マルコによる福音書14章 「過越の子羊キリスト」
アウトライン
1A 祭りの日 1−11
1B 人の企み 1−2
2B 真の準備 3−9
3B 神の計画 10−11
2A 過越の食事 12−26
1B みことば 12−16
2B のろい 17−21
3B からだと血 22−26
本文
マルコの福音書14章をお開きください。今日は、14章の前半部分を学びます。1節から26節までです。ここでのテーマは、「過越の小羊キリスト」です。私たちは、イエスが十字架につけられる前の、最後の出来事について学んでいます。イエスと弟子たちは、日曜日にエルサレムに入りました。それから、2日たっています。つまり火曜日です。イエスは、宗教指導者たちと激しい議論を交わされましたが、その後、神殿を出て、弟子たちの質問に答えるために、世の終わりについて話されました。そして、14章に入ります。
1A 祭りの日 1−11
1B 人の企み 1−2
さて、過越の祭りと種なしのパンの祝いが2日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。
祭司長たちは、民衆を恐れていたので、ひそかにイエスを捕えることができたら、と考えていました。だから、彼らは、過越の祭りの間に捕えないようにしようと考えました。しかし、14章、15章を読みますと、イエスはまさに、過越の祭りの最中に十字架の上で殺されたことがわかります。彼らの思惑が成し遂げられなかったのは、単なる偶然ではなく、神のご計画があったのです。神の御子キリストは、過越の祭りの日に、殺されなければならなりませんでした。
過越の祭りは、ユダヤ人にとって、年に一度の、いくつかある祭りのうちでも最も大きなものです。これは、出エジプト記12章に詳しく書かれています。ユダヤ人たちがエジプトで奴隷の苦役を強いられたときに、神は、エジプト人の手から彼らを救い出され、彼らは国民としての生活を始めました。イスラエル国家の出現です。神は、モーセという人をエジプトの王パロに遣わし、モーセは、イスラエル人がエジプトから出て行って、神に仕えることができるように申し出ました。しかし、パロは心をかたくなにしました。それで、神は、エジプトに天災を下しました。いくつかの災いが下ったあと、神は、イスラエルの民に命じられました。それぞれの家で傷のない子羊一頭をほふって、それを食べなさい。ほふったときの血は、その家の門柱にかもいにつけなさい。わたしは、エジプトに最後の災いを下す。わたしは、人であれ家畜であれ、すべて初子を打って殺す。けれども、門柱とかもいに血のついているのを見るならば、主は、その戸口を過ぎ越され、その家に災いがないようにされる。イスラエルはそのとおりに行ない、神の約束されたとおり、災いは彼らの家を過ぎ越しました。それから、神は、年に一度、過越の祭りとして、わたしがイスラエルの行なったことを思い出しなさい、と命じられたのです。
ただ、新約聖書には、旧約聖書の祭りは、次に来るものの影であって、本体はキリスト にある、と書かれています(コロサイ2:16−17)。過越の祭りは、キリストが私たちのために行なってくださることを、指し示していたのです。神が、エジプトに災いを下されたように、私たちの罪のために、神のさばきが下ります。ヘブル書には、「人間には一度死ぬ事と死後にさばきを受けることが定まっている(9:27)」とあります。けれども、傷もなく、欠陥のない子羊がほふられたように、罪のない正しい方キリストが殺されます。その流された血によって、私たちの罪は赦されて、神のさばきを受けなくてもよいようになります。それゆえ、イエス・キリストは、「世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」と呼ばれました。したがって、イエスは、過越の祭りの日に死ななければならなかったのです。けれども、祭司長たちは、祭りの日をはずしてイエスを捕えようとしました。
2B 真の準備 3−9
次に、とても興味深い出来事が記されています。イエスがべタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
これは、ヨハネの福音書によると、過越の祭りの6日前であると記されています。ですから、マルコは意図的に、これを祭司長たちがイエスを殺そうと企んでいる記事のあとに書いています。それは、このひとりの女の行なったことをきっかけにして、祭りの間にイエスを捕えないでおこうという思惑が、変えられてしまうからです。この女は、「純粋で、非常に高価な」香油をイエスの頭に注ぎました。聖書には、食事をするときに、客を祝福するために、頭や足に油を注ぐことが書かれています。彼女は、純粋で、非常に高価な香油でもって、最高のもてなしをイエスにしたわけです。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をそんなにむだにしたのか。」
ヨハネの福音書によると、最初に言い出したのは、イスカリオテのユダであることがわかります。
