アウトライン
1A 不正な裁判 1−25
1B 政略 1−12
1C 偽告発 1−5
2C 権力乱用 6−12
2B 妥協 13−25
2A 罪の赦し 26−49
1B 悲しみ 26−31
2B 救い 32−43
3B 見方 44−49
3A 丁重な埋葬 50−56
本文
ルカの福音書23章をお開きください。ここでのテーマは、「正しい方の死」です。イエスは、多くの人にその無罪が証明されましたが、死刑になりました。当然、有罪のものが死刑にされるのですが、なぜ無罪の方が死刑にされるのか、この問いをルカ23章は答えています。
1A 不正なさばき 1−25
1B 責任転嫁 1−12
1C 偽告発 1−5
そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
この彼らとは、ユダヤ人議会のサンヘドリンの議員たちです。そして、ピラトは、当時、ユダヤ地方の支配をローマ帝国によって任されている総督です。つまり、宗教裁判をした後に、ローマ帝国の世俗の裁判所にイエスを連れて行きました。
そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」
3つの告訴状を持ち出しています。一つは、国民を惑わす罪です。民衆を扇動し、暴動を起こす罪です。もう一つは、納税拒否を指導した罪です。さらに、皇帝反逆罪です。カエザルのみが王であるのに、自分を王としている罪です。けれども、この3つはみな偽りの告発でした。まず1つ目についてですが、確かにイエスは、神殿にいる商売人を追い払ったりされました。けれども、国民を扇動したのでなく、神に立ち返らせたのです。そして、カイザルの納税については、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」とイエスは言われました。そして、王キリストだと言っていることについてですが、イエスはこれを認められました。けれども、ローマ帝国を覆すための王ではありません。ヨハネの福音書で、イエスはピラトにこう答えられています。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(18:36)」ですから、イエスはこれらについて何の罪も犯しておらず、ユダヤ人指導者たちは、偽りの告発をしていたのです。
するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。
ピラトは、基本的にユダヤ人たちの訴えが何ら正統性を持たないことを、すぐに察知しました。ピラトは、彼らの3番目の訴えである、王キリストについてだけ尋問しました。ユダヤ人の王であるか、とユダヤ人に限定して聞きました。ローマの王でなければ、何の問題もありません。現に、ヘロデはユダヤ人の王だったのです。イエスは、この尋問に、「そのとおりです。」と答えられました。
ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです。」と言った。
面白いですね、民を扇動していると言い張っていますが、この指導者のほうが扇動しているのではないでしょうか。イエスを逮捕するときも群集を引き連れ、今、ここで訴えている者たちの中にも群集がいました。これは、取り扱うのも嫌になるような、くだらない告訴だったのです。ですから、イエスがなぜ死ななければならなかったか、という問いに対して、私たちは、不正な裁判が行なわれたから、と答えることができます。イエスに不正があったのではなくて、裁判に不正があったのです。
2C 権力乱用 6−12
それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。
ピラトは、イエスに何の罪も見出されないのを知った時点で、裁判官としての務めを果たし、イエスに無罪の判決を下すべきでした。けれども、ヘロデに裁判をゆだねたところに、ピラトの弱さと罪があります。ピラトは、この問題がややっこしいので、責任を負いたくないのです。明らかに罪がないとわかっているのに死刑にまでなった、その最初のきっかけが、この責任転嫁でした。
ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
ヘロデは、イエスを単なる魔法使いのようにしか考えていません。本来なら、ユダヤ人の王として、ユダヤ教を知っているヘロデは、きちんとこの問題をさばくべきです。いみじくも、ここは法廷の場なのです。なのに、彼は自分の好奇心を満足させるような機会としか見なかったのです。
それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。
イエスが一言もお答えにならなかったのは、バプテスマのヨハネの件があったからです。このヘロデが、ヨハネの首をはねた人物です。イエスは他の個所で、「あの狐」と呼んでいます。罪と欲望の中にはまって、悔い改める余地の残されていないような人物に対して、イエスは何の言葉も持っておられません。
祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。
