ルカの福音書15章 「恵みへの招き」
アウトライン
1A 問題 「つぶやく」 1−2
2A 説明 「喜ぶ」 3−32
1B 見つける 3−10
1C いなくなった羊 3−7
2C なくなった銀貨 8−10
2B 見つかる 11−32
1C 放蕩息子 11−24
2C 兄息子 25−32
本文
ルカの福音書を開いてください。ここでの主題は、「恵みへの招き」です。前回は、食卓への招きという題で、話させていただきました。食卓に招かれるということは、交わりに招かれることであり、病人や貧しい人でも受け入れられるような交わりを、イエスが持っておられることを学びました。人を排除するような閉じられた集まりでなく、人を受け入れる開かれた交わりです。そして、今日は、パリサイ人たちの考えによると、まさに交わってはいけない人々がイエスと食事をともにしています。罪人です。15章は、罪人を受け入れる恵みについて語られています。そして、その恵みを退けることについて書かれています。
1A 問題 「つぶやく」 1−2
さて、収税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとしてみもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
取税人や罪人が、イエスのみことばを聞きに近寄って来て、それからいっしょに食事をしました。ちょうど、ザアカイのような回心が起こったのでしょう。みことばを聞いて、神の愛と恵みにふれて、自分の悪い行ないを悔い改めたのでしょう。ザアカイは、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します。(19:8)」 と言いました。彼らは救いの喜びで満ちあふれていたに違いありません。イエスも同じでした。彼らが悔い改めて、救いにあずかったことをいっしょに喜んでおられました。
いっしょに喜んでおられることは、今すぐ出てくる3つのたとえで説明されています。そして、イエスと彼らはいっしょに食事をしていたのです。この前の、パリサイ人の指導者の家における食事とは、本当に違いますね。イエスは、ご自分の一挙一動を監視されて、すぐに揚げ足を取られるような雰囲気の中で食事をされていました。この人々といっしょにいるほうが、はるかに居心地が良かったはずです。
けれども、イエスについて来たパリサイ人たちは、このことに対してつぶやきました。「罪人たちを受け入れて、食事までする。」と言って、つぶやきました。彼らの考えによると、外側の汚(きたな)さが、内側の汚(けが)れになるというものがありました。例えば、道ばたで、罪人や取税人、遊女や異邦人とすれ違うときに肩がふれたら、家に帰って、水の洗いの儀式をします。私が小学生のとき、いじめられていた女の子がクラスにいました。その子にふれるものなら、菌が移ったと言って、他の人にさわって移さないと自分が汚くなる、と言うことで、それが一つのゲームになっていました。それと、あまり変わらないレベルの考えを、パリサイ人は持っていたのです。
2A 説明 「喜ぶ」 3−32
そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
イエスは、このパリサイ人の態度に対して、これからたとえを話されます。罪人が受け入れられることに腹を立てる心に対して話されます。
1B 見つける 3−10
1C いなくなった羊 3−7
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は99匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜しに歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」
羊飼いが、迷い出た羊を捜しに行くたとえですが、これは、当時の社会ではありふれた光景でした。ちょうど私たちが、スーパーマーケットやデパートで、迷子の放送があるのと同じように、ありふれた光景です。羊はすぐに群れから迷い出ます。羊は、迷い出ると、戻って来るような習性は皆無です。けれども、迷い出ることは、非常に危険なことです。崖から落ちてしまうかもしれないし、何よりも、狼に食べらてしまいます。羊飼いは、夜に羊を守るため、いばらで作った囲いを持っていました。その囲いの中に羊を入れて、自分は入口のところで寝ます。だから、敵は羊飼いの上を通らなければ、囲いの中に入ることはできません。イエスが、「わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。(ヨハネ10:7-8)」 と言われたのは、このことであります。けれども、このたとえの中は、羊飼いが囲いの中に羊を入れているとき、百匹いるはずなのが一匹足りないことに気づいた場面であります。おそらく、門にしっくいをして、99匹を残して、その一匹を捜しに行ったのであります。
そして、これはもちろん、イエス・キリストと罪人たちとの関係です。羊飼いがイエスであり、いなくなった羊は罪人です。罪とは神と自分を引き離すものであり、罪人は神のおられるところからいなくなったと言うことができます。イエスは彼らを捜して、見つけることができたので、今ここで、彼らと食事をとっておられました。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
ここで強調されているのは、喜びです。いなくなった羊が見つかったら、大喜びするのは、ごく 自然な反応です。同じように、神から離れてしまった人が戻って来て、大喜びするのは当たり前の、普通の反応です。ところがパリサイ人たちは、つぶやきました。そして、ここでは、喜びが天にあると書かれています。天にある思い、神の思いやみこころも、喜びなのです。ですから、パリサイ人の心は、天と調和していないことになります。彼らの反応がいかに不自然であるかを、イエスは暗に示されているのです。
2C なくなった銀貨 8−10
これと同じことが、次のたとえにも現われています。「また、女の人が銀貨を10枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、 『なくした銅貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」
