マルコによる福音書13章 滅びゆく天地」


アウトライン

1A 視点 1−4
2A 知識 5−27
  1B 産みの苦しみ 5−13
    1C この世 5−8
    2C 聖徒 9−13
  2B 大患難 14−23
    1C 荒らす憎むべきもの 14−20
    2C にせキリスト にせ預言者 21−23
  3B キリストの現われ 24−27
3A 適用 28−37
  1B この時代 「学びなさい」 28−31
  2B 不意の到来 「目をさましていなさい」32−37

本文

 それでは、マルコの福音書13章を開いてください。ここでの主題は、「滅びゆく天地」です。イエスは、エルサレムに入ってから、宗教指導者たちと激しい議論を交わされました。そして、彼らが最後の使者キリストご自身を受けれないので、彼らの上にさばきが下ることを話されました。事実、紀元70年には、彼らが誇っていたものがみな、ローマに取られてしまったのです。しかし、イスラエルの民には回復があります。13章には、エルサレムの滅びに引き続いて起こることが記されており、イスラエルが、最後には救われることが書かれています。それでは、本文を読みましょう。

1A 視点 1−4
 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

 弟子のひとりは、神殿のすばらしさに見とれています。けれども、私たちは、神殿に祈りがなかったこと、商売が行われていたことを読みました。葉は生い茂っているけれども、実を結ばせないいちじくの木のようであったのです。

 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 ものすごい対照です。このヘロデの神殿は、世界の7不思議に入っているほど、荘厳なものでした。当時の世界の中で、これほど美しい建築物はなかっただろうと言われています。それが、石が積まれたまま残ることは決してなくなってしまうというのです。これは、文字通り、ローマ帝国がこの神殿をこわして実現されました。ここから、私たちは、目に見えるものを誇りとしてはならないことを学びます。目に見えるものは、必ず過ぎ去ります。イエスがこれから弟子たちに話されることは、目に見えるものがどのように滅び去るか、ということです。

 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」

 弟子たちは、この神殿が滅びることに関連して、世の終わりについてイエスに質問しています。なぜなら、ゼカリヤ書14章には、終わりの日にエルサレムが攻められることが記されているからです。彼らの頭の中には、私たちの描いているような教会の時代は存在しませんでした。教会は神の奥義であり、彼らにはまだ知らされていなかったからです。それで、神殿が滅ぼされてから、どのように世の終わりが来るのかを聞きました。

2A 知識 5−27
1B 産みの苦しみ 5−13
1C この世 5−8
 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。」

 イエスは、これから世の終わりについての良い話をされますが、いくつか私たちに命令されています。一つ目は、「気をつけなさい。」です。世の終わりについて、多くの惑わしがある。しかし、あなたがたは正しい知識をもちなさい、と命じられています。使徒ヨハネは、キリストの再臨の望みを抱くものはみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします、と言っています(1ヨハネ3:3)。つまり、私たちが世の終わりについて知ることによって、清いクリスチャン生活を営むことができるのです。ですから、惑わしを受けないためにも、正しい知識を持つ必要があります。

 「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」

 これは、世の終わりではないしるし、とでも言えるでしょう。歴史を通じて、自称キリストが出現し、戦争も各地で起こりました。イエスは、このようなことが世の終わりになるまえに、しばらく続きます、と言われているのです。弟子たちが理解していなかったことは、この期間についてです。異邦人の時代とも言われるものであり、イスラエルが世界に散らされて、世界の主導は異邦人の手に渡されます。正碓に言うと、異邦人の時代はバビロンのネブカデネザルの時から始まっていますが、エルサレムをイスラエルが実際に失ったのは、紀元70年です。また、この期間に、神は教会をとおして働かれます。ユダヤ人をはじめ、異邦人にも救いがもたらされます。

 そして、次には、世の終わりのはじめの出来事が記されています。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」

