ルカの福音書13章 「狭い門」
アウトライン
1A 偽りの判断 1−9
1B 他人をさばく罪人 1−5
2B 実を結ばない木 6−9
2A 偽善 10−21
1B 自分を教えない者 10−17
2B 悪を取り除かない者 18−21
3A 偽りの安心 22−35
1B 努力なしの救い 22−30
2B 応答なしの愛 31−35
本文
ルカの福音書13章を開いてください。ここでのテーマは、「狭い門」です。多くの人は、自分が救われている、大丈夫だと思っているが、実際に救われている人は少ないという話です。このルカ13章には、自分は救われていると思う、人々の思い違いについて書かれています。主に3つのことを話されています。
1A 偽りの判断 1−9
1つ目は、偽りの判断です。1節から9節です。
1B 他人をさばく罪人 1−5
ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
ちょうどそのとき、とルカは記しましたが、これは、12章でイエスが群衆に話されているときのことです。イエスは、自分が告訴されているときに原告と和解すれば、牢屋に入れられなくてすむではないか、というたとえを話されました。ちょうどそのときに、群衆のうちのある人が、新しい情報をイエスのところに持って来ました。それは、ガリラヤ人の人たちが、裁判官ピラトから処刑された話です。ガリラヤ人にはもともと、革新的な人たちが多く、彼らはユダヤの地域でローマ帝国に謀反を起こそうとしていたのでしょう。だから、今までに例を見ないイエスの革新的な宣教が、彼らに大きく受け入れられたという背景があります。けれども、群衆は、このニュースを聞いて、やっぱり悪いことをした奴は、罰せられるのだと思ったのです。イエスは、12章で、「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、(あなたは)途中でも、熱心に彼と和解するように努めなさい。」と、彼ら自身に対して直接語りかけておられたのに、彼らは、この話を処刑されたガリラヤ人に当てはめたのです。イエスの警告を、まるで他人事のように聞いていました。 そこでイエスは、こう言われます。
イエスは彼らに答えて言われた。 「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
群衆たちの問題は、他人をさばいていることでした。イエスのみことばを自分に語りかけられていると考えないで、他の人に当てはめたのです。ここに偽りの判断があります。私たちが、イエスのみことばを聞くとき、聖書を読むとき、それを他人に当てはめながら読む姿勢は、神の救いからはずされる読み方なのです。正しい聞き方は、どのような警告であっても、それは自分に対して語られていると受け止めることです。たとえ、自分はそれを行なっていなくても、自分にはそれを行なう可能性を潜在的に持っています。けれども、私たち人間には、自分を正しくし、他人を罪人にしたいという思いがあります。そのほうが自然で楽なのです。そこで、パウロは言いました。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたがたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。(ローマ2:1)」
そして、イエスは、悲劇的な事件を罪と関連させる過ちも指摘されております。「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
私たちには、悪いことがある人に起こったら、その人が何か悪いことをしているからだ、という思いがあります。例えば、ヨプの友人は、ヨプに振りかかった災難を見て、彼の罪を探し始めました。また、生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちは、「それは、両親の罪ですか、それとも、本人の罪ですか。」と聞きました。これも他人をさばくことです。私たちが大変な状況の中にいる人を見て、その人をかわいそうに思うのではなく、その原因を探っている自分を発見します。実際に、その人が不倫関係を持っている、占いをしている、毎日洒を飲んでいるなど、その人のうちに罪を探すことができるかもしれません。けれども、それは救われていない人の見方です。救われた人は、その姿を見て恐れおののき、自分がそうならないように気をつけるのです。また、その人をあわれんで助けようとします。ユダは言いました。「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。(23)」
2B 実を結ばない木 6−9
こうして、他人をさばくことは、滅びる者の特徴であることがわかりました。イエスはさらに、偽りの判断について語られます。
イエスはこのようなたとえをされた。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。3年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし1年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』
いちじくの木をぶどう園に植えてありますが、これはごく普通のことでした。けれども、いちじくの木は3年たっても実を結ばないのはおかしなことで、この場合は絶望的と言えます。主人は、「何のために土地をふさいでいるのですか。」と言いましたが、それは、他の実を結ぶ木を植えることができたからです。けれども、番人は肥やしをやってみるから、もう1年待ってくださいと言いました。さて、いちじくの木はイスラエルの民を表しています。主人は父なる神、番人はキリストです。神はキリストを遣わされて、さまざまなしるしを彼らの前に示されました。彼らは、もう3年経っているのに実を結んでいません。ですから、神は、実を結ぶ国民に、つまり異邦人に救いの御手を延ばそうとされます。けれども、イエスは、来年まで待って、しるしと奇跡を彼らの前で行われます。もう駄目だとわかっているのですが、それでも忍耐されて、最後まで世話をされるのです。ですから、10節以降に、イエスが腰の曲がった女をいやされる場面が出てきます。
