マルコによる福音書10章 神の国にはいる


アウトライン

1A 受け入れる 1−16
  1B 夫婦 1−12
    1C 結婚による一体 1−9
    2C 離婚による姦淫 10−16
  2B 子 13−16
2A 捨てる 17−31
  1B 持ち物 17−22
  2B 人の行為 23−31
    1C 神の救い 23−28
    2C 神の報い 29−31
3A 仕える 32−45
  1B 十字架の予告 32−34
  2B 十字架の苦難 35−45
    1C 杯とパブテスマ 35−40
    2C 購いの代価 41−45
4A 信じる 46−52


本文

 マルコによる福音書を開いてください。ここでの主題は、「神の国にはいる。」です。私たちは前回、神の国の到来について学びました。イエスが栄光に輝き、モーセとエリヤがイエスを証言し、父なる神がイエスを御子として確認されました。そうした、栄光のイエスが満ち満ちているところが神の国ですが、次の質問は、「では、私たちは、どうしたら、その神の国に入ることができるのか。」ということです。10章におけるイエスの個々の教えに、その質問の答えがのっています。

1A 受け入れる 1−16
 イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。

 イエスの一行は、ガリラヤ地方を通りすぎられて、その南方にあるユダヤ地方と、ヨルダン川の東側に行きました。

1B 夫婦 1−12
 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されているかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。

 パリサイ人が釆ました。彼らは質問をしましたが、それはイエスをためすためである、とあります。答えを得たいという質問ではなく、反対してイエスの信頼を失わせる目的で、誘導質問をしています。

1C 結婚による一体 1−9
 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」

 イエスも、パリサイ人も、モーセの言っていることについて話しています。ユダヤ人のあいだでは、モーセに与えられていた神の権威が認められていました。モーセは神の預言者であり、彼の語ったことは、神の語ったことだったのです。したがって、モーセの言っていることに反していることを言えば、それは、神のみことばに反していていることを意味します。パリサイ人たちは、イエスがモーセの言ったことと矛盾したことを言わせて、群衆の間にあるイエスの信頼を崩そうとしていたのです。そして、モーセの言ったことは、離婚状を書いて離別するでした。

 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。」

 イエスは、モーセの言ったことを否定することをせずに、むしろ、モーセがそんなことを言った理由を述べられています。あなたがたの心がかたくなだから、というものです。「かたくな」というのは、堅くなった、乾き切ったという意味です。土に水を注がなくなったら、土はしだいに堅くなり、そのまま注がないでいるとついには栽培できない状態になります。同じように、神の言われることを聞かないでいると、少しずつ私たちの心はかたくなり、いつのまにか、神の御声を聞くことができなくなります。

 罪を犯してもすぐに告白しないで、それでも、自分は赦されているから大丈夫だ。いつか悔い改めればいい、という誤った見方をしてると、生ける水である聖霊がもはや注がれなくなり、心がひからびてしまいます。離婚状を出さなければならないのは、夫婦の関係において心がかたくなになったからです。それでは、夫婦についての、神の御声は何でしょうか。イエスは、「しかし」という言葉で、人間の現状と神の理想を対照させておられます。

 「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」

 イエスは、モーセに神の律法が与えられる前にさかのぼり、創造の初めの姿を話されています。

 「それゆえ、人はその父と母を離れて、妻に結びついて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」

 一心同体とありますが、英語ですとone fleshつまり、一つの体となります。結婚は、男と女が心も体も深く結びついた状態であると同時に、子どもを宿すことによって実際にひとりになります。子どもは、父親から23の染色体を、母親から23の染色体を与えられ、一つのからだと人格を形成しているのです。したがって、子どもが与えられる見地から、結婚はふたりが一体となっているのです。

 「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

 イエスの答えは、離婚をしてはいけないというものですが、「神が結び合わせたもの」と言われて、神の権威を強調されています。

2C 離婚による姦淫 10−16
 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。

 弟子たちにとっては、イエスの発言は驚くべきものでした。当時は、今と同じように、離婚は当然のものという考えが定着していました。とくに、男性にとって、離婚は男に与えられた権利として見なされていたのです。

 そこで、イエスは、彼らに言われた。 「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫と離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

 これは、強烈な言葉です。なぜなら、イエスは、パリサイ人たちが、あんな質問をした背後にある動機をえぐり出したからです。今の妻はあきて、他の女に乗り移りたいという動機、つまり姦淫から離婚をするのです。それを、離婚状についての律法を引用してきて、実は、自分たちの悪い行ないを正当化していたに過ぎません。そして、イエスが指摘された姦淫の罪は、モーセの律法によれば、死刑に値することでした。したがって、彼らは、表向きは神のおきてに従っているのですが、本質は神のおきてを故意に破って、自分に死罪を招いているのです。

