アウトライン
1A 天の御国の奥義の喩え
1B 種蒔き 1−23
1C 四つの種類の土 1−9
2C 悟らない心 10−17
3C 御言葉を聞く心 18−23
2B 見分け 24−43
1C 毒麦のたとえ 24−30
2C 大きくなる御国 31−35
3C 毒麦の解き明かし 36−43
3B 買い戻し 44−50
4B 財産の管理 51−52
2A 故郷での拒絶 53−58
本文
私たちは、マタイ12章においてイエスの御業が悪魔から来たものであるという、ユダヤ人指導者による発言によって、もはやメシヤであることの徴はないことをイエス様が公言されたところを見ました。残るは、死んで三日後によみがえることが究極の徴なのですが、それを拒んで最後にはもっと悪い状態がその時代に、つまり紀元70年にエルサレムが破壊されることを予期した喩えを読みました。
そして主の働きは、もっと内的になります。外に対しても変わらずに行ないますが、その伝え方が変わります。そして弟子たちについて、天の御国の内容を深く語られるようになります。それは、主が初めに来られた時から再臨されるまでの中間期のことです。つまり、私たちが生きている時代のことです。
1A 種蒔き 1−23
1B 四つの種類の土 1−9
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。13:9 耳のある者は聞きなさい。」
イエス様は、ガリラヤ湖のカペナウムのペテロの家を出て、おそらく朝でしょう、湖のほとりに座っておられました。するといつものように、大勢の群衆が集まってきました。それで漁師に舟を出すように言って、それで舟に腰かけて彼らに教えました。昔のユダヤ人は、教師が座って聞く者が立っています。ガリラヤ湖はとても静かな所で、舟から語るイエスの言葉は何千人もの群衆に響き渡ったことでしょう。
ところが、イエス様は、はっきりとした教えを垂れませんでした。単に、種蒔きのことを話されました。そしてしめくくりを「耳のある者は聞きなさい」と言われています。つまり、全ての人が理解する、悟ることを期待しておられなかったのです。聞く耳ができている人だけが聞きなさい、と言われています。
この喩えは、イスラエルの民にとってはずいぶん身近な内容でした。種蒔きをするときに、必ずしもすべての種が実を結ばせるのではありません。必ず、良い土地ではないところに落ちる種があります。イエス様は四つの種類の土を話していますが、あぜ道に落ちた種はもちろん実をむすばず、かえって鳥の餌になってしまいます。そしてイスラエルには日本と違って、かなり乾燥した気候で、岩地が多いです。土はあるのですが非常に浅いです。そこに落ちた種は、土が浅いのでかえって早く芽を吹きますが、根が深くないので日が照ると枯れてしまいます。そして、いばら、つまり雑草のあるところに落ちた種は、確かに芽が出て育ちはしますが、いばらが絡み付いて実を結ばせるには至りません。
けれども良い土地に落ちた種は、実を結びます。その実は一つの種に比べれば何十倍にもなります。ここが植物、いや動物の中にもある不思議です。人間も数多くの男性の精子が、たった一つだけ卵子と結び合されれば、その受精卵の何千倍もの細胞によって成り立つ人体が生み出されます。大事なのは、種がどこに落ちるのか、ということであります。
2B 悟らない心 10−17
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』
弟子たちは、これまでのイエス様の説教を聞いていますから、この謎々のような語り口に変わったのにすぐに気づきました。これまでイエス様は、天の御国について語っておられました。天の御国とは、ここでは死んだ後に行く天国のことではありません。神が支配する国そのものであり、今、イエス・キリストを自分の主として受け入れる者たちに与えられる、神の支配であります。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」という言葉からイエス様は、天の御国に入る道を教えられました。
けれども、そのような直球の言葉を投げかけず、四つの種類の土に蒔いた種が落ちることについて語られたのです。弟子たちがどうしてなのか尋ねますと、イエス様は、「彼らは見ているが見ず、聞いているが聞かない。悟ることもしない。」という過去に預言者が語った言葉を引用されました。そうです、直球で語っても拒むのであれば、それを何か異なる、日常に存在する喩えによって語るしかないです。
これは、私たちが聞くことにおいても、語ることにおいても直面しなければならない厳しい現実です。それは、拒めば拒むほどその人の心はかたくなになる、ということです。二度目聞くときには、状況が良くならずもっと悪くなるのです。自分の心が、福音の言葉を聞き、それを拒むたびに、もっと固くなっていきます。そしてついには、聞き入れることのできない堅い心に変化してしまいます。
イエス様は、「天の御国の奥義」と言われました。これまでは天の御国を宣べ伝えていましたが、今はその奥義を語っていると言われます。この日本語訳は良くないと私は思っています。新共同訳では「秘儀」とも訳されていますが、正確には、「かつては隠されていたが、今は明らかにされた真実」と言ってよいでしょう。そこで次を見てください。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
