アウトライン
1A 安息日の主 1−21
1B 憐れみ 1−8
2B 善い行ない 9−14
3B 僕の宣教 15−21
2A 聖霊を拒む者 22−45
1B 否定しえない徴 22−37
1C 御霊による宣教 22−32
2C むだ口 33−37
2B ヨナの徴 38−42
3B きれいだが、主人のいない家 43−45
3A 霊の家族 46−50
本文
マタイによる福音書12章を開いてください。私たちは前回、11章でイエス様が悔い改めのない人々また町々に対して裁きを宣告されたところを読みました。12章は、云わば「公式見解」としてユダヤ人宗教指導者がイエスのメシヤ性を拒んだところを読みます。ここからイエス様の宣教の働きは変わります。もはやご自身がメシヤであることの証拠を示して宣教を行なうのではなく、主に、神のものにされた者たち、また弟子たちに対して教え始めるようになります。
1A 安息日の主 1−21
1B 憐れみ 1−8
12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。12:4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。12:8 人の子は安息日の主です。」
覚えていますか、前回の学びの最後のところで、イエス様がベツサイダ、コラジン、そしてカペナウムに裁きの宣言をされた後で、ご自分のことを信じている人々のことで、父なる神に賛美を捧げました。そして、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と言われました。そして、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と言われました。
ところが今パリサイ人たちが、弟子たちに頸木を負わせようとしています。その頸木は、非常に重いものです。まず律法は、神が私たちに益をもたらすものであることを覚えてください。律法の神髄は神を愛して、それから自分自身のように隣人を愛することです。益になるものです。申命記23章25節に次のような言葉があります。「隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」ひもじくなった時に食べてもよいと、主は勧めておられます。イスラエルの共同体の中で、互いに分かち合い、助けることを教えておられます。けれども、それが貪りを引き起こす機会となってはならなず、食べてもいいからといって鎌を持って来て刈り取ってはいけない、と教えています。
ですから弟子たちが行なっていることは、律法にかなっていることです。空腹になったので畑から穂を取って食べました。ところがパリサイ人たちがそれは安息日の戒めに違反するというのです。どこからそんなことが言えるのか?と言いますと、「働いてはならない」という戒めからだ、と彼らは答えます。食べるのが、なぜ働きになるのか?と言いますと、穂を摘むのが「刈り取り」になるそうです。そしてそれを擦って殻を取るのは、脱穀、またふるい分けになるそうです。この行為が労働になるから、だから安息日の掟に違反していると教えました。
そこでイエス様は答えるのですが、三つの権威から答えられます。一つ目は油注がれた王ダビデの話からです。ダビデはサウルから逃れている時に、律法では祭司しか食べることのできない聖なるパンを欲しいと願い出たら、祭司はそれを与えました。咎められている箇所がありません。そして二つ目は、油注がれた祭司です。彼らこそ、安息日において神に礼拝を捧げるため奉仕で忙しくなります。たくさんの労働を行なうのに、それは安息日に違反しないのです。
そして三つ目は、同じく油注がれた預言者です。イエス様は、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」という預言者ホセアの言葉を引用されました。彼らの問題は何だったのでしょうか?パリサイ人は、律法を遵守することによってこの世の汚れから免れ、神を愛して、神に従うという強い信念から始まった、ユダヤ教の一派です。律法を遵守するために、どうすればよいのかを追及しはじめました。もっともっと自分たちが神に捧げられると思ったからです。たくさんの犠牲を払おうと頑張っていったのです。ところが、律法を守ることが自己目的化していきました。手段が目的となっていきました。律法を与えられたのは神であるのに、その神を出し抜いて律法そのものを追及していったのです。
それが「憐れみは好むが、いけにえは好まない。」の意味であります。いかに神に捧げるかを追求していったばかりに、もっと大切な神の憐れみの中で生きることを忘れていました。神が安息日を与えられたのは、人また動物が休むためです。人のために安息日があったのであって、安息日のために人が存在していたのではありません。安息日の目的、また律法の目的を忘れて、彼らは一言でいえば、神を求めているのではなく、自己実現をしようとしていたのです。
それでイエス様は、「人の子は安息日の主です」と言われました。安息日についての解釈は、安息日に権威と主権を持っているのはキリストご自身だということです。私たちは、神が与えられた良い賜物でさえも、それを、自分を主体とするために利用してしまう性質を持っています。
2B 善い行ない 9−14
12:9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
またもやパリサイ人は、イエスを咎めました。手を直すことは、癒しを行なうことも安息日違反であると考えていたからです。怪我をしても、安息日には包帯は巻くかもしれないけれども、治療は次の日を待たなければいけないと考えました。あまりにも愚かな解釈ですが、人の心は不思議なもので、「こうでなければいけない」と思ったことを変えるのは容易ではありません。