滑稽ですね、ヘロデはお遊戯のようにしか考えていないのに、祭司長と律法学者は真剣に訴えています。
ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。
ここに、ヘロデの特徴が現われています。はでな衣を着せました。きらびやかなもの、はでなものがヘロデの価値観でした。世俗主義とも言いかえることができるでしょう。
この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
ヘロデは、自分が見たいと願っていたイエスを連れてきてくれたことで、ピラトに好感を持ちました。ピラトの方は、今までユダヤ人とうまくいっていなかったところが、この問題のおかげで、ユダヤ人の王に敬意を示すことができたのです。それで二人は仲良くなりました。でも、これは、イエスを受け入れない者たちの姿です。お互いに敵対していますが、イエスが殺されるという重大な問題に対して軽くあしらうことでは一致しているのです。ある人は、イエスが死なれたことを聞いて、ピラトのようになるでしょう。「このことに足をつっこんだら、面倒くさいことになる。自分は大きな決断をしなければならないのだろうが、日々の生活を乱されたくない。」また、ある人は、ヘロデのようになります。「なんだ、何か面白いことでも見たり、聞いたりすることができると思っていたのに、…つまんないの。」こうして、ピラトとヘロデは仲よくなりました。
2B 妥協 13−25
1C 不正の許容 13−16
ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。ピラトは、これから判決を下します。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
ピラトは、イエスに無罪の判決を下しました。けれども、一つ重大な過ちがあります。懲らしめたうえで、釈放することです。この懲らしめは、むち打ちです。むちには鉛やガラスの破片が入っているので、打たれた背中は文字通り、ぐちょぐちょになります。ローマは、これを囚人が自白させる道具として用いていました。囚人が自白すれば、むちを軽く打ちます。けれども、告白しなければ、さらに激しく打ちます。ここでの懲らしめは、こうしたひどい刑であり、ローマ市民はこれを受けなくて済む権利を持っていました。それなのに、ピラトはイエスにむち打ちを課すことを決めたのです。また、先ほどは、「この人には、何の罪も見つからない。」と告白したのに、ここでは、「死罪に当たることは、何一つしていません。」と言い変えています。この時点で、彼は、ユダヤ人の圧力に屈していたのです。妥協していたのです。何一つ罪のないことを知っていたのに、少し不正になってでもユダヤ人の心をなだめようと思ったのです。ピラトは、罪のない方に刑罰を与えると言う不正を犯しました。彼自身の思いでは、少しだけまあいいだろう、というのがあったと思います。けれども、事態はどんでもない方向に向かいます。妥協は、いつも大きな問題を引き起こします。パウロは、「ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくまらせることを知らないのですか。(1コリント5:6)」と言いました。
2C 暗やみへの愛
17節が抜けていますが、脚注にあります。さて、ピラトは祭りのときにひとりを彼らのために釈放してやらなければならなかった。しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
ここに、ユダヤ人たちが訴えていた罪に本当に該当する者が登場しています。彼は民衆を扇動し、さらに人殺しを行ないました。今で言う、テロリストですね。
ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
ここでも、ピラトは妥協しています。イエスが無罪であることを宣言したのに、過越の祭りのときに行なわれる特赦の対象に加えようとしています。イエスは、囚人でも何でもないのに、あたかも有罪判決を受けた者のように取り扱っているのです。ピラトは、ユダヤ人たちのものすごい圧力に押され続けているのです。
しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
ピラトは、民衆と取り合っています。これが実際の法廷の場であったことに気づいてください。傍聴している人たちが、審理中に声を出します。普通なら、法廷から追い出されるはずなのに、裁判官がその者たちと話し合い始めているのです。これは、司法制度の崩壊です。
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
悲劇が描かれています。法の正義よりも、民衆の声が優先されました。
ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
