ルカの福音書14章 「食卓への招き」



アウトライン

1A 人の招き 1−14
  1B 分派 1−6
  2B 上席 7−11
  3B 見返り 12−14
2A イエスの招き 15−35
  1B 大ぜい 15−24
  2B 自分を憎む 25−35
    1C 肉のきずな 25−27
    2C 財産 28−35

本文

 ルカの福音書14章をお開きください。ここでのテーマは、「食卓への招き」です。

 福音書には食事をする場面が多く出てきますが、ルカ14章はその一つです。当時の人々が考える食事は、単に食欲を満たすことだけのものではありませんでした。人々と交わることが大きな目的でした。当時のイスラエルでは、日本食のような別々の皿でひとりひとりが食べるのではなく、同じ一つのパンを裂いて食べ、同じ皿からスープを飲みました。同じものが自分の体内に入ることによって、私たちは一つのものを共有している、私たちは一つであるという意識を持つことができたのです。ですから、だれかから食事に招かれる、あるいはだれかを招くことは、交わりの中に入ることを意味します。有名な聖句に、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)」というのがあります。これは、イエスと交わりをすることになります。

 この14章には、パリサイ人の指導者の家で人々が食事をする場面と、イエスが神の国で食卓に招かれる場面が出てきます。この2つを比べながら、私たちはどちらの交わりの中に入りたいのか、また、入らなければいけないのかを見ていきましょう。

1A 人の招き 1−14
1B 分派 1−6
 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。

 パリサイ派の指導者の家に、人々が食事に招かれました。けれども、そこに場違いの人間がいることが記されています。新改訳の2節の脚注には、「見よ。水腫をわずらっている人がいた。」とあります。他のパリサイ人は招かれていました。けれども、この病人は招かれるべきでない客であり、彼らにとってこの病人がいっしょにいることは意外だったのです。事実、水腫は体内から水が出て行く病気であり、彼らはこれを神ののろいのしるしと考えていたそうです。このように、彼らの食卓は、自分と考えがあっている人たちといっしょにいるためのものであり、考えが合わないなら排除するような集まりでした。それは、「みんながじっとイエスを見ていた。」という表現にも表れています。安息日について彼らと違った教えをイエスが持っておられるので、みなが一致して攻撃していたのです。 そうした彼らの誤った態度に、イエスはメスを入れられました。

 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか。それともよくないことですか。」 と言われた。しかし、彼らは黙っていた。

 イエスは、人の必要を満たすことは正しいかどうかをと聞いています。水腫は死に至る病であります。死から救うのは正しいのか、と言うことです。彼らは、本人を目の前にして、間違っていますと言うことはできませんでした。

 それで、イエスはその人を抱いて直してやり、お帰しになった。

 イエスは、ただ直されたのではなく、しっかりと抱いて直してあげました。

 それから彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」彼らは答えることができなかった。

 自分の息子や自分の牛であれば、彼らの解釈によると、安息日に働いてもよいのです。けれども、この見知らぬ、かわいそうな人に対しては、何のあわれみもありませんでした。つまり、彼らは、自分たちの考えに同意する人々、自分たちと人間関係を持つ人、自分たちの物は受け入れたり、助けたり、あわれみを示そうとしますが、それ以外の人々には無関心なのです。

 今週テレビを見ていたら、九死に一生を得た人々の話が特集された番組がありました。そのハイライトとして、とても感動させるものをお見せします、と司会者が話して、奥尻島で津波をかぶった家族が命拾いをした話が紹介されました。お父さんとおばあさんは裏山に逃げて助かりましたが、他の家族は車で避難している途中で津波に遭い、海の中に投げ込まれました。小さな娘以外は、近くに浮かんでいた家の屋根に乗り移り助かりました。お父さんは、裏山から降りて、残がいとなっている家屋を見ました。その中で下敷きになり、血を流して苦しんでいる女性がいました。助けようとしたのですが、その残がいを持ち上げることができません。それで他の人を呼んで来ようとしました。海岸を歩いていると、そこに、自分の娘の声が聞こえるのです。彼は思わず海の中に飛び込み、自分の娘を助けたという話ですが、これがとても感動する話だと言うのです。私は、「あれ、血を流して家の下敷きになっているあの女の人はどうなるの?」と思いました。お父さんが海に飛び込むとき、となりに二人の人がいたので、その女性のことを告げてから海に入ったのかもしれません。けれども、番組ではそのような会話はありませんでした。その見知らぬ女性ではなくて、自分の娘を助けることが感動させるようになっていました。麗しい話のようなのですが、自己中心的な考えが背後にあります。自分の娘であれば助けるのです。けれども、自分と関係のない人は、自分の意識の中から消え去ります。これは、パリサイ派と同じ仲間意識です。

