“不自然な”御霊の動き 2012年5月30日
「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(ルカ10:31-36)」
有名な「良きサマリヤ人」の話です。祭司やレビ人が通り過ぎたのには、半殺しの男に関われば、自分の日常の生活に支障が出るという「面倒くささ」があったものと思われます。けれども、サマリヤ人はその非日常的な場面に自ら関わり、時間と費用の二つの犠牲を払いました。
ある人が私を叱責した言葉の中で、心にずきんと来た、的を射た表現がありました。「愛の反対は無関心である。」その人のしていることに私は同意できず、またそれは罪だとみなしていますが、けれども現実にその人のような生活を送っている人々は社会の中に大勢おり、決して無視できない存在であることを知っています。あたかも存在しないかのように考えることは、ちょうど半殺しで道端に倒れている男を素通りする祭司やレビ人に似ています。
キリストの御霊の働きには、絶えず“非日常”が含まれ、そこに敢えて関わろうとする気力と忍耐が必要です。「関心」から始まり、自分の考えや気持ちを横において、いったいどうなっているのかを無心に観察し、それから神の御心に沿って自分を関わらせていく、という過程が存在します。これは人間的には自然どころか不自然な動きであり、ぎこちないけれどもそのように自分の体を動かさなければいけません。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。(ヨハネ9:1)」
ここの「見られた」というのは、「心に留める」という意味合いのある言葉であり、弟子たちも他のユダヤ人も素通りするような存在であったにも関わらず、また一般知識からすると何らかの罪でそうなったのだという概念であったのに、それでもイエス様はこの男に関わり、彼を癒すだけでなく、信仰にまで導かれました。
白人教会、黒人教会?
私たち教会が、単に気の合う者たちだけが集まれば良いのでしょうか?アメリカには、「白人教会」「黒人教会」という名称があります。私の小さな経験では、アメリカでそのような教会に出くわしたことがなく、またその言葉に非常に違和感を抱きました。「韓国人教会」「ベトナム人教会」など、言語別に礼拝を持つ必要性があることはもちろんあるし、またメシアニック・ジュー(ユダヤ人信者)の人たちが、ユダヤ性を重視した礼拝を持つのも、神の与えられた多様性を出すという意味ですばらしいと思います。
けれども「白人教会」や「黒人教会」というのは、どうなのでしょうか?それは1960年代まで存在していた人種隔離法の名残であり、その間に人種内にある文化の違いが大きく現れて、残存している白人文化と黒人文化を色濃く反映した名称です。“自然”に従えば、白人と黒人が分かれて食事をしたり、それに類する行動をしてしまうのですが、私はアンテオケの教会にユダヤ主義者がエルサレムから来て、それまで異邦人と食事をしていたユダヤ人信者が席を離れて、ペテロまでが席を外したのと同じものを感じます(ガラテヤ2章11-21節参照)。
もちろん、アファーマティブ・アクションのように、恣意的に白人と黒人を一緒にする必要はもちろんありません。けれども、人種隔離法は当の昔に撤廃され、一般社会の中でさえ白人と黒人の人たちが同じレストランに行き、共に同じ職場で働き、実際生活で混じりあっているような状況の中で、もし教会がその混じりあった状況を反映していなければ、何かがおかしくないでしょうか?それは「キリスト」ではなく、他の肉のつながりで成り立っている集まりと言えます。
「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(エペソ2:16)」
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)」
カルバリーチャペルの中に黒人の牧師さんがいます。不思議なことに、彼の教会に当初は白人の人ばかりが来ました。けれども本人は黒人であるばかりでなく、教会の周辺には黒人の共同体もしっかりあるのにも関わらず、そうなのです。それをコスタメサの牧師の一人、ブライアン・ブローダソンさんに相談しました。ブライアンは、「礼拝賛美の中に、黒人の趣向のものも取り入れてみてはどうですか?」と提案しました。すると、黒人の人たちも来るようになり、今は混じり合った礼拝になっています。
男女別、違う世代、違う家庭環境、違う国民
今はアメリカの人種の違いについての例を挙げましたが、日本でも一つの教会の中に「男性会」「女性会」「青年会」「壮年会」など、年齢や性別など違いに応じた交わりがあります。それはそれですばらしいことです。(けれども、年間所得別に分けた“交わり”を教会で作ったらどうでしょうか?思いっきり差別的ですね。ヤコブ2章を彷彿させます。私は上の白人教会・黒人教会にも似た臭いを感じます。)けれども、老若男女が一つになって主をほめたたえることまでも別々に行ったのであれば、それはもう「主に仕えている」のではなく、「自分の腹に仕えている」ことになります。
女だけの礼拝、男だけの礼拝、と言う時もたまにあって良いのかもしれません。けれども教会礼拝は基本的に、互いの違いをキリストの忍耐とへりくだりと寛容をもって受け入れて、御霊の一致を保っているところに醍醐味があるのではないでしょうか?そこにキリストの栄光が現れるのではないでしょうか?