ユダヤ人は、実が結ばれていないのに自分たちは健在だと思っていました。自分たちはアブラハムの子孫、つまり根が生えていて、モーセに命じられた律法を守っている、つまり葉を生い茂らせていると思っていました。けれども、実がなかったのです。肝心のキリストを受け入れていなかったのです。それでは、決して救われません。切り倒されます。同じように、クリスチャンも、信仰告白をして洗礼を受けたから救われていると思っていたら、それは思い違いです。イエスは言われました。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:2)」イエスと個人的な関係を持っている人は、必ず実が結ばれます。もし実が結ばれていないのなら、イエスとの関係が何かおかしいのです。
2A 偽善 10−21
このように、偽って救いの基準を判断することについてイエスは話されました。そして次に、2つ目の思い違いについて話されます。2つ目は、偽善です。10節から21節までにそれが書かれています。
1B 自分を教えない者 10−17
イエスは安息日に、ある会堂で教えられた。すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスはその女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」 と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
18年も腰が曲がっていました。これは年老いたためではなく、病だったからなのですが、となると、比較的若い女性だったと思われます。女性にとって、これはあまりにも悲惨な状態だったでしょう。イエスは、いつものとおり、この女をあわれまれて、病をおいやしになりました。
すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は6日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
イエスではなく、群衆に言っています。パリサイ人や他の宗教指導者たちも同じように、イエスを、「あなた」ではなく、「彼」という言葉で呼んでいます。いつも、横目でイエスを見ていたのです。
しかし、主は彼に言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからと言ってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
イエスは、会堂管理者と違って、彼に直接話されました。そして、彼を、偽善者と呼ばれています。なぜなら、安息日に働いてはいけないといいながら、彼らの解釈によると大いに働いていたからです。ここで、イエスは、面白い対比をされています。牛やろばを解いてやるなら、それらよりずっと大切なアブラハムの娘を解いてやらないはずはない。牛やろばは人によって縛られているが、この女は、サタンによって縛られていた。牛やろばは、せいぜい数日間しか縛られていないが、この女は18年も縛られていたではないか、と言うことです。このようにして、イエスは、彼らが人を教えながら、自分たちを教えていないことを指摘されました。たとえ聖書を教えていても、それが救いを保証するわけではないことが、ここから分かります。ヤコプは、「ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。(3:1)」と言いました。
こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
群衆は喜びました。けれども、この喜びは、イエスの輝かしいみわざに対するものであり、イエスご自身を主とする喜びではありません。イエスは弟子たちに、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(10:20)」と言われたことがあります。群衆は、表面的にはイエスのみわざを喜びましたが、イエスとの個人的な関係の中に入りませんでした。大ぜいの人が物理的にはイエスについて行きましたが、個人的な関係を持ってついて行ったのではありません。
2B 悪を取り除かない者 18−21
そこでイエスは、たとえを話されます。そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、成長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」
からし種からは、草しか生えません。これが木になったのは、異常な成長であります。そして、空の鳥が枝に巣を作りました。種まきのたとえの中で、鳥は悪魔を表していました。また、旧約聖書を読むと、ダニエル書の4章で、バビロン王国が成長して、その木に、空の鳥が巣を作ることが書かれています。つまり、世界の国々がバビロンの影響下に入るということです。これらから、この神の国のたとえは、制度的に、社会的に大きな影響力を及ばすようになるが、悪が入り込んでいる状態のことを表しています。具体的には、制度としてのキリスト教でありましょう。キリスト教は、政治的に、文化的に、世界に影響を及ぼし続けました。しかし、そこには悪もはびこっており、目に見える人々の集まりであるキリスト教会には、毒麦と良い麦が混在しているのです。
さらにイエスは、別のたとえを話されます。またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、3サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」
パン種も、聖書では罪の象徴として使われており、悪い意味を持っています。ここでは、少しのパン種が全体に広がっていくこと、つまり、少しでも悪が入るのを許せば、全体に広がっていることが強調されています。私たちが黙示録の2章と3章を読むとき、教会が誕生してから60年ぐらいしか経っていないのに、問題を持っている教会の姿が描かれています。ある教会は、部屋の外にあって、戸を開いてイエスをお迎えしなければならないほどになっていました。したがって、悪が入り込むと、それが全体に広がってしまうことがわかります。
こうしてイエスは、2つのたとえを話されましたが、まだ偽善の問題について取り扱っておられたのです。群衆のように、ただイエスのわざを表面的に受け入れるだけで、イエスを主としない人たちが、物理的に大ぜいになることをイエスが指摘されたのです。自分にある悪を取り除こうとしないで、自分をクリスチャンと呼ぶ人が多くなります。けれども、これはもちろん、滅びへの道です。パウロは言いました。「新しい粉のかたまりでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。(1コリント5:7)」