 ですから、私たちが交わりをするとき、自分は何を求めているか考えてみなければいけません。自分と考えがぴったり合う人、自分の気持ちが通じる人、自分が必要なものを満たしてくれる人に接近するのであれば、それはパリサイ人たちの交わりです。けれども、水腫の人をご覧になって、抱いて直してあげたイエスのように、自分の近くにいて困っている人に接近するのであれば、それはイエスの交わりです。前者は、他者を排除するような閉じられた交わりですが、後者は、他者を受け入れる開かれた交わりです。

2B 上席 7−11
 この閉鎖的な交わりの中で、次のことが起こりました。招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。

 彼らは、自分が人々からよく見られたいと思いました。

 「婚礼の披蕗宴に招かれたときは、上座にすわっていてはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』 とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。」

 イエスは、披露宴におけるたとえを話されました。普通の食事とはちがって、披露宴では主催者が、どの人をどの席に着いてもらうかを決めます。ですから、自分自身で上座にすわるのはみっともないことです。この人は勝手に座っていたので、一番最後に席に導かれ、末席しか残っていませんでした。

 「招かれることがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』 と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 これは、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。そして、末席に座る人は、主催者に自分のすわるべき席をゆだねて、自分で決めることはしませんでした。

 ですから、私たちが交わりをするとき末席を選ばなければならないということですが、これはどういう意味でしょう。主催者であるキリストを見つめる、ということです。自分がどのような評価を受けるかをキリストにゆだねることです。自分は末席の者、つまり、罪人のかしらであるという認識があります。その後は、キリストにすべてを評価していただこうというものです。一方、もし集まってくる人々を見つめるようになれば、どうなるでしょうか。人たちからよく見られたいと願うようになります。

 「この人たちは、私を受け入れてくれるだろうか。認めてくれるだろうか。認めてくれるなら、この交わりにいよう。でも、自分の言っていることに賛成してくれなかったり、自分のやっていることを受け入れてくれなければ、この交わりから離れよう。」このように、人を見ると、自分が上席にすわることを求め始めます。けれども、キリストを見るとき、自分はキリストにあって神に受け入れられている、認められているという確信があるので、上席にすわらなくても別に構わないと思うことができるのです。ですから、本当の謙虚さは、人ではなくキリストを見つめることにあります。

3B 見返り 12−14
 さらに、パリサイ人の交わりにある排他性は、見返りを期待するところに出てきます。 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しをすることになるからです。」

 場所は、同じ食卓でも、披露宴から昼食や夕食に変わっています。つまり、日ごろの人との関わり合いで、見返りを得られるように動いていています、ということです。

 「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」

 義人の復活のとき、ひとりひとりは神から報酬を受けます。見返りは神から来るのであり、人からではないということです。

 私たちが、他のクリスチャンと関わりを持つときのことを考えてみましょう。自分がクリスチャンだから、いろいろ良いことをしたいと当然のことながら思います。けれども、相手から何のお礼のことばもない。全然、連絡をしてくれない。教会に忠実に来て、献金もしているのに、教会の中心的な仲間に入れてもらえない。奉仕を一生懸命しているのに、なぜ認めてもらえないか。そうした思いがよぎったとき、このイエスのことばを思い出してください。そこにある根本的な原因は、見返りを求める思いを殺すことができなかったことではありません。もともと最初から、良い行ないを、主に対してでなく人に対するように行なっていたからです。義人の復活のとき、お返しをされる主に対して良いことを行なっていると考えるとき、逆に何もしてもらわないほうがうれしくなります。私たちが老人ホームで奉仕をしていたときを思い出します。そこで祝福されるのは、おじいちゃん、おばあちゃんもそうでしょうが、何よりも私たち自身でした。寝たきりなのに、主に感謝してお祈りをささげているおばあちゃんを見るとき、私たちは、主にあって年を取ることはなんとすばらしいことか、と思いました。教える者が、教えられるのです。ですから、主から見返りを求めるとき、交わりが、弱い人、強い人、いろいろな人を含む、裾野の広いものとなります。けれども、自分が何か良いことをしなければ、という自然発生的な感情で人に良いことをすれば、必ず見返りを求めてしまいます。