女性が、銀貨を探すたとえです。この銀貨は、ドグラマという単位の貨幣で、一日の労働賃金のデナリより、やや高い単位です。ですから、この女性は、一日分の生活の糧がなくなってしまったから、念入りに探したということになります。あるいは、10枚の銀貨はネックレスになり、結婚指輪と同じ役割を果たしていたことも考えられます。ですから、念入りに、執拗に探したのかもしれません。そして、当時の家は、土が固められた床を持っているので、雑草が生えていたりします。また、窓が小さく一つあるだけなので、床は暗くなっています。それで、あかりをつけて、掃かなければならなかったのです。現代風に言うなら、コンタクトレンズをなくしてしまったような感じですね。
ここでも、自然な反応として、喜びがあります。そして次をご覧ください。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
先ほどは、「天」とありましたが、ここでは、「神の御使い」となっています。いずれにしても、天で喜びがわき起こっているのです。パリサイ人のつぶやきとは対照的です。
2B 見つかる 11−32
この2つのたとえは、イエスが私たちを捜すことが前面に出ています。私たちがキリストに出会う前から、キリストは私たちを捜し、私たちを見つけようとされていました。この前の出エジプト記の学びでも、同じような神の働きを見ました。神は、奴隷状態で苦しんでいるイスラエル人をご覧になり、その叫びを聞き、痛みを知っておられました。神は、みこころのままに私たちを愛し、ご自分の主権で選ばれたのです。
ただ、この2つのたとえには、「悔い改めるなら」という表現が使われています。悔い改めには、自分の意思と決断が必要になります。けれども、羊にはそのような決断はできないし、ましてや銀貨はそうです。それでイエスは、この「悔い改め」の部分を詳しく説明するために、ふたりの息子のたとえを話されます。
1C 放蕩息子 11−24
「またこう話された。『ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。』」
父の財産は、兄には3分の2、弟には3分の1が分け与えられます。弟はそれを父に要求しているのですが、普通、それは父が死んだあとに行われます。けれども、弟は、父の生前に要求しました。この父は、とても寛大です。ふたりに身代を与えました。
「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」
父の家における窮屈な生活に嫌気がさし、外に出て行って、やりたい放題した弟ですが、ここに罪人の姿が現われています。罪とは、神に反抗することです。神に反抗して、そして、遠い国、つまり神から遠く離れています。
「何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。」
ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物です。豚の世話ほどに、惨めな世話はありません。
「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。」
いなご豆とは、極貧の食料であると言われています。どん底まで落ちた、という感じです。けれども、これが罪の結末であります。「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」 とあります。また、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14)」 とあります。ビリー・グラハムが「7つの大罪」という本を書いたという話を聞いたことがありますが、それに対し、「もう罪を赦されたのだから、そんなに罪を指摘することはないだろう。」という意見に対して、彼はこう答えたそうです。「それは、毒の入った瓶を、ラベルを貼らないで置いておくようなものである。」罪は、私たちを破壊します。この弟息子は、いなご豆も食べられないほど困窮しました。そして、次からが悔い改めの場面です。
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。」
この「しかし」が大事です。彼は、自分がみじめであること、貧しいこと、哀れであることに気づきました。人はみな、そのような状態にいるのですが、彼のように気づく人は少ないです。イエスはラオデキヤの教会に語られました。「あなたは、自分が富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示録3:17)」 ですから、悔い改めの第一歩は、自分の姿に気づくことです。
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」
彼は、我に返ったあと、父を思い起こしました。父の豊かさについて思い起こしました。それに照らし合わせて、自分の姿を比較させています。もちろん、ここでの父は、父なる神ご自身を表しています。ですから、悔い改めの次の一歩は、神を思うことです。神のことを考え、神の豊かさを考えます。悔い改めというと、単に行ないを改めることのように考えがちです。盗みを働いていたのをやめる、というような感じに考えてしまいます。しかし、そうではありません。今から弟息子は、父の家に向かいますが、汚れた、豚のにおいがプンプンにおう姿で行きます。ですから、神のことを考えて、ありのままの自分で行くことが必要です。
「立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。』」
彼は、自分の罪を父に対して言い表します。ですから、悔い改めの次の段階は、罪を告白することです。祈りの中で、私はあなたに対して罪を犯しました、と言葉に出して告げる必要があります。
「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
ここは、とても大事です。彼は、自分が父の祝福を受ける資格がないことを認めています。自分の人生は雇い人でよい、それで十分なのだ、と考えています。これを言い換えると、自分は地獄に行って当然の存在であることを気づくことです。ある牧師は、「多くの人が地獄にいることを私は驚きません。それは当然の報いだからです。私が驚くのは、天に人々がいることです。これは奇跡です。」
