アウトライン
1A 弟子たちに 1−34
1B ユダの裏切り 1−23
1C サタンの活動 1−6
2C 最後の交わり 7−23
2B ペテロの失敗 24−34
1C 約束 24−30
2C 祈り 31−34
2A ユダヤ人たちに 35−71
1B 戦いの備え 36−46
1C 外なる戦い
2C 内なる戦い
2B 誘惑 47−62
1C ユダの裏切り
2C ペテロの失敗
3B リンチ 63−71
本文
ルカの福音書22章を開いてください。ここでのテーマは、「暗やみの力」です。
1A 弟子たちに 1−34
1B ユダの裏切り 1−23
1C サタンの活動 1−6
さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。
私たちは、19章からずっと1週間の出来事について学んでいます。イエスがエルサレムに入られたのは、日曜日のことです。それから、商売人を追い出し、宮の中で民衆を教えておられました。そして、過越の祭りと呼ばれる、種なしのパンの祝いが近づいていました。この祭りについては、私たちはちょうど来週、出エジプト記の学びで取り扱います。過越の祭りは、ニサンと呼ばれる月の14日に始まります。その後すぐ、15日から種なしのパンの祝いが7日間続きます。この2つは、ルカが記しているように、しばしば1つの祝いとして扱われます。
祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。
お祝いのときに、彼らは殺すことを考えていました。イスラエルがエジプトから救い出されたことを祝う喜びの時に、人を、いや神の子を殺そうと考えていたのです。そして、彼らは民衆を恐れていました。イエスが宮で教えていたため、民衆の心が自分たちから離れて行くのを恐れていました。けれども、私たちが学んだように、どんな質問をイエスに浴びせても、イエスは見事に答えられたので、何もできないでいたのです。だから、このまま行ったら、民衆と弟子たちは、イエスをキリストとしてあがめ、神の国が実現したことを喜んでいたことでしょう。
けれども、次の出来事が起こります。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。
サタンが来ました。荒野でイエスを誘惑したとき以来です。これから私たちは、ユダの裏切り、ペテロの失敗、ユダヤ人のリンチ、そして異邦人の死刑を見て行きます。その背後に、暗やみの力であるサタンが働いていたことに気づいてください。サタンは、ユダの中に入りました。そして、次にペテロをふるいにかけます。さらにサタンは、ユダヤ人たちの思いを乗っ取ります。
ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。
祭司長たちは、喜びました。なぜなら、群集がいないとき、内密にイエスを捕らえることができるようになったからです。こうして、弟子のひとりに、サタンが入りましたが、彼の目的は、ただ一つ、神と人とを切り離すことです。まず、これまで生活をともにし、すべてを分かち合ったイエスと弟子の仲を引き裂こうと仕向けます。
2C 最後の交わり 7−23
さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」
過越の祭りで主に行なわれることは、この食事です。小羊をほふり、それを食卓の真中において食事をします。この食事は、一つ一つ定められた順番があります。これをヘブル語でセダーと言います。その一つ一つが、イスラエルがどのようにしてエジプトから贖われたかを思い出すように設定されています。例えば、クラッカーのような種なしのパンの間に、ピンク色をしたわざびのようなものを入れて食べるときがあります。これは、イスラエルがれんがを集めていたときの、苦しみを思い出すものでした。また、ぶどう酒に指を浸して、その杯の下のところに10回振りかけます。これは、エジプトに下った10回の災いを意味しました。こうして、神がイスラエルに対して、何をしてくださったのかを食事によって思い出すものだったのです。
彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。
イエスは、エルサレムに入られるとき同じように、注意して食事をとられるところを選ばれました。というのは、ユダがご自分を引き渡すのを狙っているからです。この食事が終わらないうちに捕らえられてはいけないので、ペテロとヨハネに、特別な場所を用意するように導かれたのでした。
さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
日没になると、この食事が始まります。そして、真夜中までには、この食事は終わります。真夜中に、エジプト中の初子が殺されました。
イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
イエスは、過越の祭の食事を弟子たちといっしょにできることを、とてもうれしがっておられます。これは、弟子たちとの親密な交わりの時です。食事は、当時、互いに一つになることを示していましたが、過越の食事はさらに特別な意味を持ちます。互いの交わりだけでなく、神との交わりでもあります。神と交わって一つになり、神に結ばれている同士が交わって、一つになります。だから、イエスは、いつも生活をともしていた弟子たちとこの食事をすることができ、とても喜ばれたのです。そして、これが最後のときになります。このイエスのことばから、キリストが再び来られて神の国が立てられたとき、私たちは過越の食事をすることになっているようです。神の国に入る前に、少し経験していても良いかもしれませんね。
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
イエスは、過越の祭の内容を変えられてしまわれました。種なしのパンをご自分のからだに、そして、ぶどう酒の杯をご自分の流される血にされました。今までは、イスラエルは、過越の祭りをする度に、先祖がエジプトから救い出されたことを思い出した。今、私たちは、キリストのからだがさかれ、キリストの血が流されたことを思い出します。神と私たちとの関係は、この方の砕かれたからだと流された血によって、確立します。神と私たちの仕切りとなった罪が取り除かれるからです。また、私たちの互いの交わりもそれで確立されます。なぜなら、キリストが赦してくださったように、互いに赦し、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うからです。
