マタイによる福音書12章 「侮られる主のあわれみ」

アウトライン

1A  あわれみに逆らう伝統

   1B  その問題
      1C  穂摘みの禁止
      2C  いやしの禁止
   2B  その解決
2A  あわれみに逆らう言葉
   1B  ベルゼブルの力
      1C  イエスの反論 ― 仲間割れ
      2C  イエスの断罪 ― 聖霊の冒涜
   2B  「しるしを下さい」
      1C  イエスの否定
      2C  イエスの結論
3A  あわれみに逆らう関係

本文

 それでは、マタイによる福音書12章を開いて下さい。

 この章のテーマは、「侮られる主のあわれみ」です。私達は前回、バプテスマのヨハネが、イエスが来るべき王、メシヤであるかどうかを尋ねる場面を読みました。王であれば、自分に反逆する者をことごとく滅ぼし、栄光に輝く姿を持っていて当然です。けれどもイエスは、そんなことは一切されませんでした。イエスは、ヨハネに答えられています。「盲人が見、足なえが歩き、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しいものには福音が宣ベ伝えられているのです。(11:5)」これはメシヤが行うわざとして預言されたものですが、9章36節では、「群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」とあります。つまり、イエスは人々をあわれむメシヤとして、この世に来られました。主は、キリストをあがめるものすべてにこのあわれみをそそいで下さいます。しかし、今から読む12章では、このあわれみのわざが妨げにあい、侮られるのを見ます。主のあわれみを妨げたのは、伝統と人の言葉と血縁関係でした。ヤコブの手紙には、「あわれみを示したことのないものに対するさばきは、あわれみのないさばきです(2:13)」とありますが、イエスが憎まれたのは罪人ではなく、罪人をあわれむイエスの働きを馬鹿にする態度だったのです。

1A  あわれみに逆らう伝統
 それではまず最初に、主のあわれみのわざを伝統が逆らっている部分を読みます。

1B  その問題
1C  穂摘みの禁止
 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。

 イエスのあわれみは弟子達にそそがれています。弟子達がひもじいので、麦畑で穂を摘んで食べるのを許されたのです。そして、ここに「安息日」とありますが、これはイスラエルの民が仕事をしないで神を礼拝する曜日として、主が定められたものです。私達は前回、「誰でも、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」というイエスのみことばを学びました、つねにイエスに付き従った弟子達は、このやすらぎをもっともよく体験した人々であったに違いありません。

 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」

 パリサイ人は、安息日から出てきた伝統にしたがってイエスに歯向かっています。エレミヤ書によると、安息日には荷物を運んではならず、何の仕事もしてはならない事が書かれています。(17:21)。それでは、ここの「荷物」とは何なのか、「仕事」とは何なのかが議論の対象になりました。彼らの解釈によると、例えば、入れ歯をつけていることは、荷物を運んでいる事になりました。義足も荷物を運んでいる事になりました。そして、ここで、弟子達が行っている穂摘みは、仕事をしていると考えられたのです。このような杓子定規的な解釈のために、安らぎを得るための日が、かえって人々の重荷になっていました。これは、イエスがもっともよしとしないことです。そこで、彼らに反論されています。

 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。

 イエスはユダヤ人が名君として敬っているダビデでの霊を引き合いに出されました。神の宮の聖所には、12個のパンが供えられています。それはイスラエルの12部族を表わしています。これは7日ごとに取り替えるのですが、宮から取り除かれたパンは聖なるものであり、祭司が食べなければいけません。(レビ24:5−9)。しかし、ダビデは食べたのです。それは彼を殺そうとしていたサウルの手から逃げていて、ひもじくなっていたからです。同じように、弟子たちもひもじかったのだ、とイエスは弁護されています。

 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。

 ここでは、祭司が安息日に働いていることを挙げられています。彼らは、安息日に、普通の日の2倍奉仕しました。そして、イエスは、ご自分のことを「宮より大きなもの」と言われています。したがって、祭司が安息日に働いているのだから、ましてや主ご自身が働いていても罪にはならない、という事なのです。宮における奉仕とイエスの奉仕の違いは、模型か本物かの違いです。ヘブル書を読みますと、神殿は天の模型であると書かれています。けれども、イエスは天そのものに入られた、と記されています(10:24)。後で、イエスはご自分が預言者ヨナよりもすぐれたもの、王ソロモンよりもすぐれた者だといわれますが、ヨナもソロモンも同じように、本物であるメシヤを指し示していたのです。