3A 偽りの安心 22−35
こうして、イエスは、人を教えながら自分を教えない偽善、悪を取り除かないで自分をクリスチャンと呼ぶ偽善について話されました。次は、3つ目の思い違いです。3つ目は、偽りの安心についてです。22節から最後の節、35節までに書かれています。
1B 努力なしの救い 22−30
イエスは町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムヘの旅を続けておられた。
先ほどのたとえのとおり、イエスは、木の回りを掘って、肥やしをやっております。そして、エルサレムへの旅を続けておられました。ルカ9章51節から、イエスはエルサレムへの旅をされていることを思い出してください。
すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」 と言う人があった。
イエスが神の国のことを話されたので、この人は救いについて尋ねました。救いとは神の国に入ることだからです。彼は、イエスが、このエルサレムの旅を始められてから、滅びることやさばきのことについて多くを話されたことに気づいたのでしょう。それで、救われる人は少ないのか、という質問をしました。
イエスは、人々に言われた。「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」
イエスは、努力して狭い門から入りなさい、と言われました。このギリシャ語は、αγωνιζομαιであり、そこから、agonizeという英語があります。その意味は、「苦悩する」です。救いは狭い門であり、苦悩して、努力して入らなければ入ることができない、ということです。言い換えると、私たちが何もしないで普通にしていたら、自然のままでいたら滅んでしまうということです。私たちは、他人をさばくのは滅びへの道であることを学びました。また、実を結ばなくても滅びるし、自分を教えなかったり、悪を取り除かなくても滅んでしまいます。
でも、私たちは、別に頑張らなくても、それらのことを行なうのは簡単です。その一方、イエスのみことばを自分に当てはめることは、意識しなければできません。悔い改めて実を結ばせるのもそうですし、自分を教え、悪を取り除くのも労力が要ります。したがって、救いの門は本当に狭く、努力しなければ入れないのです。
けれども、「救いは恵みによって、信仰によるものであり、行ないによるのではないでしょう。」という質問があります。全くその通りです。イエス・キリストを信じるだけで、私たちは救われます。けれども、面白いことに、私たちは、特に意識しないで生きていると、信仰から離れて、自分の行ないによって生きるようになるのです。
例えば、自分は非人であると認めて、キリストが自分のために死んでくださったのを信じたのに、みことばを他の人に当てはめることによって、自分を正当化しようとします。また、罪を悔い改めてキリストを信じたのに、救われたのだから悔い改めなくても大丈夫だと思うようになります。真理を受け入れる、つまり、自分を教えることによって信じたのに、いつの間にか、他人を教えようとします。ですから、初めに信じたように信仰生活を守るには、努力と労力が要求されるのです。ヘブル書3章14節に、こう書かれています。「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」 しっかり保つ必要があるのです。
「なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」
イエスは、自分は救われていると思っていたのに、救われていなかった人が多くいることを話されています。自分を欺いていた人々です。
「家の主人が立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、 『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、 『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」
これは、キリストが再び来られるときのことです。戸がしめられて、それからは天の御国に入ることはできません。
「すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
彼らは、イエスとともに飲み食いをしたし、イエスの教えを聞いていました。
「だが、主人もこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
この主人は、2回も、「あなたがたがどこの者だか、私は知らない。」と言いました。飲み食いをしても、教えを聞いても、主人は個人的にこの人たちのことを知らなかったのです。物理的にはイエスとともにいましたが、個人的な関係を持っていませんでした。
私たちはどうでしょうか。聖餐式というものがあります。キリストの裂かれたからだを食べて、キリストの流された血を飲みます。また、キリストの教えを、説教という形で聞きます。けれども、もしイエスを個人的に知らなければ、どんなに教会の活動に参加していたとしても救われないのです。けれども、多くの人が、そうした活動に参加しているから自分は大丈夫だと思って安心しているのです。これは偽りの安心です。その人は、神の国に決して入れません。
「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」
ユダヤ人の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブも、またモーセやエリヤのような預言者も神の国にいます。けれども、彼らは地獄へ投げ出されます。
「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
イエスはここで、異邦人が神の国に入ることを言及されています。ユダヤ人には、とうてい考えられないことでした。異邦人は、ゲヘナの火の燃料になるために創造されたもののようにしか考えていなかったからです。彼らは、アブラハムの子孫だから自動的に神の国に入れるという思いがあったからです。これも偽りの安心です。親がクリスチャンだからといって、子どもが救われるわけではありません。親しい友人にクリスチャンがいるからといって、救われるわけではありません。人間関係によっては、救いは与えられないのです。