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
この聖なる晩餐をめちゃくちゃにする者がいます。イエスにあって一つとなっていた弟子たちを混乱させ、散り散りにさせる者がいます。
人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。
ここでイエスは、ユダに警告されています。その裏切りをやめることは今でもできることを促しておられます。ユダには、イエスを引き渡さないという選択がありました。確かにサタンが彼に入りました。けれども、それはあくまで、ユダが自分の心をサタンに明け渡してしまったからです。ある人は、何か悪いことをしてしまうと、「これは悪魔がやったのだ。」と言い訳をしたり、もっとひどいのは、神がやったのだと言い張ったりします。違いますね。本人がやったのです。ただ、神は、ご自分の栄光のためにそのような悪者をも用いることをしばしばなされるのです。神は、良いことも悪いことも、すべてを働かせてご自分が賛美されるようになされます。
そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。
面白いことに、この時点で、11人の弟子はユダが裏切ることをわかりませんでした。むしろ、自分が裏切るのではないか、と考えました。私たちはどうでしょう?聖餐を汚すユダの姿を見て、自分もそんなことをしているのではないか、と恐れることがあります。自分は実は救われておらず、滅びに定められているのではないか、と思うのです。弟子たちもそう感じたのです。そこで、次に、イエスは彼らを励まされます。
2B ペテロの失敗 24−34
1C 約束 24−30
また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
弟子たちは、自分が裏切るかもしれないと考えながら、一番偉いのはだれかと議論しているのです。訳がわかりませんが、なぜなら、彼らは混乱していていたからです。自分たちがこれからどうなるかわからず、イエスがこれからどうなるかもわからず、気が動転していたのです。そこでイエスは、まず、彼らの議論していることを正されてから、次に彼らを安心させます。
すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
福音書の次は、使徒の働きという書物がありますね。この11人は、教会の指導者になり、また、彼らの話すことが主のみことばになるほど大きな権威が与えられました。けれども、人々が使徒たちに接するとき、彼らは威圧感を抱くことなく、親しみをもって近づくことができました。90歳の老齢になっていた使徒ヨハネは、教会に対し、自分のことを、「あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者(黙示1:9)」と呼んでいます。つまり、使徒たちは若い者のように、給仕をする者のようになることを実践していたのです。
けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
イエスがうれしかったのは、弟子たちが立派に良い行ないをしたからではありません。ただ付いて来てくれたことを、ほんとうにうれしく思われています。いっしょにいること、一つとなることにイエスは喜びを感じておられたのです。
わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
これは、神の国における報いです。私たちクリスチャンもみな、同じように与えられます。黙示録1章6節には、「イエス・キリストは、私たちを王とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった(1:6参照)」と書かれています。ただ、使徒たちには特別な地位が与えられます。次を見てください。
それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
回復したイスラエル、最後にイエス・キリストを信じて新生するイスラエルを支配するのが使徒たちです。こうして、イエスは彼らの不安を取り除こうとされました。あなたがたは、わたしに最後までついてきてくれた。天にはこのような大きな報いがあるのだよ、と語りかけてくださいました。
2C 祈り 31−34
そして、イエスは次のことを話されます。シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
ユダに働きかけたサタンは、今度はペテロに働きます。このような恐ろしいことを伝えるのに、イエスは、愛をこめて、親しみをこめて、「シモン、シモン」と呼ばれました。ペテロのショックを和らげるためです。そして、このシモンとういう名前は、教会の指導者としての名前ではなく、生れたときに与えられたものです。これからペテロが陥るわなは、生まれながらもっていたシモンの性質によって引き起こされたものでした。つまり、ペテロは、勇気があり、冒険好きで、主の言われることに大胆に従った性格の持ち主でした。けれども、この大胆さによって、どんでもない失敗をしでかすのです。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエスが祈られています。ペテロが知らないところで、霊の戦いが繰り広げられていました。サタンの願いが聞き届けられていました。けれども、イエスがペテロに代わって祈っていてくださいました。ただ、イエスはペテロが失敗しないように、とは祈られていません。信仰がなくならないように、と祈られています。面白いですね。勇敢にイエスに従っていくことと、信仰を持っていることが区別されています。私たちはどうでしょうか。ちゃんと教会に来て、一生懸命祈って、教会で活発に奉仕をする姿を見て、「なんて熱心なんだろう。信仰があるな。」と思います。けれども、イエスさまによると、それは信仰の定義ではありません。その人は信心深いかもしれません。けれども、信仰ではないのです。次にその違いが現われています。
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは、自分の思いで、自分の力でイエスに従っているようでした。けれども、イエスは、それではいけないことを教えるために、この失敗を許されます。失敗したときに、それでもイエスを信じるとき、それが本当の信仰になります。なぜなら、信仰とは、自分が死んだ者であることを認め、力と知恵と愛などすべてのものはイエスから来ることを信じることだからです。
