ルカの福音書8章 福音の広まり

アウトライン

1A イエスのお供をする 1−3
2A イエスのみことばを聞く 4−25
  1B 原則 4−18
    1C 聞く耳 4−10
    2C 聞き方 11−18
  2B 適用 19−25
    1C 神の家族 19−21
    2C 信仰の在りか 22−25
3A イエスのみわざを話す 26−56
  1B 宣教 26−39
    1C 対決 26−31
    2C 派遣 32−39
  2B 告白 40−56
    1C 試練 40−42
    2C 信仰 43−48
    3C 忍耐 49−56

本文

 ルカの福音書8章を開いてください。ここでの主題は、「福音の広まり」です。1節をご覧ください。

1A イエスのお供をする 1−3
 その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。

 とあります。イエスが、神の国の福音をいろいろなところに言い広められておられます。福音が広まっているのです。この8章では、福音が広まることについて書かれています。

 まず、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら・‥」と、イエスが主語になっていることに注意してください。福音を広めるのは、イエス・キリストご自身であり私たちではありません。私たちは、自分たちで何とかしなければいけないと感じ、プログラムを作って、それを神さまが祝福してくださるように願いますが、本当は、イエスがなされることに、私たちが参加するのです。そして、

 12弟子もお供をしていた。

 とあります。イエスが町や村を行き巡られるときに、彼らもいっしょに行き巡りました。彼らはいつも、イエスのそばにいました。ですから、福音を広めることはイエスのお仕事ですが、弟子たちの仕事は、イエスとともにいることでした。イエスのところに来て、イエスと個人的な、人格的な、親密な関わりを持つことが私たち弟子の責任です。

 また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。

 12弟子だけでなく、多くの女性がイエスとともにいました。ルカは、福音書に女性の姿を多く描いています。神は、文化的、社会的な障壁を越えて、愛の御手を指し伸ばされることがわかります。そして、彼女たちがイエスのそばにいたのは、「悪霊や病気を直していただいた」からだとあります。イエスの御足を口づけした女も、多くの罪を赦されたから多く愛しました。神の恵みにふれられて、それに応答しています。そして、最初に紹介されている女が「マグダラのマリヤ」で、次に紹介されているのが「ヘロデの執事の妻」であることは、面白いです。マリヤは悪霊つきで、だれも彼女に近寄らず、人間のような生活を送っていませんでした。それに反し、ヨハンナは、政府の役人の妻であり、社会的に高い地位を得ていました。どのような背景を持っていたとしても、人間は神を必要としているのです。最後に、彼女たちは、

 自分の財産をもって彼らに仕えて

 いました。イエスと弟子たちの衣食住の生活の世話をしていました。御言葉や祈りなどの目に見えないことで神に仕えるのだけでなく、実際に財産をもって神に仕えていたのです。

2A イエスのみことばを聞く 4−25
 こうして、彼らはイエスのお供をしていました。福音伝道にはこれが必要です。次に、福音を広めるのには、神のみことばを聞くことが書かれています。

1B 原則 4−18
1C 聞く耳 4−10
 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種が岩の上から落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。

 イエスはたとえを話されましたが、それは聞くことについてでした。イエスとともにいて、それからしなければならない務めは、イエスのみことばを聞くことでした。

 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らは見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。」

 イエスがたとえで話されたのは、神の国の奥義でした。それを知ることができたのは、イエスのそばにいる弟子たちだけです。聖書の知識は、この関係の中で初めて理解することができます。そして、「彼らは見ていても見えず、聞いても悟らない」とあります。多くの人は、聖書は難しいと言いますが、真理は逆で、本当は単純だけれども、それを受け取ることができない、あるいは受け取ろうとしないのです。伝道者の書には、「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考えをしたがる。(新共同訳7:29)」とあります。問題は、神にあるのではなく聞き手にあるのです。イエスは18節で、「聞き方に注意しなさい。」と言われました。神のみことばの聞き方によって、神の国がはっきり見えるか、そうでないかが決められるのです。私たちは星を見るとき、望遠鏡を使ってその照準を合わせます。その照準合わせが、星がばやけてしまうか、はっきりするか決定的になります。イエスがこのたとえで話されているのは、この照準合わせのことです。みことばの聞き方を教えられています。

2C 聞き方 11−18
 「このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。」

 
これは、みことばを聞き流すこと、聞いても心にとどめないことを話しています。

 「岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。」

 これは、感情的にみことばを受け入れる人のことです。しばらくすると身を引いてしまいます。長続きしません。

 「いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。」

 この人は、しっかりみことばを聞いています。種はしっかり根づいているからです。けれども、この世の教えも聞いてしまっています。私たちがこの世から聞いたことは、意識的に退けないと、心の中で増幅されます。神の言われることと、この世の言っていることは反対するので、いつか行き詰まってしまいます。ここまでは、良くない聞き方です。神の国を見ることのできない聞き方です。イエスが求められている正しい、良い聞き方は、唯一、次の通りです。

