ルカの福音書9章 「神のキリスト」
2B 顕現 28-45
1C 栄光の姿 28−36
これらの教えがあってから8日ほどしてイエスは、ペテロとヨハネとヤコプとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
イエスは、ご自分の姿を弟子たちにお見せになりました。それは神の栄光です。イスラエルが神にお会いする神殿には、至聖所がありました。そこは、光をともしていないのに光り輝いていました。神ご自身がそこにおられたからです。この輝きをイエスは弟子たちにお見せになったのです。そして、そのことをモーセとエリヤが証言しています。モ−セは律法の代表、エリヤは預言者の代表です。律法と預言、つまり聖書が証言している神が、イエスにあって完全に現われています。パウロは、「キリストは、神の御姿であられる方」と言いました(ピリピ2:6)。そして、キリストの役目は、やはりエルサレムに行くことだったのです。エルサレムに行って、宗教指導者たちに捨てられて、殺されて、3日日によみがえることでした。
ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが3つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。
だったら、何も言わないで、ただ見ていればいいのに、と思います。私たちも、主のなされることに対して、見て、よく観察すべき時に、でしゃばって動こうとすることがありますね。また、ペテロの発言は、イエスを、モーセとエリヤと同列に並べています。先ほど、神のキリストだと告白したばかりなのに、と思いますが、そうです、彼は眠っていたので、霊的に鈍くなっていたのです。
彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
イエスが神の栄光の輝きであることを、モーセとエリヤが証言しただけでなく、父なる神ご自身が確認されました。「わたしの愛する子」と言われました。神の御子であるということです。そして、「わたしの選んだ者である。」と言われました。救い主キリストに、ご自分の子をお選びになったのです。罪の赦しのために、多くの動物が犠牲として殺されました。それはやがて来るキリストを指し示していたのですが、そのキリストがだれになるのかという問題がありました。しかし、神は、ご自分の子を選ばれて、犠牲の供え物とされたのです。ただ、もちろん神は全知ですから、天と地が創造される前から、御子をキリストとしてお選びになりました。
この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。
これで、イエスが神の栄光の輝きであることがわかりました。
2C 不信仰な世 37−45
次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。すると、群集の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。」
暗やみの力の支配です。先ほどの光から、一気に暗やみの中に場面が移っています。
「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
弟子たちは、イエスの力、と権威が授けてられていましたが、それをどう用いるかわかりませんでした。ちょうど、高性能のコンピューターを買ったのだけれども、使い方がわからなくて何もできないような状態です。
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」
イエスは、このことばを、弟子たちに個人的に言われたのでなく、今の世全体に対して言われました。不信仰な世である、というのです。この出来事は、まさに、イエスがこれから通らなければならない道を象徴していました。イエスが神の栄光の輝きであるのにもかかわらず、世はイエスを信ぜず、受け入れないということです。
その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に返された。人々はみな、神のご威光に驚嘆した。
しかし、ここでは、イエスの力あるみわざよりも、暗やみの力が強調されています。
イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちこう言われた。「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」
これは、耳の中に沈み込ませなさい、と訳すこともできます。
「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れていた。
イエスは繰り返し、ご自分が渡されることを話されました。弟子たちは理解することができず、理解できないように隠されていた、とあります。これは理解するのが難しいです。隠されていたなら、なぜ、イエスが、「しっかりと耳に入れておきなさい。」と話される必要があるのか、と思ってしまいます。けれども、ローマ9章をお読みください。神の主権について書かれています。
3B 戒め 46−50
次に、弟子たちがイエスのみことばを理解していないことが現われている話を読みます。
1C 一番偉い者 46−48
さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
黄金時代がこれから来ると思い違いをしていた弟子たちは、今度は、御国で自分たちがどんな高い位に着けるかに関心を持ち始めました。イエスが、「自分を捨てなさい。」とおっしゃったのに、彼らは自分のいのちを救おう、全世界を自分のものにしようとしたのです。
しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
イエスは、具体的に、自分を捨てる道をお示しになりました。一番偉い者ではなく、一番小さい者になります。教会が大きくなって、能力主義に陥ってしまう、また、政治的な権力が入り込むことは、いつも潜んでいる危険です。私たちの関心がいつも、いつも小さい者を受け入れることに寄せられなければいけません。
2C 私たちの仲間 49−50
ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」