 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。

 イエスは、弟子達の必要に心を留められたのに対し、パリサイ人は、自分たちがいかに神に対して熱心なのかを証明しようとしていました。しかし、神は私達の献身よりも、むしろ、あわれみ深くなることを望まれています。パウロはこう言いました。「たとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の約にも立ちません。(1コリント13:3)」

 そして、「人の子は、安息日の主です。」

 とあります。イエスは、前にご自分が病気や自然などに権威を持っておられることを指摘しておられます。安息日に何をするべきか、しないかは、イエスがお決めになることなのです。大事なのは、イエスがこの権威を、弟子達を助けるために用いられたのです。

2C  いやしの禁止
 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。

 イエスは、安息日の律法にあるとおり、会堂の中に入られました。イエスは、ユダヤ人たちの伝統は破られましたが、神の律法はこことごとく行われました。

 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。

 穂摘みの問題に次いで、いやしの問題が出てきました。彼らの解釈によると、人を治療することは仕事にあたりました。したがって、安息日に怪我をした人は、その傷口に包帯をあてがっただけにしておき、安息日が終わったら治療をしたのです。このような理不尽なことを、彼らは平気で行っていました。いやむしろ、それによって神に仕えていると思っていたのです。これが宗教の恐ろしいそところです。

 イエスの反論を読みましょう。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

 イエスは、再びあわれみの立場を貫いています。会堂に手のなえた人が立っていたのは、紛れもなく彼らの仕業だったのですが、そのような自分の身の危険を冒すような状況にあっても、イエスはあわれみのわざを閉ざす事はありませんでした。神は動物に対してもあわれみを与えられていますが、人間にはなおさらのことあわれまれています。

 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

 彼らの堪忍袋の緒はここで切れました。このときから、彼らはイエスを殺す計画を立て始めたのです。

2B  その解決
 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。

 イエスは、彼らの反対が局地に達したのを知って、それに対抗しようとはされませんでした。そのようなことに時間を費やすのではなく、むしろ立ち去られていやしのみわざを行いつづけられたのです。また、イエスは、ご自分のことを人々に知らせないようにと戒められました。それは、逆に、イエスに望みをかけてローマ帝国を奪回することを試みる働きを起さないようにするためでした。パリサイ人は、イエスを滅ぼす計画を、イエスを信じるユダヤ人は、ローマ帝国を滅ぼす計画を考えましたが、イエスはそのような政治的な働きを否まれたのです。

 その理由を見てみましょう。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。イエスは、メシヤについての預言を成就させる事が使命でした。これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。

 メシヤは最初、父なる神のみこころに従うしもべとして来られました。力強い王としては、再び来られるときを待たなければいけません。

 わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。これはイエスがバプテスマを受けられた時の事です。そして、異邦人に公義を宣べる。

 とありますが、これは、イエスが復活された後、聖霊によって行われる働きです。ユダヤ人がイエスを拒む決断をしたために、救いは異邦人に及びました。

 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。

 イエスは、政治的な方法を用いられませんでした。パリサイ人と争う事もせず、イエスによっていやされた人たちが大きく宣伝することもありませんでした。イエスは、仕えるしもべの姿を取られたのです。

 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは

 イエスは、これほど心優しく、へりくだっておられました。イエスは、人々を打ちたたくために来られたのではなく回復させるために来られたのです。

 異邦人は彼の名に望みをかける。

 
ユダヤ人には受け入れられなかったしもべとしてのメシヤは、後に、多くの異邦人に信じられてきました、天の御国の王として来られたのに、十字架につけられるまで何の抵抗もしなかった姿はユダヤ人にとってつまずきでした。しかし、望みもなく、神から離れ、罪の中に死んでいた異邦人にとっては、その姿は、まさに罪が許される希望なのです。

2A  あわれみに逆らう言葉
 こうして、伝統がイエスのあわれみに逆らっている部分を読みました。次に、人の言葉によって、イエスのあわれみのみわざが侮られている部分を読みます。

1B  ベルゼベブの力
 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」

 イエスは、いやしのわざを続けておられました。その中に悪霊に憑かれた、目も見えず、口も利けない人をいやされたのですが、群衆集は、その特定のいやしに驚いたのです。そして、ごく当然の反応を示しています。このようなすばらしいわざを行われるのは、ダビデの子、メシヤしかいない、というものです。

 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

 イエスのあわれみのみわざを、悪魔によるものとしました。あまりにも多くの力あるみわざを目の当たりにしているので、本当はイエスがメシヤであると信じなければいけないのに、それに何とかして抵抗しようとしています。ですから彼らの発言は実に非論理的なものになっており、かつ悪意に満ち溢れたものとなっています。

