ルカの福音書20章 「礎の石」

アウトライン

1A 立ち向かう 1−19
   1B イエスに対して 1−8
   2B 宗教指導者に対して 9−19
2A 質問する 20−40
   1B 総督の支配と権威 20−26
   2B 復活の否定 27−39
3A 教えられる 41−47
   1B キリストについて 41−44
   2B 指導者の行ないについて 45−47

本文

 ルカの福音書20章をお開きください。ここでの主題は、「礎の石」です。

1A 対決 − 2つの力 1−19
1B 預言者の証言 1−8
 イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」

 イエスは、宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えられていました。イエスは、公にメシヤとしてエルサレムに入られましたが、ここでも、公にメシヤとして活動されています。イザヤはこう言っています。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(2:3)」けれども、宗教指導者たちにとっては、そうではありません。イエスは自分たちのところに殴りこみに来たと思ったのです。「何の権威がお前にあるのか。商売人を勝手に追い払い、民衆を扇動している。私たちがここを統括しているのに、お前は勝手なことをしている。」と考えたのです。平穏なこの神殿の中に混乱をもたらしていると考えました。


 私たちは、前回、この宗教指導者は私たち自身のことであることを学びました。彼らはエルサレムの神殿を自分たちの陣地、自分たちが支配しているところとして誇っていましたが、私たちもそのような領域を持っています。そして、それが犯されたとき、私たちは、「何の権威があって、こんなことをするのか。」という反応に出るのです。私たちの生活に大変なことが起こったとき、困難なことが起こるとき、私たちは、安らかでいることのできる「陣地」が荒らされたと感じます。「何でこんな目に遭わなければならないのか。」と感じます。けれども、忘れてはならないのは、困難をもたらしているのはイエスご自身であるということです。宗教指導者たちは、みことばを教えるイエスに立ち向かいました。

 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」イエスは、彼らの挑戦にたじろぐどころか、逆に問い詰められております。すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。 しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」

 
バプテスマのヨハネは、ユダヤ人の間で人気のある預言者でした。多くの人が彼のところに来て、罪を悔い改め、水のパプテスマを受けました。けれども、彼は、自分はキリストではなくイエスがキリストであることを指し示しました。ですから、ヨハネを認めることはイエスを認めることになってしまい、自分たちの立場がなくなります。けれども、ヨハネを拒めば、すでにヨハネを信じている民衆の怒りをかうことになります。

 そこで、「どこからか知りません。」と答えた。するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。

 
こうしてイエスは、彼らを黙らせてしまわれました。宗教の権威者である者たちが、逆にイエスの言いなりになったのです。ふつう、権威者に対しては、私たちは弁明するか、従うか、あるいは反逆するかのどれかしかありません。イエスの場合は、そのどれにも当てはまりません。むしろ、彼らに弁明をさせ、従わせてしまわれたのです。


 つまり、ここからイエスは、すべての状況を掌握されている主であることがわかります。何一つ、イエスの支配からもれることはないのです。このテーマは実は、この20章から最後の24章まで続きます。次の章では破滅とへを向って、混乱する歴史を、実はご自分が支配されていることを示されます。22章から24章は、十字架につけられることを、すべてご自分が掌握されていました。イエスが積極的に働きかけなければ、ユダが裏切ることはなかったし、宗教指導者がイエスを捕らえることはできなかったし、ローマが死刑に定めることもできなかったのです。そして、24章は、ご自分が予告したとおりよみがえられたことで、ご自分が主であることを示されました。このように、イエスは、力持ちでも動かすことのできない大きな石のように、何に対しても動じることはない存在です。ですから、私たちは、私たちに問題が起こったとき、それをイエスが引き起こしておられることを知ると同時に、その問題を解決するのもイエスであることを認めなければいけません。主がパロの心をかたくなにしたと同時に、主ご自身がパロの手からイスラエルを救い出されたのです。イザヤを通して主は、「わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。(45:7)」と仰せになりました。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。(ローマ11:36)」とパウロは言いました。

2B 神の復讐 9−19
 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。指導者たちに語られた後、イエスの教えに耳を傾けていた民衆に話されます。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。

 この
ぶどう園は、イスラエルのたとえです。イザヤ書5章には、人がぶどう園を大切に世話した話しが載っています。けれども、出て来たぶどうは甘くなく、酸っぱかったとあります。つまり、神はイスラエルを選んで、これをこよなく愛されたのに、目的とは全く逆のものが出来あがった、というわけです。彼らに律法を与え、礼拝を与え、契約も与えて、彼らからキリストが出てくるようにされたのに、イスラエルは神の証人になるどころか、異邦人となんら変わりない不正を行なってきました。そして、神はこれに対し、さばきを下すことを宣言されています。このイザヤ書5章を、宗教指導者たちは思い出したに違いありません。イエスはこれから、どのようにイスラエルが酸いぶどうになったか、また、どのようにさばかれるかを語られます。


