ルカの福音書17章 「イエスを見つめる」



アウトライン

1A 主として 1−10
   1B 内容 つまずき(人間関係) 1−4
      1C 加害者 1−2
      2C 被害者 3−4
   2B 方法 従順 5−10
      1C 力 5−6
      2C 栄誉 7−10
2A 神として 11−19
   1B 内容 いやし 11−14
   2B 方法 礼拝 15−19
      1C 感謝 15−18
      2C 救い 17
3A 王として 20−37
   1B 内容 神の国 20−21
   2B 方法 分離 22−37
      1C 捨てられる 22−25
      2C 滅ぼす 26−33
         1D 日常生活 26−30
         2D ロトの妻 31−33
      3C 残す 34−37
         1D 選り分け 34−36
         2D 場所 37

本文

 ルカの福音書17章をお開きください。ここでのテーマは、「イエスを見つめる」です。私たちは、14章からずっと、安息日におけるイエスの姿を追っています。律法学者の家に招かれたイエスが、そこを出て、今度は罪人や収税人と食事を持たれました。それを快く思わないパリサイ人にたちに、神の恵みについてのたとえを話されてから、次は弟子たちに語られました。お金をきちんと管理するようにということでした。金好きなパリサイ人が、それを聞いてあざ笑うと、今度はパリサイ人に対して語り、その貪欲のゆえにハデスで苦しみにあうことを告げられました。つまり、イエスは、パリサイ人と弟子たちがそばにいて、交互に続けて語られています。17章は、弟子に対して語られるところから始まります。

1A 主として 1−10
1B 内容 つまずき 1−4
1C 加害者 1−2
 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」

 
イエスはこれから、つまずきについて語られます。これは、キリストとの歩みにおけるつまずきです。つまり、罪を犯させるようなきっかけをつくったり、信仰の歩みを妨げたりすることです。まず、イエスは、「つまずきが起こるのは避けられない。」と言われました。この世は、人に罪を犯させるようなものでいっぱいです。テレビ、雑誌、人々の会話などに、私たちを神から引き離す話題が満ちています。ですから、つまずきは避けられません。けれども、自分が人をつまずかせるようなことをしたら、それは忌まわしいとイエスは言われます。加害者になってはいけないということです。


 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

 この小さな者たちとは、神に全面的な信頼を寄せている人たちであります。イエスは、悪霊が追い出されたことにはしゃいで喜び回る弟子たちを見て、「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。(17:21)」と祈られたことがあります。子どものような、無批判で素直な態度を神に対して持っている人が、小さな者です。けれども、無批判で素直であるゆえに、それを利用して悪いことを教えたり、自分の腹を肥やすことが者たちがいます。神に対して大きく口を開けているその人に、乳や蜜ではなくて、毒を注ぎ入れるのです。例えば、「献金をしなさい。」と言って、自分のポケットマネーにしたり、「指導者に従いなさい。」と言って、自分の権威欲を満たしたりするのです。これらに対して、イエスは、ものすごい恐ろしい罰があることを語られています。石臼を首にかけられて、海の底に沈んだほうがまだ軽い罰であるほど、さらに恐ろしい罰があるのです。


2C 被害者 3−4
 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

 
1,2節は、自分がつまずきを与えることについてでしたが、今度は、自分がつまずきを受けるときのことです。私たちは、よく、「つまずいた。」という言葉を口にしますが、面白いことに、つまずいたことはよく覚えていても、つまずかせたことは覚えていません。傷を受けたことは覚えていても、傷を与えたことは忘れています。ですから、イエスは、つまずきについて、まず、つまずかせることについて語られました。私たちが生活している上で、相手から受ける行為よりも、相手に与える行為に気をつけなければいけません。


 ただ、実際に、つまずきを受けるときがあります。明らかに、ひどいことをされることがあります。自分がその人のことを怒ったり、恨んだり、憎んだりする正当な理由が、いくらでも見つかる場合があります。けれども、そのようなときでも、イエスは、「赦しなさい。」と言われるのです。心に留めないで、過ぎ去らせることです。イエスは、まず、「戒めなさい」と言われました。他の個所では、「ふたりだけのところで責めなさい。(マタイ18:15)」とあります。他人に話すのではなく、本人に話します。そして、「ごめんなさい。もう、そういうことはしないから。」と言うのであれば、赦してあげなければいけません。