 こうして、パリサイ派の指導者の家での食卓について見てきましたが、それは、自分と通じ合うことのできること、自分が認められること、見返りを期待するという特徴がありました。けれども、イエスがその中で取られた行動を見ると、一つの大きな原則を見ます。イエスは、パリサイ人たちの中にいたとき、人と交わったのでなく、実際は父なる神と交われていたのです。水腫の人をご覧になったとき、神のあわれみに動かされました。席にすわるとき、神の評価を考えられました。また、人をもてなすとき、神の報いを教えられました。つまり、自分の思いが神にあるとき、神と交わるとき、私たちは、イエスが求めておられる交わりをすることができるのです。

2A イエスの招き 15−35
 そこで、次に、イエスが人々を食卓に招かれる話が出てきます。

1B 大ぜい 15−24
 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、 「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。」

 この客は、イエスの「義人の復活」という言葉に反応しています。人が復活して、神の国が始まることがダニエル書12章に書かれています。そして、神の国が始まるときに、まず最初に行われるのは祝宴であることが、イザヤ書25章に書かれています。

 するとイエスはこう言われた。 「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出ていかなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』もうひとりはこう言った。『5くびきの牛を買いに行ったところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』」

 これら断った人々は、むろん、そこにいるパリサイ人であります。そして、イエスが催される宴会は、非常に盛大であり、大ぜいの人が招かれています。つまり、開かれた交わりです。いろいろな人が集う、裾野の広い交わりです。そして、その主催者はイエスご自身であり、ひとりひとりがキリストを仰ぎ見ることによってつながっています。だから、互いに違うところはあるでしょうが、互いに受け入れ合うことができるのです。

 ところが、パリサイ人たちは、盛大な宴会は嫌です。大きく開かれた交わりは好みません。自分の世界の中で生きたいのです。それで、ある者は、自分の畑を理由にして、その招きを断わりました。またある人は、自分の牛について断っています。でも、よく考えてみると、畑を買ったのだから、もうだれかに取られる心配はないわけで、いま見に行く必要はありません。同様に、牛も買ったのだから、いつでもためすことができます。そして、別の者は、自分の結婚を理由にして断わりましたが、なぜいっしょに、宴会に来ないのでしょうか。矛盾だらけですが、みな自分のことをしたかったのです。自分の世界の中に生きたかったから、このような盛大な宴会を拒みました。

 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。 「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れてきなさい。」

 主人の願いは、とにかく盛大な宴会でした。自分の喜びをともにしてくれる人を求めておられました。そこで、主人の招きは、弱った人にまで及びます。パリサイ人たちは、病人や貧しい者は、神からさばきを受けた者、神からのろわれた者と考えていました。その彼らが、神の国に入っているのです。

 しもべは言った。 「ご主人さま。仰せのとおりにしました。でも、まだ席があります。」主人は言った。「街道や垣根のところに出かけなさい。この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。」

 とうとう、主人の招きは、まったく見知らぬ人々にまで及びました。つまり異邦人です。イスラエルの神のことなど考えたこともない、何の関係も持っていない人々です。しかし、その彼らが無理にでも家の中に連れて来られます。イスラエルの神に異邦人が結びつけられることは、とうてい相容れないことです。しかし、神のふところはあまりにも大きいため、そうした不自然なことまで行われました。神のあわれみは広く、深いのです。

 「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」

 パリサイ人が神の国に受れ入れられません。開かれた交わりを拒んだからです。見知らぬ人、見返りのない弱い人を受け入れなかったからです。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。(ヤコブ12:13)」とヤコプは言いました。たとえ神の国に入ったとしても、いろいろな人がいるのですから、とても居づらいところとなるでしょう。

2B 自分を憎む 25−35
 といっても、ではどうすれば、イエスのような広い心を持つことができるのか、と考えてしまいます。努力しても、自分とはそのようなあわれみを持ち合わせていないと考えるでしょう。それもそのはずです。自分には、パリサイ人と同じ狭さ、自己中心牲しかありません。そこでイエスは、私たちがどのようにすれば、開かれた交わりに入ることができるかを、次に話されます。

1C 肉のきずな 25−27
 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることはできません。」

 イエスの弟子になること、それが開かれた交わりに入る道です。イエスの弟子になるとは、イエスのそばにいることです。イエスが右を行けば、自分も右を行き、イエスが左を行けば左に行きます。イエスが、極悪人を受け入れられたら、そのときも自分もいなければいけません。つまり、自分で広い心を持つことでなく、自分であわれみを注ぐことでなく、イエスと交わることで、開かれた交わりの中に入ることができるのです。自分で何とかするのでなく、イエスを見つめつづけることが必要です。

