ルカの福音書10章「ただ一つの必要」


アウトライン

1A 神の国を見る 1−24
  1B 宣教において 1−16
  2B 個人的な関係において 17−24
2A 隣人を愛する 25−37
  1B 実行する 25−28
  2B あわれむ 29-37
3A みことばに聞き入る 38−42

本文

 ルカの福音書10章をお開きください。ここでの主題は、「ただ一つの必要」です。私たちは前回3人の人がイエスの弟子になりそこねた部分を読みました。イエスのお供をしたいと言う人に、イエスは、「人の子は枕するところもありません。」と言われました。

 また、「父を葬ることを許してください。」と言った人に、「死人たちに死人たちを葬らせなさい。」と言われました。「家の者にいとまごいに帰らせてください。」と言った人には、「鋤を手にかけて、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言われました。彼らは、イエスについて行くこと以外に何か、他のことを考えているのです。

 しかし、イエスは、一心に、目標に向かってつき進んで行く人を求めておられます。ご自分が顔をまっすぐにエルサレムに向けて、サマリヤに行ってもエルサレムを見ておられたように、私たちがキリストの弟子になるためには、キリストを一心に見つめなければいけません。私たちは、しばしば、主のために何をすればいいかわからなくて迷いますが、実はただ一つの必要しかないのです。それは、キリストを見つめることです。

 ルカは、10章において、具体的にキリストを見つめることについて書いています。3つの側面がありますが、1つは、神の国を見ること。2つめは、隣人を愛すること。そして、3つめは、みことばに聞き入ることです。

1A 神の国を見る 1−24
 まず、神の国を見ていくことについて、学んでいきたいと思います。

1B 宣教において 1−16
 その後、主は、別に70人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 イエスは、12人の他に、70人の弟子を遣わされます。ご自分が行こうとされている町や村に、前もって彼らを遣わし、人々が神の国を受け入れる準備をなさいます。こうして、イエスは、弟子たちを宣教の働きに任命されました。その時に必要なことは、11節に出てくる、「神の国が近づいた。」というメッセージです。神の国が近づいたことを言い広めるために、他のことをかえりみる事なく、一心につき進んで行かなければなりません。そのために、まず第一に、切迫した状況を把捉しなければなりません。イエスは、「実りは多い。」と言われました。今、実っており、今、刈り取らなければいけないということです。イエスは、サマリヤの女がイエスのことを言い広めているときに、こう言われました。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ4ヶ月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言う事を聞きなさい。目を上げて、畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(ヨハネ4:35)」 神さまの時は、いつも緊迫しています。キリストが再び来られるのは、今すぐであると書かれています。福音を受け入れるのも、今は恵みの時、今が救いの日であります。なぜなら、私たちにとってはずっと後に実現したように見えても、神にとってはすでに実現されているからです。同じように、私たちは、今が実りの時であると見なければいけません。これは、神にとっては事実なのです。私たちは、この切迫した事実をまず見つめていかなければなりません。

 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。」

 第二に、神の国を言い広めるために、身軽でなければいけません。財布も、旅行袋も、くつもはかずに行かなければいけない、とイエスは言われました。彼らは神の国を言い広めることに集中しているのだから、衣食住について心を使ってはならない、ということです。ここから、伝道の働きをするには、貧しくならなければならないという考えが日本の教会の中にあります。そして、仕事をやめることや、自分の財産をささげることが、「自分を捨てる」ことであると考えて、かえって思い煩っているのです。けれども、それは大きな間違いです。裕福な人がクリスチャンになったとして、その人にとって身軽にしているのは、裕福なままでいることです。大事なのは、神の国を宣べ伝えるために、余計に気を使わないことです。それは、道であいさつしてもいけなことにまで及びます。

 どんな家にはいっても、まず、「この家に平安があるように。」と言いなさい。もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」

 第三に、神の国を言い広めるには、個人個人にまで行き着くことです。この家に平安があるように、と祈っても、もしそこに平安を受け取る個人がいなければ、平安は戻ってきます。私たちは、個人に福音がもたらされるところまで祈ります。気にかけます。愛します。福音を聞き入る個人のためには、自分の調子や自分の都合をすべて捨てなければいけません。