 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 当時、ラビは、「三度赦してあげれば、あなたは完璧です。」と教えていました。イエスは、七度と言われます。しかも、一日に七度です。何回も罪を犯して、「もう、やりません。」という人がいます。その人は、真に悔い改めていないように見えます。けれども、「悔い改めます」と言うのであれば、行なうのでなく言うのであれば、赦しなさい、とおっしゃっています。悔い改める言葉を言えば、私たちは赦すしかないのです。


2B 方法 従順 5−10
1C 力 5−6
 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」

 使徒たちは、驚きました。7度も赦すなんて、到底できないと思いました。それで、そのようなことのできる信仰を与えてください、と言っています。これは、もっともな願いのように聞こえます。それを行なうことができないから、行なうことができるようにしてください、とお願いしているわけです。けれども、イエスにとって、それは的外れな質問です。

 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。

 
からし種とは、肉眼で見たら、粉末の一粒のような小さい種です。それだけの信仰があれば十分なのです。それでは、使徒たちにからし種のような信仰さえなかったのでしょうか。いいえ、彼らには信仰がありました。しかし、信じる対象が違いました。イエスを信じていたのでなく、自分自身を信じていたのです。「そんなのできない。7度赦すなんてできない。」と言って、実は自分自身を見つめていたのです。けれども、イエスは、基本的に、「わたしを信じなさい。」「わたしを見つめなさい。」と言われています。嵐を静められたイエスは、目の前にある桑の木を海の底に根づかせることはおできです。この方を見つめて、この方を信じるとき、私たちは、この方の命じられることに自ずと従うようになります。桑の木がただイエスの命じられるままになるように、私たちのうちで、「7度赦しなさい。」という命令が実現されるのです。ですから、私たちは、「できるか、できないか。」という世界に生きているのでなく、「従うか、従わないか。」の世界に生きているのです。


2C 栄誉 7−10
 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。

 しもべは、主人の食事を整えるのも仕事ですから、当然、主人といっしょに食事をするわけがありません。

 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。


 これも、当然しません。私たちが仕事から帰るとき、上司は、「お疲れさん!」とは言いますが、「こんなにやってくれて、何とお礼を言えば良いだろう。君のしてくれたことは、一生忘れないよ。」などと言うでしょうか。そんなこと言われたら、かえって気味が悪いですね。なぜなら、私たちは任せられたものに対する報酬は与えられるからであり、それ以上の待遇は期待しないからです。
このことが、イエスと私たちの関係にも当てはまります。

 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

 もし、かりにイエスが使徒たちの願いを聞き入れて、使徒たちが一日に7度人を赦せたとしたら、どうなるでしょうか。「私は、こんなに赦せました。何かいただけるでしょうか。」という気持ちが必ず出てきます。なぜなら、自分で行なっているからです。行ないによって生きれば、必ず誇りが出てきて、報酬を求めます。パウロは、「働く(行なう)者のばあいに、その報酬は恵みではなくて、当然支払うべきものとみなされます。(ローマ4:4)」と言いました。しかし、イエスが命令されるとき、それを実行するのもイエスなのです。イエスが働かれるのですから、その報酬は当然、イエスご自身に与えられるのであり、イエスを信じて生きる者はそのことを意識することができます。自分はただ、信じて、その命令に従っただけです。杖を地に投げなさいと命じられて、それに従ったら、蛇になったのと同じです。ですから、パウロはこう言いました。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。(ローマ3:27)


2A 神として 11−19
 こうして、私たちはイエスを主として見つめる必要性を学びました。イエスを信じて生きるとき、イエスの命じられることに従うようになります。次は、イエスを神として見つめることについて述べられています。

1B 内容 いやし 11−14
 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。

 イエスが、エルサレムへの旅を続けておられることを思い出してください。9章51節に、「イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられ」たと書かれていますが、そこからずっとエルサレムへの旅の記事が載っています。そして、イエスは、異邦人とユダヤ人の混血であるサマリヤ人の住む土地と、ユダヤ人が住むガリラヤとの境を通られました。


 ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。

 らい病人が、遠くから叫んでいます。というのは、らい病人は、律法によって人に近づくことが禁じられていたからです。だれかが近づいて来たら、「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりませんでした(レビ13:45)。そして、イエスが「あわれんでくだ」さるのを願っています。彼らも、イエスの評判を聞いていたのです。そして、イエスが近くによってくれたらと、ひそかに願っていましたが、今、その夢がかなえられたのです。彼らは必死に叫びました。