私たちの教会は始まったばかりで、そして私たち夫婦自身が子を持たないためか、独身や子を持たない夫婦が大半になっています。しばしば、教会の指導者と似たような人々が集まると言われますが、実際にそうなっているような気がします。それはそれで、すばらしいことだと思います。けれども、そうではない人たちも来ることのできるように、心と思いの中で、お子さんをお持ちの親御さんもいらっしゃることのできるような環境作り(別の部屋のある建物や子供礼拝の提供など)を将来的にすることができるよう、祈り求めています。
御霊の流れにあるのは「愛の忍耐」
カルバリーチャペルは一般に、サーファーに代表されるような、極めて開放的で、形式に拘らない雰囲気が基本だと言われています。しかし、それは違います。元のコスタメサの教会、そして牧者チャック・スミス本人は、ヒッピーを「受け入れた」のであって、ご自身は保守的な米国人です。朝の礼拝では、牧者や案内係にはスーツを着用するようにさせています。カルバリーチャペルの運動は、「ラフで開放的」というのが原則ではなく、「異なる世代や種類の人々を受け入れる」という愛が土台でした。(参照ブログ記事「今のカルバリーチャペルに足りないもの − 宣教の視点から」)
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1970年初頭、イエス革命と呼ばれるリバイバル現象がありました。莫大な数のヒッピー達がこぞって教会に真理を求め、救われてゆきました。その発火点となったのは、アメリカにあるコスタメサのカルバリーチャペルでした。礼拝者数90名程度の教会の牧師であったチャック・スミスのもとに真理を求めて、多くのヒッピー達が押し寄せるようになりました。
当然、以前からの信徒にとっては、不愉快なことばかりです。ヒッピー達は、聖餐式のカップを入れる椅子の穴に脚の指をいれたりします。忍耐できなくなった信徒達は、チャック・スミスにピッピーたちを教会から出すようにお願いします。しかし、チャック・スミスは、きっぱりといいました。『彼らを出せと言うなら、私も教会を出る』と。信徒はしぶしぶ忍耐し続けたのでしょう。しかし、そこからイエス革命は起こったのです。私が15年ほど前にコスタメサのカルバリーチャペルを訪問した時、前年の受洗者数は何と2万人でした。一教会でですよ。
・・・チャック・スミスが偉大なのは当然でしょう。しかし、それに劣らず偉大なのは、この時、チャックスミスを追い出さずに、不快な思いをしながらも、ヒッピー達の救いを願い忍耐してくれたベテラン信徒たちだと思います。彼らの愛の忍耐なくして、全世界に広がったあのイエス革命はなかったでしょう。お互いはどういう性質の交わりを教会の中で作っているのか?自らの快適さが優先なのか?他者の救いが大切なのか?交わりの成熟度が問われるのではないでしょうか?」
(http://blog.chiisana.org/?eid=617200)
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私たちが“自然”に動けば、肉のつながりができることが多いです。御霊はそれを壊し、私たちの感覚にとっては不自然なこと、意外なことをあえて行なわれます。エルサレムのユダヤ人の間で始まった教会が、「迫害」によって人々が散っていきました。そして「異邦人」に福音を伝えました。使徒たちでさえ、この動きについて行けませんでした。使徒ペテロは、「主よ、これらは食べられません。」と、異邦人を表している動物を食べることはできないと言いました。異邦人の使徒として召されたパウロでさえ、小アジヤにとどまることを「イエスの御霊」が禁じられたのです。そして、マケドニヤに遣わされたのでした。
私たちの「死角」に入る人々
旧約聖書においては、主はイスラエルに、やもめ、在留異国人、その他貧しい人々にことさらに強い関心を持っておられました。新約聖書においても、同じ命令が与えられているだけでなく、キリストを一つの体であるとし、弱そうに見える部分をことさらに大事する体の機能があり、同じように私たちも弱い部分をいたわれなければいけないと命じられています。