 こうして、イエスは、結婚は生涯持続されるべきものであることを説かれました。ふたりはひとつになっており、特に子どもによってひとつになっています。したがって、離婚をすることは、子どもに破壊的な影響を与えます。離婚は、精神的に、霊的に、その子を真中から二つに引き裂くことに他なりません。ですから、神が結婚を生涯のものに定められたのは、神が子どもに高い価値を置かれている証拠です。

2B 子 13−16
 そこで、次の話に移ります。さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 人々は、ラビーに手を置いてもらって、祝福を受ける習慣がありましたし、今もあります。それで、人々が子どもをイエスのみもとに連れてきています。しかし、弟子たちはしかりました。イエスは、大先生だ。この方は、いろいろ大事なことをしておられる。あなたたちのことを相手にしたら、大事なことができなくなる、イエス先生は疲れておられるのだ、と考えたに違いありません。それでは、イエスは、どう反応されているでしょうか。

 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。

 イエスは、憤られました。ひどい嫌悪感を覚えられました。イエスは、ご自分が教えられたことを考えておられます。「 私を信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(9:42)」

 「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 イエスは、子どもたちに、神の国にはいるのにふさわしい性質を見出されています。イエスは、子どもを神の国を「受け入れる」者たちとして紹介されています。「受け入れる」というのは、簡単なようで実は、とても難しいのです。なぜなら、私たちの罪の性質は、受け入れるのでなく、獲得しようとするからです。アダムが善悪の知識の木の実を食べたことが、罪の始まりでした。私たちは、神の言われることを素直に聞いて、神を信頼して生きていくのでなく、自分で納得して、自分が知識をもって、自分が何かをできるようになりたいと思うのです。

 しかし、私たちが、子どもたちを見るときに、木の実を食べる前のアダムとエバの姿を見ます。子どもたちは素直です。頭の中は白紙の状態です。ですから、親や学校の先生が教えたことを、そのまま、教えられたとおりに覚えていきます。さらに、子どもは、だれよりも権威とは何かを知っている存在です。親から言われたこと、先生から言われたことに従います。たとえ反抗しても、自分が反抗していることを知っています。自分を欺くことができません。このように、自分が知識をもって、自分が何かをするのではなく、かえって、素直に神の言われることを受け入れて、神の言われることに従うことが、神の国にはいるのに必要なことです。

 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて、祝福された。

 この「祝福」は、もともと「よいことを話す」という意味です。イエスは、来る子どもひとりひとりに、神が愛しておられること、神が良くしてくださること、神が希望の計画を持っておられること、などなど、良いことを話してくださいました。イエスさまの、子どもに対する暖かい心が伝わってきます。

2A 捨てる 17−31
 こうして、私たちは、神の国にはいるには、受け入れることが必要であることがわかりました。次に、捨てることが必要であることが書かれています。

1B 持ち物 17−22
 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。

 この人は、イエスが出て行かれるのを待っていたようです。

 「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」

 この人は、イエスのうちにいのちを見ました。子どもひとりひとりを祝福されるイエスの姿を見て、自分にはないものを見出しました。けれども、彼の発言を見ると、イエスの言われていることを理解していないことがわかります。彼は、神の国に入りたいと願っているのですが、そのためには何をしたらいいかと聞いています。受け入れる者が神の国にはいるのですが、彼は、受け入れることが分かりませんでした。何かをして、それを獲得しなければ得ることはできないという考えから、どうしても抜け出すことができなかったのです。

 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」

 イエスは、ここで、この人に、何をすべきか、という人間的な努力から目を離して、神に目を向けさせようとされています。神おひとりのほかには、だれもありません、と言うことによって、自分がどうすればよいのか、ということから、神がどうされているのか、ということを考え直す必要がありました。

 「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」

 これは、モーセの十戒の二枚目の板にある戒めで、人と人との関係を扱っています。

 すると、その人はイエスに行った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」

 これは、大ぼらを吹いているのではなく、彼の本心だったのでしょう。彼は、品行方正な人でした。人間関係においては、はぼ完璧と言えるような人です。

 イエスは彼をみつめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」

 異本には、「自分の十字架を負い」という言葉が加えられています。イエスは、彼が、人との良い関係はあっても、神との関係が切れていることを指摘されました。モーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記20:3)」でした。 しかし、彼は、自分の持ち物を神にしていたのです。そこで、イエスは、「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」という言葉を使われています。

 この発言は、一見、イエスがわざわざ私たちを苦しめるために、こんなことを言われているように聞こえます。しかし、そうではありません。イエスは、その人をいつくしまれた、とありますね。十字架を負うとは、言い換えると、神の愛にとどまることです。自分のことをすべて、主にさらけ出して、できないことを素直に認めて、イエスに助けを求めることを言います。イエスとともにいることを第一として、自分の失敗や恥もすべて主に知っていただく、そしてその傷を主にいやしていただく、それが、自分の十字架を負い、イエスについて行くことなのです。