1C  イエスの反論 ― 仲間割れ
 イエスは、まず彼らの矛盾を指摘されています。

 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。

 もしイエスが、悪魔の力で、悪霊を追い出したのなら、悪魔は自分自身に対抗して働いたことになります。もうすでに悪魔の支配下に入っているものを、なぜイエスに解放させるのか。そんなことをしたら、サタンの国は崩壊する、ということです、

 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。

 次にイエスは、ユダヤ人の悪霊祓いのことを聞いています。わたしが悪魔によって追い出しているのなら、彼らはなおさらのこと悪魔によって追い出していることになります。したがって、イエスがさばくまでもなく、この悪霊祓いがパリサイ人をさばく事になる、という意味です。そしてイエスは、彼らに真理を伝えられています。

 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。

 悪魔のかしらで、その手下の悪霊を追い出したのではなく、神の御霊で悪霊を追い出されました。そして、サタンの国の内輪もめではなく、神の国がサタンの国に侵略しているのです。それは、「強い人」つまりサタンを縛ることによって可能になります。かしらを縛ってしまえば、その国は滅んだも同然です。それから、略奪、つまりサタンの国に奴隷状態にされていた人々を勝ち取って行くのです。ここの場合は、目も見えず、耳も聞こえない人でした、これは、私達のとりなしの祈りにも当てはまります。

 私達は、イエスの御名によってサタンを縛ります、悪霊どもは、イエス・キリストに服従するしかないからです。そして、教会の伝道や奉仕は、分捕り品をとっていることになります。したがって、本当の戦いの場は、伝道や奉仕の中にあるのではなく、祈りの中にあるのです。

 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

 イエスには、中立の立場をとる事はできません。イエスに味方して神の国の働きに参加するか、さもなければ、イエスに逆らって、その働きに反対するかのどちらかなのです。なぜなら。イエスは単なる人間ではなく、すべてを支配する王であり主であるからです。

2C  イエスの断罪 ― 聖霊の冒涜
 こうしてイエスは、彼らの言葉にある矛盾を指摘されました。次にイエスは、彼らの言葉の背後にある邪悪な心を、激しく非難されています。

 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 イエスが、「神が御子を使わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)」と言われたのが、ヨハネによる福音書に記されています。イエスは、罪や冒涜をさばくためではなく、許すために来られました。たとえ、ご自分に逆らう事を言ったとしても、その人が悔い改めれば赦されます。

 このように神は、そのたったひとり子を、ご自分に反抗する者たちのためにお与えになりました。神は、キリストによってご自分の愛を究極にまで表わされたのです。しかしこの愛とあわれみを拒むことは何を意味するでしょうか。ヘブル人への手紙の著者は、こう言っています。「もし、私達が真理の知識を受け入れて後、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、おそれながら待つしかないのです。(10:26−27)」

 パリサイ人は、イエスによって示された神のあわれみをとことんまで拒みつづけ、その結果、悪魔呼ばわりさえしたのです。聖書には、「私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心にそそがれているからです(ローマ5:5)」とありますが、彼らは神の愛を知らせる聖霊の働きを冒涜しました。それで、イエスは、「聖霊に逆らうことを言うものは誰であっても、この世であろうと次に来る世であろうと、許されません。」と言われたのです。

 そして、イエスは彼らの心の状態を指摘されています。木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

 心に満ちたことが言葉に出ます。つまり、自分の吐いた暴言に対して、「そんなつもりで言ったのではない。」ということはありえないのです。

 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」

 
私達の話す言葉は、私達の行いと同じように神のさばきの対象となります。キリストを信じる者は、ことばによる罪からも救われました。その罪の罰から救われただけでなく、罪の力からも救われています。ですからパウロは、こう言っています。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、淫らなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことはよくないことです。むしろ、感謝しなさい。(エペソ4:3−4)」下ネタは私達にはふさわしくないのですね。

2B  「しるしを下さい」
 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」

 イエスが話されていると、彼は口を挟んできました。質問はしるしを見たい、つまり、イエスがメシヤである証拠としての奇跡を見たいというものです。今しがた、悪霊が追い出されたしるしを見たばかりなのに、このような質問をしているのは馬鹿げています。

1C  イエスの否定
 そこでイエスは答えられました。しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

