マルコによる福音書9章 「神の国の到来」
アウトライン
1A イエスの存在 1−29
1B その臨在 1−13
1C 証言 1−8
2C 前ぶれ 9−13
2B その不在 14−29
1C おしの霊 14−19
2C 信仰 20−27
3C 祈りと断食 28−29
2A 弟子の存在 30−50
1B 十字架と復活 30−32
2B 一番偉い者 33−37
3B 私たちの仲間 38−50
1C わたしの味方 38−41
2C つまずき 42−48
1D 小さい者 42
2D 自分 43−48
3C 塩 49−50
本文
マルコの福音書を開いてください。ここでの主題は、「神の国の到来」です。さっそく、本文に入りましょう。
1A イエスの存在 1−29
1B その臨在 1−13
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
イエスは、ご自身が再び来られることを話された後で、神の国の到来について話されました。多くの人は、この箇所をとても難しいと感じますが、そのときに大切なのは前後関係を見ることです。 2節から、イエスが栄光の姿に変貌する話を読みますが、神の国は、イエスの臨在そのものであることがわかります。
1C 証言 1−8
それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
イエスは、この3人だけを導いて行かれます。そして、高い山に導かれます。山は、平地よりも天に近いわけですが、次から読む話は、天における現実です。私たちの肉眼の目では見ることのできない、霊的な世界、神側の世界を見ます。
そして、彼らの目の前で御姿が変わった。
この「変わった」というギリシャ語は、さなぎが蝶に変わるときの「変態」と言葉と同じものです。
その御姿は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないはどの白さであった。
これは、栄光の御姿です。それは、この世には存在しないような光でした。ある本の中で、「栄光とは、創造主から供給されるエネルギーの発するものです。」と説明されていました。神には、すべてのエネルギーがあります。すべての力、すべての知恵、知識、すべての正義、いつくしみなど、あらゆるものは神から始まっています。それが栄光ですが、イエスがこの栄光で輝いておられたのです。
また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。
エリヤがモーセとともに現われていますが、二人とも神のみことばを預かった代表者です。神の律法は、モーセによってイスラエルの民に与えられ、エリヤは預言者の代表です。この律法と預言者によって神のみことばが構成されており、それが現在の旧約聖書です。そして、この二人がイエスとともに語り合っている事実は、旧約聖書がイエス・キリストを証言していたことを意味しています。イエスは言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」 私たちが旧約聖書を読むとき、確かに、世のさらし屋でも白くすることのできない白さで、キリストが輝いています。ところが、この光景にペテロが口出ししています。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を3つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
ここに、「私たちが」という言葉がくり返されていることに注意してください。彼は、主の栄光に自分たちが参加しようとしています。しかし、そんなことはできません。モーセとエリヤがいましたが、彼らはイエスと話をしていたのであり、自分たちを売り込みに来たのではないので、そこにいることができます。けれども、ペテロは、「私たちが」と言って、自分たちの存在を強調しました。
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これはわたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
次に現われたのは、父なる神ご自身です。雲がわき起こりましたが、神がそこにおられることを示しています。出エジプト記で、幕屋にいつも雲の柱が立っていたことを思い出してください。そして、「これはわたしの愛する子である。」と言われました。イエスが神のひとり子であることを確認されているのです。イエスの栄光の輝きは、この方が御子であるという御父との特別な関係に基づいていたのです。
こうして、神の国が到来しました。そこは、イエス・キリストの栄光が満ち満ちているところであり、その栄光が律法と預言によって証言され、父なる神によって確認されています。
彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはだれも見えなかった。
天の光景は閉じられ、地上の情景が戻ってきました。
2C 前ぶれ 9−13
このようにイエスは、神の国を弟子たちにお見せになりましたが、その理由を次に話されます。さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
イエスが、死者の中からよみがえられることによって、神の国が本当の意味を持ちます。パウロは、「 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:4)」と言いました。イエスが復活される前、イエスが、権威ある教えをして、数々の奇蹟を行われましたが、群衆はイエスは預言者のひとりであり、弟子たちは、ユダヤ人の描くメシヤとしか見ていませんでした。本当にこの方が神の御子であること、この方が唯一の道であり、真理であり、いのちであることは、イエスが死者の中から復活されたという事実によって、はじめて証明されました。だから、イエスは、ご自身が復活されるまでは、この出来事をだれにも話してはならないと命じられました。
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。
面白いですね。死人の中からよみがえるとはどういう意味か、ということですが、それは、死人の中からよみがえることです。そこには、隠された意味や謎は存在しません。けれども、彼らは復活という事実を受け入れることができなかったので、何か特別な意味や比喩的な意味を見出そうとしていました。
彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」