 だから、イエスは、この人から、「はい。わかりました。自分の財産をみな貧しい人に与えて、私は永遠のいのちを得ます。」と言うのを期待されていません。むしろ、「主よ。私は今まで、財産を自分の誇りとしていました。主よ、私はこれからどうすればよいのかわかりません。助けてください。」と言うのを期待しておられたのです。けれども、次を見てください。

 すると、彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

 彼は、決してしてはならないこと、つまり、主から立ち去ることをしてしまいました。イエスは、「わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われたように、私たちがイエスのもとに来て、イエスのうちにとどまることだけを要求されています。だから、立ち去ることは致命傷なのです。彼は、顔を曇らせ、悲しみました。それは、神のみこころにそった悲しみではありません。みこころに沿った悲しみは、主の御前で悲しみます。そうしたら、主から慰めを受けるのです。

2B 人の行為 23−31
1C 神の救い 23−28
 イエスは、見回して弟子たちに言った。

 イエスは、見回しておられます。弟子たちに、この出来事を心に焼きつけたいと願われています。

 「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。

 ユダヤ人の間では、裕福さは、神の祝福のバロメーターになっていました。イエスが、全く逆のことを言われたので、弟子たちは驚いています。神は、物質的に祝福されることもあります。けれども、パリサイ人たちなどは、貪欲になって、金を愛した結果お金持ちになっているのに、それを神の祝福だと言っていたわけです。そのことを、イエスは問題とされたのです。

 しかし、イエスは重ねて、「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るはうがもっとやさしい。」

 らくだは、当時その地域でもっとも大きな動物です。そして、針の穴はもちろん、人間の見ることのできる最も小さな穴の一つです。

 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。

 弟子たちの顔が、目に見えてきます。彼らには、子どものような素直さがありました。

 「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」

 待ってました。イエスは、弟子たちのこの反応を待っておられました。

 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

 イエスは、神の国にはいることについて、人間的な努力を捨てなさい、と話されています。人にはできないことを悟り、神にはなんでもできることを知らなければ、神の国にはいることはできません。イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできません(ヨハネ15:5)」と言われました。

2C 神の報い 29−31
 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」

 これは本当ですね。自分の職業や家を捨てて、イエスについて行きました。ただ、ここで、「私たちは」という言葉が、ギリシャ語では強調されています。ペテロは、これだけ自分をささげたのだから、何かごほうびは何ですか、と褒美を期待したのです。

 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」

 イエスは、弟子たちに大きな報いがあることを認められました。彼らは、人間的な基準で見たら、先ほどの金持ちの人より、だらしがなかったはずです。 しかし、なぜ、ここで、百倍の報いを受ける、とイエスが宣言されたのでしょうか。それは、彼らは、イエスとともにいることを、とにかく大事にしたからです。自分が何かをすることよりも、イエスとともにいることを第一に求めたのです。そのため、大きな報いを受けます。

 「今のこの時代には、家、兄弟、柿妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

 イエスにつき従う者は、迫害にあいます。そして、自分のものを失います。しかし、私たちに必要な家族の愛や、必要なお金は、神によって必ず満たされるのです。この家族の愛とは、神の家族のことです。そして、この世で必要が満たされるだけでなく、後の世では永遠のいのちを受けます。つまり、神の国に入れるのです。

 「しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

 イエスは、ここでペテロの誤りを正されています。ある人は、クリスチャンになってから間もなく、天国には階級があると聞きました。主を信じる者は、みな天国に入るのですが、主のおきてをしっかり守った者は、より多くの祝福を受けて、主のおきてをあまり守らない者は、祝福が少ないと聞いたそうです。しかし、今、読んだ聖句から、その教えが間違いであることがわかります。報いは、結果であっても目的ではありません。主から褒美をもらうために、奉仕をするのではなく、主がすばらしいことをしてくださったと理解するから、自ずと奉仕をするのです。報いは、その恵みの中で生きた人々に、結果として与えられます。

3A 仕える 32−45
 こうして、私たちは、神の国にはいるために、自分には何かできる、と思うことを捨てなければいけないことを学びました。次に、神の国に入るために、仕えなければならないことを学びます。

1B 十字架の予告 32−34
 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。

 弟子たちが驚いて、恐れをおぼえることが多くなってきています。

 すると、イエスは再び12人弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。

 ここから、イエスに従っていた弟子たちは、12人以外にもいたことがわかります。これから起ころうとしていることについては、12人だけに教えておられます。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡されます。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は3日の後に、よみがえります。」

 ここの「しかし」が大事ですね。驚いて、恐れている弟子たちに、イエスがよみがえることを伝えることは、大きな希望でした。しかし、彼らは、この「しかし」以降を聞くことができなかったので、なおさら恐れてしまったのです。

