マルコによる福音書4章 「みことばに聞く」
アウトライン
1A 土台 1−20
1B 4種類の土 1−9
2B 2種頚の人 10−12
3B 4種類の聞き方 13−20
2A 結果 21−34
1B 外への影響 21−25
2B 内での影響 26−32
1C 信者 26−29
2C 教会 30−32
3B まとめ 33−34
3A 実践 35−41
本文
マルコの福音書4章を開いてください。ここでの主題は、「みことばに聞く」です。それでは、4章の本文に入りましょう。
1A 土台 1−20
イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸辺の陸地にいた。
イエスの福音宣教は、パリサイ人や肉の家族の邪魔に会いながらも、勢いよく進展しました。ここでも、おびただしい群衆がみもとに集まってあり、岸辺にいたら押しつぶされてしまうかもしれないので、このように湖の上の舟に乗っておられます。
1B 4種類の土 1−9
イエスはたとえによって多くのことを話された。
イエスは、群衆に対してたとえによって話しをされました。たとえとは、私たちによく知られている事柄によって、よく知られていない真理を伝えることです。群衆がよく知っている農作業をイエスはこれから話されます。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日がのぼると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、30倍、60倍、100倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
イエスは、たとえを教えられたとき、「よく聞きなさい。」と言われました。また、たとえを終えるときも、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。この後でも、イエスは繰り返し、聞きなさいと命じられております。
このたとえの内容ですが、4つの種類の土があります。道ばた、岩地、いばらの中、そして良い地です。道ばたは、土ではありましたが、多くの人がそこを通ったのでアスファルトの道路のように固くなっています。そして、岩地ですが、イスラ工ルに行くと、畑の中にさえ岩がごろごろしているそうです。岩がくぽんでいるところに土が薄く入っており、そこに種が落ちました。そして、いばらの中の土は、良い土と同じように柔らかで良好な土ではありますが、同時に雑草が生い茂っているというものです。そして、良い土があります。
2B 2種頚の人 10−12
それでは次を読みましょう。さて、イエスだけになったとき、いつも従っている人たちが、12弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
イエスが群衆から離れているとき、弟子たちがたとえのことを尋ねました。12弟子以外にも、イエスにつき従う弟子たちがいたのです。
そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてたとえで言われるのです。」
イエスは、「神の国の奥義」について話されていました。奥義と言うと、人々に隠された秘密のように聞こえますが、ギリシャ語での意味はその反対です。それは、以前は隠されていたが今は明らかにされている真理のことです。神の国について、旧約の預言者たちが語ってはいたが、彼ら自身理解することのできなかった真理についてイエスは話されていたのです。そして、「神の日の奥義が知らされている」となっていて、「知る」となっていないことに注目してください。
弟子たちは、イエスが知らせてくださらないかぎり、自分たちで真理を知ることはできなかったのです。当時、弟子たちは肉体を宿したイエスとともにいましたが、現在の私たちは、「
もうひとりの助け主 」である聖霊がおられます。パウ□は、人間の知恵にたよるコリント人を正すために、次のことを手紙で書きました。「 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、わたしたちの栄光おために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。・・・神はこれを、御霊によって私たちに啓示されました。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(1コリント2:7、10)」 私たちのうちに住んでいる聖霊が、私たちに真理を知らせてくださいます。つまり、相手あっての真理であって、私たちが独りで真理を知ろうとしても知ることはできません。聖霊が私たちに知らせてくださり、私たちはそれを受け取るのです。
そして、イエスは、「ほかの人たちには、すべてたとえで言われるのです。」と話されていますが、なぜ奥義は弟子たちにだけ知らされていたのでしょうか。そもそも、群衆と弟子との違いはなんだったのでしょうか。10節を見ると、「いつもつき従っていた」とあります。直訳では、「回りにいる人たち」とあります。群衆は、イエスのみもとに集まりはしますが、自分の都合の良いときだけ集まります。また、自分の必要が満たされたら、イエスから離れます。言わば、「困ったときの神頼み」を彼らはしていたのです。その一方、弟子たちは、いつもイエスにつき従い、生活をともにしていました。つまり、イエスとともに歩む者、イエスと交わる者に、真理が知らされたのです。イエスは、「よく聞きなさい。」と言われましたが、それは、キリストとの生きた、深い、親密な交わりを持つときに可能になります。イエスは、いつも回りにいた者たちに奥義を知らせました。
それは、「彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないためである。」
イエスは、群衆にたとえで言われる理由を話されています。彼らは、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」なかったのですが、とても面白いですね。彼らは、みことばの裏に秘められた、暗された意味を解読できなかったのではありません。あまりにも明らかで、あまりにもはっきりしていることを理解できなかったのです。オウム真理教の事件が起こった後に、ある雑誌の編集長がハルマゲドンのことを知るために、ヨハネの黙示録を読みました。 しかし、彼は、何が何だかさっぱり分からなかった、ということをあるテレビ番組で話していました。しかし、本の内容というのは、たいてい初めのほうにその主題が書かれています。ヨハネは、「イエス・キリストの黙示」と書き始めています。黙示は現れることを意味しますから、イエス・キリストの現われがこの書物のテーマです。実際に19章には、ハルマゲドンの戦いのときに、イエスご自身が白い馬に乗って現れます。ですから、この事はキリストが現れることについて書かれているのです。こう説明して、わかる人はわかります。小学生でもわかるでしょう。なぜなら、あまりにも当たり前のことを話しているからです。