 「その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。」

 第四に、神の国を言い広めるのに、与えられたものに感謝することです。人が与えてくれるのを、受け取るべきかどうか悩むこともなく、また、人が与えてくれるのを期待してもいけません。ただ、神が必要をすべて満たしてくださることを考えて、与えられるものはなんでも受け取るのです。自分が食べるものも、主の御名によっておいしくいただくのです。

 そして、第五に、神の国が近づいたことを宣言します。権威をもって宣言します。そして、その町の病人を直し、彼らに、「神の国が、あなたがたに近づいた。」と言いなさい。しかし、町にはいっても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。「私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことを承知していなさい。」 あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのはうがまだ罰が軽いのです。

 神の国が近いというのは、時間的な近さでなく、場所的な近さです。イエスは、パリサイ人たちに、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)」と言われましたが、それは、キリストご自身があなたがたの目の前にいるではないか、と言うことです。ところが、人々は、そばにいるのだけれども、その中には入ってこないのです。ある人が、天国と地獄はどのくらいの距離があるのか、と聞きました。答えは、50センチぐらいだそうです。それは、頭と胸の距離です。耳で福音を聞いても、心で信じなければ、地獄に行ってしまいます。

 
そして、彼らが、弟子たちを受け入れないときは、ソドムへの罰よりもひどい罰を受けます。それほど、弟子たちは大きな権威を持っているのです。私がアメリカに行くとき、アメリカ領事館にビザ申請するさいに、こういう話を聞きました。「たとえ、申請が拒否されても、私たちには訴える司法機関が与えられていない。けれども、申請が受理されてアメリカに行き、移民局で更新が拒否されたら、その時は裁判所で訴えることができる。」

 つまり、私たちは、大使館や領事館の言うなりになるしかなくて、私たちにそれに反対する権利が与えられていません。だから、彼らは全権大使と呼ばれます。弟子たちも、イエス・キリストの全権大使なのです。弟子たちは、「神の国が近づいたことは承知していなさい。」と言います。つまり、みことばを宣べ伝えるとき、聞いている人がどんなに拒否しても、どんなに信じなくても、事実は決して変わらないということです。みことばは必ず実現し、最終的に彼らは従わざるを得なくなります。変わるのは、彼らの運命です、平安が与えられるのでなくて、罰が与えられます。

 ああゴラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされなかったのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのはうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。」

 ツロとシドンは、エゼキエル書で、そのさばきについて預言されています。ひどいさばきです。しかし、ゴラジンやベツサイダのほうが、さばきが大きいのです。なぜでしょうか。ツロとシドンには、神について少しの知識しか与えられていないのに、ゴラジンとベツサイダには多くの知識が与えられたからです。キリストが来られて、彼らの真中で、大きなみわざをお見せになりました。イエスは、「多くを与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(12:48)」と言われています。神は、私たちの知らないことについて責任を問われません。知っていることについてのみ、責任を問われます。

 「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」

 カペナウムは、イエスが宣教を行われた中心地でした。だから、地獄に落とされる宣告がされています。

 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」

 私たちが証をするとき、イエスは私たちといっしょになってくださいます。だから、私たちが証しをして、ののしられたり、馬鹿にされたり、嫌なことをされたら、それは、イエスがののしられたり、馬鹿にされたり、嫌なことをされているのです。だから、私たちは証をして馬鹿にされたら、個人的に受け止めてはいけません。彼らが拒んでいるのは、私たちではなくイエスご自身なのです。そして、イエスを拒むなら、神ご自身を拒みます。ヨハネは、言いました。「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。(1ヨハネ2:23)」唯一神を信じているというような宗教も、実は、神ではない違うものを拝んでいるのです。

2B 個人的な関係において 17−24
 こうして、宣教において、見つめるべきところは、神の国を言い広めることであることがわかりました。次には、神ご自身との関係に目を留めなければいけないことを見ていきます。

 さて、70人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」

 キリストの権威は、霊的な存在に対するものです。私たちの宣教の戦いの場は、霊的な領域にあります。自分がこうした奉仕をしなければならない、こうした伝道をしなければならない、という物理的な領域に焦点を当てると、戦いの場所を見誤ってしまいます。本当の戦いは、見えないところにあるのです。