弟子たちは、とても幸いな人たちでした。昔、旧約聖書の中にある預言がありました。そして神から啓示が与えられていました。キリストについての啓示です。神の国についての啓示です。けれども、それが本当のところどのような意味を持つのかはよく分かりませんでした。時が満ちる必要がありました。そして今、キリストご自身が彼らの前にいるのです。この方にあって、すべての預言が、ジグゾーパズルの大事な部分が埋められて全貌が見えてきたのと同じです。だからイエス様は、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。」と言われたのです。
イエス様の弟子であることの特権は何でしょうか?「他の人が知らないことを教えてもらえる。」であります!イエス様は、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:14-15)」主の命令を守ることによって、主は友人に対するようにご自身のことをさらに明かされます。このような状態を「幸いです」と呼ばれているのです。
3B 御言葉を聞く心 18−23
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
イエス様は先ほどの四種類の土の喩えを解き明かされました。天の御国、あるいは神の国というのは、実は私たち人間が、神の言葉をどのように受け入れるかにすべてかかっていることが、ここから分かります。御言葉とそれを聞く人々の心で天の御国は構成されています。そして大事なのは、「同じことを語っていても、それを聞き方は人それぞれですだ。」ということです。弟子たちにとってはこれは真新しいことだったでしょう。天の御国は、イスラエルの民みなに迎えられるものであると思っていたことでしょう。ところが、四つの異なる反応があり、その一つだけが御国の現実を味わうことができる、というのです。集まっている全ての人々に受け入れられないのだ、ということです。
いかがでしょうか、私たちは教会に集まっていてこの現実に直面しなければいけません。同じ言葉が語られているのに、ある人にはまったく理解されず、一言聞いただけで悟る人もいます。ある人は何年も教会に通っているのにその生活が変わらないのに、ある人は一度来ただけで、もう変化の兆しが見えています。
初めのあぜ道に落ちた種は、御言葉を聞いていてもすぐに心を閉ざす人の例です。「悪い者」とは悪魔のことです。聖書の言葉を聞いても心を閉ざしているので、その言葉の記憶さえも悪魔は消し去ってしまいます。地獄には数多く、「私は、イエス・キリストについて聞かなかった。」と叫んでいる人でいっぱいでしょう。けれども、実際は聞いていたのです。それでも心を閉ざしていたから、その記憶さえも消されています。
そして二つ目の土は岩地でしたが、それが「すぐに喜んで受け入れる人」であります。この人は表面的に受け入れています。感情的に受け入れています。あるいは知性面だけで受け入れています。生活や人生の中心に神の言葉を据えていません。ですから、受け入れている、信じているように見えるのですが、何か困難や不都合なことが起こると、「こんなはずではなかった」と言って、信仰を捨ててしまうのです。
そして三つ目の土は、「思い煩いのある人」の心です。私は個人的には、この範疇に入る人がかなり多いのではないかと思います。イエス様は、こう弟子たちに語られました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:31-33)」
イエス様は、空の鳥と野の花の例えを使われました。空の鳥は種蒔きも、刈り入れもしていないのに、養われています。野の花は、あんなに美しいですが、世界で栄華を極めたソロモン王よりも美しく着飾っています。ではなおさらのこと、ご自分のかたちに造られた人をどうして神が養わないはずがあろうか、ということです。けれども、「もし神の言葉を受け入れたら、これこれのことはどうなるのか?」という恐れが出てきます。一度、信じたように振る舞ってみたものの、心と魂をすべてイエス様に明け渡したわけではありません。そういう人は、生活に信じたことによる変化を見ることがなくずっと日々を送ってしまうことになります。神の言葉で、「こうしなさい」と命じられているにも関わらず、自分の心の内側で「いや、これだけは譲れません。」という牙城を造っています。
そして四つ目は良い土地ですが、御言葉を聞いてそのまま理解したとおりに受け入れることです。その回心は劇的ではないかもしれません。その瞬間は、感情が伴っていないかもしれません。その人の生活は、初めは変化が見えないかもしれません。けれどもそれはちょうど芽を出して、成長しているのと同じです。確実に、自分ではない力で、つまり神ご自身が自分の内に働いてくださり、成長させてくださるのです。
2A 見分け 24−43
以上が天の御国に入るための入口ですが、続けてイエス様は興味深い喩えを語られます。
1B 毒麦のたとえ 24−30
13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
この喩えは、すでに良い地に種が落ちた人たちの間で起こることです。イエス様は後で弟子たちのこの喩えの解き明かしをされますが、敵というのは悪魔のことです。そして、良い小麦は御国の子であり、悪い小麦は悪い者の子どもたちだと言います。そして収穫はこの世の終わりであり、悪い者の子らは火で焼かれる、つまり地獄に行き、御国の子らは神の国において太陽のように輝く、と言われました。