イエス様は、動物でさえ憐れみを示して助けるのに、ましてや人を直すことを安息日にしてはいけないのか?と責めておられます。先ほどもそうですが、律法が律法主義になると聖書の他の命令と自己矛盾を来していきます。良い行ないをやめさせる、憐れみの行ないをやめさせる安息日の掟など、その解釈が間違っています。
私たちは、神への礼拝の中に、良い行ないがたくさん含まれていなければいけません。つまり、他者に対する憐れみの行為です。自分たちだけが良ければよいのではなく、教会にはいろいろな必要をもった人々が来ます。また他の兄弟姉妹の必要もあります。また、人々に仕えるためには自分の手を汚さなければいけないこともあるでしょう。仕えられるのではなく、仕えるのです。もし、このような人々への心がなければ、その礼拝はまさにパリサイ人のそれと同じになってしまいます。
そしてパリサイ人は、安息日のことでイエスを殺そうと思い始めました。これが最終的に、実際の殺人、キリスト殺しへと発展していきます。
3B 僕の宣教 15−21
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。12:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。12:19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。12:20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
イエス様が、ご自分についてきた群衆に対して、ご自分のことを人々に知らせないようにされた理由は何であるか分かりますか?それは、ご自分の憐れみの業が人間の恣意的な行為によってことごとく妨げられていたからです。弟子たちがひもじくなったので食べたことを、宗教的な理由で咎められ、そして片手のなえているので直してあげても、それも律法違反だと言われて、主がご自身の憐れみの働きをすることが、ことごとく踏みつぶされていくからでした。それで、人々にご自身のしていることが知れ渡ると、今、彼らに行なっていることが再び妨げられるおそれがあったからです。
そして、メシヤについての預言をマタイは引用しています。御霊によって満たされたキリストが何を行なわれるのかを教えています。公義を行なわれますが、それは大声で叫ぶのでもなく、争うのでもなく、痛んだもの、くすぶっているものさえ踏みつけることなく、繊細に接してくださっていくものであります。そのようにして、実に異邦人と言っていますから、世界の果てに公義が広がっていくのです。そして最終的には、この方の御名に望みを置きます。
私たちの宣教の働き、また教会における奉仕も同じです。しばしば人間の思惑、恣意的なこと、憐れみではなく、いけにえを捧げようとすること、そして一度決めたことを変えようとしない態度など、いろいろな妨げや惑わしがあります。けれども、御霊による主の働きはそれで阻まれることはありません。たとえ踏みつけられているようでも、静かに、慎み深く、御霊の働きは行なわれています。それは地の果て、すなわち人間のごたごたから離れたところで、わずかに起こっているかもしれません。けれども、そのわずかが、実は全世界に広がるほどの力を持っています。私たちはこのことに目を留めれば良いのです。主の御名に望みを置きましょう。
2A 聖霊を拒む者 22−45
イエス様は、このようにご自身がメシヤであることの証しを神の御霊によって行っておられましたが、ついにユダヤ人指導者によって公式に拒まれます。
1B 否定しえない徴 22−37
1C 御霊による宣教 22−32
12:22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。12:23 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
悪霊につかれていて、目も見えず、口も利けない人が直るということは、ユダヤ人の中では前代未聞のことでした。当時はユダヤ人の中でも悪霊追い出しは数多く行なわれていました。その時に使われていた手法は、悪霊に対して「お前は誰だ」と問いただすことです。イエス様も、その手法を使われたことがあります。けれども、口が利かないとなるとそれさえもできません。けれども、イエス様は直されました。
これは決定的なメシヤの徴です。そこで群衆はまったく驚いて「この方がダビデの子」つまり、キリストなのだろうか?と言っています。そこで、パリサイ人が言ってしまいました。「ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」ゼルベブルはサタンの別称です。俗称と言ってもいいでしょう。「ハエの主」とか「汚れの主」という意味ですが、イエス様の御霊の働きを、サタンによって行っているとしたのです。
ここからイエス様はかなり長く話されます。これがいかに間違っているか、そして聖霊に逆らう冒涜であり、赦されない罪であるか、またもはやこれ以上徴は起こらず、このことを拒んだので、状況はもっと悪くなる、と宣言されます。45節まで話されます。この指導者からの発言をイエス様は、メシヤをユダヤ人や公的に拒んだとみなしたのです。ここは、福音の機会がたくさん与えられて、あまりにも明らかであるのに、意図的に、故意に拒む者たちに対する厳粛な警告となっています。