2B 十字架の苦難 35−45
1C 杯とパブテスマ 35−40
 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

 イエスが、エルサレムに行くことを話されるたびに、弟子たちはますます誤解しました。自分たちは、栄光に輝く御国の中にはいると思ったのです。そして、彼らの偉くなりたいという思いが出てきました。彼らが、完璧とはほど遠い人間であることがわかりますね。しかし、彼らは、主とともにいたので、主から力をいただき、主から知恵をいただき、主に自分を変えていただいていたのです。そのため、使徒の働きにおいては、全く違う人間のようになりました。

 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分で何を求めているか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしが飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」 彼らは、「できます。」と言った。

 彼らは、イエスが十字架につけられる苦しみを、杯とバプテスマと言ってたとえられたのですが、彼らは理解していませんでした。

 イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」

 ヤコブは、12使徒の中で、一番最初に殉教しました。ヘロデが殺したのです。そして、ヨハネは、多くの迫害を受けながら奇跡的に生き残り、後年はパトモス島で流刑にされました。

 「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

 父なる神が、どの人をどの権威の座につけるかを決定されます。

 10人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

 10人も、ヤコブとヨハネと同じように、野心で満ちていました。

2C 購いの代価 41−45
 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支記者と認められた者たちは彼らを支記し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」 そして、次は大きな対照です。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなた方の間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

 イエスは、仕える者、次に、しもべという言葉を使われました。仕える者とは、人々の必要に答えるために、自発的に奉仕をする者です。トイレを掃除する必要があるなら、トイレの掃除をし、窓を拭く必要があるなら、窓を拭きます。そして、しもべは、ギリシャ語でデユーロスといい、奴隷の中でももっとも低い地位にいる者のことを言います。人間に与えられた当然の権利を、他の人々に仕えるために放棄した人のことです。例えば、永遠のいのちのために働いているのだから、物質的に報酬を受けても当然です。しかし、それでも自分の手で働く、というのがデユーロスです。

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 イエスは、仕えることの模範を示されました。そして、人に仕える究極の姿として、自分のいのちを罪の購いために捨てられます。仕えることが、自発的なものであったように、イエスは、自ら進んで十字架につけられました。だれからも強いられてではなく、ただご自分の意思で、十字架にかかられたのです。

4A 信じる 46−52
 こうして、私たちが神の国にはいるとき、仕える者の姿を取らなければいけないことがわかりました。そして、最後に、神の国にはいるためには、イエスを信じなければいけません。

 彼らはエリコに来た。彼らは、ヨルダン川の東側から西側に移ってきました。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

 ダビデの子、とは、メシヤの呼び名です。彼は、イエスについて、そのすぐれたみわざのことを聞いていました。メシヤが来られるとき、盲人の目は開かれるという預言を信じていました。そこで、彼は、この時とばかりに叫んだのです。

 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。」

 バルテマイは、止めにはいっても、イエスを求めることを決してやめませんでした。 ここに、クリスチャンとして持つべき態度が記されています。私たちはとかく、だれかにつまずいた、とか、落胆したと言って、自分がクリスチャンとしてきちんと生活しない言い訳にしますが、それは的はずれです。バルテマイは、イエスの大切さを知っていたので、他の者によってイエスを見逃すようなことは、愚かであることを知っていました。

 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで釆なさい。」と言われた。

 弟子たちは、イエスが乞食なんかにかまってやれないと考えていましたが、イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために来られました。

 そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨てて、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

 彼は、上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がっています。これは、正確なところ何を意味しているのかは、わかりませんが、イエスが自分の目をいやしてくださることを固く信じて、古い自分は過ぎ去り、新しい歩みを始めることを、はっきりと決めていたことがわかります。古きは過ぎ去り、すべては新しいのです。

 そこで、イエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

 イエスは、バルテマイの信仰をはっきりさせるために、このことを聞きました。彼は、目が見えることを信じてやまなかったのです。

 するとイエスは、彼に言われた「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

 イエスは、彼が取った一連の行動、つまり、ダビデの子よ、と叫び続け、上着を脱いですぐに立ち上がり、「目が見えるようになることです。」とはっきり答えたことは、彼の信仰の現われであることを認められました。信仰とは、このように直線的で、あいまいなところがなく、決然としていることがわかります。そして、この信仰によって、私たちは救われるのです。

 すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 彼は、すぐにイエスについて行きました。バルテマイという名前がのっているのは、おそらく、初代教会において、彼がキリストの弟子として活躍していた可能性を示しています。聖書の中には出てきませんが、名前が載っているので、そのように推測できます。

 こうして、私たちは、神の国にはいることについて学びました。素直に神の賜物を受け入れ、自分にはできるという可能性を捨てて、人々に仕えて、そして、イエスを固く信じることが、神の国にはいるために必要です。それでは、お祈りしましょう。


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