「この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
こうユダが言ったので、他の弟子もつられて、この女性をしかりつけました。300デナリは、当時の1年間分の労働賃金と同じぐらいの額です。そして、貧しい人たちに施しをすることは、律法の中で命じられています。ですから、彼らの言い分は、もっともなように聞こえます。けれども、彼らは本当に、貧しい人たちに心をかけてそのようなことを言ったかどうかは、疑わしいです。なぜなら、彼らは、イエスが王となったときに、自分の高い地位につける、という野望が少しあったからです。ユダヤ人は、キリストが来られるときは、ローマ帝国を倒して、世界の支配者となると考えていたから、弟子たちも同じように考えました。ですから、彼らがこの女性を叱ったのは、王の側近が、身分の低い者を叱りつけるようなものであったのかもしれません。彼らは、貧しい人のことを考えていたのではなく、自分たちの地位を考えていたのでしょう。特に、ユダの動機については、使徒ヨハネは、彼は一行の会計係をしていて、お金を預かっていたが、そこから金を盗んでいたからだ、と話しています。彼は貧しい人に心をかけていたのではなく、強欲だったのです。
彼らの叱責とは対照的な、次のイエスの発言を見てください。すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」
イエスは、彼女の心の動機を見ておられました。彼女は、イエスに自分のすべてをささげていました。ここの「りっぱなこと」は、「麗しいこと」とも訳すことができます。彼女は、自分の持っている純粋で、高価な香油をイエスに注ぐことによって、自分はすべてイエスのものであることを表現していたのです。それは、人間的な計算によるものではなく、心からあふれ出るイエスヘの愛によるものでした。
「貧しい人たちは、いつもあながたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」
彼女の行ないは、純粋な動機から出たものだけではなく、時機にかなっているものでした。イエスは、間もなく殺されます。貧しい人はいつもいっしょにいるのですから、彼らにあわれみを注ぎたいと思ったら、いつでもできます。けれども、イエスに自分の愛を表現したいと思ったら、これが最後のチャンスなのです。ですから、彼女は実に麗しい事をしたのです。でもなぜそのようなことができたのでしょうか。次を見て下さい。
「この女は自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」
彼女は、イエスが殺されて、埋葬されるということばを真に受け止めていました。だから、彼女は、イエスをこよなく愛し、何百万円もする香油をささげたのです。使徒ヨハネは、こう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。(1ヨハネ4:10)」神が、ご自分の子のいのちを惜しまないほど、私たちを愛してくださったことを知るとき、私たちは神に対する感謝と賛美が心からあふれ出ます。そして、自分のすべてをイエスにささげたいと願うようになるのです。次に、イエスは、彼女のこの行為をほめたたえています。
「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
イエスは、十字架の出来事よりも、ずっと先のことを話されました。3日目に復活し、40日たってから天に昇られ、それから2週間ぐらいたって聖霊が弟子たちに下ってから、その後のことを話されています。イエスさまの喜びが伝わって来ます。私たちも、自分の伝えたい大切なことを、誤解なく、的確に把捉してくれる人が現れたら、とても喜びますね。同じように、ご自分の十字架のわざを受け入れて、しかもそれに応答してくれる人が現れたので、イエスはうれしかったのです。
3B 神の計画 10−11
そしてこの出来事がきっかけとなって、次の話になります。ところで、イスカリオテのユダは、12人の弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
ユダは、イエスの言われたことで気分を害しました。人々の前で、自分の言ったことが否定されて、恥ずかしい思いをしました。それで、イエスを祭司長たちに売ろうとします。ただ、それだけがイエスを売った理由であるとは、考えられません。これはきっかけに過ぎなく、イエスに対する不信感や、自分の心にある悪い思いは、ずっと前からあったと考えられます。
彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。
祭司長たちは、不意の申し出に大いに喜んでいます。まさか、イエスの12弟子から、イエスを殺す計画に加担する者が出てくるとは。ということで、彼らはユダに金を渡し、ユダによってイエスを捕えるように、計画を変更させました。ところが、彼らは、自分たちが神に支配されていることを知らなかったのです。ユダの申し出を受け入れたことによって、彼らはイエスを過越の祭りの日に殺さざるをえなくなったのです。人は、どんな努力 をしても、神の計画を変えることはできません。