12:25 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。12:26 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。12:27 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。12:29 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。
イエス様は、いかに彼らが理にかなわないことを言っているのか、三つの点で指摘しておられます。一つは、「それでは内輪もめではないか」ということです。興味深いですね、巷の悪霊追い出しは、「何々の霊によって、何々の霊を追い出す」と言っていますが、それは私に言わせると、「悪霊どもの共謀」であると言えます。悪霊どうしが争うのではなく、むしろ人を悪い霊に仕向けて、それにがんじがらめにしていく手法であります。真に悪霊に立ち向かえるのは、神の御霊のみです。もう一つは、ユダヤ人の中でも悪霊追い出しをしているけれども、パリサイ人たちは、それは神の霊で行なっているものであると認めていました。
そして三つ目は、「強い人の家にはいって家財を奪い取る」ということです。強い人とは、もちろん悪魔のことです。悪霊どもの頭のことです。悪霊をも縛る権威をイエスは持っている、つまりこの方が神の御子であり、キリストであるということです。それで数々の悪霊を追い出すことができるのだ、ということであります。イエス様のことを初めに「神の聖者である」と言って、イエス様の本性をしゃべりだしたのは、他でもない悪霊どもでした(マルコ1:24)。イエスが神の御子キリストであることを知ること、認めることは、極めて霊的なことであり、熾烈な霊の戦いの中で起こっていることであることが分かります。
私たちは、霊の戦いの中にいることを悟るべきです。強い人をイエスの権威によって縛っていただき、それで略奪物を取っていくのが私たちの働きです。ところが、私たちは強い人の存在をあまり考えずに、略奪物だけを捉えていこうとします。祈りと御言葉、またその他の霊的な備えなしに、とにかくやってみようとするのです。私たちはイエス様に願うべきです。人々をキリストのもとに捕えてほしいとき、まずしなければいけないのは祈りです。伝道の90パーセントは祈りであると言っても過言ではありません。
12:30 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
極めて重要なところに入ってきました。イエス様は、ご自身がメシヤであることの決定的な証拠を与えられました。それで、この方を自分の主として受け入れるか、そうではないかの決断が迫られています。イエス様が、「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」と言われました。神の御霊が働き、十分にその証しを見てきて、なおかつ中立のままでいることはできません。自分は、イエスを主としないで、適当に自分の都合に合せて生きていきます、としても、それはすなわち「イエス様に逆らう」ことになっているのだ、ということです。
そして、極めて重要な次の言葉は、イエス・キリストに対する罪、この方を冒涜する罪であっても赦され、すべての罪は赦されるけれども、聖霊に逆らう罪は赦されない、ということです。これはどういうことを表しているのか?イエス様への罪というのは、この方が確かに主であると分かりつつも、それでも逆らってしまう罪であります。したがって、この方に対して罪を犯したという悔恨が残り、それで罪の悔い改めをします。
ところが聖霊に逆らう罪とは、この方が確かにキリストで、主とならなければいけないという聖霊の証しを、意図的に、故意に拒むことであります。ですから、イエスが行なわれている憐れみの御業、罪の赦しとその解放、また癒しを受け入れないことになります。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。・・・まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。(ヘブル10:26,29)」
2C むだ口 33−37
12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。12:34 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。12:35 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。12:36 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。12:37 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」
イエス様は、パリサイ人が何気なく言った、「ベルゼベルの力によって行ったのだ」という言葉を深刻に受け止められました。それは、心が悪くなっているので、そのように言葉によって出て来たのだ、と言われました。そしてパリサイ人こそが、山上の垂訓で警告していた偽預言者、偽教師であり、実がはっきりと表れているということです。そして、その一言が裁きの時には申し開きしなければならないと教えています。
私たちは、あからさまにしなければ、心に秘めているだけならばごまかせると思っています。表に出てこないようにしていれば良いのだ、と思います。けれども、必ずどこかでぼろがでます。パリサイ人のように、口にぼろっと出てくるようなことが起こります。私たちは心が悪ければ、必ず外に出てくるのです。それだけではなくその心の在り方によって、終わりの日には裁かれます。世の中を上手に生きてきたように装っても、神は私たちの心を見て判断されるのです。
2B ヨナの徴 38−42