2B 応答なしの愛 31−35
ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」
パリサイ人は、イエスのことを気づかっているのでなく、口実を作って、イエスをその地域から追い出したかったようです。
イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。」
イエスはヘロデを狐と言いのけておられます。ギリシャ語では、狐は女性名詞ですから、相当ひどい呼び方です。ヘロデは、その狡猾さと、悪質さによれば、狐と呼ばれてふさわしい人物でした。現に、イエスの肉のいとこであるバプテスマのヨハネを、事もあろうに、自分の情欲を満たしたあとで殺しました。十字架につけられる日に、イエスは、ヘロデの前に連れて来られました。ヘロデは、イエスが何か奇蹟を行なってほしいと好奇心がありました。けれども、イエスは、何一つ話されませんでした。この男に話すおことばは、何一つなかったのです。
「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、3日日に全うされます。」
3日間は、ここにいるということです。イエスは、ヘロデを恐れていませんでした。次に、その理由が書かれています。
「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んでいかなければいけません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」
イエスは、ご自分がエルサレムで殺されることをご存じでした。それで、ヘロデには殺されないことを知っておられたのです。イエスは、エルサレムのことを言及されたら、エルサレムのことで深く悲しまれました。次を見てください。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
イエスは、エルサレムに住む人々に対する、深い愛情を表されました。めんどりがひなを翼の下にかばうように、何回もあなたがたを集めようとしたと言うのです。けれども、彼らは、その愛の呼びかけに応答しませんでした。預言者たちに対しても同じでした。聖書を見ればおわかりのとおり、預言者の言葉には、心を刺し通すような厳しさがありました。けれども、それは、神がこうおっしゃりたかったのです。「あなたは自分の非を認めて、わたしのもとに来なさい。わたしは、あなたの罪を豊かに赦し、きよめてあげよう。」罪が赦されるためには、自分に罪があることを認めなければいけません。病気の人が自分の病気を認めなければ、医者にかかることができないのと同じです。まず、自分の本当の姿を知って、自分の罪深さを知って、はじめて私たちは神のあわれみにすがることができます。ですから、預言者のことばも、イエスのみことばも、みな神の愛の現われだったのです。
ところが、彼らの先祖はそうは受け取りませんでした。それらの言葉を、彼らをさばく恐ろしいことばとして受け止めたのです。もしその言葉に聞き従えば、自分はひどい目にあうと思ったのです。思い出してください、1タラントを主人から受け取ったしもべは、なぜ、主人の怒りをかって、外の暗やみに追い出されたのでしょうか。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。(マタイ25:24-25)」と彼は言いました。彼は、主人の愛を疑ったから、地獄に投げ込まれたのです。神は私たちを愛しておられます。あなたのありのままの姿で神は受け入れてくださり、決してお見捨てになりません。けれども、それを疑うときに、私たちは恐れ退いて、神のみことばに応答することができなくなります。ヘブル書の著者は言いました。「『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:28、39)」神の愛を信じるとき、私たちは、どんなに厳しいように聞こえる御声も、そのまま受け取って、応答し、悔い改めることができるのです。けれども、彼らのように神の愛を疑うのであれば、たとえ神が愛であっても、恐れて退き滅んでしまうのです。
「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしは、あなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』 とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」
ここには、2つの大きな出来事が書かれています。エルサレムの町が荒れ果てたままにされることと、彼らが悔い改めてイエス・キリストを見ることの2つです。
1つ目は、紀元70年に起こり、今にまで続いています。エルサレムは破壊されて、ユダヤ人は祖国を失い、流浪の民となりました。彼らが行くところどこにおいても迫害を受けました。そして今、国際世論は、イスラエルを再び迫害する方向に進んでいます。彼らが、その土地を所有し、安全に暮らす当たり前の権利までが脅かされています。ユダヤ人がパレスチナの土地を所有するのは間違っているという人は、彼らを再びゲットーに追いやれと言っているのと同じです。クリスチャンは、決してユダヤ人に敵対してはなりません。彼らを愛さなければなりません。けれども、イエスをキリストであると認めなかった犠牲を、ユダヤ人は今でも払い続けているのです。
しかし、2つ目ですが、彼らがイエスを認める日が来ます。イエスを見て、「祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と言う日が来ます。イエスが、大患難の中で滅びそうになっているユダヤ人を救われるため、天から来られます。反キリストをご自分の口でもって殺し、地上に平和をもたらされます。そのとき、彼らは、救い主とは、メシヤとはイエスのことであったと気づくのです。彼らは涙を流して悔い改め、新生し、神の国に集うようになるのです。
このように、イスラエルに注がれた神のあわれみは、決して途絶えることはありません。私たちに対する神のあわれみも同じです。ですから、むしろ、恐れかしこんで、自分をさばき、悪を取り除き、神のみことばを受け取り、応答していきましょう。
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