弟子たちは、神の国を垣間見たわけですが、そこで出てきた質問は、エリヤでした。マラキ書の最後には、主の日が来る前に、エリヤが前ぶれをすると預言されています。
イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。」
イエスは、その預言を認められました。黙示録11章に、大患難時代にふたりの証人が預言することが記されていますが、その一人はエリヤであろうと思われます。エリヤは、主が来られる前にイスラエルを立て直しに来るのです。
「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」
キリストが苦しみを受ける。これも預言されています。イエスは、どちらも成就されなければいけないことを話されています。この、一見矛盾した預言は、キリストが二度来られることによって解決します。律法学者も、また弟子たちも見逃していたのは、後者の預言、キリストが苦しみを受ける預言だったのです。このことを確認されたあと、もっと大事なことをイエスは弟子たちに話されます。
「しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」
このエリヤは、もちろんバプテスマのヨハネのことです。ヨハネは、その容姿やメッセージなどエリヤと類似している点が多くありました。というのも、ルカの福音書によると、彼は、「エリヤの霊と力で主の前ぶれを」していたからです(1:17)。実際のエリヤは、主が再び来られるときに、前ぶれとして来ますが、ヨハネは、主が初めに来られたときに、エリヤと同じ働きをしたのです。そして、このヨハネは、ヘロデ・アンティパスによって好き勝手なことをされました。
2B その不在 14−29
こうして、イエスがおられるところに神の国が到来しました。けれども、次の出来事は、イエスがおられないところに何が起こるかを表しています。
1C おしの霊 14−19
さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
律法学者が、議論によって弟子たちを打ち負かそうとしています。
そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄ってあいさつをした。
弟子たちは、おそらく、イエスがおられないことを引き合いに出して、律法学者たちに反論していたのでしょう。そこにイエスご自身が来られたので、群衆は驚き、事の次第を説明しに来たのです。
イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。
議論していたのは律法学者ですが、イエスは、「あなたがたは」と言われています。これは、群衆が律法学者の意見に耳を傾けて、それに同意さえしていたからでしょう。
すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。」
弟子たちのところではなく、先生のところとなっています。
「その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。」
見てもいられない、とても悲惨な光景です。イエスが高い山に上られて、そこにおられなかった間に、そのようなひどいことが起こっていたのです。イエスがおられないところには、このように暗やみの力が支配します。
「それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
この息子のお父さんは、イエスに追い出していただくのをお願いしているというよりも、失望していました。文だけを読むとなかなか伝わってこないのですが、他にいやしや悪霊追い出しを頼んだ人々がイエスに願い出てきたのと、違う声の調子だったのではないかと思われます。先生の弟子にたのんだのに、おしの霊は出て行かなかった。それは、この先生が偽教師だからだと律法学者たちは言う。もしかしたら、そうなのかもしれない、と考えていました。そこで、
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
「不信仰な世」とありますが、この「世」というは時代とも訳されます。イエスは、マルコ8章12節で、「今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」と言われましたが、その時代のことです。この時代に、聖書に約束されたメシヤが来られて、さらに約束された御霊が与えられました。人々は、神の約束が実現されるのを見ることができたのです。それなのに、彼らは不信仰に陥っていました。それでイエスは、それを不信仰な時代と呼び、そのことで憤りを覚えられたのです。彼らの不信仰をさらに咎めることもできましたが、この子をいやすことによってご自身の力を公に示されます。
2C 信仰 20−27
そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
悪霊が、イエスに反応しています。
イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ばそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
イエスが、この父親に、いつからこんなふうになったのかを聞かれたのは、父親に悲惨な状況を確認させるためでした。それによって、次に起こる奇蹟のすばらしさが理解できます。でも、この父親は、信仰を失っています。「もし、おできになるものなら、お助けください。」と言っています。
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
この、どんなことでもできる、というのは、イエスがどんなことでもできる方であることを示しています。私たちの信じる力が、なんでもすることができる、ということではありません。事実、主は、心をかたくなにしたパロにも、全能の力をお示しになりました。 それでは、なぜ、イエスは、この父親に信じることを要求されているのでしょうか。それは、イエスが大切にされたのは、奇蹟の事実よりも、ご自身と父親との関係だったのです。父親がイエスを信じるようになる、イエスに信頼を置いて、イエスと人格的な関係を持つことが必要だったのです。
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
父親は、すぐに悔い改めました。私は、「不信仰な私をお助けください。」と言う言葉が好きです。悔い改めるとき、それにふさわしい行ないをしなければいけませんが、その行ないでさえ、主の助けがなければできません。この場合では、信じることさえ、主の助けがなければできないのです。自分で力をふりしぼって信じているという意識の状態に持っていくのではなく、主が私たちを信じることができるようにしてくださるのです。