 そして、イエスの弟子になるには、まず第一に、自分の両親、妻、子、兄弟姉妹を憎む、そして、自分のいのちを憎まなければなりません。もちろん、この憎むは大嫌いになるということではなく、むしろキリストの愛で彼らを愛することを意味します。先ほど学びましたように、自分の家族にある絆は、その中では麗しく見えますが、外側にいる人々に対して、見知らぬ人に対しては排他的で、利己的です。その根本には、自分のいのち、つまり自分自身があぐらをかくことのできる場所があるからです。したがって、この家族のきずなは、見知らぬ人、お返しができない弱い人にまで広がるキリストの愛の敵であります。だから、イエスはこれを憎みなさい、と言われました。私たちは家族の人たちを愛するのですが、それはあくまでも、キリストがいのちを捨ててくださったほどに、その人が大切であるという認識に基づくものです。同様に、自分の回りにいる人々に対して、私たちは家族と同じような絆を持とうとします。けれども、決して、彼らと直接結びついてはいけません。キリストにあって、愛さなければいけません。本当は自分に良くしてくれているから愛しているだけなのに、それをクリスチャンの交わりと考える大きな誘惑があります。だから、イエスにしっかりと結びついて、イエスと緊密な交わりをしてはじめて、隣人を受け入れることができます。

 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

 自分の十字架を負うとは、言い換えると、神にみこころに完全に従うということです。ですから、また、神と交わりをすると言い換えることができます。信仰によって生きるとも言い換えられるし、神の言われることを、そのまま受け入れることと言うこともできます。

2C 財産 28−35
 そして、次に、この憎む決断、十字架を負う決断において、しなければならないことが書かれています。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あながたのうちにひとりでもあるでしょうか。」

 ここの費用を計算するとは、すわって、予算や支出など、1円も間違えないように、細かな計算をすることを意味します。

 「基礎だけを築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな被をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』 と言うでしょう。」

 よく計算しないで建築を始めるよりも、もともと建築なんかしなければよかったということです。

 「また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、2万人を引き連れて向かってくる敵を、1万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずわかって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。」

 ここでも、よく計算して考えることが勧められています。つまり、イエスは、簡単に言うと、「よく考えろ」と言われているのです。私たちは、何もとくに考えないで生きていると、自分を憎んでいるつもりが、いつの問にか、自分を愛するようになってしまいます。自分の十字架を負うのでなく、いつの間にか、神に自分の願っていることを押しつけてしまいます。イエスが、「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことはなかった。しかし、あなたは非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(黙示録2:3-4)」と言われたようなことを、やってしまうのです。自分はがんばっているつもりでも、イエスが望まれていることと反対のことをしてしまっているのです。ですから、よく考えてください。自分は、自分の思いにまかせて交わりをしているのか、それとも、キリストにあって人と交わっているのか、考えてみてください。

 「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの自分の弟子となることはできません。」

 この御言葉を読んで、出家生活をしたクリスチャンたちがいました。また、そこまでいかなくても、仕事をやめて、質素な生活を歩む人がいました。それはそれですばらしいことなのですが、ここで言われていることのポイントは、「自分の財産」です。私たちは、神の財産を任されている管理者であると聖書で語られていますが、自分の持っているものは、実は自分のものではなく神からゆだねられたものである、ということです。でも、私たちは、どうしても自分の手にあるお金は、自分のものと思ってしまいます。だから、これも、よく考えないではできるものではありません。 ここまでで、3つ、弟子となるための条件が書かれていました。自分の家族のきずなを憎む、自分の十字架を負う、自分の財産を捨てるということです。どれも、「自分」というものから切り離し、キリストの交わりの中に入っていくことをします。

 「ですから、塩は良いものですが、もしその塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 イエスは、聞いている群衆を塩にたとえられています。あなたがたは塩だが、塩けをなくしたら、何の役にも立たなくなるということです。つまり、イエスを信じているといいながらも、自分を捨てないで生きれば、クリスチャンとして生きても、何の意味もないということです。クリスチャンになった意味がなくなってしまいます。宗教活動はしているかもしれませんが、それなら、どこかのサークルでもっと生産的なことをしているほうがましである、ということです。

 しかし、塩けがあれば、イエスのように広い交わりを持つことができます。自分とは関係のない人にも、心をとめて祈ることができます。新しく会う人にも、声をかけてあいさつすることができます。お返しできないような病人、老人、子どものために、喜んで奉仕することができます。イエスのそばにいて、イエスを認めて、イエスと交わりをしているときに、私たちは他人と本当の意味で交わることができるのです。


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