2A 過越の食事 12−26
こうして、キリストの十字架の死は、それを象徴する過越の祭りの日に行われることがわかりました。次に、なんのためにキリストが十字架につけられるのか、その意義が、過越の食事の中で話される部分を読みます。
1B みことば 12−16
種なしのパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
過越の祭りは、実際は、夕暮れから始まりました。夕暮れに小羊をほふって、その晩に食事を取ります。ユダヤ人の暦は、日没から一日を数えます。私たちは真夜中から真夜中から一日ですが、彼らは日没から日没までが一日です。ですから、祭りは、私たちの暦ですと次の日の日没までになります。イエスは、朝になってから9時ごろに十字架につけられ、午後3時ごろに息絶えて死なれます。また、この過越の食事は、単なる食事ではありません。それは儀式でした。この食事はセダーとも呼ばれますが、セダーは「手順」という意味です。一定の手順にしたがって、パンを裂いたり、ぶどう酒を飲み、神がイスラエルをエジプトの手から救われたことを祝うのです。
そこで、イエスは、弟子たちのうちふたりを送って、こう言われた。「都にはいりなさい。」
これはエルサレムのことです。食事は、エルサレムの城壁の中で行なうことになっていました。
「そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。」
当時は、水がめは普通、女の人が運んでいたので、その姿はすぐに目につきます。
「そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに追越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた2階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
おそらく、この主人はイエスのことを前から知っていたと思いますが、イエスが先のことをすべて知っておられる方であることは、否むことができません。また、この箇所から、レオナルド・ダ・ビンチは、「最後の晩餐」という有名な絵画を描きました。イエスと弟子たちがテーブルに着いていて、ナイフやフォークを使っていますが、実際の光景とは全く違うものです。当時は、食べるときは、床に寄りかかっていました。左肘で寄りかかって、右手で食べたのです。そして、手を使って食べていました。今、私たちに伝えられているキリスト教は、かなり西洋化されているようです。けれども、本当は、東洋的な背景の中で始まっています。
弟子たちが出かけて行って、都にはいると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。
この、「イエスの言われたとおりに」という言葉が大事です。イエスは、過越の食事を、ご自分のことばによって用意されました。イエスの奇跡的なわざについて、「本当かよ。」と思う人もいるかもしれませんが、イエスが、天と地を創られた神のひとり子であることを知っている人にとって、それは簡単に信じることができます。「光よ。あれ。」と言えば、光ができるのです。そして、ちょっと食事について考えて見たいと思います。食事は、私たちの交流、あるいは交わりを深めてくれるのに役立ちます。「同じ釜の飯を食う。」という言い回しがあるぐらいですが、当時の中東では、さらに深い意味がありました。交わりが深まるだけでなく、互いに一つになることを意味していたのです。一つのパンを裂いて、それを自分の口に入れます。それは、同じものが体の一部になることを意味しました。ぶどう酒も同じように、一つの杯からかわるがわる飲みました。それによって、お互いが一体となると考えたのです。したがって、この過越の食事を、イエスがみことばによって用意されたのは興味深いです。つまり、キリストと交わるときには、そのみことばによって交わるということです。イエスは、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)」と言われました。神のみことばがまこと、真理でありますが、私たちは、聖霊によって神のみことばを聞くときに、神との交わりが可能になります。
2B のろい 17−21
夕方になって、イエスは12弟子といっしょにそこに来られた。
イエスは、数多い弟子たちの中から、食事をともにする者として12弟子を選ばれました。とても大事なことを、これから彼らに教えられます。
そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
イエスと食事をしているのですから、当時の考えによりますと、イエスと一体になっている者たちです。その中から、裏切り者が出てきます。
弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるに言い出した。
今まで楽しく食べていた弟子たちが、イエスのことばを聞いて、悲しくなりました。こんなに愛し、慕っているイエスを裏切るなんて、と悲しくなったのです。
イエスは言われた。「この12人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。」
イエスは、12人のうちの一人を断定されました。「同じ鉢にパンを浸している」とありますが、これは、セダーの儀式の中の一場面を示しています。パン種を入れない2切れのパンの問に苦菜を入れます。パンと言っても、イースト菌が入っていないので、クラッカーのようになっています。そして、それをカロセトという、りんごをすったものとナッツが混ざっているものに浸します。これは、イスラエルがエジプトで苦役を強いられたいたときに運んだ、レンガのモルタルを思い出すためのものでした。
私は実際に、過越の食事に参加してそれを食べましたが、甘くてとてもおいしかったです。こういう、食べるという行為によって、エジプトを脱出するときの話を、実体験できるんですね。それで、「同じ鉢」というのは、このカロセトの鉢のことを意味しています。これは、セダーでも、最初の方で行われるのですが、ユダは、イエスに自分のことを指摘されたあと、その席をはずして、イエスを祭司長たちに引き渡す準備をするのです。イエスは、ここでユダに悔い改めを迫りました。イエスは、最後の最後までユダが立ち直るチャンスをお与えになりましたが、彼はそれに応えませんでした。
「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれてこなかったはうがよかったのです。」
イエスは、十字架につけられることを、「自分について書いてある」と言われましたが、この出来事は、旧約聖書全体のテーマになっています。また、十字架にどのようにつけられるか、キリストがどのように苦しまれるのか、その情景がこと細かく書いてあります。ユダが裏切ることも、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。(詩篇41:9)」と預言されています。したがって、ユダの裏切りは、神のご計画の中にあったことですが、それによって彼の責任がなくなるのではありません。イエスは、彼がのろわれると告げられました。先ほどの、香油の女に対する評価と対照的ですね。12弟子は、ことのほか、イエスの愛とあわれみを受けていました。だから、イエスを裏切ることは、いっそうのこと困難なはずです。つまずくことはあっても、裏切ることはできないでしょう。けれども、裏切る者たちがいるのです。神の愛とキリストの恵みを知っていながら、なぜ、裏切ることができるのでしょうか。
私は、苦みだと考えます。イエスに対して、神に対して苦みを持つと、その恵みからはずれてしまう可能性が十分あります。ヘブル書13章15節には、こう書いてあります。「あなたがたはよく監督して、誰も神のめぐみから落ちる者がないように、また、苦い根が目を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように。」
ユダも、政治的な王をイエスに期待していましたが、その期待がかなえられないことを知ったとき、イエスに怒りをおぼえ、怒りが苦みに変わったのではないでしょうか。他の弟子たちは、期待はしていたものの、イエスに与えられた神の主権を認めていました。イエスの言われること、行われることは、たとえ自分が理解できなくても、正しいと認めていたのです。けれども、ユダにはそれがありませんでした。彼にとってのイエスは、自分の願いをかなえてくれる人物ではありましたが、自分の生活と人生と支配する、「主」ではなかったのです。
私たちにも、イエスを信じるに当たって、何らかの期待があります。生活の中のこの問題が、信じるとことによって解決されたい、と期待しています。その期待が破られるように見えるとき、私たちは、神の主権に自分をゆだねるか、それとも、神に苦みを持つかの選択があります。先ほどの香油をかけた女のように、自分のすべてをキリストにゆだねることもできるし、自分の思うとおりにしてくれなかった神に怒りを持つこともできるのです。ユダは怒りを持ちました。
3B からだと血 22−26
それでは、もう1度、香油の女が自分のすべてをイエスにささげた理由を考えてください。イエスが十字架につけられるという事実を受け入れたからですね。そこで、次に、イエスが弟子たちに、私たちにとって十字架とは何を意味しているのかを話されます。
それから、みなが食事をしているときイエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。
この食事は、セダーの後半部分に当たるもので、ここでほふって、焼いた羊を食べます。その後に、セダーの最初のほうで半分に割ったパンを持ってきて、それを裂いてみなが食べます。そして、このパンを、イエスは、