これは、神の御言葉を受け入れたとされる人々の中に、偽物も混じっていることを表す世界です。目で見える形では神の国に属しているように見えて、実は属していない人たちがいるということです。実を結ばせていないのであればすぐに見分けが付きますが、実を結ばせているかのように見えるのです。それを悪魔がさせる、と言っています。したがって天の御国は、「主イエス・キリストを受け入れた、と表面上は言っている人たちが集まっているが、確かに御国に入っている人もいるけれども、実際はそうではない人がいる。」という現実を教えているのです。すべて「教会」と言われているから、教会ではないのです。毒麦もあるのです。
大切なのは、主人が毒麦の刈り取りを、収穫の時までやめさせたところです。その理由は、「麦もいっしょに抜き取るかもしれない」ということです。ヨハネ3章16節には、「御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」とあります。毒麦があるからといって、いっしょに滅びる人がいてはならない、ということです。
イエス様には「明らかにされるまで、待っている。」という忍耐の働きがあります。収穫まで時間を待たねばならないように、早まった判断を下さず、じっくりと実が結ばれるまで待つことを行なわれます。実は、イエス様の中の十二弟子でも悪魔の子がいました。イスカリオテのユダです。彼はイエス様を裏切り、ユダヤ人の宗教指導者に売り渡しました。彼がご自分を裏切ることを初めから分かっておられたのに、なぜイエス様は彼を追放しなかったのでしょうか?「明らかにされるまで待つ」という忍耐を働かせておられたからです。だから私たちは何が良いことで正しいかを吟味するのですが、同時に主が戻って来られるまで早まった判断をしてはいけない、ということです。
ですから、教会全体で起こっていることについて、私たちはこの態度を取らなければいけません。過ちがあるときに、それを受け入れてはいけません。けれども矛盾するようですが排除してもいけません。しなければいけない時はありますが、早まった判断を下してはいけません。
2B 大きくなる御国 31−35
13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。13:35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
イエス様は毒麦も蒔かれている畑のことを語られて、そして「からし種」と「パン種」の喩えを話しておられます。どちらも、小さなところから非常に大きくなるというのが特徴です。キリスト教の世界の話をイエス様は続けてしておられます。からし種についてですが、その大きな木に空の鳥が巣を作るほどになるとあります。先ほどの四種類の土の喩えで、鳥は悪魔のことを表していました。そして、このような大きな木については、後に悪に満ちた世界を象徴するバビロンに対して、ネブカデネザル王にダニエルがその夢を解き明かした時に、この大きな木について話しました。つまり、キリスト教の世界が膨張して広まっていく姿を表しており、先ほどの毒麦がかなりの範囲で広がっていることを表しています。
同じようにパン種も、聖書の中では良い意味で使われていません。パリサイ人の偽りの教えであるとか、また罪であるとか、そのような否定的なものに使われています。
このようにキリスト教の世界は、爆発的に増えています。広がっています。そこで私たちが気をつけなければいけないのは、「私たちは流行を追ってはいけない。」ということです。自分の信じる神の言葉について、福音の言葉については流行というものは存在しないのです。もし流行があって、それがものすごい広がりを見せているのであれば、むしろそれを私は疑います。ものすごい広がりの中で、この世に対して地の塩になっているのではなく、むしろ自分たちがこの世のようになっていることが多いのです。「他の教会がやっているから」とか、「他のクリスチャンがやっている」とか言うのは言い訳にしかすぎません。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:14-15)」
3B 毒麦の解き明かし 36−43
13:36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。13:43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
このように、世には必ず終わりがあります。私たちが生きている世界の中には、必ず清算の日があります。この世において行なわれたこと、自分が人生で行なってきたことについて、それをすべて申し開きする時が定められています。それは、キリストが再び戻って来られる時です。その時に全ての事柄についての審判が行なわれるのです。生きている時には、自分にしか知られないことであっても、すべて神の前では裸です。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13)」
3A 買い戻し 44−50
そしてイエス様はこのような神の国の全貌を、「買い取り」という言葉によって教えておられます。
13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