2A ユダヤ人たちに 35−71
1B 戦いの備え 36−46
1C 外なる戦い 35−38
それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
これは、70人の弟子が遣わされたときのことです。彼らに不足はありませんでした。なぜなら、イエスの権威を授かって、イエスの権威によって活動していたからです。
そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
これからは、そのイエスの権威が働かないようになります。いや、イエスがあえて、その権威を行使しないようにされます。今までは、光の力が働いていましたが、これからは暗やみの力が働きます。だから、イエスは弟子たちに、これから直面することに、十分用意していなさい、と言われています。でも、弟子たちは、その意味を汲み取っていなかったようです。次を見てください。
彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。
彼らは、イエスが血肉の戦いに臨まれると思ったのでした。でも、イエスは、「それで十分」と言われて、それ以上は説明されませんでした。
2C 内なる戦い 39−46
本当の戦いは、祈りにあります。私たちが先ほどから見ていたように、すべての出来事はサタンが仕向けていたものでした。ですから、肉の武器ではなく霊の武器を身にまとわなければなりません。それが祈りです。
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。
イエスは、ここで、本当の戦いは自分自身にあることを教えられています。自分が誘惑に陥らないように祈るよう命じられました。
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。弟子から一歩離れておられます。弟子との交わりは、あくまでも神にあってなされたものだったからです。教会の人間関係でも、親子関係、夫婦関係でも、キリストを間に置いた交わりが必要です。
父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。
イエスご自身も、戦っておられました。それは、ご自分の意思と御父の意思との間にある葛藤です。イエスは、できれば杯を取り除けてほしかったのです。この杯は、十字架での苦しみを示しています。みこころならば、取り除けてください。つまり、わたしが死ぬ以外で人々が救われるのなら、取りのけてください、ということです。もし信心深くなって救われるのなら、良い行ないを積むことによって救われるのなら、取りのけてください、ということです。けれども、やはりイエスが死ぬことは父のみこころでした。つまり、どんなに信心深くなっても、どんなに人間が努力しても、決して救われないということです。人はそれを認めたくありません。ペテロのように、「いや、自分でやってみる。」と思いたいのです。けれども、キリストの十字架は、人は何も善いところがない堕落した罪人であり、自分では救いようのない存在であることを教えています。
すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
御使いがこの祈りに参加しています。つまり、これは霊の戦いであることがわかります。ダニエル書や黙示録を読むと、神に仕える御使いと、堕落した天使たちが戦っている姿を見ることができます。ダニエルが祈って、御使いが幻を与えるまでに21日かかったのですが、それは堕落した天使が妨げていたからです(ダニエル10:13)。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
祈りには労苦がともないます。パウロも、「私とともに力を尽くして神に祈ってください。(ローマ15:30)」と言いました。なにもこれは、「おお、主よ(重々しい声で)」と言って苦しむことではありません。私たちの性質として、祈らないというものがあるから、労苦がともなうのです。私たちは自然には、祈ろうとは思いません。意識的に時間を開けて、祈りをささげるようにしなければいけないのです。けれども、パウロは、「御霊によって祈りなさい。(エペソ6:18)」と言いました。そうした祈りの習慣を身につけると、祈ることが楽しくなります。御霊がその祈りを導いてくださるからです。
イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
弟子たちは、単に眠くなったのではなく、悲しみの果てに眠り込みました。つまり、落ち込んでいたのです。
それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
2B 誘惑 47−62
1C ユダの裏切り 47−53
イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。誘惑の時がおとずれました。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。
裏切るだけのも悪いことなのに、口づけをもって裏切っています。
イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。
霊の戦いに対して、弟子たちは血肉の戦いをしようとしています。これが誘惑だったのです。私たちは何か問題が起こるとき、その問題の本質を見誤って、祈り以外の方法で対処しようとします。けれども、私たちが物理的な方法で問題を解決しようとした瞬間に、サタンのえじきとなってしまいます。私たちが一歩さがって、主の御名によって祈るときに、サタンは引き下がるのです。
そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
他の福音書を読むと、これはペテロであることがわかります。ペテロの性格がはっきり現われていますね。
するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。
イエスは、この時点でも神の御力をもっておられました。押し寄せてきた群衆を、ことごとく滅ぼすことが簡単におできになりました。けれども、イエスは反対に、大祭司のしもべの耳を直してしまわれています。イエスは非常に意識して、ご自分の力を用いておられませんでした。いや、むしろ、ユダヤ人指導者たちがご自分を捕らえることができるように、おぜん立てをされていたほどなのです。
そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」
こうして、ユダは、イエスの警告にもかかわらず、裏切り行為をしてしまいました。
2C ペテロの失敗 54−62
彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
見てください、遠く離れています。ペテロがイエスから遠く離れています。おそらく、イエスに従い始めて以来、これが初めてだったのでしょう。でも、本人は気づいていません。私たちがイエスから離れるときも、離れていること自体を気づかないことがほとんどです。
彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
今度は混じっています。イエスの敵と混じっています。私たちも、この世と混じっていながら信仰生活を送ることができると思ったら、大間違いです。
そして、ペテロは敵の集中砲火に会います。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
最初は女性でした。女だから、軽くあしらっておこうか、と思って、そう言ったのかもしれません。
しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
今度は男性です。「いや、違います。」と言って、少しあせっています。けれども、1時間、だれも聞いて来ませんでした。自分は何をやったのか、もう忘れかけているところです。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
主が振り向かれました。主は、ペテロと目を合わせることができるほどの距離におられたようです。この主の目はどのようなものでしょうか。「ペテロ。お前は、わたしを否んだ。だから、わたしもあなたを否む。」というものでしょうか。それとも、「わたしの言ったとおりであろう。あなたは、わたしが警告したのに、それに聞き従わなかったのだ。」と言うものでしょうか。それとも、「ペテロ。わたしは、あなたの罪を赦します。はやく立ち直って、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言うものでしょうか。もうわかりますね。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む(出エジプト34:6参照)」とモーセに宣言された主は、ペテロに対しても同じであられました。
彼は、外に出て、激しく泣いた。
イエスの祈りは聞かれた。ペテロは大胆に失敗しました。でも、信仰はありました。激しく泣いています。「まさか、こんなひどいことを自分がするなんて、イエスさまをこんなにも愛しているのに、主よ、ごめんなさい、ごめんなさい。」という叫びでした。これが悔い改めです。その反面、ユダは、マタイの福音書を読むと、「後悔した(27:3)」と書かれています。そして、自殺しました。前者は悔い改めで、後者は単なる悔いです。パウロは、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至らせる悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:9)」と言いました。ペテロは、この苦い経験をとおして、立ち上がってから、弱い人の弱さを担うことができました。罪を犯している人に柔和に接し、苦しんでいる人を慰めることができました。そして、自分は罪人にしかすぎないこと、こんな自分をも救ってくだるのが神であることを証しする者にすぎないことを知りました。このような人を、イエスは教会の指導者に立てられました。信仰とは何か、恵みとは何かを知っている人であります。
3B リンチ 63−71
さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか。」と聞いたりした。
イエスは、目隠しをされてたたかれました。私たちには、反射的に、障害物を避けるように造られています。例えば、ボクシングの選手は、あれだけ叩かれても大丈夫なのは、パンチを加えられる瞬間に、それに合わせて反射的に動いているからです。けれども、目隠しをされているとき、人間にそなえられた機能が働かなくなります。イザヤによると、イエスの顔だちは、「そこなわれて人のようではな」くなってしまいました(52:14)。
また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、こう言った。
裁判ということですが、もう結論が決まっている裁判です。だから、リンチといったほうが良いでしょう。
「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
これは明らかに、ご自分がキリストであることを証言することばです。詩篇110編に、「わたしの右の座に着いていよ。」という、主からキリストへのみことばがあります。彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。今度は、神の御子について問いただしました。現代のユダヤ教は、メシヤは神の御子ではないと言います。申命記にあるように、メシヤはモーセのようなひとりの預言者であり、モーセは人間だったのだから、メシヤも人間であると言います。けれども、当時のユダヤ人はメシヤを神の御子と認めていたのです。詩篇2編には、神がメシヤに対し、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。(7)」と仰せになりました。また、イザヤ書9章には、「ひとりのみどりごが、私たちのために与えられる。ひとりの子が、私たちに与えられる。(9:6参照 英語ではSon)」とあります。
すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言った。
ユダヤの議会が、イエスを死刑にすることを決めました。暗やみの支配です。神に愛された、選ばれた民イスラエルが、約束のメシヤを殺す決断を出しました。こうして、サタンは働いています。まず、一番近しい12弟子の中で働き、次に同胞のユダヤ人の中で働きました。そして、次週は、異邦人の中で働く様子を見ます。祈りましょう。
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