今日は、マタイによる福音書1章を学びます。ここでのテーマは、「イエスのルーツ」です。
福音書は、イエスという人物の地上における生涯が描かれていますが、この章には、イエスが誕生される前にどのような経緯(いきさつ)があったのかが書かれています。このルーツを探る事によって、私たちはイエスと言う方はどのような存在であるのかを知り、また現代の私たちに、どのような関わりを持っているのかを知ることが出来ます。
それでは、早速読んでみましょう。その章は、おもに2つのルーツについて書かれています。1つめは、系図によるイエスの先祖です。系図に載っている先祖を観察することによって、イエスがどのような方であるか示されています。そして、2つめが、聖霊によるイエスの誕生です。この特殊な誕生に対してヨセフがどのような行動をとったか見ていきます。
1A 系図によるイエスの先祖 ―約束のメシヤ―
それでは1つめの、系図によるイエスの先祖を見ていきたいと思います。
1B アブラハムの子孫
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
ここに、アブラハムとダビデという2人の父祖が列挙されています。そして、アブラハムからダビデまでの系図が2節から6説までにあり、ダビデからイエスまでの系図が16節までにあります。そして17節が系図のまとめです。
アブラハムは、創世記10章から現れてくる、聖書の中の最も重要な人物の一人です。なぜ重要かといいますと、神がアブラハムという個人に、ユダヤ人をはじめとして全世界を祝福する約束をされたからです。創世記12章をご覧下さい。創世記12章1節から3節までを読みます。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたのちちの家を出て、私が示す地に行きなさい。そうすれば、私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものを私はのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
このようにアブラハムによってすべての、民族が祝福される約束を神はお与えになりました。ところが、神はアブラハムに、「おまえの子孫に」よってわたしは祝福する。」といわれて、祝福する方法を示されました。ガラテヤ人への手紙3章16節で、パウロは次のような説明をしています。 「ところで、約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫達に」と言って、多数をさす事をせず、一人をさして、「あなたの子孫に」といっておられます。その方はキリストです。」その子孫はキリストという方です。キリストはギリシャ語であり、これのヘブル読みはメシヤです。つまり、アブラハムの子孫であるメシヤによって、私たちは、たとえ日本人であろうと、アメリカ人、フランス人、韓国人であろうと、この子孫によって祝福される約束が与えられていました。
したがって、イエスがアブラハムの子孫であることは、この方がメシヤ、つまりすべての民族に祝福を与えるキリストであることを示します。神は、人々を祝福したいと願われています。そのためにアブラハムを選び、アブラハムの子孫メシヤ、あるいはキリストによって祝福されるようにされました。それゆえ、イエスに信頼しイエスをキリストと仰いでいる者は世界で最も祝福された人なのです。パウロはエペソ人への手紙1章3節で、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と言っています。私たちは、キリストによって神の祝福を得る事が出来ます。ですから、イエスはアブラハムの子孫であり、神が私たちに祝福を与えるために、お選びになったキリストなのです。
2B ダビデの子孫
それでは、もう一人の父祖であるダビデはどのような人物なのでしょうか。ダビデは、イエスの誕生とアブラハムの生きていたときのちょうど真ん中にあたる、紀元前1000年頃に存在していました。彼は、アブラハムの直接の子孫であるイスラエル民族を統治した王でした。このダビデにも、神は世界をゆさぶるような約束を与えられています。サムエル記第2の7章12節からです。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この「世継ぎの子」というのもメシヤです。メシヤは王となり、イスラエルと世界を支配されます。
したがって神は、全ての人がこのメシヤに服従することを望まれています。メシヤを自分の王として生き、自分の人生や生活をこの方にゆだねることが、神の願われている事です。イエスを自分のメシヤ、つまりキリストと信じている人は、この方を自分の王としている人々です。ローマ人への手紙にはイエスは王です。」と告白するものが救われる、と書かれていますが、イエスを主として、あるいは王として生きる、自分の意志よりもイエスのご意志を選び取る決心をした人が、クリスチャンと呼ばれます。イエスは言われました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を背負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうとするものはそれを失い、私のためにいのちを失うものは、それを見いだすからです。(マタイ16:24、25)」このように、イエスは、ダビデの子孫であり、私たちを支配するキリストなのです。
