マタイによる福音書 10章 「遣わされる者」

アウトライン

1A  宣教の命令
   1B  任命  1−4
   2B  使命  5−15
2A  宣教の準備
   1B  警告  16−25
   2B  結論  26−33
3A  宣教の影響
   1B  分裂  34−39
   2B  報酬  40−42

本文

 それでは、マタイによる福音書10章を学びましょう。ここでのテーマは「遣わされる者」です。私たちは、イエスの宣教の働きを5章から9章まで見てきました。けれども、その宣教を必要とする人々があまりにも多いため、イエスが弟子たちに、「働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と命じられています。9章の最後の節です。その祈りが聞かれて、働き手が与えられたのが10章に書かれています。イエスは、彼らを遣わす前に、宣教のために知っておくべき事柄を指導しておられます。

1A  宣教の命令
1B  任命  1−4
 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

 イエスは、宣教の働きのために、12人の弟子を呼び寄せられています。イエスの弟子は大勢いたのですが、その中で、12人からなる宣教チームを編成されたのです。「12」という数字は、聖書の中で、「統治」の象徴となっています。イスラエルの部族は12ありましたが、それはイスラエルが他の国々を支配することを意味します。そして、12人の弟子は、このイスラエルを支配する立場に立つことを示しています。イエスは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも12の座に着いて、イスラエルの部族をさばくのです。」したがって、12という数字は、統治や支配を象徴するのです。

 そして、イエスは、彼らに「汚れた霊どもを制する権威をお授けに」なりました。イエスが、目に見えない霊的存在に対して権威をもっておられることを8章と9章で学びましたが、イエスはその権威を弟子たちに委ねられたのです。この暗闇の力は、私たち神の子どもにも働いていますが、私たちには、この力に立ち向かう事は到底できません。しかし、使徒ヨハネは、「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4)」と言いました。イエス・キリストによって、私たちは暗闇の力に対抗する事ができるのです。

 さて、十二使徒の名は次のとおりである。

 「使徒」という日常には聞きなれない言葉が出てきました。この日本語はおそらく、「使命を持った聖徒」という意味合いを込めて造られたのでしょう。もしこれを、「使者」とか、「全権大使」とか訳せば、もっと理解できるのではないでしょうか。つまり、使徒とは、本質的に遣わされる者であり、遣わすものと同じ権威をもって使命を果たすものです。天の御国の王であるイエス・キリストからその権威を委ねられて、外国に、つまりサタンの支配するこの世に遣わされるのが使徒であります。

 まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。

 まず、ペテロが最初に言及されています。マルコとルカの福音書と使徒行伝にも12使徒の名前が列挙されていますが、すべてペテロが最初に言及されています。それは、彼が初代教会のおもな指導者となるからです。次は、ペテロの兄弟アンデレです。彼はペテロをキリストに導いた人です。そしてヤコブとヨハネがいます。彼らはイエスによって、「雷の子」というニックネームをつけられました。人々がイエスを受け入れなかったのを見て、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言ったのが、ヤコブとヨハネです。(ルカ9:5)。次にピリポがいます。彼は使徒行伝で活躍する伝道者のピリポではありません。ヨハネ1章46節を見ますと、このピリポはナタニエルというものに、「来て、見なさい。」と言って彼をキリストに導いた人です。そしてバルトロマイですが、彼はそのナタニエルであろうとされています。トマスは、イエスの復活をどうしても信じなかった疑う人です。そして取税人のマタイです。アルパヨの子ヤコブについてはリストに載っている以外知らされていません。タダイは、イスカリオテでないほうのユダです。次は、熱心党員シモンですが、熱心党は今で言う過激派です。彼らは、ローマ帝国の支配を打破して、ユダヤ人の国を政治的に、勝ち取ろうとしていた人たちです。そして最後に、イスカリオテ・ユダがいます。彼はいつも最後に載っています。イエスを裏切ったからです。

2B  使命  5−15
 こうして、イエスが12人を使徒として任命されました。次に彼らに使命を与えられます。イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。

 ここの「遣わす」というギリシャ語は、「アポステロー(αποστελλω)」であり「使徒」のギリシャ語は、「アポステロス(αποστελλοs)」です。名詞か動詞かの違いで、全く同じ単語が使われています。

 異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。

 
イエスは、イスラエル人のみを対象とした宣教を命じられました。それは、メシヤが、イスラエルに救いをもたらすユダヤ人のための支配者であることが約束されていたからです。イエスはユダヤ人に天の御国を受け入れるように促されました。ところが彼らは拒否しました。そのため、イエスが復活された後の宣教命令は、「あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)」と変わっています。けれども最初、イエスは、イスラエルへの宣教を命じられたのです。