 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。


 すぐにいやされた、とは書かれていません。行く途中でいやされた、となっています。つまり、少しずついやされたか、あるいは、時間が経ってからいやされたかのどちらかでしょう。私たちもいやしを願い求めますが、すぐに聞かれなくても、祈りつづけることが必要です。

2B 方法 礼拝 15−19
1C 感謝 15−18
 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

 彼は、イエスを礼拝し、感謝しました。イエスが神から来られた方であると認めました。ここで、「引き返して」という動詞がとても大切になります。なぜなら、他の9人はそうしなかったからです。そして、彼はサマリヤ人でした。サマリヤとガリラヤの間にある村ですから、どちらも住んでいました。あの10人はユダヤ人とサマリヤ人のどちらもがいました。

 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

 
メシヤを信じていたのは本来ユダヤ人なのに、サマリヤ人がイエスのみもとに来ました。

2C 救い 19
 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

 彼は直りましたが、英語の欽定訳を見ると、「すべてになった」となっています。つまり、体だかけが直ったのではなく、霊も魂も直ったのです。つまり、彼は救いを得たのです。

 このサマリヤ人と、他の9人との違いは何でしょうか。他の9人にとって、イエスは自分のらい病をいやされる方でありましたが、自分のすべてではありませんでした。自分の病が治れば、イエスは自分にとって関係のない人物なのです。けれども、このサマリヤ人にとって、イエスがすべてとなりました。イエスが神となったのです。生活の中で起こることは、すべてイエスによるものであり、自分の全存在はイエスにより頼んでいます。私たちはとかく、恵みを喜ぶますが、恵みを与える方に振り向くことを忘れます。「助けてください。この困難な状況から救い出してください。」と祈ったのに、いったん救い出されたら神のことを忘れています。サマリヤ人のように、「引き戻る」ことをしないのです。けれども、すべてのことがイエスによってもたらされたことを知るとき、イエスに感謝し、賛美し、礼拝するようになるのです。パウロは、「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ1:17)」と言い、また、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(ローマ11:36)」と言いました。イエスを神として見つめるとき、私たちはイエスを礼拝するようになります。

3A 王として 20−37
  そして、次は、イエスを王として見つめることについて書かれています。

1B 内容 神の国 20−21
 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。

 
弟子の次は、再びパリサイ人です。彼らは、ユダヤ人の関心事である神の国について尋ねました。

 イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」


 この箇所は、よく間違って解釈されます。神の国は、私たちの心の中で実現したのであり、目に見える形でこの地上に訪れるのではない、と言う人々がいます。けれども、その解釈が間違いであるのは、少し読み進めればわかります。24節を見てください。

 「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。

 神の国は、全地球的に、全宇宙的に訪れます。20節の「人の目で認められる」というのは、ギリシヤ語で、敵意をもって見るという意味があります。ルカ14章1節に、「みんながじっとイエスを見つめていた。」とありましたが、それがここで使われているギリシヤ語です。そして、イエスが、「あなたがたのただ中にあるのです。」という言葉は、「間にいる」と訳すことができます。つまり、「あなたがたは、神の国はいつ来るのか、などと言っているが、わたしがあなたがたの目の前にいるではないか。」とおっしゃっているのです。神の国の王キリストが、彼らのただ中におられます。


 つまり、イエスがここで話されたかったのは、神の国の王に敵対していて、なぜ神の国を求めるのか、と言うことです。支配者が気に入らないのに、その支配者が支配する国を好きになれるはずがない、ということです。自分がこの王を認めることによって、神の国に入る準備ができます。イエスとの個人的な関係を正すことによって、はじめて神の国のことを論じることができるのです。

2B 方法 分離 22−37
 イエスは弟子たちに言われた。

 すでにイエスとの関係を正している弟子に対しては、神の国について詳しく語られます。


1C 捨てられる 22−25
 「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。イエスは、この地上から取り去られます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。

 異端は、「こちらだ。あちらだ。」と言います。エホバの証人は、「1914年にイエスは来られた。イエスは、隠れた部屋から、今、世界を統治されている。」と言います。また、統一協会は、キリストは韓国に来られて、文鮮明こそがキリストであると言います。けれども、キリストが来られるときは、だれもが認めることができるような形で来られます。