 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

 この農夫たちは、イスラエルをつかさどる指導者たちです。しもべとは預言者たちのことです。神は、イスラエルが真理の道を歩まず、さまよい始めたとき、預言者を遣わして、ご自分のところに戻って来るように声をかけてくださいました。ところが、その預言者をまっさきに迫害したのは、イスラエルの指導者でした。

 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。


 神は、忍耐深い方です。彼らが預言者を拒んでも、怒ったりなさらずに続けて預言者を送られました。私たちが手にしている聖書の、預言書と言われる書物は、バビロン捕囚前・中・後に書かれたものです。危機的な状況のときに、神は多くの預言者を遣わされました。でも、イスラエルの指導者は彼らを拒みました。


 ぶどう園の主人は言った。「どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。」

 しもべではなく、自分の息子です。これは紛れもないイエス・キリストご自身のことです。イエスは、預言者とは別の独特な地位にご自分を置かれています。イエスは、地上において預言者としての働きをしておられたのですが、その本性は神のひとり子です。

 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」

 
これは、イエスのたとえを聞いている宗教指導者たちのことです。7章47節には、彼らが、イエスを見て、どうしたらこいつを殺すことができるかと議論していることが書かれています。そして、このたとえによると、イエスを殺す動機は何でしょうか。「あれはあと取りだ。あれを殺せば、財産はこちらのものだ。」とあります。貪欲です。イエスは、「あなたがたは、わたしの家を強盗の巣にした。」と言われました。彼らは、人々の宗教心を利用して自分の腹を肥やしていたのです。宗教指導者として人々を養うべきであるのに、むしろ食い尽くしていました。任されていることと、まったく逆のことをしていたのです。


 私たちは、こうした現状を私たちたちの周りでも見ます。福利をもたらすはずの政府が、人を搾取しています。子を育てるばずの親が、子の成長を妨げます。そして、最も悪質なのは、貪欲を捨てよと説いている宗教が、貪欲を満たすためにその立場を利用することです。これほどの偽善はありません。そして残念なことに、キリスト教会の中でも、一般社会と変わらない現状を見るのです。多くの人は、このような姿を見ると、「神を代表している者たちがこんななら、本当に神は生きておられるのか。」と思ってしまいます。けれども、イエスはすべてを支配されていることをまた思い出してください。宗教を、欲望を満たす手段としている者には、格別に厳しい罰を用意してくださっています。次を見てください。

 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」


 これは、イスラエルが滅んでしまうこと、また、異邦人に救いの手が伸ばされることを意味します。

 これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言った。


 そうですね、私たちも指導者たちは模範となるべきで、失敗してさばきにあうことは望みません。


 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。」

 これは、詩篇118編からの引用です。思い出してください、弟子たちが、「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。」と言ってイエスを賛美した箇所も、詩篇118編からでした。つまり、詩篇118編には、メシヤが来られる喜びの時を告げていると同時に、メシヤが宗教指導者たちに見捨てられる時も告げています。けれども、「礎の石となった」とあるとおり、すべての者の、救いの土台が据えられたのです。27節には、「主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。」とあります。イエスご自身が、過越の祭のいけにえとなられ、私たちの罪を負われたのです。


 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

 これには、2つの解釈があります。一つは、イスラエルへのさばきと異邦人の国々へのさばきです。キリストが予告されたエルサレムの荒廃が、イスラエルにもたらされました。石が落ちて、粉々に砕けたのです。けれども、今度は、キリストがふたたび来られるとき、異邦人の国々をことごとくさばかれて、神の御国を立てられます。石なるキリストが国々を粉々にするという表現が、ダニエル書2章に出てきます。もう一つの解釈は、自分が心砕かれて悔い改めるか、それとも、悔い改めずに砕かれる、つまりさばかれるかのどちらかである、というものです。キリストの上に落ちるとき、私たちは自分の心を砕かないで落ちることはできません。ダビデは、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげずまれません。(詩篇51:17)」と言いました。けれども、強情になり、キリストのあれわみと恵みを受け入れないのなら、粉みじんになれます。火と硫黄の池、暗やみと呼ばれるところに投げ込まれるのです。


 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。

 彼らは、イエスを捕らえようと思いましたが、民衆がどう出てくるかわからず、やむを得ず手を引きました。イエスは彼らに捕らえられるときに、おしゃられたことを思い出してください。「わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。(マルコ14:49)」とイエスは言われました。民衆がイエスの話しに耳を傾けていたこと、指導者たちが民衆を恐れたこと、これらはみな、神のご計画の中にあったのです。イエスが支配されていました。