しかし、多くの本を読んでいるはずのインテリが、そうした当たり前のことがわからないのです。見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟りません。なぜなら、「悔い改めて赦されることがない」からだ、とイエスは言われています。弟子たちのように、罪を悔い改めて福音を信じていないから、悟ることができません。真理を悟ることは、やはり、イエスとの関係なのです。イエスとともにいることなのです。これが、私たちが真理を悟るための鍵となります。
3B 4種類の聞き方 13−20
そして彼らに言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」
「このたとえ」とは、先ほどの種蒔きのたとえのことです。イエスがここで言われたいのは、このたとえにある真理を理解すれば、他のたとえの理解ができる、ということです。このたとえが神の国の奥義を知るための土台になる、基礎になります。
種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです。− みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」
先ほどの異なる種類の土は、みことばをどのように聞くか、その聞き方であります。種が土に落ちるように、みことばは私たちが受け入れて初めて生きてきます。そこで、道ばたとは、みことばを受け入れようとしないかたくなな心のことです。そして、種を取っていった鳥はサタンを表していました。もちろん、これは、私たちが見る大ぜいの人たちの姿ですね。キリストの福音を聞くと、ほとんどの人は、「私にはわからない。」と言いますが、それは全く受けつけていないことの証拠です。道ばたのように、心をかたくなにしているのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです。− みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます。
岩地とは、表面的にはみことばを受け入れるが、心の奥底ではかたくなになっている状態です。知的にあるいは感晴的にみことばを受け入れますが、しばらくすると捨ててしまいます。なぜなら、土はあっても、すぐ下は固い岩だからです。思いは柔らかであっても、自分の生き方や信念は決して変えようとしません。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。− みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
これは、先の二つのたとえと大きく異なります。土自体には問題がありませんでした。固くなっていません。だから、芽を出し、育つことさえしています。けれども、他のものも生やしているので、実を結んでいないのです。実とは何でしょうか。パウロはこう説明しています。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)」クリスチャンになってから、私たちはアガペの愛に特徴づけられているでしょうか。みなさんのクリスチャン生活は、「ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜び(1ペテロ1:8)」に満たされているでしょうか。また、「人のすべての考えにまさる神の平安(ピリピ4:7)」があなたの心を支配していますか。もし、そうでなければ、いばらが心の中にあるのです。みことばを受け入れてはいるのですが、同時に、いばらも育てているのです。世の心づかいや、富のまどわし、その他の欲望があります。そのために、みことばがふさがれて、霊的成長がはばまれているのです。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちです。
良い地には、種と比べて何十倍の実が結ばれます。「みことばを聞いて受け入れる」とありますが、この「受け入れる」のギリシャ語は、歓迎するという積極的な意味を持ちます。「受け入れなさい、と言っているから、しょうがない。受け入れよう。」ではなくて、渇いたのどを水で潤すように、自ら進んで受け入れます。いばらの中の土とは違って、自分の人生や生活に変化がもたらされることを願って、聞き入れていくのです。イエスが、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたのは、このことを指しています。それは、もちろん聞き流すことではなく、集中して聞くことでもなく、「聞き従う」です。聞き従うことができるのは、私たちが1章から3章まで読んできた福音を知っている人にだけできます。イエスは、私たちをさばくのではなく、罪の赦しを与えてくださること。そして、聖霊の力によって、私たちを変えてくださること。がんじがらめにしているおきてから私たちを解放して、私たちの必要を満たし、私たちの弱さを担ってくださること。とてもすばらしく、麗しい福音です。この福音を知っている人は、イエスの言われることを何でも聞いてみたいと願います。いやいやながらでなく、強いられてでもなく、喜んでイエスのみことばに聞き従いたいと願うのです。そして実が、30倍、60倍、100倍にまで結ばれます。私たちが受け入れたみことばは、2倍や3倍どころではなく、何十倍、何百倍にまで膨れ上がります。そして、最初は30倍かもしれませんが、時間が経つと60倍になり、さらに100倍にまで増えます。同じように、クリスチャンはとどめもなく成長していくのです。今の自分の生活で、クリスチャン生活が終わりだと決して考えないでください。神がみなさんになさりたいことは、まだまだたくさんあります。
2A 結果 21−34
こうして、神の国の奥義とは、みことばが私たちを支配することであることがわかりました。みことばが支配するかどうかは、私たちのみことばの聞き方によります。それでは次に、その国がどのように広がって行くのかを見ていきたいと思います。
1B 外への影響 21−25
また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためでは言ありませんか。」