ところで、1節で、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」となっていますが、ギリシャ語の原語を見ますと、「ダビデの子孫、アブラハムの子孫」と逆になっています。アブラハムが先に生まれたのに、ダビデが先に書かれているのです。それは、マタイによる福音書が、ダビデの子孫であるキリストの側面が強く現れているからです。つまり、王としてのイエス・キリストがこの福音書には強調されています。マタイは、聖書に預言されていた約束の王が到来されたことを中心にして、この福音書を書いています。ちなみにマルコによる福音書では、奇跡を行う神のしもべとしてのイエス・キリストが全面に現れており、ルカによる福音書では、完全な人間であるイエスが、ヨハネ書では逆に、人間の姿をとった神であるイエスが示されています。マタイによる福音書は、王としてのキリストが色濃く描かれています。
3B 4人の女
イエスの先祖について最後に付け加えたいのは、この系図に4人の女性が載っていることです。旧約聖書を見れば、系図に女性が載っているのを見ることはありません。けれども、2節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻、つまりバテ・シェバの4人の女性が載っています。2節のタマルですが、彼女はユダの長男の嫁でした。けれども、彼は死んでしまい、後継ぎをするため次男がタマルを妻としましたが、次男も死にました。そこで三男が彼女と結婚しましたが、彼も死んだのです。父のユダはタマルに四男が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、四男まで殺されるのがいやだったから、タマルに与えるつもりはなかったのです。そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダが来て、ユダはタマルを買いました。彼女は、ほうびのしるしとして、印形とひもと杖をユダからもらいました。その後に、ユダはタマルが妊娠していることを聞いて「あの女を焼き殺せ。」と言いましたが、タマルはその印形とひもと杖をユダに渡したのです。このタマルが、イエスの先祖として加えられています。
5節に出てくるラハブも同じく売春婦でしたが。エリコを攻めようとしていたイスラエルが、エリコにスパイを送りましたが、その時にスパイをかくまったのがラハブです。そしてルツは、モアブ人でした。モアブ人は、神から呪われた民とされていました。そして、パテ・シェバはご存じのとおり、ダビデと姦淫の罪を犯した女です。
このように、2人の売春をした女と、1人のモアブ人と、姦淫の罪を犯した女が、イエス・キリストの系図に加えられています。これは何を意味しているのでしょうか。イエスは、罪人を救うために来られたのです。まったく罪のない方が、罪深い人間達をあわれまれて、同じ人間の姿をとってこの世に来られたのです。つまり、イエスは、祝福を与えるキリストが、王として支配するキリストだけでなくて、あわれみを与えるキリストであることがわかります。自分の罪を認めて、罪からの救いの望みをイエスに託している人々は、このあわれみを受けます。神のあわれみにより、キリストによって罪が赦され、罪をきよめられた人々がクリスチャンと呼ばれます。こうして、イエスの先祖には、4人の女性が加えられています。
2A 聖霊によるイエスの誕生 ―神の子キリスト―
以上、イエスの先祖を見ることによって、この方が神に選ばれたメシヤ、すなわちキリストであることがわかりました。ところが、16節を見て下さい。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
とあります。ずっと、「誰々に生まれた。」と、父親の名前がありましたが、ここでは、「マリヤの夫ヨセフ」と書かれているだけで、「ヨセフにイエスが生まれた。」とは書かれていません。つまり、イエスは人間の生みの父親を持っておられなかったのです。1節から17節まででイエスの系図を見ていきましたが、実はほかにイエス・キリストのルーツがあったのです。それが、18節以降の聖霊による誕生の話に現れています。
1B 処女降誕 ―アダムの性質を宿さない―
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
聖霊による誕生は、マリヤの処女降誕によって明らかにされています。ふたりがまだ一緒にならないうちに、つまり、まだ正式な結婚をしないうちに、マリヤは妊娠しました。実は、このとき、2人は婚約の状態にありました。婚約といっても、当時のイスラエルの慣習には2段階があって、第一段階は、2組の夫婦がそれぞれの子どもを結婚させるように決めます。第二段階は、実際の結婚の1年前に行われて、2人は結婚をするための準備をします。マリヤが妊娠した時、2人は第二段階の婚約の状態にいたのです。したがって、ヨセフの反応は婚約の破棄でした。19節です。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
二段階目の婚約は、法的には離婚と同じ手続きを踏まなければなりません。ヨセフは、それを内密にしようとしたのですが、これはヨセフの身勝手な行動ではありません。むしろその逆で、ヨセフは正しい人であり、マリヤを愛し、離婚がもっとも懸命な対処と考えました。なぜなら、ここに、彼女をさらし者にはしたくなかったとあるからです。もし一方に婚前交渉が発覚すれば、律法によると、彼女は石打ちの刑を受けて殺されなければならなかったからです。ヨセフがこのような行動をとったことからも、イエスはヨセフの実の子どもでないことがわかります。したがって、マリヤがまだ処女であった時に、イエスは、マリヤの胎におられたのです。
2B 夢の中の命令 ―天から来られた方―
そこで神は、この方、どこからおいでになっているのか、この方の正体は一体何なのであるかを天使と聖書の預言によってヨセフに知らせています。
1C 神からの使者 (霊的存在からの確証)
まず天使による宣告ですが、次のとおりです。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