 「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」

 この聞き方は、岩のように感情的にだけみことばを聞きません。みことばに、自分の人生や生活に照らして、神に心の奥底まで探っていただく聞き方です。また、いばらのように二心で聞きません。純粋にみことばだけを聞いて、みことば以外のものは退ける聞き方です。そして、しっかりと守り、よく耐えて聞きます。試練があってもみことばをしっかりつかみ、世の誘惑や惑わしがあっても、みことばによってそれを拒絶します。そして、はじめて実を結ばせることができるのです。 ですから、ある意味で、非常に貪欲的な聞き方、意識的な、積極的な聞き方が、神の国を知るのに必要なことなのです。

 「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 
イエスは、私たちの心の状態から、他の人々に与える影響について話されています。みことばによって私たちの心に灯された光は、他の人々に見えるようにならなければいけません。客観的に見えるような形にならなければいけません。これが、福音が広まる出発点になります。ある時、クリスチャンになったばかりの人で、実家に戻ったら、仏壇の前で線香を上げているという話しを聞きました。心では造り主を信じているのだから、家族の人たちをつまづかせないように線香を立ててもいいだろう、と言うことです。けれども、私と友人は、それは逆に、キリストのことを証しするチャンスであると話しました。自分の信じていることを、線香を立てないという行為によって現わします。そして、自分は天地の創造主だけを信じ、死者の弔いはしないことを明らかにすることができます。心に受け入れたみことばを、人々に見えるようなかたちで現わすのです。それが福音を広めることになります。

 「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」

 これは、神の国における報いについて話されています。キリストのみことばを心に蓄えている人は、その祝福が数限り無いほど天にあります。しかし、みことばを持っていない人は、この世の富、栄光、いのちが過ぎ去ってしまい、何もかもなくなってしまうのです。聞き方の違いで、これだけの差が出てきます。

2B 適用 19−25
 そして次に、実際の場面で、種蒔きのたとえの意味が示されています。

1C 神の家族 19−21
 イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。それでイエスに、「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています。」という知らせがあった。

 母とはマリヤのことです。私たちは、彼女が非常に霊的で、信仰の深い人であることを学びました。しかし、今、ここで自分の息子たちとともに、イエスに会おうとしています。マリヤは、御霊に導かれたのではなく、母親が子どもに持つ肉の思いに導かれてイエスのところに来たのです。他の箇所では、両親や家族までが私たちを捨てて、死に渡すことが書かれています。キリストの愛に触れられなければ、肉のつながりは利己的で、自己中心的だからです。したがって、マリヤは、種蒔きのたとえなら、いばらに蒔かれた種です。世の心づかいが、マリヤの生活に実を熟させることをさせなかったのです。

 ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」

 神のみことばを真剣に聞く人たちの集まりの中には、麗しい御霊の一致と、愛のきずながあります。

2C 信仰の在りか 22−25
 次は、また別の実際の場面が出てきます。そのころある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

 イエスは、湖の向こう岸に渡ろうと言われました。これがイエスのみことばです。それでは続けて読みましょう。

 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。

 イエスは、人々とずっと接していて、ひどく疲れていたのでしょう。

 ところが突風が湖を吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生。先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。

 彼らが、ここで信仰を失っていることがわかるでしょうか。イエスは、「向こう岸に渡ろう。」と言われたのに、弟子たちは、「おぼれて死にそうです。」と言っています。

 イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。

 イエスは、ことばでもって風と波を静められました。「向こう岸に渡ろう」と言ったみことばも、しかりつけられたみことばも、同じみことばなのです。それだけ、力のある、実を結ばせるものなのです。

 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。

 イエスは、信仰がなくなってしまった、とは言わずに、どこかへ行ってしまったと言われました。信仰はあるのですが、ここにはないのです。彼らの中には、多くがガリラヤ湖で漁を営んでいました。この湖を、自分の家の畳のようにしていました。それが今、揺らいでしまって、その時にみことばを心に抱けばよかったのに、そうしなかったのです。私たちも、よくあるのでないでしょうか。いつもは地面のようにしかっりしたものが揺らいでしまうと、信仰もへったくれもなくなってしまうことがないでしょうか。しかし、良い土に落ちた種は、みことばを守り、よく耐えるのです。試練が来たときに、みことばにしっかり立って、忍耐するのです。それを止めてしまった弟子たちは、ちょうど、岩の上に落ちた種のようになっています。試練が来て、身を引いてしまっているのです。

 弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 
彼らは、驚いています。恐れています。これは、神の本当の御姿、キリストのありのままの御姿を見たときの、自然な反応です。イスラエルの民は、シナイ山に主が降りて来られると煙や角笛の音や密雲があったので、震え上がって恐ろしくなりました。神の聖さを感じたからです。そのとき、自分には罪があることを自覚し、このままではさばかれるという思いを持ちます。弟子たちは、何も罪を指摘されたわけではないのに、イエスの大きなわざを見て、そうした恐れを抱いたのです。

3A イエスのみわざを話す 26−56
 こうして、私たちは、福音を広めるために、イエスのそばにいて、イエスのみことばを聞くことを学びましたが、それだけでなく、イエスの大きな御業を人々に知らせていきます。次からは、それを他の人々に話す人々が現われます。

1B 宣教 26−39
1C 対決 26−31
 こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。

 これは、異邦人が多く住む地方です。

 イエスが陸から上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声を上げ、御前にひれ伏して大声で言った。「いと高き方の神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」それはイエスが汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられていたからである。

 
イエスは、再びことばを用いられています。

 汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて監視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。

 エクソシズム、悪霊追い出しの話しです。悪霊につかれるとは、実際どういう現象なのかよくわかりませんが、ただ、主な特徴をいくつか挙げることができます。まず、着物を着ないで裸になります。生きる人間の家に住まないで、死んだ人間の住まいに住みます。この男が、「私に何をしようというのですか。」と言っているように、悪霊は、人の脳神経を完全に乗っ取ります。鎖や足かせにつないでもひきちぎるような超人的な力があります。イエスから離れることをしきりに求めます。人の間には住まないで、荒野のような孤独なところに住もうとします。これらの特徴を見ると、悪霊の主な仕業は、人間を人間らしく生きることをさせないことにあるようです。秩序ではなく混沌を、慎み深さではなく叫びを、交わりではなく孤独を選ばせます。

 イエスが、「何という名か。」とお尋ねになると、「レギオンです。」と答えた。悪霊が大ぜい彼にはいっていたからである。

 彼らは、自分たちを先ほどまで、「私」と呼んでいたのに、名前を聞かれたら大ぜいと答えました。イエスが名前を聞かれたのは、真実をはぐらかずに、自分のことをはっきりと説明しなさい、自分はいったい何なのか述べてみなさいと命じられているからです。一対一になって、わたしと面と向って話しなさいと言われているのです。しかし、悪霊どもは決してそれを望みませんでした。これが、悪霊の仕業です。人々を集団で動かして、自分の正体と、アイデンティティーを明かすことをさせないようにしています。

 悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。

 底知れぬところとは、新約聖書では、堕落した天使たちがさばきの日まで鎖につながれている場所です。彼らはそこにはいっているはずなのに、地上を徘徊して、人々を苦しめていました。

2C 派遣 32−39
 ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。

 豚に入ることを彼らは望みました。神のおきてでは、豚は汚れた動物とされています。そして、イエスがそれを許されたのは、豚のことを大切にしていないからではなく、この男を悪霊から解放されるのに必要なことだったからです。より大切なものを救われるのに、より大切ではないものを犠牲にされたのです。

 悪霊どもは、その人から出て行って、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。

 深い水の底に入っていきました。聖書の中では、水の底は恐ろしいところ、人を滅ぼす強敵の典型になっています。実際、旧約聖書の底知れぬ所は水の奥深いところを意味していました。ですから、悪霊は湖の中にはいったことは、結局さばきの場所に投げ込まれたのです。

 飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たこところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を来て、正気に返って、すわっていた。人々は恐ろしくなった。目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。そこで、イエスは舟に乗って帰られた。

 彼らは恐れましたが、それによって、イエスに出て行ってくださいと願っています。その時に、私たちはへりくだって、自分の罪を認め、神をあがめるようにすれば救われるのですが、もしそれができなければ、彼らのように追い出すしかありません。それに、彼らは、この男がすっかり良くなったのに、喜びもしないで恐れました。こんなに良い話しはなかったのにイエスを追い出しているのです。この男よりも、豚のビジネスを大切にしていたのでしょう。このような不信仰な人々が集まっていたこところであるからこそ、悪霊がはびこっていたのかもしれません。イエスを嫌がる人々が多いところに、同じくイエスを嫌がる悪霊も存在します。

 そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

 この言い広めた、という言葉は説教する言葉と同じギリシャ語が使われています。ただ話して聞かせたのでなく、確信をもってイエスのことを宣言したのです。それだけ、彼は、イエスが自分にしてくださったことが、どれだけ大きなことか、すばらしいことかを確信していたのです。彼は、異邦人の土地における初めの伝道者になりました。先ほど、イエスは、隠れているもので、あらわにならないのはないと言われましたが、彼は、自分にとどめておくことをせず、大胆に公に伝えたのです。