 彼らはあらゆるしるしを見たのにイエスを信じませんでした。というか信じたくなかったのです。その状態が「悪い姦淫の時代」です。旧約聖書には、イスラエルが偶像崇拝をしたり、不法をおこなっている状態を、神に対し姦淫を犯しているものとして描かれています。彼らに残されていた最大の知るしるしは、イエスが死者の中からよみがえる事でした。ヨナが3日間魚の中にいたけれども出てきたように、イエスも3日間地の中、― これはハデスをあらわします ― からでてくることを示しています。

 彼らは、イエスが復活されたことを言っても信じませんでした。そこでイエスは、彼らが復活する時に、神のさばきにあうことを宣言されます。パリサイ人は、聖書に預言されている復活を信じていいました。ダニエル書12章に、「地のちりに眠っているもののうち、多くのものが目を覚ます。あるものは永遠の命に、あるものはそしりと永遠の忌みに。」とあります。

 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

 ニネベは、アッシリア帝国の首都です。彼らは、戦争における残虐さで知られていました。イスラエルがアッシリヤによってほろぼされたので、ヨナはその愛国心から彼らに預言をするのが絶対いやでした。けれども、魚のなかで祈り悔い改め、「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる。」と預言したのです。彼は憎っくきニネベがことごとく滅ぼされるのを夢見ました。ところが、彼らは王ともどもに悔い改めてしまいました。預言者ヨナのさばきのメッセージでさえ悔い改めたのに、パリサイ人はイエスのあわれみの宣教を拒んだのです。

 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

 
イスラエルが非常に栄えたソロモン王朝のとき、シェバから女王が知恵を伺うため、はるばるイスラエルまで来ました。それゆえ、彼女も永遠のいのちに入りますが、パリサイ人たちは永遠の滅びに入ります。ニネベの人々も女王も、異邦人です。パリサイ人たちは、自分達がユダヤ人だから祝福され、異邦人は呪われていると思っていましたが、逆に異邦人のニネベの人達が永遠の命をもち、彼らがさばきを受けることになるのです。

 そして、イエスは、預言者ヨナ、王ソロモンよりもご自分がまさっているとして、メシヤであることを宣言されています。先ほどの「宮より大きなものに」と言われたのと合わせて、イエスが、現に存在しているものとは、はるかに次元を超えたところにおられる方であることを示されました。

2C  イエスの結論
 イエスは、彼らがイエスの悪霊追い出しのわざを冒涜した事に対して、結論を述べられています。

 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」

 この話を文字通りとって、悪霊を追い出された人がイエスを信じないなら、後でもっとわるい状態になると受け止めることもできます。ただイエスが、「邪悪な時代もまた、そういうことになるのです。」とありますから、もっと一般的な話にも当てはまるでしょう。これは、外見上きちんとしているけれども、イエスを主として受け入れていないために、内側がさらにひどい状態になっている個人、社会、国の状態です。西洋の文化や技術を受け入れ続けたけれども、キリストを受け入れなかった日本国は、まさにこの状態だと言えるでしょう。パリサイ人の場合、彼らは宗教指導者としてユダヤ人を支配していましたが、一見秩序だっていたユダヤ人社会は、彼らがイエスを拒んだがゆえに、祖国を奪われ、世界に散り散りになり、迫害を受ける結果をこうむりました。こうして、イエスは、悪霊追い出しを例にとって、ご自分を拒む結果を預言されたのです。

3A  あわれみに逆らう関係
 こうして、伝統によって、人のことばによってイエスのあわれみに逆らう場面を見てきましたが、最後、血縁関係によって、イエスのあわれみに逆らう部分を読みます、

 イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」

 
イエスの半兄弟たちは、この時点でイエスを信じていませんでした。聖書には、イエスが復活された後に、ヤコブとユダが信仰に入ったことが記されています。母マリヤは、イエスが、神の子であることを天使に告げられていたけれども、イエスが、自分の息子だという考えから離れる事ができなかったようです。

 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 この世にあるもっとも深い関係は、親子、兄弟関係ですが、人がイエス信じるときにもっとも妨げになる関係も、親子、兄弟関係です、しかし、イエスは弟子たちを、ご自分の母、兄弟、姉妹と呼ばれました。血縁関係よりも、さらに深い関係をイエスは弟子達に対して持っておられました。ここに、弟子達にたいする深いあわれみとなぐさめが現れています。イエスは、何もかも捨ててご自分に従った弟子達をこよなく愛されていました。イエスの弟子になることは、さまざまな犠牲が伴います。 自分を捨てて、名声や財産も捨てなければいけないときがあります。しかし、イエスのそばにいることが、もっとも大きな安息であり、慰めであり、喜びなのです。


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