このたとえの「あかり」とは、私たちがみことばを受け入れた状態であると言ってよいでしょう。暗やみから光の中に移されたのです。それは、隠しておくためのものではなく、光って周りを照らし出すものであります。つまり、私たちがみことばを受け入れた状態というのは、私たちの周りに影響を与えるためのものだ、とイエスは言われているのです。私たちの心が満たされるだけではなく、心からあふれ出て、それが周りの人に影響を与えるようになります。ただ、それは、私たちが人々に見せるために良いことを行なうことではありません。見せびらかすためであれは、パリサイ人と同じになってしまいます。イエスは、「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」と言われました。隠れたところでの行ないが、いつの間にか現れて、明らかにされるのです。そして、イエスは再び、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と命じられています。
また彼らに言われた。 「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられるのです。」
私たちが与えることについて書かれています。私たちは、みことばによって変化した自分自身を、他の人に分け与えるようになります。人間的には、与えたら無くなってしまいますが、イエスさまは、「いや、与えたら与えられて、与えた以上に与えられる。」と言われています。これは、奉仕の中でよく起こることです。奉仕をして一番祝福を受けるのは、その本人です。みことばによって変えられた自分を他の人に与えて、与えると、より多くの祝福を受けます。「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」イエスは、神の国の奥義に関連して、神の国そのものを言及されています。みことばが私たちの心を支配することが奥義ですが、イエスご自身が物理的に、工ルサレムから世界を支配することが神の国です。みことばを心に受け入れている人は、この世でも祝福を受けますが、神の御国でさらに多く祝福が与えられます。しかし、みことばを受け入れていない人は、御国に入ることはできず、この世にある富や栄光までが取り上げられてしまうのです。
2B 内での影響 26−32
このように、みことばが良い地に落ちると、周囲の人々に影響を与えます。言い換えれば、外に対して影響を与えるのです。次は、内に対する影響、つまり、私たち自身の中で起こることが書かれています。
1C 信者 26−29
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手にはよらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。」
これは、先ほどの種蒔きのたとえと同じですが、ここでは種そのものに重点が置かれています。先ほどは種が落ちる土について詳しく話されていましたが、種がどのように成長するのかが書かれています。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに種は芽を出して育ちます。」とあります。これは、私たちが日常生活を歩んでいて、気づかないうちに、みことばが私たちを大きく変えています。みことばを聞いて受け入れているうちに、いつの間にかキリストの似姿に変えられているのです。「地は人手によらず実をならせる」とあるように、人手によらないのです。私たちが汗を流して努力するのではありません。みことばを聞いて受け入れて、あのマリヤのようにイエスを礼拝していれば、自分がその礼拝している方のようになってくるのです。イエスは言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネ15:5)」 この麗しい御霊の働きに自分をゆだねることが、私たちにとって大切なことです。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。
この「人」とは、むろんキリストご自身のことです。イエスが再び来られるときに、私たちのうちに結ばれた実を刈り取りに来られます。私たちが生きているのは、まさにこのためです。イエスは、私たちに芽が出てくるのを見たり、茎が伸びるのを見るために、私たちを選ばれたのではありません。実を結んで、その実が残るために私たちを選ばれました。ですから、実を結ばない木は、切り取られてしまいます。イエスが来られるときに、大ぜいの人が叫びます(マタイ7:21-23)。「 主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪例を追い出しあなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」と、叫びます。 主は、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」
と宣告されます。なぜなら、それは、どんなに良い行ないであったとしても、人の行ないであって、実ではないからです。イエスは、人手によらずに結ばれた実を刈り取られます。
2C 教会 30−32
また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。」
イエスは、どのようなたとえをしたらよいか考えておられます。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。
ふたたび種のたとえが書かれていますが、先の2つのたとえとは大きく異なります。ここには、実が結ばれることが書かれていません。その代わり、大きな枝を張っています。芽を出し勢いよく成長しているけれども、実を結ばせることのない木です。イエスは、一度、実を結ばせなかったいちじくの木を呪われたことがありました。葉は生い茂っていましたが、実が一つもなっていなかったからです。しかも、このたとえでは空の鳥が巣を作っています。鳥は先ほど、悪魔を表していることを見ました。つまり、この木は、端的に言うなら、名ばかりクリスチャンであり、また、その集まりである教会を示しています。それが異常に大きくなり、悪いことにさえ加担しているというものです。
教会も、イスラ工ルと同じように形骸化します。イザヤ書1章で、主はイスラ工ルに、数々のささげ物や祭リにはあきた、心から憎む、悪事をやめ、公正を求めよ、と言われました。そして、サルデスの教会には、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。(黙示録3:1-2)」 と言われています。「彼ら(イスラエル)に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい(1コリント10:12)」とパウロは勧めています。