2B 告白 40−56
 そして次に、2つの奇跡の出来事が重なり合いながら出てきます。

1C 試練 40−42
 さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。

 先ほどの民衆とは対照的な反応ですね。

 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には12歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。

 会堂管理者は、パリサイ人や律法学者のように、ユダヤ教の指導者の一種です。普段は、イエスに敵対しているような人々です。しかし、ヤイロは、イエスの御前にひれ伏しました。自分のひとり娘が死にかけているからです。このように、彼は、自分の身に大きな試練が訪れたので、イエスに近づくことができました。神はよく私たちをこのようになさいます。

 イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。

 一刻も早くイエスに行ってはしいのに、群衆が押しかけて来ました。助けが妨げられています。私たちにも同じようなことが起こらないでしょうか。助けが遅くなっているような時です。

2C 信仰 43−48
 ときに、12年間長血をわずらっている女がいた。

 彼女の不幸な人生は、12年前に始まりました。この娘の命も12年前から始まりました。不幸な人生と幸福な人生がほぼ同時に始まったのです。私たちは、いろいろな道をたどります。自分が試練にあっているとき、他の人は成功しているように見えます。そして、下の脚注を見ると、「医者のために自分の生活費を全部使い果たしてしまった。」とあります。彼女は医者にたよっていましたが、もう何もすることができなくなって、イエスのこところに来ました。ヤイロと同じような状況の中にいます。

 だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。

 たちどころに止まりました。医者の働きと対照的です。

 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言った。

 イエスの言われた、「さわった」とペテロの受け止めた「さわる」は意味が違いました。イエスにさわるとは物理的なことではなくて、人格的なことだったのです。ですから、私たちとイエスとの関わりは、信仰によること以外は何にもなくて、物理的にキリスト教の活動をやっていることではありません。

 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」

 信仰によってイエスから力が出て行きます。このことは、私たちが、6章と7章の学びのときに学びました。

 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にふれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。

 この女もまた、イエスの御業にふれて震えています。恐れています。そして、「だれが、わたしにさわったのですか。」とイエスに聞かれました。先ほどの、「何という名か。」という質問と同じです。群衆の中のひとりではなくて、自分はいったい何をしたのかを問われました。そして、彼女は話しました。すべてを話しました。17節でイエスが言われたように、隠されたものを、みなの前であらわにしたのです。

 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

 この「直す」は、「救ったのです」とも訳せます。神の御業にふれて恐れを感じたとき、ゲラサ地方の民衆はイエスを追い出しました。それに対し、この女は、イエスの御前にひれ伏して、自分に起こったことをみなの前に明かしました。この姿が信仰告白でありります。救いをもたらす信仰です。

3C 忍耐 49−56
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」

 先ほどまで群衆が妨げていましたが、この女のことで致命的になってしまいました。この女のいやしによって、自分の娘が死んだのです。

 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

 ヤイロは、非常に恐れました。もうだめだ、という絶望感が彼を襲っていました。しかし、ただ信じていなさい、とイエスは言われます。私たちがすることは、さほど多くはありません。いや、ただ一つです。イエスを信じることです。

 イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。

 イエスは、奇跡を見る人々を選ばれました。3人の弟子と父母です。この数人にしか、奇跡の意義を受け取ることができなかったからです。

 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。

 この人々の心は、道ばたです。イエスのみことばを聞いたけれども、すぐに悪魔に取られてしまいました。

 しかし、イエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」

 また、みことばによって奇跡を行われようとされています。

 「すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。」

 
娘に霊が戻りました。死とは、基本的に分離を意味しています。肉体から霊が離れることが肉体の死であり、霊が神から離れていることが霊的な死です。

 それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけた。

 肉体も機能したことがわかります。ずっと食事を取っていなかったので体は弱まっていたのでしょう。

 両親がひどく恐れていると、イエスはこの出来事をだれにも話さないように命じられた。

 イエスは、今度はだれにも話さないように命じられています。悪霊を追い出された人にも、良血を直された女にも、話しなさいと言われたのにです。それは、彼らがまだこのことの重要牲を、把捉できていなかっただろうと思われます。イエスが、神のキリストであることを、ペテロは後で告白します。そのことを彼らは、まだわからなかったのです。そういうときは、人々に話すことができません。けれども、ヤイロは、良い土の人でした。イエスのみことばを聞いて、それをしっかりと守り、よく耐えたのです。だから、娘が生き返るのを見る恵みにあずかれたのです。ヘブル書を書いた人は、こう言いました。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『・・・私の義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは恐れ退いて滅びる者でなく、信じていのちを保つ者です。(10:36、38、39)


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