 行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。

 イエスは、ご自分が行われたことをそっくりそのまま行うように命じられています。それは、彼らがイエスを代表する者たちだからです。自分勝手なことを行うために権威が与えられているのではなく、イエスを代表するために、その権威を行使しなければなりません。

 あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 病人を治したりする事は、イエスが山上の説教ではなされていた善行に当たります。けれども、それらはすべて無代価です。なぜなら、私たちの救いは、神が無代価で与えられたものだからです。イエスは言われました。「いのちの水が欲しい者は、それをただで受けなさい。(黙示録22:17)」したがって、宣教は、献金を必要以上に募ったり、人数確保のための礼拝出席を強いたりなど、私たちの必要を満たすために行うものではありません。神の無償の愛を知らせるために、与え続ける姿勢を持つべきなのです。

 胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。

 使徒たちが、ただで与える反面、自分の衣食住を支えられるのは当然であるとイエスは教えられています。みことばや祈りに専念する奉仕者は、物質的に支えられなければいけません。パウロは、こう言っています。「もしあなたが御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。・・・同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定められています。(1コリント9:11、14)」したがって、宣教は物質的に支えられていくべきものです。

 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

 ここでの「適当な人」は、福音のメッセージを受け入れそうな人のことです。

 その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

 ここでの「平安」は、ヘブル語なら「シャローム」です。これは単に平安を表わすだけでなく、神の恵み深さや神のすばらしさを表わします。「平安を祈るあいさつ」とは祝祷のことです。メッセージの最後に牧師が、「神の恵みが皆さんとともにありますように。」と言ったりしますが、その言葉がある人には特別に働いて神の恵みを深く体験するだろうし、他の人にはとくに普段と変わりません。その場合は、神の恵みが牧師自身に戻ってきます。

 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。

 足のちりを払い落とす事は、私には何の責任もないことを示すためのジェスチャーです。私たちが話した福音のことばを人々が受け入れなくても、その責任は私たちにはありません。

 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。

 みことばを受け入れないものは、すべて神のさばきに会いますが、さまざまな度合いがあります。そのさばきの基準は、その人が受け入れている知識によります。「多く与えられたものは多く求められ、多く任されたものは多く要求されます。(ルカ12:48)」とイエスは言われました。ソドムとゴモラの町はメシヤのことを知りませんでした。しかし、イエスがメシヤであるという知識を受けながら、それを拒む事は、それらの町よりも大きな罰を受けるのです。

2A  宣教の準備
 こうして、イエスは、12使徒に使命を託されました。次にイエスは、宣教のさいに起こる迫害に備えなければいけないことを命令されています。

1B  警告  16−25
 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

 使徒たちは、天の御国から外国に遣わされる、大使館の全権大使のようです。その外国とは、サタンの支配するこの世です。世は神と反抗するものであり、神と世は相反しています。したがって、イエスが、「狼の中に羊を送り出すようなものです。」と言われたように、彼らは使徒たちを敵視します。

 その時の対処として、まず、「蛇のようにさとくなりなさい。」と言われています。私たちは賢明に動く必要があります。知恵を用いなければならないのです。パウロは言いました。「兄弟達。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においておとなになりなさい。(1コリント14:20)」

 そして、迫害への2つ目の対処として、「鳩のようにすなおでありなさい。」とあります。知恵を用いることによって、なんでも疑ってかかるようではいけません。あわれみ、いつくしみ、愛し続ける必要があります。愛の定義として、「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(1コリント13:7)」とあります。

 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。

 議会とは、ユダヤ人の宗教指導者たちによって構成されるサンヘドリンのことです。会堂とは、ユダヤ教徒が神を礼拝するシナゴーグのことです。つまり、使徒たちがユダヤ人から迫害を受けることを、イエスは警告されています。使徒行伝をお読みになれば、はたしてここにかかれている事が成就しています。

 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。

 総督や王たちとは、ローマ帝国の指導者のことをさしています。これも、使徒行伝の中にある、パウロの生涯において現実のものとなりました。イエスはここで、イスラエルだけでなく異邦人にも証しすることを預言されています。