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言った。群衆にこの奇蹟をお見せになろうとしています。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。2度と、はいってはいけない。」
イエスは、「わたしが」と言って、ご自分に権威を示されています。また、「2度と、はいってはいけない。」と言っていますが、悪霊は、出て行ったからだに再び入ることが可能でした。それで、このような命令をされたのです。
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。すると死人のようになったので、多くの人々は、「この子は、死んでしまった。」と言った。
多くの人がまだ不信仰になっています。しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
3C 祈りと断食 28−29
ここまでは、主に群衆の問題が指摘されていましたが、次に弟子たちの問題が書かれています。
イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですか。」
ここでも、また、「私たちには」という言葉が出てきました。悪霊を追い出す力が自分たちにあるかのように話しています。
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りと断食によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
祈りと断食、これは、弟子たちや私たちが、主の力に頼るための手段です。力は、私たちにではなく、主にあります。先ほどは、栄光は主にあるのであり、私たちが立ち入ることができないことを学びましたが、ここでは、力は主にあるのであり、私たちは無力であることがわかります。
2A 弟子の存在 30−50
こうして、神の国は、主の栄光と力によって成り立っており、イエスが主人公です。けれども、次に、弟子たちがまだ勘違いしている部分を読みます。
1B 十字架と復活 30−32
さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、3日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
イエスは、再びご自分の死と、よみがえりを弟子たちに話し始められました。ガリラヤにおける宣教は終わり、今は、弟子たちにご自分がこの世に来られた使命を教えておられます。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
彼らは理解できなかったのですが、それは、頭が悪かったからではありません。その事実を受け入れることは、あまりにも恐ろしいことだったからです。キリストが殺されるという事実は、とうてい受け付けることができませんでした。
2B 一番偉い者 33−37
しかし、キリストの十字架と復活の事実がなければ、神の国について理解することはできないことを、先ほど学びました。その結果、弟子たちは、次の間違いを犯します。
カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。この家は、ペテロの家でしょう。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
だれが一番偉いか、という議論は、彼らの誤った神の国のイメージから来ています。キリストがローマ帝国を倒して、ユダヤ人による神の国を立てられる、というものです。そこでは、キリストが総理大臣なのですが、だれが右大臣、左大臣になるか、そうした高い地位をだれが得るか、とうことを論じ合っていました。彼らは、本当は神の国を求めたのではありません。自分たちの国を求めたのです。神ではなく、自分たちに栄光を与えらて、神ではなく、自分たちに力が、権力が与えられることを求めました。
イエスは、おすわりになり、12弟子を呼んで、言われた。イエスは、ラビが人々を教えるときのように、おすわりになりました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい。」
これを聞いているのは、そして、弟子でも、宣教の中心的な役割を担う12人です。人間的には、12人はみなの上に立ち、みなから仕えられるべき存在です。しかし、それは人間の国での出来事です。神の国では、人の先に立つものは、人々に仕えます。
それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕を抱き寄せて、彼らに言われた。
イエスは、人に仕えることの大切さを、ひとりの子どもを通して教えられます。
「だれでも、このような幼子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
子どもは、目立たぬ存在です。特に、当時の文化では、子どもはつまらない者として考えられていました。人間の国では、見向きもされない存在ですが、イエスは、わたしの名のために、それを受け入れなさい、それに仕えなさい、と言われます。そして、大事なのは、その小さな者を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのです。つまり、神にとって、このような小さな者がとても大切なのです。私たちの奉仕や善行は、この真理に基づきます。
3B 私たちの仲間 38−50
ところが、ヨハネはそれに同意しませんでした。次を読みましょう。ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
見てください、また、「私たち」という言葉が出て来ています。自分たちは正統派で、他はみな異端である、という立場です。セクト主義、分派主義ですね。自分たちといっしょに行動しない者たちを無視したり、排除したりする立場です。それで、たとえ神の国を求めていると言っても、実は自分自身を求めているのです。
1C わたしの味方 38−41
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はいないのです。わたしに反対しない者は、わたしたちの味方です。」
ものすごく、広く、寛容な考えですね。反対しない者は、みな味方である。そして、どこまでが味方なのかが、次に書かれています。