なぜなら、普通にしていれば“ないがしろ”にするからです。良きサマリヤ人の話に出てくるレビ人と祭司、道端で物乞いをしている生まれつきの盲人を分析する弟子のように、私たちが自然にしているとなってしまうからです。私たちの肉の弱さから、そうした人々が私たちの関心の「死角」に入ってくるのです。
世界の動きと宣教
以前ブログ記事「世界一評判の良い国 ― 日本 その3」の中で、日本が世界的に多大な影響を与えているにも関わらず、意識はとかく内向きになってしまうことを話しました。そして聖書には、「世界」や「諸国、諸民、諸国語」に対する神の思いを読むことができます。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(世界)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」
「彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。(黙示5:9-10)」
今、世界はグローバル化しています。それは、終わりの日の反キリストの国を暗示しているのみならず、その反対の御霊の流れとして、全世界に福音を伝えられる徴でもあるのです。そして、日本という国は、世界の中でもまれに見る、世界的影響を与えている国であり、また日本国内にも数多くの外国人が住んでいます。これが神の救いのご計画の中で無関係であるはずがありません。
一般社会でさえ、道ばたで英語以外の他の言語もたくさん聞かれるほどで、私たちは「アメリカにあこがれる日本人」のままでいるだけではいけないのです!実に在日外国人で最も多いのは中国人であり、次に韓国・朝鮮国籍を持った人々です。帰化手続きも、これらの人々は現在、永住権よりも簡単に取得することができると言われています。そしてこの二つの民族の中で、ご存知のように教会史上でも前代未聞の御霊の動きが前・今世紀に起こったという事実があります。
中東でも御霊の動きが顕著に見ることができます。ブログ記事「今一番、世界が見ないもの その2」においてお伝えしましたが、エジプトではムスリム同胞団が政治的支配をするであろうと言われている暗いニュースの中で、数多くのキリスト者が霊的に動き始めているという事実があります。このような事柄に関心を持っている私に神が送ってくださったのでしょうか、つい最近、教会奉仕者たちの集まりで私の隣に座った人が、エジプトから宗教迫害の理由で日本に亡命を求めてきた兄弟でした!
米国でも、キリスト者が国内にいる外国人への宣教に動いています。自分たちは決して入っていくことのできない、入っても宣教活動が禁じられている国々の人々が、亡命や就労などの目的で自分たちのほうにやって来ているのです。この前の宣教会議でその働きをしている兄弟が、「クリスチャンの間でさえ、外国人に対する脅威を抱き、こうした働きを否定的に見る人たちがいる。」と言います。日本人クリスチャンがそうしたアメリカ人クリスチャンに指を差すことはできないのです!日本も経済大国であり、数多くの外国人が、宣教の働きが禁じられている国々から来ている人々が来ているのです。そしてアメリカ人以上に、日本人は出ていっても危険ではない国々は数多いのです。
米国でも日本でも、世界や社会の動きはめまぐるしく変わっているのに、教会の中にいるから、旧態依然の発想で留まっていていいのでしょうか?もしそれが福音の真理における保持であれば称賛されるべきことですが、そうではなく別のものによって硬直していることはないでしょうか?
「違和感がある」「あまり意識していないから」「自然ではないから」では、済まされません。私たち信仰者、また教会の奉仕者が、自分と気の向いた人とだけ付き合い、仲間できる者たちだけでいれば、それは同好会になっても、奉仕でも交わりでも、また福音宣教にもなりません。快適なところから脱却して、周りの人々のことを思って心を砕き、祈り、その人々の救いと霊的成長を願っていくことが私たち教会の使命です。
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