 「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 悪霊が自分に服従するのを見ることは、すばらしいことです。けれども、もっとすばらしいことは、自分の名が天に書き記されていること、自分が神に受け入れられていることです。弟子たちに与えられた権威はみな、この神との関係があるからでした。イエスを主とし、イエスに自分のすべてをささげているその関係から、キリストの権威と力が現われ出ます。ですから、自分が主にささげていない部分があるのに、この力と権威を用いていけると期待してはいけません。いや、用いていけるかもしれないですが、終わりの日に、「不法を行う者ども。わたしから離れて行け。わたしはあなたを全然知らない。」と言われてしまうのです。ですから、大事なのは、神ご自身を見つめることです。回りの出来事を喜ぶよりも、主ご自身を喜びます。自分に与えられた神のご計画を知りたいと願うよりも、神ご自身を知りたいと願います。状況が良くなることを望むよりも、主ご自身に希望を置きます。

 ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことです。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知るものがありません。また父がだれであるかは、子と、子が知らせようと心に定めた人たちのはかは、だれも知る者がありません。」

 ここに、私たちが神を知っていく方法、神との個人的な関係を持つ方法が書かれています。それは、自分で知ろうとするのでなく、神が現わされることを受け取り続けることです。神の知識は、悟りや理解ではなくて啓示だからです。示されることを受け入れることによって、はじめて理解することができるのです。幼子たちのような素直さが要求されます。ですから、頭が鈍いから聖書のことは分からない、というのは言い訳です。自分がすでに示されていることに、応答していないだけなのです。詩編には、「私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。(119:131)」と書かれています。主が語ることを、大きく口をあけて待っていることが必要です。

 それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」

 イエスは、弟子たちを祝福されました。弟子たちは、預言者や王たちが見たいと願った、メシヤを目の前で見ていました。こんなに幸いなことはありません。私たちも、キリストが間もなく来られるしるしを見ています。ダニエル書12章に、「終わりの日には、知識が増し加わろう。」と書かれていますが、イエスが預言されていた再臨の前の出来事が、目の前で繰り広げられています。

 こうしてイエスは、神の国を見ていくことに集中するように促されました。

2A 隣人を愛する 25−37
 次は、隣人を愛することです。

1B 実行する 25−28
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 彼らにとって、永遠のいのちとは、神の国における祝福のことです。それを受けるにはどうすればよいか聞いています。

 イエスは言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

 イエスは、相手が律法の専門家なので、こんな質問のされ方をしています。

 すると彼は答えて言った。「心をつくし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 律法学者が、永遠のいのちを得ることについて、むずかしいことを考えていたようですが、イエスは、あなたが知っていることをただ実行しなさいと勧められました。非常に単純なことですよ、ということです。私たちも、いろいろ理屈を言ってしまいます。キリスト教の本で、ハウツーものが多く売れていることにも、それを見ることができます。精神的な悩みをどう解決したら良いのか、結婚関係をどう良くしていけば良いのか、教会成長をどうすれば良いのかを考えます。けれども、しなければならないことは多くはないのです。あるとき、テレビ伝道師が、マザー・テレサに、家族を回復するにはどうすればよいのかと聞きました。彼女は間髪入れずに、「祈り、祈り、祈ることです。」と言いました。そして、「神の愛を実践すること。単純なことですよ。」と言ったのです。神を愛することについて、隣人を愛することについて、理屈を言わずに単純に実行すればよいのです。

2B あわれむ 29-37
 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人は、だれのことですか。」

 この律法の専門家は、自分がこの律法を実行していない、と思いたくありませんでした。自分が正しいことをやっていると思いたかったのです。自分にはできない、神さま助けてください、と祈るのではなく、自分がいかにそれを実践できたかを証明したかったのです。イエスが、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。」と言われたのに、心を貧しくしたくないのです。もし、私たちが、みことばを読むときに、自分が守っていないことではなく、自分が守ったことを証明しているなら、それは、この律法の専門家のようなことをしています。

 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る途中で、強盗に襲われた。強盗どもは、その着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