12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」12:39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。12:42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
この話を聞いたパリサイ人が、突っかかってきます。「そこまで言うのなら、あなたから徴を見せてほしい」と言いました。たった今、耳が聞こえず、口が利けなかった人から悪霊を追い出したばかりなのに、こんなことを言っています。この願いは真実な願いではなく、自分が心を決めてしまっているけれどもそれを認めたくないから、再び行っている願いなのです。私たちも、こういうお願いや質問はしないでしょうか?本当に分からないのではなく、認めたくないから行っている質問や要求であります。
イエス様はこのような心の態度を「悪い、姦淫の時代」と言っています。これから「時代」という言葉をイエス様はたくさん使われますが、一世代のこと、四十年ぐらいのことを指します。メシヤが現れて、その方を拒んで、最終的に神の裁きを受けるのが四十年ぐらいだよということです。紀元70年に、エルサレムの神殿がローマによって破壊されます。
「姦淫」という言葉をイエス様は使っておられますが、かなりきつい言葉です。これは、イスラエルが主だけでなく、他の神々にも仕えていたので、霊的姦淫を犯していたことを、預言者を通して主が責められた時の言葉です。当時のユダヤ人は、偶像礼拝は行っていませんでした。離散の地から帰還して以降は、偶像は捨てていました。けれども、メシヤを受け入れず、この方に心を定めない人は、結局、霊的姦淫を犯しているのと同じなのだ、ということです。
そしてヨナの徴というのは、もちろんヨナが海に放り投げだされて三日間、大魚の中にいたことです。これは型となり、イエス・キリストが三日、墓に葬られて、それからよみがえることを表しているものです。つまり、イエスがメシヤとして証言する出来事は、ユダヤ人たち一般には復活だけしか残されていない、ということです。もちろん、これからも癒しは行われます。けれども、それは個人的に行い、また弟子たちに行なわれますが、公にメシヤであることを示すのはこれで終わりだ、ということです。
そしてイエス様の警告は、「あなたがたは、これだけの証拠を見てきたのに、それでも応答しない。」というものになっています。ヨナ書に書かれているニネベの人々と、またソロモンの時代に彼を謁見したシェバの女王の例を挙げています。どちらも異邦人ですが、ニネベの人々は徴もなかったのに、ヨナの言葉だけで悔い改めました。シェバの女王は、ソロモンに一回会っただけで、イスラエルにまことの神がおられることを認めました。
3B きれいだが、主人のいない家 43−45
12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
ここでイエス様が、この時代についてのまとめを行なわれています。汚れた霊は家から追い出されました。これは、イスラエルの国を意味しています。イスラエルが離散後、霊的刷新によって、律法によって生きていこうとしていきました。それで表向きはとてもきれいになっています。ところが、そこに住民がいません。つまり、イエスを受け入れメシヤがイスラエルの中にいるようにしなかったのです。そうすると、他の七つの悪霊を連れてきて、もっと酷い状態になるということです。これは、バビロン捕囚よりももっと酷い、ローマによる捕囚を意味しています。
これは、教会生活や表向きの信仰生活をしているようで、きちんとイエスを主として生きていない、心を定めていない人の姿でもあります。表向ききれいにしています。けれども心を定めていません。キリストの証しが、御霊によって心の中に何度も語られているのに、それを拒んでいます。そうすると、状態は初めの時よりももっと悪くなるということです。
3A 霊の家族 46−50
そして、マタイは一つの話を付け加えています。12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。12:47 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」12:48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。12:50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
肉の家族が来ました。母マリヤ、そして他にヤコブやユダもいたでしょうか、肉の家族がやって来たのですが、イエス様は、「わたしの家族は、ここにいる、みことばを聞いて、父のみこころを行なう者たちです。」と言われました。
イエス様は、この邪悪な時代にあって、もっともご自身が落ち着くところ、家のように安心できるところは、父のみこころを行なう者たち、つまりみことばを聞いて、それを行なう弟子たちでありました。言い換えますと、私たちがへりくだって、みことばに聞き従い、神のみこころを行なっている所にイエス様もおられる、ということであります。そこには、憐れみがあります。イエス様のメシヤとしての、人々の痛みに触れていく働きがあります。互いへのいたわりの働きがあります。外側に対する憐れみの働きに満ちています。
そうではなく、へりくだらないで、自分のあり方を変えることなく、自分のやりたいことを貫くときには、パリサイ人と同じような確執や対立、混乱が起こります。いけにえも大切です。けれども、それ以上に憐れみを求めましょう。そして自分を捨てて、この方が主であることを受け入れましょう。その共同体の中にいるからこそ、肉の家族よりも絆の強い霊の家族の中に入ることができるのです。