 これは、3つの出来事に分けることができます。1つは、全世界規模の紛争、2つは地震、3つめはききんです。まず1つめですが、「民族は民族に、国は国に」というのは、旧約聖書で全面戦争を表しています。戦争は地域紛争であるときには、まだ終わりではない。しかし、世界戦争であれば、それは終わりが始まったことになる、というものです。私たちは、2つの世界戦争を経験しました。第一次、第二次世界大戦は、1914年から1945年の間に起こりました。2つめは、方々の地震です。アメリカナ百科辞典によりますと、紀元63年から1896年までに起こった記録的な地震は24しかなく、世界的な地震のほとんどが、19世紀以降に起こっています。1905年のインドでの地震で2万人が死亡、1908年イタリアで7万5千人が死亡、1915年、同じくイタリアで3万人死亡、20年中国で18万人死亡、23年日本では、よく知られている関東大震災ですが、14万3千人が死亡しました。さらに、より最近のものになりますと、32年に中国で7万人死亡、35年にイタリアで6万人死亡、39年チリで3万人死亡、同じ年にトルコで2万3千人、60年にモロッコで1万2千人、68年イランで1万2千人、70年ペルーで5万人死にました。 これらはみな、世界大戦が始まったことに起こっているのです。3つめのききんですが、地震と同じように、世界大戦のころから始まっています。1918年と19年に起こったペストは、2千3百万人を殺しました。20年に中国で大飢饉が起こり、21年にはロシアで大飢饉が起こっています。したがって、私たちは明らかに、イエスの預言された世の終わりの初めの時にいます。

 そして、イエスは、これらを「産みの苦しみ」と呼ばれました。これは、文字通りですと、「陣痛」のことです。陣痛は断続的に起こります。そして、出産が近づくにつれて、その間隔が小さくなります。また、痛みが激しくなります。そして、出産の直前、その痛みは最高潮に達し、子どもを産みます。けれども、いったん子どもが産まれると、その喜びで体験した苦しみは過ぎ去ってしまうそうです。したがって、世の終わりには、希望があるのです。そして、その希望が実現されるためには、この世が滅びなければなりません。アダムが罪を犯してから、世界はサタンの支配下に入りました。この世界が続くことはクリスチャンにとっては、むしろ悲しいことなのです。神は、この世界を滅ぼし、神のみが王である世界を再び造られます。世界の人々は、これまでにない苦しみを味わっていますが、クリスチャンには、それを出産前の陣痛であると理解しているのです。

2C 聖徒 9−13
 「だが、あなたがたは気をつけていなさい。」

 イエスは、再び「気をつけなさい。」と命じられています。世界に起こることを話されていましたが、次からは聖徒たちに、つまり私たちに起こることについて話されます。

 「人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。」

 この議会は、ユダヤ人指導者によって形成されるサンヘドリンであり、会堂はユダヤ教の礼拝堂です。つまり、聖徒はユダヤ人から迫害されます。現に、これを聞いているペテロとヨハネは、使徒行伝によるとユダヤ人から議会で迫害を受けました。そして、次に、総督や王たちとありますが、これは異邦人の迫害です。同じく使徒行伝によると、パウロが総督や王たちの前に立っています。そして、その目的は「あかし」であります。パウロは、法廷に立たされるたびに、彼らをキリストへの信仰へと導こうとしました。ヘロデ・アグリッパ2世は、「あなたは、ほとんど、私をキリスト者にしようとしている。(使徒26:28参照)」と言いました。

 「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」

 イエスは、「こうして」と言われました。つまり、不思議なことですが、迫害を受けることによって、福音はあらゆる民族に伝わる、と言われているのです。その最高の模範がイエスご自身ですが、十字架につけられたことによって、世界中にいる人々の心を変えてしまいました。また、使徒行伝も、ステパノが殉教してから、異邦人に福音が宣べ伝えられるきっかけになります。パウロは、迫害を受けることによって、他の町に逃げて、福音を伝えることができました。今日も同じです。中国がその典型的な例であるし、同じく社会主義国のキューバにおいて、カストロが教会に迫害を加えてから、非常に大きな成長を遂げました。韓国も同じです。日本からソ連から、また朝鮮戦争によって、多くの屈辱を味わいましたが、逆にそれが教会成長のきっかけとなったのです。迫害によって福音は広まります。

