、それは彼が神の預言者であることのしるしでした。そして、預言者のみならず、最後の預言者となります。救い主キリストご自身が来られるときに、人々がこの方を受け入れるために準備をするのです。その備え方なのですが、「罪の赦しによる救いの知識」とあります。救いは、物理的にキリストが世界の王となられることですが、その前に、人々の心の中で王とならなければいけません。しかし、アダムが罪を犯したとき以来、人は神に反抗し、罪を犯しています。心の中では自分が王となり、自分中心となっています。そこでその罪を赦されて、神を自分の中心に据えるよう悔い改める必要があります。その必要性を、ヨハネは人々に説くのです。

2D 神との平和 78−79
 これはわれらの神の深いあわれみによる。また、神のあわれみが出てきました。神は、私たちが罪の中で滅ぶのをかわいそうに思われるのです。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

 これは、キリストご自身についての預言です。「日の出」がそれです。暗黒と死の陰とは、希望もなく、むなしく生きている人々のことです。「何のために生きているのかわからない、死んだらどうなるのかわからない。」と、私たち人間は意味もなく生きています。そうした暗黒に、キリストが光として来られるのです。そして、「平和の道に導」かれます。世界の平和も大切ですが、私たちが個人的に神との平和を持っていることは、もっと大切です。罪を犯している者は、神に敵対しています。しかし、神は、ひとり子キリストをこの世に遇わし、キリストに私たちの罪の罰を負わせました。そして、私たちがご自分と和解することができるようにしてくださったのです。このキリストにおいて、私たちはもうさばかれません。死んでもよみがえります。永遠のいのちを持ちます。神の怒りを受けるどころか、神に愛された子どもとなることができるのです。

 こうしてザカリヤは、言葉によって人々に証しすることができました。どっちも大切です。私たちの生活そのものから神の証言をして、また言葉によって神のことを伝えます。

3B 準備 80
 さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。

 ヨハネは、主の道を備える働きのために、準備を始めました。荒野においてです。旧約の預言者エリヤのように、荒野にいました。

 これで、1章を終わりますが、今度はイエス・キリストご自身の誕生の記事を読みます。ルカは、他の福音書の記者よりも、この出来事を詳しく説明しています。


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