恐ろしいことが起こりました。人々は、何の罪もない方をおとしめて、社会の危険人物を釈放させることを願いました。人々をいやし、悪霊を追い出され、良い知らせをもたらした方がなぶりものにし、テロリストのような人物を引き上げました。これが世の姿です。この世は、良いもの、正しいものが低め、悪いものを高めます。光よりも暗やみを愛します。使徒ヨハネは言いました。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19)」
2A 罪の赦し 26−49
このように、正しい方が罪に定められたのは、その裁判が不正であったことがわかりました。次に、イエスが実際に十字架につけられる場面が出てきます。
1B 本当の悲しみ 26−31
彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
シモンという名前が、他の福音書にも出てきます。福音書の著者は、この人物が初代教会の中である程度知られていたことを、暗に示しています。実際、使徒行伝13章のアンテオケの教会でシメオンという人が指導者になっていますが、もしかしたら、その人かもしれません。つまり、イエスの十字架を背負ったシモンは、後にキリストの弟子になったのです。イエスが、「日々、自分の十字架を負いなさい。」と言われたことを、実際の十字架を負うことによって、その意味を知るようになりました。
その一方、同じくイエスについて来た人々は、違った動機を持っていました。大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
ここに出てくる、嘆き悲しむ女たちは、49節に出てくるガリラヤからずっとついて来た女たちとは、違う人たちのようです。彼女たちは、ユダヤ人がよくする習慣を行なっていたと考えられます。ユダヤ人たちは、だれかが死ぬと、なるべく大げさに泣いたり、わめいたりします。そして、プロの嘆き屋というのがいました。雇って、死んだ人のことを嘆き悲しむのです。イエスがヤイロの娘を生き返らせるときに、「この娘は、眠っているのです。」と言われたことを思い出しますか。その時、悲しんでいた人々はあざわらいました。つまり、本当に悲しくはないのです。イエスについて来た民衆と女たちも、同じような態度でイエスについて行ったのかもしれません。
しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ。』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。」
イエスは、ここで、後に来るエルサレムの破壊について言及されています。イエスは、あなたがたはわたしのことで泣いているが、むしろ嘆かわしいのは、あなたがたのほうだ、とおしゃられたのです。イエスは、ご自分をキリストと認めないイスラエルの民が、十字架につけられる意義をないがしろにしているので、神のさばきが下ることを話されました。人々の中には、この女たちと同じ反応をします。イエスが十字架につけられる姿を見て、「ああ、なんてかわいそうなことに、正しいお方なのに。」を思うのですが、自分自身が神の罰を受けなければいけない存在であることを考えないのです。
彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。
この生木と枯れ木については、何を意味するかいろいろな解釈がありますが、生木をイエスだとすると、イエスはいのちを持った真のイスラエルと解することができます。けれども、イエスは十字架につけられました。そして、いのちを持っていない枯れ木であるイスラエルの民は、なおさらのこと悲惨な状態になるということを意味するのでしょう。
2B 本当の救い 32−43
ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
これは、イエスが引用された、イザヤ書53章37節の成就です。正しい方が罪人に数えられます。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、この「どくろ」のラテン語がカルバリーです。そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエスは、ご自分が教えられたことを実践されています。「敵を愛しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27)」と教えられましたが、それを行なっておられます。そして、ここに大事な真理が書かれています。なぜ正しい方が死ななければならなかったのかの意味が書かれています。罪を赦すことです。イエスは正しいのですから、ご自分の罪のために死なれたのではありません。そうではなく、私たち人間の罪のために死なれたということです。ここで、イエスに不正を働いている人々すべての罪のために死なれたのです。
彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
これは、詩篇22編18節の預言の成就です。時間にすると6時間ぐらいの間に、数々の旧約の預言が成就されていきます。
民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