 「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき」ふたたび、法廷での話です。「何と言おうかと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」

 イエスのあかしをするのに、何の準備もせずにしなければならないときがあります。けれども、その時は、聖霊が話すべきことを教えてくださるのです。私たちにも、自分が予期しないときに、友達から説明を求められたりして、あかしをしなければならないときがあります。その時は、聖霊に助けを求めてください。聖霊は、必要なみことばや、みことばの解き明かしを与えてくださいます。

 「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。」

 迫害は、政府からではなく、家族からも来ます。家族の者が、警察などにクリスチャンを引き渡すときが訪れます。

 「また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。」

 政府や家族だけではなく、あらゆる種類の人々に憎まれるときが来ます。クリスチャンが、人間関係に頼ることができないときが来るのです。人間関係も、滅びゆく目に見えるものです。8節には、政治経済が滅びゆくさまが描かれていましたが、ここには、それに加えて基本的な人間関係が滅んで行きます。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

 この最後とは、完成のなる時まで、つまり、自分が死ぬとき、か、キリストが来られる時までです。そして、耐え忍ぶとは、英語ですと、perseveranceといい、神学用語で堅い忍と書いて「堅忍」と呼ばれています。これは、日本人がよく使う、「しょうがない」という考えとはほど遠いものです。自分に迫っている試練を災難としかとらえなくて、とにかく過ぎ去ってくれることを考えます。しかし、ペテロは、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪し」んではならない、と言いました(1ペテロ4:12)。耐え忍ぶには、ものすごく積極的な意味があるのです。これはもともと、重い荷物を腰を曲げて背負っている状態を言いますが、それによって自分の筋肉が発達するのです。キリストのご性質が、自分のうちに造り上げられ、そして、今ここで勉強している、神の国が来ることをますます期待するようになるのです。そして、イエスは、耐え忍ぶ者が救われる、と言われましたが、これは、本当にキリストを信じている者はだれかがわかる、ということです。多くの人が信仰を途中で捨てますね。しかし、本当の信仰は最後まで耐え忍び、その信仰によって私たちは救われるのです。

2B 大患難 14−23
 こうして、聖徒の取り扱いをイエスは話されましたが、次に、ユダヤ人に話が移ります。

1C 荒らす憎むべきもの 14−20
 「『荒らす憎むべきもの』が、自分のたってはならない所に立っているのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」

 荒らす憎むべきもの、という人物が出てきました。そして、この人物について、読者はよく読み取らなければいけません。ということで、よく読み取ってみましょう。ダニエル書9章を開いてください。24節から天使ガブリエルが、イスラエルについてこれから起こることを語っています。70週が定められており、その時に、イスラエルに救いがもたらされます。26節では、69週たつとメシヤが現れますが殺されてしまいます。神殿再建の命令が出されてから69週、つまり、63年の7倍の483年後に、イエスはエルサレムに入られ、間もなくして殺されました。この後に、来るべき君主、つまり反キリストが現れて、彼によって荒廃がもたらされるのですが、私たちは、まだ彼の姿を見ていません。なぜなら、イスラエルについての神の取り扱いは、一時的に止まっているからです。教会という神の奥義が、今、働いています。9節から13節までがそれですね。

 しかし、教会の後に、再び神がイスラエルを取り扱われる時が来ます。それが、最後の70週日の7年間です。27節には、反キリストが、イスラエルと堅い契約を結ぶことが書かれています。そして、半週、つまり3年半の後に、彼はその契約を破って、神殿へのささげものを止めさせます。そして、マルコに戻ってください。彼は、自分の立ってはならない所、つまり、神殿の至聖所に入り、自分こそが神であると宣言するのです。イエスは、それを見たとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい、と言われました。これから、反キリストによるユダヤ人への大迫害が始まるのです。


 「屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。ただ、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」 ここから、この迫害が速やかに来ることが分かります。 「ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい。その日には、神が天と地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかってないような、またこれからもないような苦難の日だからです。」