2A 詰問 − 2つの知恵 20−40
1B 神に返す 20−26
 さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。

 彼らは、イエスに直接対決しけけれども失敗に終わりました。次は、イエスをだます方法を使って捕らえようと試みます。民衆がイエスについているなら、今度は民衆の思いをイエスから引き離せばよいと考えたのです。それで、義人を装ったスパイを送りました。

 その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。


 イエスにこびへつらっています。あなたは人の顔色を見るような方ではなく、人によって意見を変えるような方ではなく、単刀直入に真理を教えてくださいます、と言っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」答えは、ふつうなら、「そのとおり、律法にかなっている。」であるか、「いや、律法にかなっていない。」の2つであります。この質問は、どちらを答えてもイエスを窮地に立たせるものです。律法にかなっていると答えるなら、ローマに税金を納めるのが大嫌いなユダヤ人の反感を買います。自分たちがローマに従属していることを思わせるのが、その税金だったからです。けれども、律法にかなっていない、というのであれば、20節に書かれてあるとおり、ローマ総督の支配と権威にイエスを引き渡すことができます。イエスが民衆を扇動して、ローマに謀反を起こしていると訴えることができるのです。


 イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。やはり、イエスは少しも動揺することがありませんでした。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。

 カイザルが銀貨に彫られています。これは、ユダヤ人がいつもポケットに入れている銀貨ですから、実にあたりまえの事実です。

 すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」


 カイザルの肖像が銀貨にあるではないか、これはカイザルのものだ、彼に返してしまいなさい。そして、あなたは神のものである。あなたは自分自身を神にささげなさい、とイエスは言われています。

 彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。


 見てください、また黙らせてしまいました。お答えがあまりにも絶妙なので、彼らのほうが感心してしまいました。
けれども、これはイエスが言葉遊びをして、彼らの詰問を切り抜けられたのではありません。イエスが言われた、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい、というのは真実であり、それを嫌がっていたのはユダヤ人、とくにパリサイ派なのです。パリサイ派は、ローマの影響力のあるものに対抗することによって、自分が神にささげていると考えました。それには一理あります。なぜなら、世俗の国が、私たちに神の命令とまったく逆のことを強いるときがあるからです。けれども、パリサイ派は、ローマに反発すること自体が目的になってしまって、神に自分をささげることがおろそかになったのです。外側の行ないが大事になって、内側の態度が外側に出てくるという神の真理からずれてしまったのです。私たちにも、同じことが起こります。自分自身を神にささげることからずれて、一つの行為をすべきかそうでないかの議論をしたがります。このような私たちの性向をイエスは諭されています。

 そして、もちろん、私たちはクリスチャンとして納税の義務があります。ローマ書13章で、パウロは、「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみづぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め」なさい、と言っています(7節)。

2B 神に対して生きる 27−40
 ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、こう言った。

 
サドカイ派の人が来ました。今のイエスの意見を聞いて、勢いづいたのでしょう。なぜなら、彼らは税を納めることに賛成だったからです。彼らは、当時のリベラル派です。今のミッション系の大学はほとんどリベラルですが、彼らは、神の律法に固執することなく、政治的な力を持つことに関心がありました。また、彼らは合理主義者でした。目に見えないものは存在しないと考える物質主義者でした。ですから、復活や御使いなどの教えも否定します。モーセ5書のみを神のことばと考え、預言書などに出てくる復活の記述は、比喩的な表現にすぎないと考えたのです。


 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかったばあいは、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』」

 これは、申命記に出てくる律法です。子孫を残すために、弟がその義務を負わなければなりません。これは律法が成立するまえから慣習として存在していました。ユダの子のオナンは、長男エリが死んだので、妻のタマルと結婚しなければなくなりました。けれども、オナンはそれを嫌がって、精子を地に流したので、主の怒りを買い、殺されました。そして、サドカイ派の人は、この律法を信じていました。信じていたので、復活と言うものはおかしいではないかと考えたのです。次を見てください。

 「ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」

 ひとりの男が複数の妻を持つことはありえましたが、ひとりの妻が多くの夫を持つことはまずもってありませんでした。復活を信じれば、このような矛盾が起こる、だからおかしい、というのが彼らの言い分だったのです。


 イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。

 イエスは、復活のからだと地上のからだは性質上異なることを指摘されています。聖書によれば、私たちは変えられるのであり、このからだは地のちりによって造られたが、復活のからだは天にあるものによって造られると述べられています(1コリント15参照)。御使いのようになっているので、めっとったり、とついだりはしません。天国で結婚生活ができないことはさみしい、と考える人たちがいます。これは幸せな結婚生活を送っているからでしょう。でも、心配は要りません。確かに、この地上において結婚はもっとも大きな幸せをもたらすものの一つでありますが、天国は、比べものにならないほどの祝福があります。だから、サドカイ人たちが言うような矛盾は、まったくないのです。

 それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」と呼んで、このことを示しました。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

 イエスは、彼らが信じているモーセ五書から復活を証明されました。彼らが信じているものから、彼らが否定していることを証明することほど、強力なものはありません。そして、イエスは、神は生きている者の神である、と言われました。自分の悟りに頼っていた彼らは、生きた神との関わりを失っていたのです。


 律法学者のうちのある者たちが答えて、「先生。りっぱなお答えです。」と言った。彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった。

 このイエスの発言を、律法学者はほめました。彼はパリサイ人だったのでしょう。パリサイ人は復活を信じていますから、イエスの発言が実に的確であるかを知りました。それで関心しています。見て下さい、パリサイ人もサドカイ人も、イエスを言葉のわなに落とし入れようとしましたが、今、どちらもイエスの言葉に惹きこまれてしまっています。イエスは、ここでもご自分が主であることを示されました。イエスは、単純なお方でした。カイザルの肖像をお見せになったり、「神は生きている者の神です。」という当たり前の事実を教えられました。同時に、実に思慮深いお方でした。両サイドの持っている相反する意見を、妥協することなくまとめあげ、彼らを満足させてしまわれたのです。つまり、彼らは知識を持っていたのに対し、イエスは知恵をお持ちだったのです。だから、民衆はイエスの話しにじっと耳を傾けていたのです。宗教指導者の話しを聞いていると、真理を悟るどころか混乱します。しかし、イエスの話を聞くと、自分に本当に必要なことは何かを気づかせてくれ、神の真理に導かれるのです。


3A 格言 − 2つの教え 41−47
 そして、イエスは、ご自分ひとりで教えられます。あれだけ対抗し、反発していた指導者たちをも巻き込んで聴衆にしてしまい、民衆と、弟子と、指導者たち全員に語られるのです。

1B キリストの本性 41−44
 すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。」

 パリサイ人は税金を、サドカイ人は復活を問題にしましたが、イエスはキリストを問題にされました。これが、聖書の中心の中心と言われるべきテーマです。そして、キリストはダビデの子孫から出てくることが預言されています。

 ダビデ自身が詩篇の中でこう言っています。「主は私の主に言われた。『わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。』」


 最初の主は、父なる神であり、「私の主」がキリストです。サタンとか反キリストがキリストによってさばかれるまで、キリストは神の右の座におられます。

 こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。

 彼らは、族長社会の中におり、父を子どもや子孫は「主」と呼んでいました。けれども、ここでは、父が子を「主」と呼んでいます。こんなことは、決してありえないことです。だから、彼らは答えることができませんでした。私たちはもちろん、その回答を持っています。イエス・キリストは、神であられる方が、人の性質を持たれて地上に来られたということです。パウロは、「御子は肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子と示された方、すなわち私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:3−4)」と言いました。


 ですから、彼らは、聖書についていろいろなことを知っていましたが、肝心のキリストについては無知だったのです。今も同じです。私たちが聖書を学んでいても、キリストを知ることがなければ意味がないのです。イエスは、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの使わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)」と言われました。イエスを信じたからキリストを知っているではありません。今日の自分は、今まで生きてきた中で最もキリストを知っているというようになっていなければなりません。

2B 自分の本性 45−47
 また、民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちにこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」

 イエスは先ほどキリストの本性、本当の姿について語られましたが、ここでは彼らの本当の姿を明らかにされています。いろいろなことを言っていますが、彼らのしていることはみな虚栄だったのです。民衆を恐れた、という表現が何回か出てきましたが、彼らは民衆の目を気にしながら生きていたことになります。神とキリストではなく、人間を相手にして生きていたのです。また、やもめの家を食いつぶしているとあります。人々の必要を満たすのではなく、自分の必要が満たされることを願います。現代の言葉では、「自己実現」というのがそうです。本当なら、キリストによって満たされて、その祝福を他人に分かち合うのが生きる道なのに、人が自分をどう思っているかということを気にして、自分のことが解決されることばかりを求めています。これが、私たちにある根本的な問題です。一つはキリストを知らないこと、そして、もう一つは、自分自身を欺いていることです。


 ですから、まずイエスを見つめてください。イエスの本当の姿をしっかり捉えてください。イエスがすべてを掌握されていることを認めてください。問題を起こすのはイエスのなのです。同時に問題を解決するのもイエスなのです。ですから、自分だけの領域をつくることなく、すべてをたましいの創造者である主に明け渡し、主から力と知恵をいただくようにしてください。宮で毎日、恵みのことばを話されたように、イエスは、明け渡されたみなさんの心にも語りかけたいと願っておられます。


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