 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。

 
22節から24節でイエスがお語りになりたいことは、キリストは確かに王として統治するが、その前に、この時代から捨てられなければならない、ということです。キリストが来られるのは、あくまでもこの世を滅ぼすためです。悪魔と罪を一掃するために、キリストは来られます。けれども、この世を滅ぼされる前に、神は救いの御手を差し伸ばされます。水で世界が滅ぼされる前に、神は箱舟をくださいました。ソドムとゴモラが滅ぼされる前に、神は御使いをロトに遣わしてくださいました。そのため、まずキリストは、この世にいる人々を救い出すために遣わされたのです。救い出す方法は、ご自分のいのちを捨てて、罪の代価を支払われます。ですから、まず、この時代に捨てられなければなりません。


2C 滅ぼす 26−33
 そして、再び、この世を滅ぼすときのことを語り始められます。

1D 日常生活 26−30
 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

 これは、日常生活を営んでいるときにさばきがあることが示されています。食べたり、飲んだり、つまり食生活です。めとったり、とついだりというのは結婚生活です。

 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。


 ここでは、食生活に加えて、売買や産業などの経済活動が記されています。

 人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。


 つまり、こうした日常生活を営んでいるときに、突然、さばきが訪れるのです。


2D ロトの妻 31−33
 このことをふまえて、私たちがどのように生きていかなければならないかが、次から書かれています。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。

 ここでは、2つのことが書かれています。一つは、私たちが日常生活から離れないで生きることです。屋上にいたり、畑に出て仕事をしています。主が世をさばかれるからといって、世間から離れて生きるのではありません。と同時に、二つ目は、世に未練を持って生きてはいけないことです。家財があっても取り出してはならず、家に帰ってはいけません。つまり、世の中で普通に生活をしながらも、世に深入りしないことが必要です。世とは軽くふれるだけにして、王なるイエスが、これらのものをみな滅ぼされることを意識しながら歩まなければなりません。パウロは言いました(1コリント7:29−31を読む)。王なるイエスを見つめながら生きる必要があります。


 ロトの妻を思い出しなさい。

 彼女は、世のものに未練を残した典型的な人物です。神は、ロトの家を救い出そうとされていたのに、彼女は、ふりかえって塩の柱となってしまいました。そこで、イエスはこう言われます。

 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

 この「いのち」とは、日常生活全般のことです。それを救おうとしたロトの妻は、ソドムとともに滅びましたが、それを捨てたロトと娘ふたりは助かりました。彼らは同じように、日常生活を歩んでいたのですが、前者は深入りし、後者は軽く付き合っていたのです。先ほどのノアの日と、ロトの時代にあった人々の姿をまた読んでみますと、「飲んだり、食べたり、売ったり、買ったり…」とあります。けれども、そこには神の意志が介入される余裕がありません。本来なら、「主のみこころなら、飲んだり、主のみこころなら食べたり、主のみこころなら、売ったり買ったりする。」というように、神のみこころを求めて生きなければいけなかったのです。ヤコブの手紙には、こうあります。「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私らちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(4:15)」ですから、自分のいのちを救うとは、神なしに生きるということ、自分のいのちを失うとは、日常生活に神をお迎えすることを意味します。


3C 残す 34−37
1D 選り分け 34−36
 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。ふたりの男が畑にいると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

 主のさばきは、日常の活動を営んでいる時にとどまらず、日常の活動を営んでいる場所にまで及びます。寝ている場所で、臼を引いている場所で、畑の場所で、さばきに会うものと、救われる者とが選り分けられます。ということは、私たちは、どこにいても主が来られることを意識していなければなりません。教会にいるときにイエスを見つめて、平日は仕事だけを見ているということはできないのです。


2D 場所 37
 弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

 
イエスは、人々がさばかれる場所について述べられています。これは、エゼキエル書
39章と、黙示録19章に出てくる場面です。ハルマゲドンの戦いで、全世界の軍隊は再臨のキリストによって、ことごとく滅ぼされてしまいます。その死体が山のように積み上がり、それを鳥が食べるのです。このように、さばきは容赦なく行なわれます。

 ですから、イエス・キリストは王として働かれます。正義と公正をもって、この世をさばかれます。私たちは、その世の仲間になってしまえば、神は私たちを救われたいと願っていても、ともに滅んでしまうのです。だから、この世とは、軽く接していなければならないのです。そして、イエスは、主であります。この方を見つめるとき、私たちは、自分にはできなくなっていることを、イエスが私たちのうちで行なってくださることを発見します。また、イエスは神です。私たちが、自分の全存在をこの方にゆだねるとき、イエスは、私たちのすべてをいやしてくださいます。からだだけでなく、霊も魂もいやしてくださるのです。


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