と言いました。私たちは、人間関係の中で、「まあ、私はこんなことをしましたが、許してくださいよ。細かいことは考えずに、いいじゃないですか。」というような甘え、なれ合いを持っています。けれども、それは本当は通用しません。自分のしたことには必ず報いがあることを知る必要があります。
ここまでが悔い改めです。次から父親の姿が登場します。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところやく、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」
ここは直訳すると、「首を抱きかかえて、何度も何度も口づけした。」となります。羊飼いや女の人と同じように、この父も息子を見つけて、自分から駆け寄っています。けれども、父は自分の家からは離れなかった、弟息子のいる遠い国には行くことはできなかったのです。罪は、私たちと神を引き離すのです。ですから、悔い改めがなければ、父は罪人を受け入れることはできません。けれども、再び、それは自分の行ないを改めたり、自分を正しくすることではありません。
息子は豚のにおいでプンプンしているのです。でも、父がかわいそうに思って、首を抱きかかえ、何度も何度も口づけしています。汚れたこの私たちを、ありのままで、どんなに汚れていてもありのままで、私たちの神は受け入れてくださるのです。これが、第一の恵みです。罪の赦しです。でも、これだけに終わりません。次を見てください。
「息子は言った。 『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。」
父親は、息子が話し終えるのを待ちませんでした。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」
良い着物、指輪、くつなどみな、息子の資格を示すものです。しもべは、くつをはく ことはありませんでした。父親は、罪を赦してくれたどころか、彼を息子の地位にまで戻してしまいました。それだけ、父は彼のことがかわいかったのです。愛しているのです。私たちの神も同じです。神は私たちを愛し、ただ罪を赦してくださるだけでなく、神の子どもという特権を与えてくださいました。神の持っておられる資産を、私たちは受け継ぐことができるのです。
「そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
罪から来る報酬は死ですから、彼は確かに死んでいました。神から離れていれば、だれもが死んでいるのです。しかし、今、神のいのちを受けて、生き返りました。永遠のいのちを持ちました。そして、いなくなっていたのが見つかった、と父親は言っています。先ほどの、羊飼い、女の人のたとえと同じです。
「そして、彼らは祝宴を始めた。」
これは、まさにイエスが罪人、取税人と食事をしていることを表しています。いなくなったのが見つかったことに大いに喜んで、お祝いをしているのです。そして、これは、神の国における宴会でもあります。私たちはこれを14章で学びました。宴会に参加することのできる人は、自分で努力して成果をあげたからではありません。いなくなったのに見つかったからお祝いしているのです。一方的な神からの恵みです。受けるに値しないものを受けています。
2C 兄息子 25−32
そして、次に、話のおちが書かれています。罪人を受け入れるのに腹を立てたパリサイ人の姿が描かれています。
「ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。」
おこりました。これがパリサイ人の心を表しています。大いに喜ぶのが当然なのに、腹を立てているのです。父の心と遠くかけ離れています。そして、面白いことに、彼は家に入っていません。父の寛大さ、父の恵みの中に彼は入りたくないのです。恵みを拒んでいます。これが、神の国に入れなくなる条件です。
神の国に入れないのは、自分がいかに悪いことをしたかではありません。地獄に行くべき人々を天国に入れる神の寛大さ、神の恵みを欲しくないから、神の国に入れないのです。恵みの招きに応答しないからです。
「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』」
これもパリサイ人の姿を表しています。神に仕えている、という意識が彼らにありました。けれども、自分が神の子どもであるという意識はありません。恵みによって救われた、自分は奴隷ではなくて自由人である、神の相続人であるという意識はなかったのです。また、戒めを破った、自分は罪人であるとも思っていませんでした。さらに、自分に欲望があることにも気づいていません。友だちと楽しむことを求めています。外側の行ないは落ち度がなくても、心は放縦と姦淫でいっぱいだったのです。
「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」
自分の弟を、「あなたの息子」と呼んでつっぱねています。これもパリサイ人の態度です。
父は彼に言った。「おまえはいつもわたしといっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」
そうです、父は身代を兄にも分け与えていました。
「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
これが、イエスさまの結論です。楽しんで喜ぶのは当然なのです。あまりにも自然なことなのです。彼らはこの当然のことをせず、つぶやき、いかっていました。
ですから、イエスが食事を罪人たち、収税人たちと取っていたとき、この方の心は喜びで満ちていました。これは、探していたものが見つかった満足です。イエスがいなくなった羊を求めて、探しおられます。聖霊が執念深く、なくなった魂を探しておられます。
そして、父なる神が、ご自分の家で、いなくなった子たちが戻ってくるのを、忍耐して待っておられるのです。この神の働きの中に入りたいと願うなら、どうぞ出て行って、福音を宣べ伝えてください。お祈りしましょう。
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