今度は、セクショナリズム、分派主義です。私たちは、自分が偉くなりたいという思いを潜在的に持っているのと同じように、自分たちだけが正しいのだ、という思いも潜在的に持っています。ですから、ほかの人たちが、自分たちと異なる方法でミニストリーをやっているのを見て、気難しくなるのです。だから、私たちは、この自分も捨てなければいけません。
しかしイエスは彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」
キリストが宣べ伝えられているなら、私たちは喜ぶべきです。
3A キリストの決意 51−62 「御顔をまっすぐ向けられた」
こうしてイエスは、ご自分が進むべき道を弟子たちにお示しになりました。そして、次から、イエスがその道を進む決意をされる部分が始まります。
1B 人々の拒否 51−56
さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。
イエスはエルサレム旅行を開始されました。今までは、ガリラヤで活動されていました。4章で、「御霊の力をおびてガリラヤに帰られた。」とあります。そして今から、エルサレムに向かうまでの話が19章まで続きます。
彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
サマリヤ人は、イエスを受け入れませんでした。理由は、御顔をエルサレムに向けられていたからです。ご自分が十字架につけられ、よみがえられることを最大の関心事とされていたのです。ガリラヤで行われたような力ある御業を見たかったのに、なんだエルサレムを見ているではないか、こんなイエスは必要ないよ、というのがサマリヤ人の反応でした。私たちも、キリストに従う限りそのような待遇を受けます。俺たちの問題を解決してくれるなら、何かやってくれ。でも、十字架なんて教えられたら困る。俺たちは、今のままでいいんだ、というような反応です。
弟子のヤコプとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」
異本では、ここに、「エリヤがしたように。」と加えられています。エリヤが、自分に反対するものに火を呼び下しました。けれども、彼らはここで、黄金時代の自分たちを思い描いているのです。おごり高ぶっていました。
しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。
55節の引照を見てください。
そして彼は言われた。「あなたがたは自分がどのような霊的状態にあるのかを知らないのです。人の子が来たのは、人のいのちを滅ぼすためではなくそれを救うためです。」
イエスは、ご自分を拒んだ者を滅ぼさずに、そのままにされたのです。とにかく救われることを願う、拒んでも救われることを願う、そうした態度がイエスにあります。私たちも、福音を拒む人を見て腹が立ちますが、イエスと同じようにならなければいけません。
そして一行は別の村に行った。
2B 弟子の失敗 57−62
さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
これから、イエスについて行くことのできない3人の人の話が出てきます。一人目は、どこでもついて行きますと、自発的に弟子になることを申し出ました。
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
イエスは、この人が犠牲を払わなければならないことをお知らせになりました。イエスの周りで大きなことが起こっているのを見て、自分も加わりたいと願ったのでしょう。しかし、イエスがご自分を捨てる道を進まれていることを知りませんでした。
イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」
今度は、イエスがこの人を弟子にしようと呼ばれています。
しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
これは、実際の葬式に行かせてください、ということではありません。その人の父はまだ生きているが、父が死んでからあなたについて行きます、ということです。
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
イエスは、父の家族たちを死人たちと呼ばれています。罪の中で死んだ者、新生をしていない者ということです。彼らに父親のことは任せなさい、とイエスは言われています。また、イエスは、「あなたは」と強調されています。イエスと自分との間に、どんな関係も入ってきてはいけません。家族関係よりも、優先させなければいけないのです。
別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
この人も、イエスに従うことを自発的に申し出ています。しかし、家の者にさようならを言わせてください、と言っています。
すると、イエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
一度、イエスに従ってから、振り返って後戻りしてはいけません、と言うことです。イエスを最優先にするだけでなく、持続させなければいけないことがここに書かれています。
これだけ読むと、キリストの弟子になることがとても大変なこと気づきます。けれども、そのことがここでの注意点ではありません。大切なのは、イエスがそのような差し迫った状況の中にいることなのです。御顔をエルサレムに向けたのは、ご自分が見捨てられ、死に渡されるのを、何があっても逃げないで直面するという決断です。大事なのは、そのキリストが私たちとともにいるということです。私たちが、毎日の生活の中で、疲れて、クリスチャンとしての歩みをやめたい、やめなくても、ちょっと後戻りしてみたいと感じるときがあるかもしれません。けれども、そのとき、イエスはあなたを見捨てておられず、「前を向きなさい。わたしがあなたとともにいる。進みなさい。」とおっしゃいます。人々から拒まれ、弟子たちも従うのをやめてしまった、あの辛さをみな知っておられます。その方が、私たちとともにいてくださるのです。キリストの弟子であることは、確かに大変です。けれども、イエスがともにおられるから大丈夫なのです。
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