 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

 このイエスのことばを用いて、人々の前で説教をする時に準備しない人がいます。しかし、それはここでの文脈を無視しています。ここでは、人々から私たちの抱いている希望についての説明を求められた時、父の御霊が話すことを与えてくださる、というものです。ステパノはその典型的な例でした。また、パウロもヘロデをあやうく回心させるような弁明をしています。私たちも、人から福音について質問を受けたとき、自分の話していることばが、自分が考えてもいなかったようなものであることがあります。「あら、僕はちゃんと答えているじゃん。」と思うようなことがあります。聖霊は、私たちを助けてくださり、福音の説明に必要な言葉を与えてくださるのです。

 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

 これは、大艱難時代に起こることですが、終わりが近づくにつれ、こうした迫害は多くなってきます。それは、世界が反キリストの方に向かっているからです。最も絆の強いはずの家族の中で、キリストを信じるがゆえに殺されています。そして、キリストのゆえに、あらゆる人々から憎まれます。20世紀にキリストのために殉教した人は、1世紀から19世紀に殉教した人々をすべてたしたものよりも、多いといわれています。クリスチャンが終わりに近づくにつれて増える一方、迫害も増し加わるのです。

 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。

 イエスは、私たちが故意に迫害を受けることを否定されています。避けられるものであれば避けなければいけません。

 というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

 マタイの11章1節を見ると、イエスは、弟子たちを遣わされた後に、彼らが巡った町に行って、教えたり宣べ伝えたりされています。つまり、弟子たちがイスラエルの町々を生き巡らないうちに、イエスが来られているのです。

 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

 イエスはここで、ご自分が反対を受けていることを言及されています。イエスが悪霊を追い出されたとき、「悪霊のかしらベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているのだ。」とパリサイ人たちは言いました。そして、イエスの弟子であり、しもべであるならば、なおさらひどい言い方するであろう、とイエスは言われているのです。

2B  結論  26−33
 こうして、イエスはこれから起こることを弟子たちに警告されました。それは彼らが準備をすることができるためです。次からイエスは、「だから」とか、「ですから」という言葉を繰り返されています。つまり、今まで話したことの結論を述べられています。

 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

 
イエスは、弟子たちに個人的に話されていますが、彼らのすべき働きはこれを公に宣言する事です。それで、人々の反感を買ったり、迫害を受けたりしますが、「彼らを恐れてはいけません。」とイエスは言われています。

 その理由を次に述べられています。からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 彼らを恐れてはいけない理由は、神を恐れなければいけないからです。人間は体だけでなく魂があります。そして、人間は迫害をして人を殺すことができても、魂を殺すことはできません。しかし、神は私たちの体も魂もゲヘナに送り込むことができるのです。この神を恐れるからこそ、私たちは悪から遠ざかることができ、死後にお会いするキリストに恥ずかしくないように、良い行いをすることができるのです。けれども、恐れるべき神は私たちを愛されています。

 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 当時は、すずめが最も安く売られている食物でした。そのすずめでさえ父が守ってくださっているのであるから、ましてや私たちを気にとめておられないことはありません。神は、私たちの髪の毛の数をも知っておられるのです。そこまで私たちのことに関心があるのですから、人を恐れることはないのです。

 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 どのような時でも特に迫害時にキリストを告白することの重要性が書かれています。「そのときイエスを否んでも、生き残れば、後で福音を述べ伝えられるではないか。」という考えは間違いですね。それは、「キリストを宣べ伝えるために、姦淫をして、盗みをして、うそをつこうではないか。」と言っているのと同じです。つまり、イエスを公に告白しないことは罪なのです。ペテロがイエスを三度知らないと言ったことによって、激しく泣いたことがありますが、それは彼が恐ろしい罪を犯したからです。私たちはキリストを告白する準備ができているでしょうか。迫害が起こってからでは遅すぎます。今から心の準備をする必要があります。

3A  宣教の影響
 ここまでで、イエスは、使徒たちが宣教にともなう迫害に備えるよう指導されました。次に、宣教にともなう犠牲と報酬について、教えられています。

1B  分裂  34−39
 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

 弟子たちが福音を世に述べ伝えるとき、世が全面的にそれを受け入れる事は期待できません。私たちは、すべての造られたものに福音を宣べ伝える責任がありますが、それによって世全体が良い方向に進むわけではありません。むしろ、イエスを受け入れるか、受け入れないかで、大きな分裂が生じるのです。

 私はちょうど昨日、仕事でお昼休みの時間、同僚の人と喫煙についての是非を話していました。喫煙派も禁煙派もそれぞれに強い意見をもっており、分裂しています。面白い事に、家で吸われるタバコの煙が嫌で、あるパートの娘さんは、家を出て行ったそうです。そうした分裂は避けることができません。なぜなら、煙草の煙が本人だけでなく、周囲にまで及ぶからです。たばこの煙は人々に害を及ぼしますが、イエス・キリストは人々に益をもたらします。その影響力が自分だけではなく周囲にまでいたるので、人々は激しく反対するのです。こうして、イエスは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来られました。