畑は人間全体、あるいはこの世界を表しています。そして、その中で見つけた宝は、キリストを信じる、神の御言葉を受け入れる人々です。けれども、畑は他の人に属しています。けれども、その宝を得るために、全財産を払って畑全体を購入します。
これが、神が世の始まる時から世の終わる時に行なわれることです。初めの人が罪を犯してから、この世界が悪魔の支配下に入ったことを先ほど話しました。けれども、神はキリストをこの世に送られます。そして、ご自分を信じる者をそこから救い出してくださいます。教会が、キリストが戻って来られる時に地上から引き上げられて天に上げられる時が来ます。そして、この地上に教会と共に戻って来られて、この世に裁きを行なわれると同時に、この世界を完全に神のものとします。その支払った代価というのは、キリストご自身の命です。
神はこのように愛しておられます。初めに私たち一人一人を造ってくださいました。実に母の胎内にいるときからその胎児は神に知られているということが詩篇に書いてあります。けれども、そだけで終わりません。自分中心の生き方をして、それで神から背を向けて来た的外れの生き方を私たちはしてきました。けれども、神の独り子であるイエス様が自らの命でその罪の対価を支払ってくださいました。そこまでして、神は私たちのことを愛しておられるのです。
13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
イエス様は最後に、ガリラヤ湖におけるもう一つのありふれた風景、つまり漁師の地引き網を使ってこの世の裁きについて話しておられます。良いものは器にいれて、悪いものを捨てますが、同じように世は真っ二つに分けられます。正しい者と悪い者です。正しい者は神の国に入り、悪い者は地獄に投げ込まれます。この二つしかありません。中間地点はありません。
4B 財産の管理 51−52
13:51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
もちろん弟子たちは、これらのことを分かっていませんでした。分かっていたように思っていただけです。けれどもイエス様は、将来の彼らの姿を予見して、天の御国の弟子となった学者と呼んでくださっています。パウロは他の箇所で同じことをこう表現しています。「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(1コリント4:1-2)」管理者は忠実さが要求されます。何か新しいことを言うのではなく、聖書に流れている神のご計画全体を必要に応じて説明していくことであります。
2A 故郷での拒絶 53−58
13:53 これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。13:54 それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。13:55 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。13:56 妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」13:57 こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」13:58 そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
前回、12章の学びでも最後に家族が出てきました。イエスは、「父のみこころを行なう者たちが、わたしの兄弟であり、姉妹であり、母である。」ということを言われました。そしてご自分の育ったナザレに戻られています。同じように、古いものをたくさん持っている彼らは、イエスがなされている新しいキリストの支配、新しい命を受け入れられなかったのです。私たちが、自分のこれまでのあり方を捨てられないと、同じようにキリストの新しい命の流れに預かれなくなります。
けれども、ここには希望があります。一つは、弟子は主人にまさることはできない、ということです。イエス様は、ご自身の弟子たちがどこを通るかご存知でした。家族伝道が最も難しいことを知っておられました。私たちが通っている家族への伝道の難しさを、私たちの場合は過去の過ちや今の欠点によって妨げられているということは言えるのかもしれませんが、罪を持っていない主でさえ、このように拒まれたのです。福音は、神の御言葉ではなく、その伝えている者から目を離すことができないからです。だから、自分だけではないのだという慰めを受けます。
これは消極的な慰めですが、積極的な慰めもあります。イエス様の肉の兄弟、また母は、主の復活後、この方をキリストとして、神の御子として認め、受け入れたということです。復活後の弟子たちの祈り会に、母マリヤがいたことは使徒の働き1章で認めることができます。そして復活後、ヤコブが信じました。彼は初代教会、エルサレム教会の指導者となりました。ヤコブの手紙を書いたのは彼です。イエスは彼にとってもはやお兄さんではなく、「主イエス・キリストのしもべ」になっています(1:1)。そしてユダもいますが、彼はユダの手紙を書いています。ですから、家族伝道には希望があります。イエス様の復活に触れて、私たちを越えて直接、御霊に触れられ、信仰を持つことができるのだ、ということです。