3B まとめ 33−34
マルコは、ここまでのまとめを次に書いています。イエスはこのように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。
それぞれに聞くカがあります。イエスはその力に応じて語られます。だから、何も理解できなかったということは起こりません。イエスは、語りたいことを何かしら一人一人に持っておられるのです。
たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。
弟子たちには、すべてが解き明かされました。今は、聖霊が解き明かしてくださいます。イエスは、「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。(ヨハネ16:13)」と言われました。
3A 実践 35−41
こうして、みことばに聞き従うことがたとえによって説明されている部分を見てきました。次に、実際に遭遇する出来事の中で、みことばに聞き従うとはどういうことかを見ていきたいと思います。弟子たちが、座学を実践に移す時が来ました。
さて、その日のこと、イエスがたとえを話された日のことです。夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸に渡ろう。」と言われた。
「言われた。」とあります。みことばですね。「さあ、向こう岸に渡ろう。」がイエスのみことばであります。
そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
弟子たちは、イエスのみことばに聞き従っています。ここまでは、座学のとおりに動いていますね。次を見てください。
すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
ここで、試練が起こっています。「向こう岸に渡ろう」というみことばのゆえに、彼らは困難に直面しています。私たちは先ほど、「みことばのために困難や迫害が起こる」ことを勉強しました。
ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。
イエスは、人々に多く奉仕されたのでひどく疲れていたのでしょう。あるいは、弟子たちにレッスンを与えるために、あえて眠っておられたのかもしれません。
弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぽれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
ああ、弟子たちはみことばを手放してしまいました。「向こう岸に渡ろう」とイエスが言われたのですから、必ず向こう岸に渡るのです。けれども、彼らは目に見える嵐や舟にかぶってくる水を見ることによって、受け入れたみことばを手放しているのです。
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に、「黙れ。静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスは、再びみことばを語られました。そうしたら、風と湖が言うことを聞きました。みことばはこのようなものです。みことばは、自然界をも支配する力を持っています。そのみことばが、私たちの心に働くのです。だから、私たちのうちにも実が結ばれます。私たちがどんなに弱い存在であっても、みことばの力によって強くなることができます。
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
イエスは、彼らが目に見える状況に左右されて、みことばを手放したことを叱っておられます。「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。聞き入れたみことばを実際の場面でも手放さないでいるには、信仰が必要です。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)」目に見える状況が、みことばと反対になることがしばしばあります。ですから、そのとき、目に見えないものを確信させる信仰が、私たちには必要になります。みことばを聞いても、信仰をもって聞かなければ益にならないのです。へブル書3章にこう書いてあります。「 福音に説き聞かされていることは、私たちも彼ら(イスラエル)も同じなのです。その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです。(4:2)」 結びつけられなかったのです。弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」というみことばを聞きました。けれども、自分の足に押し寄せている水と、そのみことばを信仰によって結びつけなかったのです。彼らは、舟から一生懸命水を出していたことでしょう。そうした努力や行ないは、主にとって無益なことでした。
私たちはどうでしょうか。朝にディポーションを持って、心に迫ったみことばを、昼間に出くわす出来事に信仰をもって結びつけているでしょうか。みことばに聞き従うのではなくて、自分で何とかして問題を解決しようとしたり、良い行ないをしようとしていないでしょうか。みことばを聞き入れて、それを信仰をもって結びつけない限り、私たちのすることは無益なのです。 イエスは、「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。 しかし、イエスは、ここで弟子たちに罰を与えたり、見捨てたりしておりません。むしろ、このことを通して、彼らがご自分のことを学んでほしいと願われました。次を見てください。
彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方だろう。」
弟子たちは、イエスが病人を治したり、悪霊を追い出されたのを数多く見ましたが、自然界が言うことをきくのを見るのは初めてでした。この方は単なるラビでもなく、奇蹟を行なう預言者でもなく、まさに神の子キリストなのです。悪霊が、「あなたは神の子です。」と叫ぶのを、イエスは黙らせました。それは、群衆にはイエスが神の子であることを聞くカがなかったからです。いつもいっしょにいた弟子たちでさえ、大きな恐怖に包まれていますね。イエスはこれから、さらに奇蹟を行われて、弟子たちがイエスが神の子であることを受け入れるように心を整えてくださいます。
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