 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。

 イエスによる分裂は、この世にある最も強い絆である家族のなかにも起こります。福音を受け入れない家族は、福音を受け入れる者を敵視するようになります。みなさんも、多少なりともこのことを経験されているのではないでしょうか。特に、ユダヤ人の家族ではそうであり、家族の一員がイエスをメシヤと信じると、その者のために葬式を設けます。それは、その人がもう家族に存在しないことを示すためです。

 こうした敵対関係がいやで、信仰を捨ててしまうかもしれません。そこでイエスは言われます。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 キリストの弟子になることは、父母を敬わない事ではありません。しかし、キリストと自分との関係は親子関係よりも大事なものです。恋愛をしている男女が、親からの反対で離れることができたら、その恋は本物でなかったということができるように、親からの反対でイエスから離れることができたら、その人のイエスに対する愛は本物ではなかったことになります。

 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 この「十字架」は、犠牲を意味しています。福音を宣べ伝えると、家族などから大きな反対に遭いますが、イエスはそれを覚悟の上、わたしに従いなさいといわれているのです。

 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

 これは、私たちの生きる姿勢を示しています。自分が存在するために生きている人も、いずれ死んでしまいます。けれども、キリストのために生きている人はこの世のものさしでは損をすることがたくさんあるでしょうが、永遠の命を得ることができるのです。

2B  報酬  40−42
 こうして、福音を宣べ伝えることは、分裂と犠牲をもたらす事がわかりましたが、次は、福音を述べ伝えることによってもたらされる報酬について書かれています。あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

 使徒たちは、自分達に敵対する世に対して福音を宣べ伝えるのですが、けっして一人ぼっちではありません。彼らは、イエスに結ばれており、その絆は、彼らを受け入れない者がキリストを受け入れず、彼らを受け入れる者がキリストを受け入れるのに等しいほど、固いものです。同じように、私たちが、キリストに会って互いに受け入れるなら、それはキリストを受け入れる事であり、それは父なる神を受け入れる事なのです。なぜなら、キリストを信じるものは、キリストに繋がっているからです。(ローマ6:3)

 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

 これは、信仰を持っていない人が、「あの人は牧師さんだ。」といって受け入れることをさしているのではありません。列王記第一の18章をお開き下さい。そこに、オバデヤと言う人物が出てきますが、彼は預言者を預言者として受け入れている人です。18章の4節です。「イゼベルが主の預言者たちを殺した時、オバデヤは100人の預言者を救い出し、50人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。」オバデヤは、自分も殺されるかもしれないという危険を犯しながら、預言者たちを助けました。そんなことができるのは、18章2節を見ますと、彼は子供のころから主を恐れているからです。つまり、預言者を預言者として受け入れる者は、彼らの語っている神の言葉をすでに受け入れている人々なのです。

 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 イエスは弟子たちを、「この小さい者たち」と呼ばれています。彼らは、初歩のことを学んでいる幼子のような存在でした。失敗も多いし、間違いもあります。しかし、水一杯でも飲ませるなら、その人は決して報いに漏れることはない、というほど、使徒たちの働きは大切なものなのです。なぜなら、預言者はキリストを指し示しましたが、使徒たちはキリストに実際に出会った証人だからです。

 使徒たちが宣べ伝える主のみことばを受け入れて、彼らを支えた人々がいました。使徒たちは、主のみことばのために奉仕をしていたのだから、当然大きな報いはあります。けれども、支えた人々もまた、同じ報いを受けたのです。ピリピ人への手紙4章において、使徒パウロは、ピリピ人は彼らに贈り物をしたことを喜んでいますが、それは彼が物欲しさに言っているのではなく、彼らが神から報酬を受けることを喜んでいたからです(15−17節)。

 つまり、彼らは使徒パウロを使徒として受け入れたので、パウロの受ける報酬を自分たちも受けるようになりました。同じように、現代でも、多くのクリスチャンは直接みことばに携わる奉仕をしているわけではありません。けれども、その奉仕に携わっている人々を支えることは、その人と同じように報いを天において受けます。それほど、イエス・キリストの福音をのべ伝えることは、重要な働きなのです。この地において、多くの犠牲をともないますが、天において多くの報酬を受けるのです。


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