 天地創造のときからもないような、苦難です。ノアの時の洪水よりも、ソドムとゴモラに下った火と硫黄よりも、さらにひどい苦難です。当然ながら、たちまち人々は死んでしまいます。しかし、イエスは言われました。

 「そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。」

 主は、選びの民を残されています。これはクリスチャンではありません。大患難が始まってから、イエスをメシヤを信じたユダヤ人、あるいは、これからイエスを信じるようなユダヤ人のことです。神は、彼らのために、その苦難の日数を短くされます。

2C にせキリスト にせ預言者 21−23
 けれども、このような苦難の時に、ユダヤ人にも惑わしがあります。「そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言うものがあっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば、選民をも惑わそうとして、しるしや不思議なことをしてみせます。」

 偽物である判断は、キリストがおられるところを特定してしまうことです。また、しるしや不思議を行ないます。現在、みことば以外の現象に自分をゆだねているクリスチャンが、あまりにも多くいます。自分の気持ちや、感情など、非常に主観的なものに自分をゆだねていますが、それは、終わりのときの惑わしをもたらします。このように、人々の信じる宗教までが惑わしによって滅びゆくのです。

 「だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。」

 3回目の「気をつけなさい。」の命令です。1つめは、この世に起こることについて、2つめは、聖徒に起こることについて、3つめは、ユダヤ人に起こることについて、気をつけなさいとイエスは言われました。

3B キリストの現われ 24−27
 それでは、次に、本物のキリストの現われが記されています。「だが、その日には、その苦難に、続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」

 天と地が揺り動かされます。これは、旧約の多くの箇所で預言されています。キリストが来る前の、クライマックスの出来事です。最初は、神殿の建物が滅び、次に、政治経済が揺り動き、さらに人間関係、宗教が揺り動くのを見ました。そして、ここでは、天地そのものが揺り動きます。私たちは、目に見えるものに頼ってしまいます。しかし、持ち物や人間関係どころか、終わりには天地でさえも揺れ動くのです。しかし、キリスト者は安全です。詩編の記者は、こう言いました。「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。(46:1-3)」

 「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

 この選びの民は、最後まで残ったユダヤ人です。にせ預言者たちは、その苦難の間にさばかれて、殺されることがエゼキエル書に書かれています(20:38)。残された民はメシヤを求め、もう全滅するという危機一髪のときに、イエスが来られます。彼らは、自分の先祖が殺したイエスが、実はメシヤであることを悟り、嘆き悲しんで悔い改めます。その時に、恵みの御霊が彼らに注がれて、彼らの罪は赦され、心はきよめられるのです。そうして新生したユダヤ人が、四方からイエスのおられるエルサレムのところに集められます。

 
イエスが初めて来られた時に、イスラエルはさばかれましたが、再び来られる時には回復するのです。

3A 適用 28−37
 さあ、次から、私たちが読んで来たことを、どのように適用していけばよいのかがかれています。

1B この時代 「学びなさい」 28−31
 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。」

 イエスは、「学びなさい。」と命じられています。2つめの命令です。1つめは、「気をつけなさい。」でした。

 「枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口にまで近づいていると知りなさい。」

 イエスは、いちじくの木を弟子たちに見せて、葉が出てきたら夏の近いことがわかるでしょう、と言われました。同じように、今、私たちが読んで来たことがこの世に起こっているなら、イエスが来られるのは間近であることを悟りなさい、と言われています。ですから、イエスは、私たちが世の終わりについて聖書で知ることを、今の世で起こっているかどうか調べていきなさい、と命じられているのです。無知であってはいけません。なぜなら、主が来られるのが近いことを知っていく、道しるべだからです。