天使はまず、イエスは聖霊によってお生まれになったことを告げています。つまり、イエスは人間からではなく神から来られた方です。人間としてはマリヤから生まれましたが、本当のルーツはこの天地を創造された神なのです。それゆえ、イエス・キリストは、神の一人子と呼ばれています。詩篇2編では、神はキリストに対し、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われました。また、サムエル記U7章では、「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」と言われました。そして次に、生まれてくる男の子にイエスと名づけなさい、と天使は命令しています。イエスというのは、ギリシャ語で、そのヘブル語にあたる言葉は、ヨシュアです。ヨシュアはヤホシュアの短縮形であり、ヤホシュアはエホバ・シュアという意味になります。これを訳すと、「エホバは救い」となります。つまり、イエスとは、主が救いという意味なのです。ですから、天使が、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言ったのは、実は、ヘブル語の言葉遊びをしています。「その名を、『主は救い』とつけなさい。この方こそ、ご自分の民その罪から救ってくださる方です。」と天使は言っているのです。したがって、イエスという名に、この方が、神が人間を罪から救い出すために送られた救い主である意味が含まれています。
罪を犯すことは、本当に深刻な事です。神の定めたおきてを一つでも破ると、その人は死ななければなりません。聖書には、「すべての人が罪を犯し」とあり、「人間には、一度死ぬ事と死後にさばきを受ける事が定まっていまる」と宣言されています。ですから、私たちは、罪から救ってくださる方が必要なのですが、神が救い主イエス・キリストを送ってくださったのです。その名を呼び求める者は救われる、と聖書では約束されています。
2C 聖書の預言の成就 (永遠の方からの確証)
そして聖書によって、イエスについて次のように預言されていました。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)」イエス・キリストは、神のひとり子であり、神から使わされた救い主だけであるだけではなく、神ご自身です。神が人間の姿をとられることによって、私たち人間に近づいてくださいました。ヨハネによる福音書1章には、次のように書かれています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神ととみにおられた。すべてのものは、この方によってつくられた。つくられたもので、この方によらずにできたものは一つもない。・・・ことばは肉となって、わたしたちの間に生まれた。」人間の姿を取られた神、その方がイエス・キリストです。
神は、ご自分が人間の姿をとられることによって、私たちが神を知るようになることを願われています。神がどれほど人間に心をかけてくださっているかを人間が知るためには、神ご自身が人間になられることは必要だったのです。もし私たちが蟻のことが大好きで、蟻に自分が蟻を好きであることを知らせようとしましょう。食べ物を与えたり、指を蟻に持っていったり、いろいろな努力をしたあと、みなさんはこう思うでしょう。「もし自分が蟻になっていれば、伝えられるのに。」と。
神は、そのことを私たちにしてくださいました。天地を創造し、永遠に生き、全ての知識を持ち、どんなことでもおできになる、無限の神が、人間の姿をとられたのです。イエスは、インマヌエル、つまり、神が私たちとともにおられる、と呼ばれました。
3B 従順な応答
そして、最後に、ヨセフが天使の命令に従っている姿を見ることが出来ます。ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
ヨセフは、天使が告げた神の命令を、一つも残さず守りました。このヨセフの神に対する従順があってこそ、イエスが神から来られた方としてこの世に現れることが可能になったのです。例えば、もしヨセフが、結婚してからすぐにマリヤと性的関係を持ったとしたら、生まれてくるイエスはヨセフの子どもとなり、イエスが神の御子であること、救い主であることの証しをする事ができなくなります。私たちも同じです。私たちが神の命令に従うときに、イエス・キリストがどのような方であるのかを人々に示すことが出来ます。もし、私たちが自分たちの理解に頼って、神に命じられたことを怠るなら、人々は私たちのことを思い出しますが、イエス・キリストの事は何もわからなくなるでしょう。私たちが神に用いられると言う事は、これほど重大な責任を負っているのです。こうして、ヨセフが神の命令に従順に従ったがゆえに、キリストは神から来られた方として、また、人となられた神として世に証しすることが出来たのです。
このようにして、イエス・キリストのルーツを見ることができました。そこから、イエス・キリストがどのような方であるかがわかってくださったと思います。そして、イエス・キリストを自分の信仰の対象にするということは、どういう意味であるかおわかりになったでしょうか。それは、神の祝福の全てを受けることであり、神の支配にゆだねることであり、神のあわれみを受けることであり、また、自分を罪から救ってくださる望みを持つことであります。私たちが、キリストを信じる信仰によって一歩一歩進むことによって、この祝福とあわれみ、救いを体験するのです。そして、ヨセフのように、信仰による応答は、従順によって現れます。私たちが従順になるとき、私たちは世に対してキリストの証しをします。
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