「わたしのからだです。取って食べなさい。」
と言われました。過越の祭りは、ここで意味が変わりました。イスラエルが奴隷で受けた苦しみではなく、イエスが受けられた苦しみを、私たちが思い出すためにパンを食べます。食べることによって、イエスが肉体に受けた苦しみを深く知ります。イエスは、ローマ兵から49回のむちを受けられました。数回のむち打ちで気絶してしまう人が出てくるほど、ものすごい痛みが走ります。実際、ローマは、ガラスの破片などが入っているむちで背中を打ちましたが、背中の肉が飛び散ります。イザヤは、何百年も前にこう預言しました。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(53:5)」私たちが神から離れたことによって受ける霊的な傷がいやされるため、または、実際の肉体の病がいやされるために、イエスはむちを受けられたのです。次を見てください。
また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
ぶどう酒は、セダー全体の中で4回飲みます。ここでイエスが取られた杯は、3杯目のものです。3杯目は、「贖いの杯」と呼ばれました。再び、イエスはその意味を変えられます。
イエスは彼らに言われた。「これは、わたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
門柱とかもいにつけられた、犠牲の子羊の血を思い出すのではなく、私たちひとりひとりの罪のために流された、イエスの犠牲の血を思い出すために、この杯から飲みます。キリストの血によって、私たちは神との契約の中に入り、神と深い交わりをすることができるのです。
この「契約」という言葉は、しっかり理解しなければいけません。なぜなら、この概念は、日本人とはあまりにもかけ離れたものだからです。
聖書は、私たち人間が、創主なる神と契約を結ぶことが、テーマになっています。簡単に言えば、結婚関係のような、約束事に基づいた深い関係であります。契約と言うと、普通、双方の当事者によって結ばれますが、神との契約は、神ひとりで造られた契約です。難しい言葉で言うと、片務契約ですね。ですから私たちは、それを受け入れるか、それとも拒絶するかの選択のみが与えられています。「その内容を、少し変えてくださいよ。そうしたら、私は受け入れるから。」ではないのです。でも、その反面、神ご自身も、ご自分が結ばれた契約は破棄することはできません。ですから、神は、その契約を受け入れた者には、そこに書かれてある約束を、どんなことがあっても必ず実行されます。
だから、日本人の神概念とは、根本から違いますね。日本人は、何か畏敬の感じるものは何でも神にして、「ありがたや。ありがたや。」と言って拝むわけですが、その神は、実際の自分の生活には何ら影響を与えません。また、ドラマでも、本でも、自分を感動させるものは、何でもはめたたえて崇めますが、それを基にして自分の人生を歩むことは、決してありません。結局、自分を信じて、自分の判断で生き、自分を中心にして生活しているのです。
しかし、聖書の神は、自分を中心にして生きる者を退かれます。その一方、ご自分が立てた契約を受け入れる者を祝福し、聖書に書かれている数々のすばらしい約束を実現してくださいます。こうして、イエスは、ご自分が犠牲となって、私たちのひとりひとりのために、十字架の上で血を流されたのです。そして、この契約を受け入れた者は、神との深い交わりの中に入ることができます。そして、その祝福の一つとして、神の国に入ることがあります。そのことを、イエスは、次に言及されます。
「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
イエスが、再び来られることを、私たちは前回、学びました。その時に、神の国がこの地上に立てられます。イエスが来られると、天と地は大きく変化して、荒野はなくなり、弱肉強食の自然界も変えられます。国々の軍事予算はみな農業に変えられ、全世界に平和と正義が支配します。イエスが、エルサレムに世界の王となり、人々はイエスのみことばを聞きに集まってくるのです。神の国の祝福については、語り尽くすことができません。そして、そこに入ることのできる人々は、イエスの立てられた契約を受け入れた者のみです。その人たちは、イエスとともに、ぶどう酒を飲んで祝宴を持ちます。
「そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。」
この賛美は、詩編136篇です。そこには、「その恵みはとこしえまで。」と、主の恵みを歌っています。イエスは、ご自分の犠牲によって多くの者が救われることを考えながら、歌われたのでしょう。私たちは、救いを受ける価値など何もありません。地獄へ行って、当然の存在です。ですから、神は、キリストによって私たちを神の御国に入れてくださるのは、完全に神の恵みなのです。
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