「あなたがたがキリストのものであるという名目で、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」
今、直訳の方を読みました。キリストのものであるという理由で、良くする人々までが味方なのです。私が、コスタ・メサのカルバリーに行ったときに、そのことを体験しました。そこにいたアメリカ人の兄弟姉妹は、私たちの背景や信仰の持ち方など、何も聞きませんでした。私が学校に入ったときも、同じです。同じ机で学んでいるというだけで、多くの人が私たちに親切にしてくれました。これが人々に仕えることであり、神の国は、このように裾野が広いのです。
2C つまずき 42−48
次に、これとは対照的なことが書かれています。
1D 小さい者 42
「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、 むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
イエスは、 私たちが人からつまずきを受けることは、特に問題にされていないようです。そうではなく、自分が人につまずきを与えることを、厳重に注意されています。なぜなら、兄弟の目にちりが入っているのを見ているとき、実は、自分自身の目に材木が入っているからです。
2D 自分 43−48
次は、自分に対するつまずき、すなわち罪を犯すことです。「もし、あなたがたの手があなたがたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」そして、44節は、48節と同じ、「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることなく、火は消えることがありません。」
があります。先ほど、海に投げ込まれたほうがましとイエスは言われましたが、この描写を読むと、確かにその通りです。ゲヘナの惨状をイエスは述べられています。ゲヘナはもともと、「ベン・ヒノムの谷」というヘブル語から来ています。そこでは、イスラエルの王が、忌みきらうべき異邦の民のならわしをまねて、香をたき、子どもたちを火の中にくぐらせたりしました。そこで、宗教改革に踏み切ったヨシヤ王は、そこをゴミ捨て場にし、そこにうじがわき、ゴミを燃やす火が絶えず消えないでいました。永遠の地獄は、そのような恐ろしいところであり、私たちは、自分を主イエスから離してしまうような罪を、きっぱり断ち切ってしまいなさい、と命じられています。
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるはうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいのです。」そして46節も、48節と同じ、「そこでは、彼らを食らううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
とあります。先ほどは手が私たちのつまずきの原因としてあげられましたが、ここでは足が罪を犯す体の器官になることを警告されています。これは、手を切ってしまいなさい、足を切ってしまいなさい、とうのは、もちろん文字通りではありません。オリゲネスという神学者は、情欲の問題があったので去勢しましたが、それでは解決しないことがわかりました。まだ情欲があったのです。けれども、私たちは、何かの罪を手放すことによって、痛みをともなったり、大きな損害を被ることがあります。けれども、それは、永遠のいのちに入ることには代えることができません。
もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるはうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食らううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」
手と足の次は、目です。つまずきを与えるようなものに対して、手や足を動かさなくても、目を動かすことがあります。だから、何を見ているかにも、細心の注意を払うことが必要です。そして、いのちに入ることが、「神の国に入る」と言い換えられています。
イエスは、9章の1節から、まだ神の国について話しておられたのです。神の国にとって、だれが自分の仲間などというのは、無意味な議論です。問題なのは、罪を犯したり、罪を犯させることです。
3C 塩 49−50
最後は、塩についてです。「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」
旧約聖書では、全焼のいけにえがささげられる動物は、塩につけられていました。当時は冷蔵庫はなかったので、塩によって保存したのです。塩は肉が腐るのを防ぐものです。つまり、きよめの働きをします。また、火もきよめの働きをします。溶けた金属の浮きかすを燃やすことによって、金や銀から不純物を取り除きます。ペテロは言いました。「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊い(1ペテロ1:7)」したがって、イエスは、きよめがクリスチャンにとって最重要課題であることを話されています。
「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によってそれに味をつけるのですか。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。」
これは、イエスが山上の説教で話されたことばと同じです。世がさらに腐敗するのを防ぐ働きをしなさい、とイエスは命じられています。そのためには、まず、自分自身に注意することです。自分自身に塩けがあるか、随時、確かめることです。
最後に、イエスは、「そして、互いに和合しなさい。」と言われました。
弟子たちは、だれが一番偉いか、内輪もめをしていました。また、彼らは私たちの仲間ではないといって、争いをしていました。イエスは、「互いに和合しなさい。」と促されています。
こうして、私たちは、神の国の到来について学びました。神の国とは神の国なのです。神の栄光、イエス・キリストの栄光で満ちています。その反面、私たちは自分の国をつくろうとします。それでイエスは、互いに仕えあうこと、罪を捨てることを教えられましたが、ご自分の十字架と復活を中心に教えられました。私たちがその事実を受け入れることによって、初めて祈ったり、人々に仕えたり、罪を犯さないようにすることができます。そして、そこに神の国が到来するのです。
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