 この場合、ただ助けることが隣人を愛すことです。でも、次を見てください。またまた、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

 祭司にとっても、レビ人にとっても、この人が死んでいると思ったかもしれません。それで、死体にふれると汚れるので、彼らは通り過ぎたのかもしれません。あまりにも明らかな愛の行為について、理屈を並べて行なわなかったのです。

 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに居合わせ、彼をかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

 イエスは、サマリヤ人のことを話されました。ユダヤ人が大嫌いな人種です。

 次の日、彼はデナリ2つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

 彼は、当たり前のこと責任をもって最後までしました。

 「この3人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

 彼にも、実際に行なっていることが大事であって、人種なんか関係ないということぐらいわかっていました。だから、わからなかったのではなく、わかっているけれども行なっていないだけだったのです。

 するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 こうして、イエスは、サマリヤ人の話を出すことによって、彼が律法を守り行なっていないことをお示しになりました。隣人を愛しているかどうかは、実に簡単にわかります。それなのに、理屈をこねて、自分が誤っていることを認めないと、自分を欺いてしまうのです。ですから、単純さが必要です。自分が出くわす人々が困っていないか。助けを呼んでいないか。何も、山谷に行って、浮浪者たちに食事を与えなければいけないという、大きなことを要求されているのではないのです。あいさつをしているか。そうした、簡単なことによって、私たちは隣人への愛を示すことができます。ですから、難しいことを考えるのではなく、ただ、隣人に良く してあげてください。

3A みことばに聞き入る 38−42
 こうして、隣人を愛することを学びました。次のしなければならないことは、みことばに聞き入ることです。

 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

 ここから、マルタとマリヤの姉妹の話が出てきます。この二人は、対照的な性格を持っていたことで有名です。マルタは、いつも動いていました。家事や仕事をせっせと行なっていました。一方、マリヤは、いつも静かにしていました。外に出て知り合いと雑談をしていたりしていました。けれども、ヨハネの福音書には、イエスがマルタとマリヤのどちらも愛されておられたことが書かれています。行動派のマルタも、思索好きなマリヤもイエスを愛し、イエスはその姿を見て、どちらも愛されていました。神は、それぞれを独特に造られています。内向的な性格、外向的な性格の人も、神は、愛されているのです。

 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 マリヤのイエスヘの愛は、みことばに聞き入ることに現れて、マルタのイエスへの愛は、もてなすことに現れていました。しかし、ここにおいては、マルタは、いろいろなことをしすぎてしまいました。よく、燃え尽き症候群という言葉が教会の中で使われます。いろいろと奉仕をやってしまい、イエスへの愛が冷えて、疲れてしまうという傾向のことです。マリヤは、これに似た間違いを犯してしまいました。

 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。」

 2回、名前を呼ばれています。マルタへの愛情がこもっています。

 「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを収り上げてはいけません。」

 どうしても必要なことは、たった一つしかないとイエスは言われました。それは、みことばに聞き入ることです。そして、イエスを礼拝することです。ただ、イエスのみことばをスポンジのように吸収して、イエスヘの愛を深め、イエスをあがめ、イエスに感謝し、イエスに恋愛するのです。これが、マリヤのしていたことでした。そして、これが、どうしても必要なことです。

 みなさんは、どうでしょうか。このロゴス・ミニストリーにおいて、私たちは何をしなければならないのでしょうか。イエスのみことばに聞き入ることです。そして、幼子のようにそれを受け入れていくことです。しなければならないことは、自分がどんな奉仕をするか、どんな伝道をするか、新しく来る人に何を話すか、など、いろいろあるかもしれません。けれども、どうしてもしなけければいけないことは、ただ一つです。イエスが、私たちにひとりひとりに、何を語ってくださっているかを知ることです。そして、自分を正しくしようとして理屈を言うのでなく、ただ単純に応答して、サマリヤ人のように良い行ないをすればよいのです。単純なのです。もし、みことばを聞き入ることがなければ、どんな奉仕をしても無意味です。単なる宗教活動に成り下がってしまいます。けれども、イエスの語られることを聞いて、それに応答するなら、それは信仰です。そして、私たちは、信仰によって神を喜ばせることができます。


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