この酸いぶどう酒は、麻酔の役目を果たしました。他の福音書では、イエスがこれを口に浸すのを拒否されたことが記されています。
「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ユダヤ人の指導者、ローマの兵士、そして犯罪人が、イエスをあざけりました。彼らはみな、「救え!」と叫んでいます。そして、それぞれの立場から「救え」と叫んでいます。まず指導者たちの救いは、宗教的な救いです。彼らにとって、救われるとは、あらゆる苦しみと災いから救われることなのです。多くの人は神を信じない理由として、こう言います。「苦しみがあるなら、そんなのは救いではない。災いがふりかかるなら、その救いはうそだ。正しい者をひどい目に会わせる神なんて、本物の神ではない。」けれども、イエスの意味された救いは、自己からの救いです。こんなにひどい目にあっても、「彼らをお赦しください。」と祈ることができるほど冷静であり、理性があり、愛が持つことができる救いです。イエスは、「わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:24)」と言われました。私たちが苦しんでも、試練にあっても、死のうとしていても、まだ希望があり、喜びがある、そうした救いをイエスは提供されているのです。
そして、ローマ兵士の叫んだ救いは、武力の救いです。あるいは、あらゆる物理的な抑圧から解放されている状態が救いとなります。多くの人は、問題は社会制度にあると言います。今の問題が起こっているのは教育がいけない、政治家や経済人がきちんとしていないなどと言います。しかし、イエスの救いは、内側の救いです。自分自身が変わらなければ、組織も制度も変わりません。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくされました。(2コリント5:17)」という新しい創造が、イエスの提供される救いです。そして、犯罪人が叫んだ救いは、今起こっている状況からの救いです。今の問題をすぐに解決してくれるものなら、なんでも神になるし、救いになります。これはご利益信仰であり、ほとんどの日本人がこうした神概念を抱いています。
しかし、次から、本当の救いを体験する人が現れます。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
これを、言いかえれば、救ってくださいということです。けれども、いくつかの大切なことを彼は語っています。つまり、神を恐れ、イエスが正しい方であることを認める。そして、自分は罪人であり、罰を受けるべき存在であることを認める。その上で、神のあわれみと恵みを願うということです。私たちは、自分が罪深いことを認めないか、あるいは、罪深いことを認めても神の恵みを信じきることができていないか、のどちらかに陥りがちです。神の正しさとさばきを認め、同時に神のあわれみを受け取ることが、真の救いを体験するのに必要になります。
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
この犯罪人は、おそらくイエスが神の国を立てられる終わりの時に、私を思い出してくださいと言ったのでしょう。けれども、イエスは、「きょう」と言われました。イエスが死なれて、この犯罪人が死んでから、いや、今、犯罪人が告白したその瞬間から、彼はその祝福にあずかるようになったのです。彼はまだ十字架につけられています。その苦しみを受け続けています。けれども、罪の赦しを得たのです。イエスの祈りが、この犯罪人において聞かれたのです。
3B 本当の見方 44−49
そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。これもまた、アモス書にある預言の成就です。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
この幕は、聖所と至聖所を分ける幕のことです。聖所は、日々祭司が奉仕のために入ることができるところですが、至聖所は年に1回、大祭司しか入ることができません。その上、大祭司は、念入りに罪のささげものをして自分を清めてから入ります。それでも、奉仕のあいだに打たれて死ぬこともあるのです。なぜなら、聖い神ご自身がそこに宿られていたからです。この幕が裂けました。
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
ここに死の定義が書かれています。霊、あるいは魂がからだから離れることを死と言います。霊的な死の場合は、自分の魂が神から離れている状態を指します。そして、イエスご自身が、ここで御父にご自分の霊をゆだねられていることに気づいてください。ふつう、十字架で死ぬとき、完全に息を引き取るまでには2、3日かかります。けれども、イエスは、約6時間後に息を引き取られました。人にいのちを奪われたのではなく、ご自分がいのちをお捨てになったのです。イエスは言われました。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。(ヨハネ10:18)」