 「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」

 ここに、「時代」とありますが、これは民族とも訳すことができます。イエスは、ここまでで主にユダヤ民族について話されてきました。彼らにどんなことが起こっても、決して滅んでいくことはない、とイエスは言われます。事実、ユダヤ人が紀元70年に祖国を失ってから、彼らは民族の独自性を保ち続け、今や国家まで造り上げてしまいました。普通は、祖国を失うと、3代か4代で民族としてのアイデンティティーを失ってしまいます。そこで歴史家のトイントは、無神論者であるにもかかわらず、「ユダヤ人が存在していることは、奇跡だ。」と言いました。そして、これから、今までにないような苦難を彼らは通りますが、主が来られるときまで彼らは残されるのです。

 「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」

 私たちは、目に見えるものが滅び去ることを学びました。だから、目に見えるものに目を留めてはいけないわけですが、それでは何に目を留めればよいのでしょうか。イエスのみことばです。イエスの語られたことは、これまで100%間違いなく成就しています。ですから、みことばのみに望みを置くことがいかに大切になるか、お分かりになると思います。

 
自分は本当にみことばを信じているのか、それとも、それ以外のものを信じているのか、終わりに近づくにつれてはっきりしてきます。他のものはみな揺らいでくるので、みことばに目を留めている者だけが安定して、世の光として輝くのです。

2B 不意の到来 「目をさましていなさい」32−37
 ですから、イエスは、「たとえから学びなさい。」と言われて、私たちが学ぶ必要があることを指摘されました。次から、また別の適用がかかれています。

 「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子を知りません。ただ父だけが知っておられます。」

 先ほどは、主が近くにおられることを知りなさい、と言われたのに、ここではだれも知らない、という一見矛盾したことが書かれています。それは、主が再び来られることに関して、2つの局面があるからです。私たちが今まで見てきたのは、キリストがこの地上に来られることです。このときの大きな出来事は、イスラエルの救いでした。しかし、私たちがこれから見るのは、キリストが空中に来られて、聖徒たちとともにお会いする出来事であります。クリスチャンは、大患難という神の怒りの時から救い出されます。それは携挙とも言われます。そして、これは、いつでも、何の前ぶれもなく起こります。

 「気をつけなさい。目をさまし、注意してなさい。」

 3つめの命令が書かれています。目をさましていることですね。目をさましているとは、まさしく、イエスのみことばを見つめていることです。とくに、イエスが再び来られる預言に、いつも、毎日、目を注いでいることです。

 「その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」

 もし、定めの時を知ることができたら、私たちはどういう行動を取るでしょうか。そのときまでに準備していればいいから、それまでの間は遊んでいよう、ということになります。しかし、いつか分からなければ、いつでも準備できていなければいけなくなります。 そこで、イエスは次のたとえをされます。

 「それはちょうど、旅に立つ人が、出かけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。」

 旅に立つ人はイエスであり、しもべたちは弟子たちのことです。私たちが前回、学んだように、キリストの弟子はそれぞれ任された務めを持っています。

 「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。」

 どの時間帯も設定することはできません。したがって、私たちは、どのような時にも、主に任された務めに励んでいなければならないのです。パウロは、テモテに言いました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。・・・・・・あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。(2テモテ3:5)」

 「主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。」

 目をさましていることの反対が眠っていることです。これは、目を主のみことばから離している状態です。そのため、目に見えることに心が引き寄せられてしまうのです。今、自分の預金口座がなくなっても、自分は大丈夫ですか。今の仕事が突然、なくなっても、安定した自分のままでいられますか。自分のたよりにする家族が、あなたを今、裏切ったとしたら、それでも平静を保てますか。主は、今、眠っていないで目をさましていなさい、と命じられておられます。いつか、イエスのみことばを信じようではないのです。

 「わたしがあなたがたに話しておられることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

 イエスは、これを読んでいるすべての人が、目をさましているように命じておられます。つまり私たちです。イエス・キリストを信じる者たちは、天から下ってこられる主をいつも待ち望み、主に仕えていくべきです。そして、イエスをまだ救い主として受け入れていない人は、すぐ受け入れるべきです。なぜなら、主が来られるのは、いつかわからないからです。パウロは言いました。「今は恵みの日、今は救いの日です。(2コリント6:2)」また、イザヤは言いました。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(55:6)」お祈りしましょう。


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