この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
3つのグループの人たちが出て来ています。そして、それぞれが出来事を「見た」と書かれています。まったく同じ出来事を見たのですが、それぞれが違った反応をしています。百人隊長は、「ほんとうに正しい方であった。」と言いました。彼は、イエスの十字架刑を執行する兵士たちを指揮していた人であります。イエスが死なれたのを、もっとも客観的に、もっとも詳細に見ていました。それで、神をあがめて、イエスが正しいことを認めました。けれども、「正しい方であった。」と過去形になっていることに注意してください。彼にとって、イエスは過去の人、もう存在しない人になったのです。ちょうど、私たちはよく、このような状態に陥ります。イエスが自分の罪のために死なれたことが、過去にははっきりとしていたのに、今はそうではないことがあります。でも、本当は、「この方は正しい方である。」とならなければならないのです。マルチン・ルターはこう言ったそうです。「キリストが死なれたのは、つい昨日のことのように感じる。」日々、罪の赦しを自分のものとしていかなければなりません。そして、民衆は悲しんで、帰って行きました。彼らにとっては、イエスの死を、死んでしまってかわいそう、とぐらいにしか受けとめませんでした。帰ったということろに、もう自分とは何ら関係のない人物であることを示しています。
そして、イエスの知人たち、女たちは遠くに離れて、これらの出来事を見ました。彼らにとって、これは見るに耐えない光景だったのです。彼らはまだ、復活のことを知りません。救い主だと信じて、身もたましいもささげていたのに、これでお終いです。自分が抱いていたすべての希望を、みな根底から抜き取られてしまいました。私たちも、日々の生活で似たような体験をします。信仰生活に行き詰まりを感じることがあります。過去に抱いていた生き生きとした希望が失敗に終わってしまって、それから新しい方向性を見出していないということがあります。それで、キリストが十字架の上でしてくださったことが、身近なものとなっていないのです。それではいけない、とヘブル書の著者は叫んでいます。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えていなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(12:3)」
このように、3つの種類の人々が、イエスが死なれたことに対して不完全な見方をしていました。けれども、ここにおいて、ただひとり、完全に正しい見方をしている人がいます。だれでしょう?御父であります。父なる神は、イエスが死なれようとしているとき、天を暗くされました。地を動かされました。つまり、今、ご自分の子が、全人類の罪を負っていることを証しされたのです。そして、神殿の幕を真二つに裂かれました。この愛する子の死によって、全ての人がご自分に近づくことができるようになったことを証しされたのです。イエスの死について、いろいろな人が違う意見を持っていますが、どんな意見を言おうとも、天地が、そして神殿が、ただ一つの意味しかないことを証ししました。
3A 正しい道 50−56
さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
私たちが先週学んだ、サンヘドリンにおいて、すべての人がイエスを死刑にすることに賛成票を投じたのではないことが、ここで分かります。ヨセフは、その裁判が不正なものであること見ました。ピラトが何の罪もないと言った様に、この方に何の罪もないことを見ていました。このように、正しいことに固く立った人がヨセフです。彼も、他の弟子たちと同じように、神の国を待ち望んでいました。
この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。これも、勇気ある行動ですが、彼は行ないました。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
当時、岩に掘られた墓は、裕福な人だけのものでした。イザヤ書53章「彼は富む者とともに葬られた。(9)」という預言が成就しています。イエスは、犯罪人としてさばかれましたが、ここで尊厳をもって葬られました。正しいことに固く立つ人によって丁重に葬られたということは、イエスが正しい方であることを示しています。イエスが正しい方なのに死なれたことを意味しています。
この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。そして、戻って来て、香料と香油を用意した。安息日には、戒めに従って、休んだ。
女たちは見届けました。確かにイエスが死んで、葬られたことが確認されました。実際に死んだことが、ここでは強調されています。仮死状態ではなく、本当に死んだのです。そして、次の章に、確かに死んだ方がよみがえることについて学びます。
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